October 28, 2010

コミック名言集(2)

いみじくもツィッターの本質を言い当てている。

細川 昔はよかった・・・
キャバ嬢にメアドを訊いたら
たとえ、業務用のメアドでも、
ちゃんと教えてくれたからな。

一緒に飲んでいる後輩
え、今は教えてくれないんですか?

細川 教えてくれない
こともないけど・・・
まあ、試しに訊いてみな。

キャバ嬢 ミカで〜す(ハート)

後輩 キミのメアド、教えてくれる?

キャバ嬢 いいんだけどさぁ・・・

キャバ嬢 お客サン一人一人に
メールを送るのは、面倒くさいから
ツイッターフォローしてくれる?
(しかもフォロワーが79人も。)
(小学館、ビッグコミックスピリッツ、気まぐれコンセプト、2010/10/30、p.31)


納得の嵐。 KAI

October 24, 2010

贈与経済原論試論と週末テニス(2)

なんだか、昨日のエントリーを読み直しても、論旨が乱れまくっている。酔っ払った勢いで書いたからだけど、たまにはこれもいいのであります。と開き直って^^;、先週言い残した、贈与経済の経済効果についてであります。

まず簡単な試算をしてみる。

国民の1割、1千万人が礼経済に従事するものとし、一人が1日6時間、月20日で、120時間この活動に参加するとすると、これを時給千円換算で、千万×120×千円=1兆2千億円。これは月間でありますから、なんと年間14兆4千億円もの付加価値を生み出すことができるのであります。

日本の国家予算のうち、社会保障・福祉予算が約20兆円。これに匹敵する規模の効果が見込めるのですから、話は俄然面白くなるのであります。

もちろん、この20兆円を礼経済にそのままおきかえれるわけではありません。国の予算と医療機関や介護施設、保育所などと言った直接の現場の会計との間が、直結しているわけではないからであります。

礼経済は、この直接の現場の経済を大きく変えることになるのであります。これが結果的に国家予算における社会保障費の負担を大きく緩和することに貢献する。そう言うことを理解する必要があるのであります。

具体的には、直接の現場で、まず収入よりも先に支出が品礼に置き換えられる。これは直接の現場の収支状況を劇的に改善する効果があるのであります。

これによりただちに支給される保険料交付金を減額する必要はない。順次、品礼を得た礼個人がこれを消費する側にまわり始めるからであります。といってもこれは10年単位のスパンであるからして、この「猶予期間」における経済効果は、優に数十兆円を見積もることができるのであります。

すなわち、この数十兆円とは、自治体の発行した品礼に他ならないのであります。

つまりは、贈与経済の本質は、ここにあるのであります。これが実体経済になんの影響も与えないで実現できる。まことにもって、理想的な成長戦略でもあるのであります。

更に理論的には、贈与経済原論のプリンシプルをして初めて、贈与をストック化することに成功したと言えるのであります(もちろん実現した暁のお話でありますが)。

と言うことで、納得の週末テニス。

人間、歳を取る意味とは、単純に体力の衰えであります。いわゆる「老い」を感じることであります。

土曜、4-6、3-6、3-4の3連敗も、要所要所で、パワープレイができない。パワープレイとは、筋肉であります。この筋肉が言うことをきかない、この哀しさ。

日曜、3-6、0-6、6-3、6-1、1-0と、かろうじて3勝2敗で勝ち越し。これもまた、ひろえるボールを見送ってしまう、この哀しさ。

しかしKAIは決して、贈与のストックをあてにして生きるつもりは、さらさらない。これだけは肝に銘じるのであります。 KAI

October 23, 2010

すべてジョブズやシュミットのコピーに過ぎない

アゴラに小川浩と言う人が書いているが、起業家にはPrediction(予測・予言)が必要だと言うのは、まったくもってその通りであります。

僕は経営者には(特に小さな会社、ベンチャーでは)4つのPの使い方に長けている必要があると考えるようになっています。
それは、
・Prediction(予測・予言)
・Pressure(圧力・プレッシャー)
・Patience(忍耐・我慢強さ)
・Passion(情熱・感情)
起業家に必要な4つのPの使い方 - 小川浩

と言っても、ではこの予言が、どこか日本の起業家から出てくるのかと言えばそうではない。ことごとくは、ジョブズやシュミットのコピーにすぎないことを、さも自分の予言がごとく吹聴する。

まことに、情けない限りであります。

なぜ、ことごとくの日本の起業家は、「独自の予言」ができないのか。

その理由を、今回は解き明かすことにするのであります。

まず、その前に、日本の起業家の予言が決して「独自の予言」でないことを示さないと、なかなかみなさん、この先を読んでいただけないと思いますので、これを説明するのであります。

