December 31, 2010

2010年最後はグーグルが色褪せて見える週末テニス

21世紀の最初のディケードも、そろそろお仕舞い。

その終わりにあたってこれを総括すれば、なんと言ってもこの10年の主役はグーグル。なんとこのグーグルが、突然色褪せて見えてきたのであります。

それにしても、なんでそんなことを思ったのかと言えば、この記事を読んだからであります。

 Googleが企業買収を加速させている。年初にCEOのシュミット氏が月1件のペースで買収していくと宣言していたが、実際にはその倍以上のペースで進行している。

 CB Insightsによると、9月24日までの買収件数だけでも23件となっており、昨年1年間の5件に比べ大幅に増やしている。年間の買収件数としては、今年は過去最大である。23件の内訳は、インターネットのソフト/サービス関連企業が20件、モバイル企業が2件、半導体関係が1件となっている。
グーグル、企業買収ペースを加速化


もはやこれは、成長の止まった衰退企業のやることとしか言いようがないのであります。世界中にグーグル社員が何人いるか調べる気もありませんが、なぜ社内からではないM&Aなのか。成長が止まった企業の証以外の、何者でもないのであります。

しかし、これもよくよく考えれば不思議でもなんでもない、きわめて納得のいく話なのであります。

つまり、グーグルの使命は終わったってことであります。

グーグルの使命とは、自然発生的成長を遂げるインターネットの秩序化、であります。これをグーグルは見事成し遂げた。具体的には、インターネットにおけるOSとなったブラウザは、いまやグーグルなくして一切機能しないのであります。

ところがであります。グーグルは、インターネット時代のOS、オペレーティングシステムの機能を提供する会社としては確かに磐石の地位を確立したものの、このOS上で動作するアプリケーションにおいては、YouTube(これも買収ですが)のような一部の例外を除いて、見る影もないほど惨敗を繰り返しているのであります。

これはあたかも、電力網における電力会社が、これを利用する電化製品の分野では決してブランドとなりえていないのと似た話であります。

なぜなのか。

この理由もまた、KAIの主張するとおり、アプリケーションの本質が自己組織化にあることと直結しているのであります。

IT技術者に求めるのはユーザとしての経験
 グルーポン・ジャパンが求めるIT技術者とは、どのような人なのだろうか。

 システム開発・運用の責任者である開発本部マネージャーの信川亮太氏は真っ先に「ユーザーとしての経験の有無」を挙げた。

 「基本的にはWebの開発経験があり、できれば自社のコンテンツをやってこられた方を求めています。いわゆる受託開発系の方ではなく、自社の企画の方と一緒に自社コンテンツや自社サービスをやられてきたエンジニアの方ですね。自分たちのサービスなので、自分で作ったものを自分で責任持てるかということが大切になるわけです。つまり、お客さまに対して自分たちのバリューを出せるかどうかを日々考えるような人、いわれたことだけをきっちり仕様に沿ってやるというだけの人ではなく、自分たちのサービスをより良くしていく人が必要になります」

 システム開発の手法でいえば、従来のウォーターフォール型ではなく、アジャイル型で対応できるエンジニアということになる。それが、信川氏の「受託開発ではなく、自社コンテンツをやられてきた人」という言葉に現れている。
前代未聞の速度で組織を急拡大するグルーポン--勝ち続けるために必要な人材とは


これも見事グーグルが買収に失敗したグルーポンと言う、インターネットのアプリケーション会社のお話であります。

この話の中に、すべての真実があるのであります。

「IT技術者に求めるのはユーザとしての経験」こそ、グーグルの技術者に決定的に欠けていることなんであります。

当然なんであります。グーグルの人材採用基準と言う価値観には、この「ユーザー」と言う視点は、一切ない。あるのは、インターネットアルゴリズムのみ。

当然の帰結として、この分野、すなわちインターネットOSと言う分野では、とてつもなく抜きんでることができた。

つまりは、そう言うことであります。話は簡単でしょう?

そして、21世紀最初のディケードの総括として外せないのが、SNSとツィッター。

この両者を理解するのに役立つのが、前回のエントリー「ツィッターシンクロニシティ」で言及した「ペルソナ」と言う概念。

SNSについて、これも丁度のタイミングでこんな記事がある。

日本ではまだまだだが、米国では人口の7割以上がアカウントを持つと言われるFacebook。Twitterでの不特定多数向けの「つぶやき」よりも、友達・知り合い間での「プライベートなコミュニケーション」向けのFacebookは、どちらかと言えばmixiに似ている。mixiとの根本的な違いは「大人も使っている」点。
プラットフォームとして台頭して来た Facebook


フェイスブックとミクシィ、中島さんの言うとおり確かに似てはいるけれど、両者の本質は似て非なるサービスと言わざるを得ないのであります。

そして、この違いこそが、フェイスブックが「日本ではまだまだ」である理由であり、逆にこれを一挙に普及させるための重要なヒントがここに隠されているのであります。

何が本質的に違うのか。それは「匿名」のペルソナと「実名」のペルソナの違いにあるのであります。もちろんミクシィが「匿名」であり、フェイスブックが「実名」。(ただしここで言う「匿名」「実名」は厳密な意味での使用を要求していないことに注意していただきたいのであります)

