February 26, 2011

不運の構造

これも正統性問題としか言いようがない。

ニュージーランドで起きた地震による日本人の被害は、地震と言う天災によるものとは言え、不運と言うだけでは、決してすまされない問題なんであります。

■ニュージーランドの現地で、インタビューに答えた建築物の専門家によれば、崩壊した建物は現在の厳しい耐震基準前に建てられたものであると証言している。

■昨年9月に同じ場所で大地震が起きている。

気象庁によりますと、ニュージーランドの南島では、去年9月、今回の震源地の西およそ50キロのクライストチャーチ近郊を震源とするマグニチュード7.0の大地震が起きていて、今回の地震は余震とみられるということです。
(“去年9月の地震の余震か”、2月22日 16時17分、NHKニュース)



この二つの事実だけをもってしても、人災の可能性が極めて高い。

日本も、学校の建物が、数千棟規模で耐震基準を満たさないと警告され、これが放置されたままではあるけれど、今回崩壊したビルは、このわけが違う。完全な倒壊、崩落であります。当然こうなることは予測されてしかるべきビルであったのであります。こんな危険極まりないビルに、多くの人が集う学校があったのであります。

そのうえ、半年前同じ場所ですでに警告となる大地震が起きているのであります。

こう言う回避できたかもしれない不運には、一つ大きな特徴があるのであります。

それは、被害者自身が意識的に「選択」した結果の延長線上に、この不運があると言う厳然たる事実であります。すなわち、この海外の学校を選ばなければ、被害にあうこともなかった。

古くは、日航123便の大惨事も、尼崎JR大事故も、偶然に乗り合わせたとは言え、この飛行機や電車を選ばなければ、悲惨な運命にあうこともなかった。

これは、決して被害者の選択に責任があると言っているのではありませんので、誤解しないでいただきたいのでありますが、当事者や当局に被害を回避する責任があったと言うことは、見方を変えればそれは、被害者にもこの不運を回避するチャンスがあったと言うことに他ならないのであります。

またまた、わかりにくいもの言いですまない。

これもまた、正統性問題とは、このこと。

被害者自身が、その問題の中に、当事者と言う自分自身の問題として身体をおけば、自ずとその問題の答えが見えてくる。

この飛行機や、この電車、あるいはこのビルに居合わせることを、身体で感じると言うこと。この居合わせることの危機を、身体で感じること。

これを無意識の中で感じて、飛行機ではなく新幹線を、電車は1両目ではない車両を、地震の心配のない場所を、無意識に「選択」する。つまりは、そう言うことなんであります。

そして、「邪悪」社会に負けない生き方とは、これのこと。

そして言えば、「不運」とは、選択。選択しなければ、不運もない。この不運は、自らが選択していると考えれば、話は簡単。不運を選択しない選択。これをすなわち不運の構造と呼ぶのであります。 KAI

February 20, 2011

2撃の雷鳴でやっと気づいた週末テニス

なぜかこの文章がずっと気になっていたのでありますが、いまになってそのわけが、やっとわかった。

この力動的な言語習得のプロセスを駆動した「最初の一撃」は「この波動は私に向けられている」という受信者の側の絶対的な確信である。
主の言葉が預言者に臨むときの構造とこれは同一である。
アブラムに主の言葉が臨んだ時、アブラムは主が何を言っているのか、ぜんぜんわからなかった。
おそらくそれは雷鳴や地鳴や暴風に類する「非分節的・無文脈的」な空気の波動として到来したはずである。
そのようにしか聴こえなかったはずである。
けれども、アブラムはそれを「自分宛てのメッセージ」だと聴いた。そして、その「雷鳴」を「人間の言葉」として解釈できるまで霊的に成熟することを自らに課した。
その瞬間に、アブラムはアブラハムになり、一神教信仰の歴史が始まった。
アブラハムと顔の経験