当の本人の小川浩氏をだしにして大変申し訳ありませんが、氏の「ソーシャルメディアマーケティング」からして、「予言」とはほど遠いものと言わざるを得ないのであります。

「予言」とは、明確に未来に起きる「事象」を言い当てることであります。

みなさんには、この未来に起きる「事象」の意味を、もう少しきちんと理解していただく必要があるのでありますが、みなさんのほとんどの方が誤解しているような、未来に起きる「事象」とは、ノストラダムスの予言がごとく大地震や隕石の衝突のようなカタストロフィ的事象とは、ほど遠いものであることをまずはもって理解する必要があるのであります。

すなわち、社会が、例えが古くて理解できないかもしれませんが、例えばバス中心からマイカー中心へ、白黒テレビからカラーテレビへ、固定電話から携帯電話へ、ISDNからネット常時接続へ、といま当たり前と受け入れていることが、つい数年前までは、誰もそんなことは一言も言ってなかったようなことを、普通になる前に、一人もくもくと「予言」することを言うのであります。

この意味で、「ソーシャルメディアマーケティング」も、これ以外のことごとくのメディアに出てくる、クラウド始めとした、予言と思しき言葉が、ただ単に「いまある」事象をなぞるだけに過ぎないことにお気づきになるのではないかと思うのであります。

そこで、日本の起業家が「独自の予言」ができない理由であります。

これは逆説的ですが、ジョブズにしろシュミットにしろ、彼らがやっていることは予言ではないと言うところに、今回の問題解決のヒントがあるのであります。

つまり、彼らは「予言」ではなく単に「創造」しているだけで、これから何が起きるかなど微塵も考えてはいないのであります。

ひるがえって、日本の起業家。まったくもってこの「創造」の気概が、ない。ただひたすら、部分最適化しか考えない。これではイノベーションもなにも起こるわけがない。

梅田望夫が日本に拡げたWeb2.0。

これは例外的に、梅田と言う日本人起業家による「予言」であります。

仕事の関係で、一ヶ月ほど先行して僕もiPadをさわって、そして昨日社員にそれを貸すことになりました。その際に改めて驚いてしまったことがあります。通常パソコンを人に渡す時はハードディスクをきれいにして、つまり「初期化」して渡すのが慣例です。必要なデータはすべてバックアップする。ところが、このiPadでは何もする事がない。ただ「リセットする」だけ。ローカルにバックアップするデータをひとつも持っていないことにあらためて気付かされたわけ。

ツイッターで知人が「自分の所有物としての愛着がわかない」とつぶやいてました。たしかに本質は手元にはなにもない。自分自身はどこにあるのか、といえば、サーバー上の、自分のアカウントの中でして、iPadはそのエイリアスみたいなもの。ネットカフェのパソコンのようなものなのですね。それがクラウドです。
子どもたちの時代の結婚披露宴とiPadとかクラウドの関係


この梅田の予言を、実に4年後に、斎藤由多加が実感することになるのであります。

これぞ「予言」ではありますが、だからと言って、この斎藤由多加が他人のコピーではない「予言」できない起業家かと言えば、まったくもってそうではない。彼こそ、日本、いや世界におけるシミュレーションゲームの新たなる本流を「創造」した男はいないのであります。それが「タワー」であり「シーマン」なんでありますが、まるでどのメディアもいまこれを取り上げることはない。

実は、この構造こそが、日本の起業家が「予言」、すなわち「創造」のできないとする根本的な環境を生み出していると言えるのであります。

わかりにくいもの言いで、すまない。

要するに、CnetもITProも、ITMediaも、どこを眺めてみても、日本と言う国のメディアの中には、その分野に精通した専門家集団からなるメディアが独立して存在していない。専門家ではない、素人の記者の集まりにしかすぎないのであります。

やっと、結論であります。

いま、世の中で起きているすべての事象の本質は、ソフトウェアであります。

そしてこのソフトウェアは、アプリケーションと言う付加価値を持ち、ソフトウェアにかかわるあらゆるビジネスが、この付加価値を中心に回っていると言う、根本原理を理解する必要があるのであります。

いまソフトセクターで生き残っている、あるいはグリーがごとくいま興隆をきわめる企業のすべては、この原理原則の中にある。

つまりは、そう言うことなのであります。

これをすでに何年も前から「予言」し、これを「創造」してきているにもかかわらず、専門家集団からほど遠いメディアが、これを取り上げることも、ましてやこれを評価することもない。ゆえに、日本人起業家に「創造」者は存在しない。