こんなことはみんな言っていることと、これ以上の思考停止がコトの本質を見えなくしていることにお気づきいただきたいのでありますが、確かにフェイスブックは「実名」であります。しかし、これは「単一」の「実名」でしかないことが、もっとも重要なポイントであり、そして欠点でもあるのであります。

「実名」とは、そもそも「単一」ではないのか、と言う疑問は当然であります。しかしこれを「実名」の「ペルソナ」と考えるといかがでしょうか。

「ペルソナ」が分かりにくければ、「顔」でいいのであります。

私たち日本人は、実は非常に沢山の「顔」を持っているのであります。会社の「顔」、家族の「顔」、親戚の「顔」、隣近所の「顔」、友人の「顔」、友人も決して単一ではないそれぞれまったく異なる複数の「顔」「顔」「顔」。

これが米国人となると、研究したわけでも何でもないので知りませんが、フェイスブックが普及している事実からすると、米国社会は「単一」の「顔」で十分成立すると言っても間違いないのではないかと、KAIは考えるのであります。

更に、中島さんが言うような、ミクシィを使っているのは、決してこどもだけではない、しっかり「大人も使っている」のでありますが、これもまた「単一」ではない「実名」と言う事実と深く関わっているのであります。

それは、ミクシィが、偶然的に「匿名」と言う機能によって「複数」の「ペルソナ」をサポートしているからに他ならないからであります。「匿名」とは、もともとからして「複数」なんであります。

日本の社会で生きるには、「複数」の「ペルソナ」が必要なんであります。これに、「匿名」ではあるけれど応えていたのが、これまでのミクシィ。もちろん最近のメールアドレス問題で「単一」化を指向しておかしくなってしまっているのは、悲喜劇としか言いようがないのであります。

この「理論」でいけば、本国以上にツィッターが日本で普及している事実も簡単に説明できるのであります。

日本人は、複数の「実名」を渇望していた。ここに降って湧いたように、第3の自己と言う、もう一つの「実名」、「ペルソナ」をサポートするツィッターが登場した。

つまりは、こう言うことでありますが、しかしであります。まだたったの「二つ」。二つしか「ペルソナ」はサポートされていない。

ではどうすればいいのか。これをグループ機能と混同しないでいただきたいのですが、グループ機能ではあくまで、単一の「ペルソナ」しか実現できない。グループではなく、あくまで「サービス」自体を分けるか、重層化する必要があるのであります。

さて、ヒントもここまで。

今年もみなさん大変お世話になりました、と忘れてはいけない。大事な大事なKAIの単一「ペルソナ」の一部、週末テニス。

今年最後の土曜は、この冬一番の冷え込みと北風。冬休みの大会開催中につき屋内、といっても屋根だけの、コートで、陽あたりがない風は吹き通しとコンディション最悪。にもかかわらず、6-2、1-6、3-5と、出だしからネモトくんから貴重な1勝ゲット。今年はもうこれで十分なんであります。

そして日曜。先週に引き続きお休みのO谷さんの替わりに、イサカくん。6-1、0-6、1-6、3-5と一番若いM田さんの一人勝ちながら、満足感は一杯。

そして最後の最後に、30日。土曜が元旦の振り替えであります。無事仕事納めも終え、O谷さん、Y木夫妻、KAIと実に2年半ぶりのメンバー。結果は、6-3、1-6、6-2、2-4と2勝2敗のイーブン。これで十分。

来年は、みなさんにとって良い年になりますように。 KAI

December 25, 2010

ツィッターシンクロニシティ

さすが新しいメディアは、勢いが違う。まさに、桃が海老を跳ね飛ばす、であります。

何度も顔は見たことがある、この女優の名が大桃美代子とは、おおももと読むのも含めて、初めて知ったのでありますが、彼女のたった一言の「つぶやき」が、一夜にして海老蔵を巷の話題から一掃してしまった。

それにしても、新しいメディアだからこの付き合い方が分かってないのかもしれないけれど、よくこんな私的な話題を公共の場に曝すことができるもんだと、KAIは不思議で仕方がないんであります。

時を同じくしてこの人も。

母がもっとも知りたいのは、息子の対外的な活動よりむしろ、ちゃんと食べているのか、ちゃんと寝ているのかといった身体にかかわる情報だからである。
でも、私の最近のブログ日記にはそういう身体情報はもうほとんど書かれていない(そこには「演説」しか書かないことになってしまった)。
疲れたとか腹減ったとか眠いとかいう私の身体の実況情報はすべてツイッターに流れ込んでしまったからである。
ツイッターはインターネットが発明されて以来、「もっとも身体的な」メディアである。
それが投稿者の「身体的近さ」を実感させる。
名越先生とお会いするのは久しぶりなのだが、私は名越先生が昨日どこにいて何を食べて、どんな仕事をして、何時間くらい寝て、どれくらい疲れているのかについて、私と会う前にどこにいて、どんな交通手段でこちらに向かっているのかまで、会うに先立って、リアルタイムの情報を手にしている。
もちろん名越先生は私についても同じことを知っている。
だから、会ったときに感じる「近さ」がこれまでとは全然違う。
「それでさ」という感じで話が始まる。
会うのが半年ぶりでも、「さっきの話の続き」なのである。
こういうことはこれまでなかった。
どんなメディアもここまでリアルな身体実感を伝播することはなかった。
テクノロジーと常識について