1撃目の雷鳴。まるでその意味がわかってはいなかった。わかってはいなかったけれど、それは間違いなく「自分宛てのメッセージ」であったのであります。

であるにもかかわらず、いままでと同じことを繰り返そうとしていた。

そして、いま2撃目の雷鳴を聴いた。

やっと、「主」の言葉の意味がわかった気がする。

もちろんなにをしなければいけないかも、明確にわかった。

これをここに書くわけにはいかないのでありますが、なんとこのところの一連の正統性シンクロニシティも、すべてこれに繋がっていたのであります。

同様にまた、週末テニスにも繋がって、突然風が吹き出した。

ずっと前からお誘いしていたPさん。やっと参加できるようになったとメールをいただく。

土曜、そのPさんが初めて参加。結果は、1-6、3-6、6-1、3-4とO谷さんの4連勝。訊けばPさん、香港生まれのポルトガル人で大学はアメリカと、スーパーインターナショナル。思わぬところから道が開けそうで、ますます楽しみであります。

日曜、昨日に引き続き曇り空。この曇天が、くせものでありました。風もなく、日差しもない、「絶好」のテニス日和と思いきや、ゲームにいまひとつのれない。結果も、3-6、0-6、2-6、5-4と、最後になって、不調の原因がわかってやっと最終セットで1勝。なんと「鳥目」だったのであります。

曇天でもふつうに曇り空ならそうはならない。今日は、しかし、「刮目」する必要があるんだと、やっと気づいたんであります。

これもまた、漫然と眺めているKAIへの「主」の戒めであったのであります。 KAI

February 19, 2011

正統性問題パート2−−−ガンはなぜ発症するのか

「正統性は、ルールではない」(正統性の不在問題と言うシンクロニシティ)、これを逆説的に証明する判決が、最高裁でなされた。

 12年度の税制改正前の11年当時、海外居住者への海外財産の贈与は非課税扱い。争点は元専務の「住所」が日本国内か香港かで、元専務側は「約3年のうち65%程度を香港で過ごし、生活の実態があった」と主張。国側は「滞在は贈与税回避目的で、仕事上の本拠も日本」としていた。

 同小法廷は「住所」について、過去の判例を踏まえ「客観的に生活の本拠としての実態を備えているか否かによって決めるべきだ」と指摘。贈与前後の期間の3分の2を香港で過ごし、業務に従事していたことなどを挙げ、「贈与税回避の目的があったとしても客観的な生活の実態が消滅するものではない」とした。

 補足意見で須藤裁判長は、元専務の香港滞在などを「贈与税回避スキーム」と呼び、「法廷意見の結論は一般的な法感情の観点からは違和感も生じるが、やむを得ない」と述べた。
1330億追徴取り消し 武富士元専務巨額贈与税訴訟で逆転勝訴


まさに「ルール」では、「正統性」を保証できない。憲法と言えども「ルール」は、「贈与税回避スキーム」と言う「邪悪」を排除することができないのであります。

ふりかえれば、この1年、まさにこの「正統性問題」一色であったのであります。

そして、思った。小沢問題は、間違いなく「昭和天皇の祟り」なんだと。

もちろんきっかけは、みなさんご存知の通りの、小沢の天皇の一公務員扱いにある。さすがにKAIも含めて、人々の怒りのマグマが黙っていなかったってことです。

さらにさらに、みなさん、祟りをばかにするもんじゃありません。

当時小沢発言を擁護した方々についても等しく、この祟りに見舞われるのであります。ですからこの意味を理解していた共産党は、天皇制は認めてはいないにもかかわらず、小沢を非難する側に廻ったわけです。

こうしたことを考えると、祟りとは、人の精神社会の自然治癒力ではないかと思えてくる。祟りを侮ることなかれ。今週のKAIの教訓であります。 
「昭和天皇の祟り」と言う小沢問題


まさか、小沢の、いま人生最大の苦境が「昭和天皇の祟り」に原因があるとは、思いもよらぬことであるのでありましょう。

鳩山も、しかり。

アメリカのすごいところは、実はここにあるのであります。

国家としての正統性こそ、「時間の力」問題の典型ですが、アメリカは未だこの問題を決して忘れてはいません。だからこそ、彼らはもっともこの問題に対して敏感であり、すべての価値観の基本となっていると、KAIは考えているのであります。