こうなるわけであります。

アプリケーションこそ、ソフトウェアの付加価値の源泉。

これを理解して初めて、ツィッターもソーシャルメディアもなにもかも、たちまちにしてその本質が分かる。

ですから、申し訳ないけれど、コンテンツやhtmlやスマートフォンのダウンロードプログラム程度のビジネスが、世の中を変えるなどと勘違いするのもほどほどにしてもらいたいのであります。こんなもの、所詮、すべてジョブズやシュミットのコピーに過ぎない。

そう言うことなんであります。 KAI

October 17, 2010

贈与経済原論試論と週末テニス

ウチダ先生の言う贈与経済が、ずっと気にかかっていた。

そんなおり、これの決定的ヒントになる話を読んで、少々興奮するKAIであります。長くなりますが、ほぼ全文引用させていただくのであります。

少子高齢化社会はもはや避けては通れないものとなったが、少子化対策と高齢化対策を関連付けて論じられる事は少ない。

一口に高齢化対策と言っても、介護、老人医療、年金と範囲は広いが、極端な話しをすると多くの人が健康に長生きを出来れば、介護や老人医療はさほど問題にならなくなる。勿論、生物学的に加齢による変化とそれに伴う疾病は当然発生するが、これを最小限に抑え、論点をそこにそ絞る事が出来れば、解決は早い。一方、少子化対策も同様に子育て支援、周産期医療、保育、教育と幅は広いが、単純化すれば、子供が健やかに育つための社会基盤整備にということに尽きる。この様な目標を達成するために必要な施策を予算制限なしに行えれば良いが、しかし、昨今の我が国の経済状況と医療・介護の置かれている状況を見ると、如何に金を使わず、必要な人材を確保して、必要な施策を行うかということが必須である。さて、そこで経済評論家でもなく、政治家でもない、言わば、ド素人の一小児科医である私が金を使わずに、人を集め、必要なサービスを提供する方法を考えてみた。

ドラマ「北の国から」の中で、田中邦衛演じる黒坂五郎と唐十郎演じる高村吾平とが語り合う場面、五郎が近所の者同士がお互い助け合うお礼は物や金ではダメで手間で返す「手間返し」という慣習があると話すと、吾平は自分の住む地域にも同じ様な風習があり、「結(ゆい)」と呼んでいると応じる。ドラマの舞台となった小樽や羅臼に本当にこの様な風習があったかどうかは著者は知らないが、かつての日本の地域コミュニティには「困った時はお互い様」というような地域の中でお互い助け合いながら自助自立していく文化があった。「手間返し」「結」「お互い様」の日本古来の地域文化が復活出来れば、金をかけずに人を集めて少子高齢化対策が出来るのではないか?ただ、一度崩壊したコミュニティを復活させて、人と人とを結びつけることは容易でない。そこでちょっとした仕掛けが必要となる。

介護、子育て支援の世界にポイント制を導入する。人間を長いライフスパンで考えると金はないけど時間はある時期もあれば、金はある程度あるけど忙しくて時間がない時期もある。一生、貧乏暇なしで両方ともない人は人口比率からするとそう多くはない筈である。大抵、定年後は再就職しても、現役時代よりは時間的に余裕が出来るし、年金を貰って仕事も辞めるとさらに時間は出来る。65歳から年金を貰い始め、時間を持て余した方には自分に介護が必要になるまで、介護、育児、教育など、自分が得意な分野、自分が出来る事を出来る範囲で奉仕活動をして頂く。子育てが最も忙しく、大変なのは最初の一年、せいぜい小学校入学位までであろう。専業主婦も子育てに一段楽して働こうと思っても、この不景気で仕事がない。であれば、仕事探しの余った時間に奉仕して頂く。学生も最近は部活動はしない帰宅部が増えているとか、そして、アルバイトをしたくてもこの不景気で仕事もあまり回って来ないとか。であれば、勉学以外の余った時間に奉仕して頂く。

金はないけど、時間はある人は大勢いる。まとまった時間が取れなくても1日1時間でも良い、こういう余った時間に奉仕活動をして、奉仕活動をした分だけポイントを貯めていく。貯めたポイントは介護、育児の分野で利用できる。どの様なサービスにポイントがいくら必要かはある一定の制約の中で自由に決めていけば良い。既存のマイレージや量販店などのポイントと互換性があっても良い。貯めたポイントは親子間の相続のみ認め、その他の譲渡、売買は認めない。時間はないけどお金がある人は今までの介護保険にわずかばかり上乗せした分を払えば良いし、時間が出来れば奉仕活動をしてポイントを貯めていけば良い。実質的に行政が支援して、財政支出が必要になるのは、貧乏暇なしでお金も時間もない人口比率にするとわずかな人達と病気や障害のため働けない人達だけになる。