確かに、「もっとも身体的な」メディアであることには、間違いがない。このことはKAI自身が何度も言及してきたことでもあります。

逆進する技術、逆行する身体
ソフトウェア、今何が起きているのかと週末テニス


それにしてもであります。知人同士だけが繋がっているメディアならまだしも、見ず知らずの赤の他人にまで、なにゆえに自らの身体的情報を「実況中継」し、晒すことができるのか、その感覚がまったくもってKAIには理解不能ではあるけれど、すでに何度も考察してきたとおり、大桃美代子やウチダ先生が晒しているのは、第3の自己、量子化した身体なんであります。

これは、簡単に言ってしまえば、ツィッター向けの今までとはまったく違う、自ら新たに創造した生身の「顔」、「ペルソナ」なんであります。

ですから、女優としてシナリオのあるペルソナを演じることに慣れている大桃は、自分自身の実体験と言うシナリオのペルソナを演じるし、もともとシナリオのないアドリブの世界で生きるウチダ先生にとって、ツィッターはこのアドリブと言うペルソナを表現できる恰好のメディアとなったのであります。

一方で、KAIのような、匿名のペルソナを持つことさえ気持ち悪いと思う人間にとっては、他人のペルソナなどすべてが雑音以外の何者でもないのであります。

要するに、ツィッターとは、人を選ぶメディアであるってことであります。大桃がこれを理解していたかどうかに関係なく、今回の出来事が結果的にタレントとしての知名度向上に大いに貢献したのが象徴するように、ツィッターに向いている人には多大なる効果が期待できる一方で、ツィッター向けのペルソナを分離できない人々にとっては手痛いしっぺ返しにあう危険性の極めて高いメディアなのであります。

余談ですが、今回のミクシィメールアドレス問題もまた、ミクシィ向けペルソナを意図せざる形で晒されることになった被害者とも言えるのであります。 KAI

December 24, 2010

メディアの病(2)

この方もまた、この病を患っているようであります。

この戦争に正当性などなかったことは、今や世界の常識である。

ブッシュに追従したオランダや英国ではその反省の機運が高まって、政府の独立調査委員会が検証を進め、オランダでは「イラク戦争は国際法違反」と結論づける報告書が公表された。

残念ながら、日本では政権交代したにもかかわらず、英国やオランダのような政府の取り組みは見られない。

今日の朝日新聞朝刊で、松本一弥記者は、どういう経緯で、日本がイラク戦争に加担する羽目になったのか、日本版「イラク戦争検証委員会」を立ち上げるよう求める記事を書いている。

委員会立ち上げには大いに賛成する。ただ、小泉首相がそういう判断をした背景に、朝日も含む日米欧のメディアがイラクの大量破壊兵器保有というニセ情報に踊らされていた側面があることを見落としてはならない。

メディアの問題は後述するとして、まず松本記者の記事を概観しておこう。松本記者は、閣内の議論を欠落させたまま、小泉首相が唐突にブッシュの戦争を支持したことを、当時の防衛庁長官、石破茂氏や、官房長官だった福田康夫氏の証言から指摘する。

「閣僚懇談会のような場で、イラク戦争支持の是非を議論したことはなかった」(石破)

「小泉氏からイラク戦争を支持するという言葉は明確には聞いていない」(福田)

つまり、小泉首相の独断に、国家の命運を委ねていたのが実態だった。
小泉のイラク戦争支持とメディアの責任


首相に求められるのは、まさにこの人の否定する「独断」。もちろんこれは「実行力」と言い換えてもいい。菅のように、「実行力」のかけら一つない「思いつき」と言う独断は、「独断」とは言わないのであります。

それにしても、この引用した記事の、このあとの展開を読んでも、ジャーナリズムの顔をした、まるで「散文」。

この「独断」だけではなく「検証」、「メディア」、「正当性」、「世界の常識」、用いられるすべての字義が、自分の都合のいいように使われるから、文章全体、ジャーナリズムの体をなしていないのであります。と思ってプロフィールをあらためて読んでみれば、元記者とあるだけで、言論で飯をくってはいないとある。道理で。

つまりは、こう言うことであります。

「当事者意識」のない記事や文章は、それがどんな言葉で着飾ろうが、そこにリアリティはない。まったく逆に、どんな拙い言葉で綴られようとも、「当事者意識」に根ざす文章は、激しく人の心を打つのであります。

メディアの役割とは、中立的第三者を装うことでもなければ、政府を一方的に批判することでもない。それは、私たちの社会が抱える問題を、当事者として国民と一緒になって解決する、そのための第4の権力が与えられているのであります。

この当事者責任と言う意識の決定的欠如。これを「メディアの病」と呼ぶのであります。
メディアの病と予知能力的週末テニス


メディアについては、すでにここに書いたとおり。イラク報道に限った問題でもなんでもないのであります。

元に戻って、首相の独断。これに国家の命運を委ねるのも、そもそも首相とはそのためのもの。であるからこそ、これを引き受けるほうも選ぶほうも、共にその当事者責任を厳しく自覚する必要があるのであります。

この意識の欠如もまた、民主党政権が運営する今の日本の命運に日陰がさす、決定的原因であることは、いまさら言うまでもないことなんであります。 KAI

December 19, 2010

予測は楽し週末テニス(7)