ですから、普天間問題で日米関係を損ねることが心配されていますが、この一点において、日米関係とは、まったく不動の関係であり続けるのであります。

すなわち、オバマやクリントンにとって日本と言う国は、鳩山ではなく、平成の天皇なのです。もちろん実務レベルは現政権であることは百も承知ですが、精神社会レベルの元首は天皇以外には考えられません。
普天間問題を治癒する「時間の力」


いまからでも遅くはない。天皇への「敬虔」を示しさえすれば、あっと言うまに「方便的」邪悪をも打ち消すだけのパワーを、回復することができるのであります。

これは、ガンといった重篤なる病気や、持病なるもの、心の病も、まったくもって一緒なんであります。

いまあなたが関わっている、あなた自身の身体をおく「正統性」からどれだけ離れているか、あなた自身の心の重心との差分が、「病気」となって現れるのであります。

わかりにくいもの言いですまない。

要するに、あなた自身の心の中から「邪悪」なるものを、一掃する。ただそれだけで、ガンは治るし、病気も消える。

決して、遅くはない。もう一度、きみにこれを信じてみてほしい。病気が治ればしめたもの。そう思わないかい? KAI

February 12, 2011

サロゲートが警告する“邪悪社会”

突然、WOWOWの映画が、面白い。

近未来、人類の98%は自らの身代わりとなる“サロゲート”というロボットを日常生活に使用していた。ある深夜、青年と若い女性がクラブ前で殺された。その二人は実はサロゲートで、眼球を破壊され、IDチップも黒こげになっている。FBI捜査官のグリアーとピータースが女性のサロゲートの持ち主を訪ねると、太った男が目から血を流し死んでいた…。サロゲートの破壊により持ち主まで死んでしまうという、未曾有の事件が発生した。
[ 2010年1月22日公開 ]
サロゲート


脳神経とリンクさせたロボットやクローンが、生身の人間の身代わりとして活躍するのは「アバター」と同じ。この「アバター」も、いつのまにかすでに3回も観たKAIでありますが、「サロゲート」と「アバター」の意味するところはまるで反対、180度違う。

すなわち、「サロゲート」は「邪悪」であり、「アバター」は「善良」であります。

また突然ワケワカメなことを言うと嘆くなかれ。

ゆっくりご説明しましょう。

「アバター」の「善良」は、この映画を観たことがある方なら、すぐわかるはず。しかし、「サロゲート」が「邪悪」とは、少々説明が要るのであります。

ポイントは、「人類の98%は自らの身代わりとなる“サロゲート”というロボットを日常生活に使用していた」の部分であります。上記引用したこの映画の冒頭。安全なはずのサロゲートの「本人」がサロゲートと共に殺害されたのは、サロゲート生みの親、キャンター博士の息子だった。

ドラマは展開し、最後、人類の98%を殺そうとするキャンター博士から、これを阻止するブルース・ウィリス演じるFBI捜査官トムによって人類は寸でのところで救われるのですが、サロゲートは一斉にすべて機能停止するのであります。