はてさて、今年もあと1週間ちょっとしかなくなった。確かに、もはや「新民主党」の可能性は途絶えたと言わざるを得ないのであります。

党名は「新民主党」だそうです週末テニス


今回は、なぜ故、この通りにならなかったのか、そのわけを真摯に考察するのであります。

この一番の理由は、小沢の強制起訴でもなんでもない、ただ単に、民主党自体のあまりにもお粗末な地盤沈下であります。

もともとのシナリオは、支持率がある程度維持される中で、尖閣問題あるいは千谷問題のような「単一」問題を梃子にする力学であったはずが、あれよあれよと言う間に支持率が暴落してしまった。

これでは、対峙するはずの「旧民主党」が弱くなりすぎる。

この状況で、自民が、「新民主党」と組む必然性はきれいさっぱり霧散したのであります。

つまりは、そう言うことであります。

そして、もう一つの大きな理由。それは、完璧なまでに弱体化した民主党、小沢はこれを奪還する秘策に気がついたのであります。

それは、自民含めた一部野党との連立ではなく、野党政党丸ごとの吸収合併であります。

もちろんその党首が首相につく条件であります。

舛添あるいは平沼、菅の後の民主党次期代表、すなわち第95代内閣総理大臣に就任するのであります。

これに気づいた小沢は、さっそく、鳩山辞任の時と同じように菅に電話を入れた。

あなたを後継総理にする。ついては、小沢傀儡政権と言われないようにするために、徹底して小沢外しをやること。こちらもあなたを支持すると疑われるので、形だけの対抗馬を立てるが心配しなくてよい。


もちろん、このときと話は真逆ではあるけれど、この話を聞いた菅は、首相と言う職務のあまりに激務にすっかり嫌気がさしていたことを幸いに、このときと同じ方法でさっそくこれを実行に移すのであります。すなわち突然の、小沢攻撃であります。

みなさん、だまされてはいけないのであります。これは、菅小沢による猿芝居。

来年年明け早々、突如、改革あるいはたち日と民主党は、間違いなく合併するのであります。

まあ、これも菅を引き摺り下ろすために、いたしかたない。

これで日本が劇的に生気を取り戻すことができれば、民主党政権は安泰。

つまりは、それでいいのであります。

そして、こんな不実な世界とは無縁の、週末テニス。

いよいよ、今年もあとわずか。

土曜、2-6、2-6、4-2。先週から既報の通り、いかにすれば体力を維持できるか。勝敗のポイントは、ここにあるのであります。やっと第3セットで雪辱を果たす。

日曜、6-0、1-6、1-6、3-4。レギュラーのO谷さんが、年末進行の仕事により欠席。替わりに膵炎を患って間もないT木さん。この彼の奇跡的ふんばりが、第4セット、3-4ながらイーブンにもっていけたことの意味は、限りなく大きい。

なにも言う必要はない。通じるものには、ことごとくが通じるものなんであります。

December 18, 2010

クラウドコンピューティングは不注意なコンピューティング?!

なかなか刺激的な指摘でありますが、これからのコンピューティング社会の有り様への、これは本質的な問いかけとしてより深く考える必要のあるテーマなんであります。

 オープンソフトウェアの擁護者で、コンピュータ業界の中でもとりわけ遠慮なく発言する人物であるRichard Stallman氏は、「Chrome OS」が好きではないようだ。

 Free Software Foundationを創設したStallman氏は、The Guardianの英国時間12月14日の記事で、クラウドコンピューティングという概念への非難を続けた。同氏は記事で、Chrome OSのクラウドモデルという概念は、クラウドコンピューティングというより「ケアレス(不注意な)コンピューティング」と表現する方がよいのではないかと語った。Chrome OSは、Stallman氏が大切にしているGNU/Linuxのプロジェクトに大まかに基づいてはいるが、「通例のアプリケーションなしで配布され、アプリケーションのインストールを妨げて阻止する作りになっている」という。
(中略)
 Stallman氏はとりわけ、こうしたコンピューティングモデルで自分のデータに対する管理が失われることを懸念しており、たとえば、玄関で令状を見せることなく政府当局がユーザーのデータを押収できるようになる、と指摘している。Stallman氏は数年にわたり警告を発してきたが、同氏の警告をどの程度留意すべきかについては意見が分かれている。

 Stallman氏のほかにも、12月14日にChrome OSへの懸念を口にした人物がいる。Googleの元エンジニアで「Gmail」を開発したPaul Buchheit氏は、2011年中にこのプロジェクトは廃止されるか、Googleの別のOSであるAndroidに吸収されるだろう、とTwitterで予言した。
R・ストールマン氏、「Chrome OSは不注意なコンピューティング」と批判


ここで指摘されている論点は二つ。一つは、Chrome OSのようなクラウドオンリーとも呼ぶべきクラウド偏重思想の問題であり、もう一つがクラウドコンピューティングそのものが持つデータ管理の危険性の問題であります。

まず前者について。普通に考えれば、すべてがクラウド一辺倒でいけるわけがないのは自明であり、棲み分けこそ未来のコンピューティングのあり方であることに議論の余地はないのであります。

ただ、問題があるとすれば、Chrome OSのようなネット接続前提のOSとは、果たしてChrome OSが最適解と言えるかどうかであります。

一番気になるのがプリンタなどの外部装置のドライバー問題であります。すべての外部装置について、Chrome OS向けに新たにサポートしなければいけないとしたら、その市場性から対応できるメーカーは限られる。

更にネットに接続できないときのための仕掛けとして、Google Gearsでどこまでアプリを作ることができるのか、まったくもって不透明であると言うこと。具体的には、例えばスマホ向けのAndroidアプリと同じアプリをGoogle Gearsで作ることができるかどうかってことであります。

この2点だけを考えても、Paul Buchheit氏の予言どおりになるとKAIも考えるのであります。

次に後者の問題。

「玄関で令状を見せることなく政府当局がユーザーのデータを押収できるようになる」と言うのは、自宅の玄関がデータセンターになるだけで、然したる違いはない。

一番大きな問題は、クラウドサービスにおけるデータの保全性の問題であります。無償のサービスが理由とは言え、これが保証されていないサービスでは使い物にならない。

有償のサービスでも、このデータの保全性を一番に考えているのか、きわめて疑わしいところが大半のような気がするのは、そのWebサービスと言うマルチクライアントな仕掛けによるのかもしれない。

技術者であるKAIでさえ、こう思うのですから、利用者が不安に思うのは当たり前なんであります。

これをカバーする方法は、今のところ一つしかないとKAIは考えています。それは、オフラインのバックアップサービスであります。オンラインのバックアップは常識ですが、これに加えて定期的にオフラインのメディアにバックアップを取り郵送するサービスであります。これであれば少なくともデータをこちら側に保管できる。

以上の結論を言えば、クラウドコンピューティングとは、決して特殊なサービスでもなんでもないと言うことであり、データの保全性に関して、いままでやってきたことを当たり前に普通にやればいいだけのことなんであります。これをやらないクラウドサービスは、確かに「不注意」と言われても致し方ないのであります。

そしてもう一つ。

「ITベンダーに対する改善要望」で最も多かったのは、「もっと値下げしてほしい」(引用者注 57.1%)だったものの、情報公開の強化を求める回答が上位を占めた(図2)。「セキュリティ管理体制を明らかにしてほしい」(51.1%)、「料金体系を明らかにしてほしい」(48.1%)、「システムの構造や管理体制を明らかにしてほしい」(40.2%)が目立つ。ユーザー企業の不満に応えられるかどうか。クラウドサービスを提供するITベンダーの“情報公開力”が問われている。
徹底調査!クラウドサービス利用動向 ベンダーに対する要望は“情報公開”


とにかく、クラウドは高すぎる。前にも書いたけど、まったくもって日本のベンダーは何を勘違いしているのか!

この一点において確かに、「日本の」クラウドコンピューティングは不注意なコンピューティングとしか言いようがないのであります。 KAI

December 16, 2010

中国、恐るるに足らずや週末テニス

21世紀初頭、世界の政治及び経済にもっとも影響力を保持している国と言えば、いまや米国ではなく中国であると、恐らく大半の人が信じ始めていると思うのでありますが、果たしてそれは真実と言えるのでありましょうか。

この問題を理解するために、格好の記事があるのであります。

 さて重みを増す米中関係では「中国は米国債の最大保有国だから米国の弱みを握り、米国は中国に頭が上がらない」という診断がよく語られる。日本側でも、一般になんとなく受け入れられた認識だといえよう。だがこの認識を的外れだと断じる見解がワシントンでこのほど公表された。

 中国は今年7月の時点で香港を合わせて合計9820億ドルの米国債を保有した。この額は各国当局の米国債保有でも最大で、外国機関が保有する米国債全体の約25%、すべての米国債保有のうちでも12%となる。この巨額の中国マネーは米側の財政赤字を埋め、インフレ抑制にも寄与するわけだ。
(中略)
 中国の温家宝首相は「中国は米国に巨額の資金を貸している。私たちは米国が信用を保ち、中国の資産の安全を保障することを求める」と述べた。

 国家ファンド「中国投資有限責任公司」(CIC)の高西慶社長は「米国の経済は中国など諸外国からの支援の上に成り立っている。とくに資金の支援を供する国には叩頭(こうとう)とはいわないが丁重に対するべきだ」と語った。いずれも中国が米国債保有により米国の上位に立つのだというメッセージだった。

 だがそんな力関係は虚構だとする主張が米国議会政策諮問機関の「米中経済安保調査委員会」から打ち出された。11月中旬に発表された同委員会の2010年度報告の「中国の米国債保有の意味」についての章の記述だった。同委員会調査に協力した専門家多数の見解の集大成である。以下がその骨子だった。

 ▽中国の米国債の大量保有は米国への善意でも影響力増大のためでもなく、対米貿易黒字からのドル資金を自国内の資本取引規制で一気に集積し、人民元の通貨レートを低く抑える効果を発揮させて、輸出をさらに拡大する一方、ドル資金の多くを米国債購入で安全なドル表示資産として保つ−という自国の経済戦略を動機としている。

 ▽中国が米国債を大量に売れば経済の高度成長、輸出大幅増加の継続、自国内の工場や生産機器への投資の拡大というこれまでの経済戦略の基本が変わり、人民元レートも高くなる。

 ▽中国の米国債大量売りはドルの価値を下げ、中国のドル表示資産全体の価値の大幅下落をもたらす。ドルの10%値下げは中国のドル資産全体に1500億ドルの損失を生むと推定され、中国自身が巨大な被害を受ける。