このお話が極めて示唆的だと思うのは、KAIだけではないはず。

それは、私たちの分身、だけでなく本人までが、たちまちにして機能停止や生命さえも奪われる事態が起こる、そう言う可能性であります。

そんなことは、映画の世界、フィクションだと思うあなたは、幸せであります。

現実にこれが分身世界で間違いなく、進行し始めたのが、フェイスブック。

サロゲート同様、便利だからと圧倒的支持を得て普及し始めたフェイスブックは、20XX年IT社会の98%人類に普及しているかもしれない。

その生命まで脅かすかとは言えないまでも、あなたの分身の「生命」は間違いなくフェイスブックの手中にある。

Don't be evil

邪悪になるなとは、かの有名なGoogleのモットー。

であるにもかかわらず、Google八分を始めとして、いまや自分たちの力が及ぶ世界では実質的にやりたい放題なんであります。

これが分身だけかと思っていたら、なんと私たち生身の身体も、フィクションだけではない現実の話のようであります。

当然、北海道の農民としては、米国農産物の価格破壊により壊滅させられるより、遺伝子組み換え作物の受け入れに踏み切るしかなくなるだろう。米国は国策会社のモンサント社を通じて食料資源戦略を世界的に発動しており、その基本戦略が遺伝子組み換え作物の世界的な普及推進である。米国モンサント社は、ベトナム戦争で悪名高い枯れ葉剤を製造していた化学会社で、その後は農薬を製造していたが、チマチマ農薬を造っているより、その農薬に耐性のある遺伝子組み換えの種苗を生産する方が百倍儲かると現在のような企業に様変わりした。しかし、この会社は、私にいわせれば人類史に残る極悪な企業だ。

何が極悪かといえば、遺伝子組み換え種子の知財権を握り、世界中の農民を支配・搾取し、食料を米国の覇権構築の手段にすることを明確に意図しているからだ。しかも、その意図を実現するために、自社の種苗の安全性は確認されているとし、自然界の作物が持っている遺伝子を汚染することを厭わない。ブラジルのように遺伝子組み換え作物を拒否していた国に対しては秘密裏に遺伝子組み換えトウモロコシを密輸してばらまき、在来種の遺伝子を汚染させ遺伝子組み換え作物を既成事実化させるというようなあくどい所業を行っている。
トヨタ“シロ裁定”に潜む、TPPの罠に覚醒せよ


モンサント社について別途調べてレポートしますが、かように私たちは「邪悪」社会を生きざるを得ない事態に至ったことを、すなおに認めるしかないのであります。もちろん、これに負けない生き方も含めて。そう言うことなんであります。 KAI

February 06, 2011

正統性問題は続く週末テニス

引き続き、正統性問題。

一人一人の力は、まことに弱い。この弱い力を、正統性と言う糸にして一つに束ねれば、たちまち国家をも転覆するだけの力を持っていると言う証拠が、いま目の前のエジプト。

これもまた「自分自身の問題」が持つ強大な力の一つであります。

いかにすれば、この正統性を国民一人一人の自分自身の問題とすることができるのでありましょうか。

(前略)根本をいい加減に思い扱っていると、枝葉末節がおかしくなってくる。どこの国でも国の憲法により、国民生活は守られている。わが国でも戦後の憲法がどうも日本の国にあっていないようで、それがために枝葉末節が乱れてきていることは確かである。国民がもっと国を憂え、将来のこの国の在り方の本(もと)をしっかり見直すべき時期にきているのではないだろうか。

 国会で憲法を見直す議論をし、そして民間では有識者を交えて方向性を立てて、広く国民への関心を呼び起こしてほしいものである。この辺りで強烈な憂国の志士がリーダーシップをとって政界をかき回し、正統な論議のできる場を作れないものだろうか。自分の身心を投じてなされなければならぬ覚悟を、政界の人たちにも持ってもらいたい。
裏千家前家元・千玄室 国の在り方見直すべき時


これは、KAIが常々「背理の病」と言い続けているお話と同じ、まことにもってその通りではありますが、方法としては順序が真逆。

国民一人一人の自分自身の問題にまでたどり着かない限り、決して憲法の議論にはならない。

いま、一番の国民の問題とは、何か。

お金であります。お金が、多い少ない。これが、すべてなんであります。

これはすべて小泉竹中が悪いのであります!?。おまけにアメリカが悪いのであります!?。こんな日本に誰がした。

え?

おかしいでしょう?

陰謀説にとらわれる人の多くは、いまだにお金に執着する。

なぜか。

哀しいかな、お金に代わる価値観を、持ち合わせてはいないからであります。

これを代表する、民主党政権。鳩山、小沢、菅、みな金まみれ。菅は比較的違うんじゃないと思う人は、これまた大間違い。

消費税増税はもちろん、TPP。いまや税金と言うお金のことしか頭にない。

もちろん、自分にお金を持ってきてくれる(守ってくれる)と勝手に期待した方々も、これってひょっとして取られるだけとやっと気づいて支持率下げてはいるけれど、さてこれに替わるどの党がお金を持ってきてくれるか、これしかないんであります。

もう、お金は、どうでもよろしい。

キーポイントは、お金に執着しない人々。

政治に、お金ではない、もっともっと大事な価値観があると、これを求める人々。

そして、これに応えることができる政治家のいる政党。

国民一人一人が自分自身の問題として、これを政治に期待して初めて、この国の政治は
変わる。

まあ、国債暴落、インフレで資産消滅でもないかぎり、ないですね(がっくり)。

とは言えほんのわずかな希望をもとめて、週末テニス。

土曜、2-6、6-1、6-2、0-6、0-1(1-7)。日曜、6-4、0-6、6-4、3-1。やっとこちらは、しばらく見えなくなっていたゲームの感覚が戻ってきた。

大気の流れの中に、あること。これがすべてであります。 KAI

February 04, 2011

正統性の不在問題と言うシンクロニシティ

正統性のお話をしようと思ったけど、その前にこの話題から。

ほぼ同じタイピングで『iPhoneでソニーの電子書籍読めません 採用を拒否』との記事が朝日新聞のサイトに掲載された。それによるとアップルは「他社経由で購入した電子書籍を読めるソフトを採用するには、アップル経由でも同じものを購入できるような仕組みにすることを求めている」そうだ。同じ内容の記事はWall Street Journal電子版にも”Apple Rejects Sony E-Book App”として掲載されている。
同時期に起きた二つの出来事は何を意味しているのだろうか。

利用者の側から市場に要求することは次の三点であろう。

1. どんなネット書店からでも、希望する電子書籍を購入できる
2. どんな電子書籍端末でも、購入した電子書籍が閲覧できる
3. 年月が経ってもこれらの状況が継続される

つまりネット書店と電子書籍端末の間で、相互運用性(互換性)が保証されることである。前の記事にも書いたように、これこそが電子書籍市場を拡大していく決定的な要因である。

その視点に立つと、一見独善的に思えるアップルのソニーへの姿勢は間違ってはいない。両社のネット書店の品ぞろえを一致させるべき、という立場からの要求だからだ。ソニーも対抗するのなら、アップル側の電子書籍をソニー側で販売できるようにすべきと要求すればよい。
電子書籍市場の混迷 続き


いまや電子メディアなるものが花ざかりであります。しかし、かつてFD(フロッピーディスク)と言うものがありましたが、容量はいまから考えればまるでたいしたものではないにもかかわらず、いまここに記録されたデータを読もうとしても、簡単には読むことができないのであります。

かように、電子メディアには、上記引用の、「3. 年月が経ってもこれらの状況が継続される」保証などまったくないと言う、致命的欠陥があるのであります。

このために電子メディアのユーザーは電子メディアが新しくなるたびに、古い媒体から新しい媒体へのコピーを余儀なくされるはめになってしまったのであります。

ひとたびこの作業を忘れてしまうと、コンテンツは「死蔵」ならぬ「死滅」させてしまうしか方法がないのであります。おまけにコピー回数も大半が制限を受けるから、実質的に、電子メディアに継続性を求めることは、原理的に不可能であると言うべきものなのであります。

もちろん、こんなことは誰にも知らされることなく、広告宣伝が行われ大量に普及していくわけでありますが、つまりはそう言うことであります。

自炊などと言って、電子メディア化したのはいいけれど、ではそれを記録した媒体をうっかり引き出しに入れたまま、20年後、いや10年後、読もうとしても、100%読めない。