 ▽中国がドル資産を売れば、他の外貨への切り替えが必要になるが、ユーロも日本円も中国が従来、米国債に投入してきた水準の資金の受け入れに十分な規模も条件も有していない。現在、全世界の通貨取引の85%を占める基軸通貨としてのドルの比重はあまりにも大きい。

 こうした理由から同報告は「米国は中国の米国債大量保有を圧力や武器として恐れる必要はない」という結論を出す。中国政府の代表たちがときおり米国債の大量売却や購入停止を脅しのように提起することは空疎だとも断じるのだ。米中関係の重要な側面への注視すべき考察だといえよう。
【緯度経度】ワシントン・古森義久 中国の米国債保有で新考察


よくよく考えれば、これは当たり前のことなんであります。

ドル資金とは言え、中国全体の資金を考えれば、いま現在、巨額の中国マネーが米国に流れ込んでいるわけで、米国債売却となればそれはそのまま中国国内への巨額の資金還流を意味しており、これが中国国内のあふれかえる資金によるインフレ圧力となって、経済破綻の引き金になるのはまず間違いないのであります。

クラッシュするのは、米国ではなく、当の中国自身なんであります。

と、ここまで書いて下書きのままにしていたら、これまたグッドタイミングな記事であります。

 中国では今、食料品を中心に物価の急速な上昇が深刻な問題となっている。最新統計資料によると、今年10月における野菜価格は前年同期比で31%増、果物価格は17.7%増、11月の住民消費価格指数は5.1%増と、いずれも25カ月ぶりの「高水準」を記録しているという。

 インフレの高進がそれほど深刻なのはなぜか。最近、中国人民銀行(中央銀行)の元副総裁で、現在全国人民代表大会財政経済委員会の呉暁霊副主任の口から実に興味深い発言があった。彼女いわく、「過去30年間、われわれはマネーサプライ(通貨供給量)を急増させることで経済の急速な発展を推し進めてきた」という。

 実はこの発言こそ、中国が直面しているインフレ問題の根本的原因と、今までの中国経済成長の「秘訣(ひけつ)」の両方を明かしている。

 そう、中国は今までの30年間、まさに「通貨の過剰供給」、すなわち札の乱発によって「経済の急速な発展」を無理やりに維持してきた。そして、無理したツケは、今のインフレ問題となって回ってきているわけである。
【石平のChina Watch】空虚マネー…中国、水増し経済成長の悲惨な行く末


なるほど、巨額の中国マネーは、国内ではすでに深刻なインフレ問題を引き起こしているわけであります。こんな状態での米国債売却による巨額資金の還流は、まさに火に油を注ぐのと一緒、できるわけがないのであります。

中国のあらゆる問題のアキレス腱がインフレ問題であると理解すれば、中国が何を考えて国際的な対応を行っているか、透けて見えてくるのであります。強欲で強面の覇権外交を推し進める一方で、北朝鮮を甘やかすのも、金親子の暴発がそのまま自分たちの経済クラッシュとその結果としての政権崩壊に直結しているからであります。

それは、ぎりぎりの厳しい経済運営を迫られる中、米国の協力なくしてもはや中国経済は立ち行かなくなっている証左であり、北朝鮮に加担してこの米国を敵に回すわけにはいかないと言うことであります。

なるほどと、納得の嵐の中の、週末テニス。

引き続き、気の流れは順調。やっとこれは本物かもしれないけれど、7年ぶりはあまりにも長すぎるのであります。

土曜、4-6、4-6、0-2と、中身が濃くて面白いゲームの連続なれど、決定力に欠けるのは明らかにパワー不足。課題は尽きないのであります。

日曜。早朝北葛西に引っ越した娘のところに自転車を届ける。休日の早朝とは言え五反田から高速で20分もかからない。高速とはこうでなくっちゃ。

気分良く、テニスの結果も、6-2、1-6、7-5、1-2の2勝2敗。第3セット、タイブレークに持ち込ませなかったのが大きい。

あらゆる勝負事には、決め手となるポイントが常にある。これを決して見逃さないこと。そしてこれを、全力で取りに行くこと。これが無意識にできるようになるまで、決してあきらめないこと。これが少し実感できるようになりだしたことが、ありがたい。 KAI

December 10, 2010

加速するミクシィ離れ

KAIの思いは、どうやら伝わらなかったようであります。

そうです、あのGoogleのAdSenseやAdWordsと一緒なのであります。これこそ「人間関係」向上に貢献する、間接的な機能提供に他ならないのであります。

これだけ言えば、もうミクシィが何をやらなければいけないかは、お分かりでしょう。

「掲示板」を通した「人間関係」の心地好さの追求以外にはないのであります。

Wikipediaの中の解説を読んでも、もはや決してミクシィの「掲示板」生活が心地好いものではなくなっていると言う現実に、しっかりと目を向けなければいけません。

初心に帰って、「掲示板」生活を再構築する。これに、もはや一刻の猶予もないのであります。がんばれミクシィ!
がんばれミクシィ!