ひるがえって書籍。その心配が、まったくもって一切ない。この価値は、当たり前すぎてだれも省みないけれど、その本質には計り知れない意味があるのであります。

で、本題の正統性。

民主党菅政権も、エジプトムバラク政権も、問われているのは、この正統性。

いずれの政権も憲法に従って得た権力であるにもかかわらず、国民はこれを激しく否定し始めたのであります。

超法規的事態が考えられるエジプトに対して、残念ながら(と言ってはいけませんが)、日本ではそこまではいかない。

そもそも、正統性とは一体なんであるのか。

正統性(せいとうせい、英語:legitimacy)は、政治権力が最終的に支配として確立し、権威化されることを正当化する概念をいう。

概要
権力移譲などの場面においては、前政府体系の権力を引き継ぐ作業が行われ、被支配者向けに倫理的・道徳的に論理を準備することで、過去からの政治的支配の連続性や正当性が担保されるようにすることがある。歴史的な連続性に基づく正当性を示すために、たとえば中国史においては、新たな国が興るたびにその国の正統性を証明するために歴史書が編纂されている。また、法的手続きとして定められた正しい(合法的)手続きをとったかどうかという点で正統性が論じされることもある。具体的にはベトナム戦争やイラク戦争では、国連決議に基づく正統性が問題となった。なおマックス・ヴェーバーは、正統性を分析する際に、伝統的、カリスマ的、合法的正当(統)性の三分類で、これに基づく支配の特質を考察した[1]。
正統性、Wikipedia


この説明では、なにがなんだかわからないと思うのでありますが、正統性の本質を理解するに一番の事例は、憲法のない時代から憲法のある時代への変遷であります。

憲法のない時代に新しく憲法を生み出す作業が依ってたつ憲法は、原理的にない。

ないにもかかわらず、憲法は生み出され、以後これを絶対的なものとして強制されることになるのであります。

このプロセスを論理的に説明しようと思えば思うほど、憲法を生み出す、原理的にはないはずの、「憲法」の存在を否定するわけにはいかないことに、私たちは気づく必要があるのであります。

これがすなわち、正統性であり、このメタ憲法とも呼ぶべき存在なのであります。

この正統性が、憲法を生み出すことができるのであれば、この憲法を否定し超えることもできると考えることに何の問題もないのであります。

これを「オーバールール」と混同してほしくないのですが、「オーバールール」とはこれはあくまで「オーバールール」と言う「ルール」の一つに過ぎないのであります。

正統性は、ルールではない。

そもそも、世の中のあらゆるルールには、その依ってたつルールそれぞれの「正統性」なるものがあるのであります。

であるにもかかわらず、いまや私たちは、憲法を始めとした、ルール、すなわち「律」の世界の住民として、あらゆることの価値基準を、この「律」そのものにおくことに慣れきってしまったのであります。

しかし、エジプト国民は、これに疑問をもち行動を開始した。

彼らの、この依って立つものこそ、「正統性」以外の何者でもないと、KAIは考えるのであります。

正統性の意味とは、ともすると、権力維持の側面でのみとらえがちですが、権力を否定する根本原理ともなる、最も重要な概念なんであります。

であるからして、これがそのまま正規に教育されることは、一切ない。ただ教育されるのは、個人レベルまで落とした、道徳や倫理の顔をしたルール遵守の教育のみ。この結果は、見事なまでの、ルールを守ることが「善」、ルールを破ることは「悪」と言う、次元の極めて低い価値観の一方的植え付けであります。

今回の大相撲八百長問題。

この大相撲と言う「ルール」の正統性が試されているのであります。

ここで、戦後の正統性教育不在を象徴するのが、石原慎太郎を始めとした、なにをいまさら論。プロレスと同じだとは、笑止。

大相撲の先人達の精進の結晶を、なにゆえに貶めることができるとの驕りこそ、地獄に落ちるにふさわしい人格なのであります。

とは言え、力士たちも正統性の不在の被害者。

「プロジェクト」の正統性も、やはり同じ問題なんであります。正統性のある「プロジェクト」しか生き残ることはできない。つまりは、そう言うことなんであります。 KAI