丁度半年前のエントリーですが、SNSがいったいなんであるか、笠原社長はまるでわかっていないし、わかろうとする努力のかけらもないことが、これでよく分かったと言うことであります。

11月30日に正式導入された、mixiの「メールアドレスでの検索機能」は、事実上3日でサービスを取り下げることとなった。これまでfacebookが搭載してきた機能をなんの臆面もなくパクって来たわけだが、今回の失敗は割と致命的だったのではないかと思われる。
(中略)
アスキー、大陸書房、Japan Mixみんなこうだった。これは身についた本能みたいなもので、こういうところに長居は無用、ささっと逃げるが勝ちだ。一ユーザーとしては、もはや mixiで培った人間関係は今facebookやTwitter上で再構築されつつあるし、近々身辺整理をして、アカウントをたたもうかと考えている。
mixiに受けた「いやァな感じ」


「致命的」。今回の事態を的確に表現する言葉であります。

SNSを運営する責任者が、こんな基本的なことを、「直感的」に理解できないでいるのは、まさに「致命的」としか言いようがないのであります。

もはや命運つきたと言うことであります。

SNSの本質とは、「人間関係」。

これを笠原社長がどう勘違いしているかは、簡単に想像できるけれど、SNSを「掲示板」と定義した時点で、彼の限界なんでありましょう。つまり、自分を「ボードマスター」と勘違いしてるってことであります。

それにしても、インターネットは難しい。と言うか、「オープン」とはなんであるか、これを理解しない者は、インターネットの世界で生き残っていくことはできないのであります。

ミクシィも、招待制のままでいれば、おそらく生き延びることができたのでしょう。Xデイはそんな先の話ではないのであります。 KAI

December 05, 2010

ファッションの本質を垣間見る週末テニス

「ファッションが教えてくれること」と言う映画を早朝のWOWOWでやっていた。何気なく観ているうちに、ついつい最後まで見入ってしまった。

原題は、The September Issue。9月号、であります。

ヴォーグの9月号が、翌年のファッションの流れを決めるとさえ言われてきた。舞台は2007年9月号の編集。『プラダを着た悪魔』のモデルとも言われる名物編集長アナ・ウィンター。彼女を通して、働くことの厳しさと快感を描いたリアル・ワーキング・ムービー、とのキャッチコピーでありますが、毎号900ページと言う電話帳並みの厚さの月刊誌、これがどのようにして出来上がっていくかのプロセスが、きわめて興味深いのであります。

発行部数は優にネット含めて一千万部を超える。

これを支えるのが、編集長のアナ。「セレブ」時代の到来を誰よりも先に予見し、ヴォーグを一千万部の巨大ファッション雑誌にした立役者なのであります。

ファッションは、ストーリー


これが、彼女のヴォーグを通しての一貫したメッセージであります。

毎号毎号、彼女は、締め切り直前の寸前までこだわり続ける。締め切りの2日前、すでに1万ドルかけて撮影した写真を没にして取り直しを命じる様は、ワンマンをとっくに通り越して、孤高のアーティストの姿を彷彿とさせるのであります。

面白いのが、毎号、パネルの4段に並べられる、表紙から背表紙までの100数十枚の写真。アンは、編集過程で終始ここに写真をおいて、採用、不採用、掲載順序、すべてをこれで決めていくのであります。

もちろん9月号だけでなく、7月号、8月号と平行してこの作業が進行していくのだけれど、締め切り直前、1ヶ月前、2ヶ月前のパネルが固定されていて、この映画のエンディング近く、9月号の編集終了と同時に、このパネルも9月号のものが取り払われ10月号の写真に並び替えられるのであります。

まさに、アンは、このパネルの中に、ファッションと言う壮大なストーリーを見るのであります。

ひるがえって日本の、ユニクロ。

この会社は、ファッションの会社であるや、いなや。答えは明白であります。

ユニクロがUJの不発移行、不調が目立つようになってきました。「しまむら」や「ポイント」の月次売上の推移をグラフ化してみました。それを見ると、ユニクロの不振ぶりがわかります。

この11月の既存店売上高は、「当月は昨年の売上水準が高かったことから既存店売上高は前年比14.5%のマイナスとなりましたが、20日から実施したファーストリテイリング創業感謝祭をはじめとした販促活動が奏功し、ほぼ計画通りの水準となりました」(ファーストリテーリング)ということですが、今年に入って既存店の売上高で、前年をクリアしたのは、5月と7月だけで、5月も販促キャンペーン「ユニクロ誕生感謝祭」によるものです。7月は猛暑効果とすれば、販促キャンペーンを打たないと売上が伸びない状況になってきているということでしょう。

どうもユニクロのポジショニングが難しくなってきているように感じます。実用衣料なのか、ファッションなのか。きわどい境目にユニクロがあると思うのですが、ファッション性を売ろうとすればするほど、トレンドの変化を読んだ企画力、また売れ筋変化にたいする迅速な対応力が必要になってきます。それを実現する体質やしくみがあるのかどうかが従来以上に問われてきます。
ユニクロは、どこに向かうのか


以前読んだ記事の中に、すばらしく優秀ではあるけれどファッションに興味を持った社員が自分の周りに誰もいないことに失望して、ユニクロを辞めていった人たちが集まっての起業のお話を読んだ記憶がありますが、ユニクロの不振の原因とは、まさにここにあるのであります。

それにしてもであります、世界のブランドと伍して戦うには、これではあまりにもお粗末。ユニクロと同じく、英語を社内公用語化する楽天にも共通するのは、世界進出して何を訴えようとするのか、このストーリーの、決定的不在であります。

そこで、あらためて問題となるのが、この「ストーリー」。

ストーリーとは、簡単に言ってしまえば、時間。

あらゆる物語は、時間の流れの中に、ある。

この時間は、ヴォーグと言う1冊の雑誌の中のページの中にも、いまあなたが身に着けている素敵な洋服の中にも、あるいは、渋谷のハチ公前のスクランブル交差点の中にも、あらゆる場所とモノの中に、この時間は、あるのであります。

ファッションとは、この時間の流れの中に、あなた自身が身をおくかどうか。ただこの一点に尽きるのであります。いかなる時間の流れの中に身をおくかを、自らが選択する。

そして、そこにいる居心地のよさを楽しむ。楽しむあなたの表情がステキになる。これが周りの人を幸せにする。時間が空間へと拡がっていくのであります。

時間と空間の拡がり、これを豊かさと言うのであります。

ファッションが、人の心を豊かにする所以であります。

そして、こちらも人の心を豊かに幸せにする、週末テニス。いよいよ師走ですよと言うこの時期に、調子を合わせるように気の流れが良くなってきた。

結果は、土曜、5-7、0-6、1-3、日曜、6-4、3-6、1-6と、2日合わせて1勝しかできなかったけれど、まったくもってこれは関係なし。気の流れがいいから、心地好いことこの上ないのであります。 KAI

December 03, 2010

不自由と自由、不幸せと幸せ

KAIの車の駐車場は、山手通りのすぐ近くにある。その山手通りで2年ほど前から地下高速の五反田出入り口の工事が始まった。駐車場から山手通りに出たところにある交差点は、それまで右折左折自由にできていたものが、工事が始まった途端に右折禁止、左折しかできなくなってしまった。

この交差点で右折できないのは不便極まりないこと甚だしく、しばらくの間、交差点に出るたびに腹立たしい思いを重ねていたのであります。

ところが最近この腹立たしい思いがすっかり消えうせている自分に気がついて、思わず運転しながらニヤニヤしてしまった。

そうなんであります。不自由とは、自由であったものが不自由になって感じるものであって、そのまま不自由のままでいるといつのまにか不自由を感じなくなるんであります。

なんでこんな話をするかと言えば、アンジェロマスターから定期的に送られてくる、手書きのレターコラムにこんなことが書いてあったからであります。

つかんだ!!
 幸せになるコツ?

 お前 そんなこと言い出してそろそろお迎えが近いんじゃないの?
確かにそれも言えなくもないと思いますが
去年読んだ本に ざっと要約すると
(現状に感謝すると幸せになれるよ)と受けとれる内容だったと思いますが、試しにやってみました。
 貧乏なことに感謝→貧乏しているからこそこんなに働けるんだ
 年をとってしまった → こんなに生きてこれたことに感謝
 といった具合に考えて見ると 不思議なことに幸福感がムクムクとわいてきて一年程続いていますが、お目出たいやつだと思わないでね!!
ヒンズー教の教えで神々が相談して幸せを人の心の中にかくしたという神話があるそうです。
なにか実感が
(アンジェロワールド、秋山徹夫、2010/12)


なるほど、不幸せ、幸せも、KAIが感じた不自由、自由と同じ話なのかもしれない。

すなわち、不幸せも不自由も、そのいまある状態を言う言葉ではなく単に「変化」を感じるだけの言葉に過ぎないのではないかと言うことであります。たとえ一時に不幸せや不自由を感じたとしても、過ぎてしまえばそれはそれで幸せであり自由なんだと言うことであります。

 釈尊もキリストも、人間が生きるためには他の人のことをも思いなさいと教えられている。そこには忍耐と寛容そして慈愛が必要である。
(中略)
 マザー・テレサの言葉がこの本にも述べられていた。「心配したり、怖がったりしてはいけません。すべては過ぎ去っていきます。神は変わりありません。忍耐はあらゆることを成し遂げていきます」。私たちは今日から昨日へと後ずさりはできない。明日に向かっておそれず前に進んでいかねばならない。でなければ何もできないし進歩もない。
【一服どうぞ】裏千家前家元・千玄室 「家族」をつくる三杯の茶


これは、KAIが3ヶ月前書いたエントリー、忍耐はあらゆることを成し遂げていく週末テニスの中の再引用ですが、マザー・テレサの「すべては過ぎ去っていきます」と言う言葉の意味があらためてよく理解できるのであります。心配、怖れ、不幸せは一時のもの。今あるものを受け入れ、神に感謝する。忍耐と寛容と慈愛。すべてがここに通じていると言うことであります。

とは言え、若い人たちがこれを理解するのはなかなか難しい。

本来不幸とは、自分の中の時間軸上の差異に過ぎない。これを彼らが信じはじめた「格差社会論」が見事なまでに歪めてしまった。不幸を、格差と言う形で他人との差異に固定化してしまったのであります。格差社会論とは、若者達に永遠に不幸を感じ続けることをプリミティブに要求しているのであります。

もちろんこの方が政権奪取には都合が良かった。

ところがそうは問屋が卸さない。

政権をとって彼らがやっていることは、ますますの利権誘導と言う格差拡大。

ほんと、クーデターでも起きて不思議がないんであります。 KAI