お年寄りには活動の場が増えるので認知症予防にもなるし、ある程度体力を使う作業もすれば、寝たきり予防にもなる。学校の授業で奉仕活動を取り入れようとする動きもあるが、子供達には奉仕活動を体験する場にもなる。「ポイントがもらえるのだから、奉仕活動ではない」なんて、細かい事には目を瞑ってもらいたい。行政側からすると、予算を増やさずに介護サービスと育児支援サービスの人材を集めて、サービスの質、量を上げることが出来る。かつ、今迄、行政側が負担して来た低所得者や無収入者の介護保険料や保育料などを奉仕活動という形で現物払いして貰えることになる。

専門家や自称専門家は異論を唱えるだろうが、この国の社会保障のあり方と地域社会の在り方を大きく変え得る提案だと思うが、如何だろうか?

済生会横浜市東部病院こどもセンター 医長 十河 剛(そごう つよし)
小児科医が考える金のかからない少子高齢化対策 −十河 剛


考え方は、ほぼこの文章で言い尽くされている。問題は、ここで言うポイント制であります。

これを間違えると、このポイントが第二の通貨となって、意図した方向とは180度違う世界に至る危険性が極めて高い。なぜそうと言えるのか、これを理解するには、少々まわりくどい説明が要るのであります。

そもそも「贈与」とは、何か。

それは、一方通行の取引以外のなにものでもないのであります。ここで「取引」と言う言葉を使いましたが、「取引」とは「交換」であります。物々交換が物と物の交換であるとするならば、一方通行の取引とは、何と何を交換し、しかもそれが一方通行とはどう言うことを言わんとするのかであります。

答えを先に言えば、すなわちそれは、モノではない「行為」と、その「行為」に対してありがとうございますと言う「お礼」、「行為」と「お礼」の交換こそ、この「贈与」の本質なのであります。

「お礼」と「お礼」が交換されることは決してないように、「お礼」が「行為」の先になることもない。これを取引の一方通行と言うのであります。

これが、贈与経済原論における、プリンシプルとなるのであります。

贈与経済の通貨単位はお礼の「礼」。「礼」と「円」との間を交換することは法律で禁止する。刑事罰が与えられるのであります。

これにより、礼経済圏、すなわち独立した贈与経済圏を構築することができる。

さらに、この礼経済とは、よくよく考えると、礼があたかも「モノ」であるかのような意味を持っているのであります。すなわち、「行為」によって次々と礼と言う「モノ」を生産することができる、そう言う経済であります。

贈与経済圏を具体的に構築するうえで、実はこの「礼」とは「モノ」であると言う考え方がきわめて示唆的であり、重要となるのであります。

では、実際に「モノ」とは何かと言うと、全国の自治体が発行する「品礼」。もちろんネット時代ですので、「モノ」とは言え、ネット上における仮想の「モノ」であります。

さて、この取引はいかなる形で成立するのか。

NPO法人などが礼経済圏に参加するには、まずネット上から参加資格をチェックするページにアクセスした上で、必要とする資本「品礼」の発行を受けることができる。

こうしたNPO、福祉法人、保育施設、医療機関など(これらを礼法人と呼ぶ)、すでに過去にボランティアのスタッフ(これを礼個人と呼ぶ)を受け入れたことのある実績およびその可能性から、必要とする資本「品礼」の礼数がわかるのであります。

ここからがスタートになります。

まず一般の住民(これも礼個人)が、こういったサービスを受けるために必要となる「品礼」を手に入れるには、礼経済圏ホームページ上で、自身が活動可能な礼法人のサービスを選択し活動予約を行ったうえで、予約した日時にサービスの現場に出向き、サービス活動に従事する。この結果を、礼法人がホームページに登録することで、礼個人は品礼を手に入れることができるのであります。

ここで重要となるのが、住基カード。すべてが、住基カードをキーに登録され管理することになります。つまり、住基カードが管理する住民基本情報に、品礼数が加わることで、住民登録さえしておけば、全国どこに転居しても保有する品礼を失うことはないのであります。

次に、品礼を利用する場合です。礼個人は、礼法人が行うサービスを、自身の保有する品礼と交換することで受けることができます。この礼法人が行うサービスについて言えば、サービス自体がボランティアの礼個人が行うサービスに限って、品礼と交換できるようになります。

もちろん、ボランティアの礼個人が行うサービスを、従来の料金体系の中に組み入れることができるけれど、この逆、すなわち、ボランティアの礼個人が行うサービス以外のサービスを品礼と交換することはできないのであります。

これらが、礼経済圏、あるいは贈与経済圏の基本的な考え方になりますが、二つ重要なことを言い残しているのであります。

それは、品礼数はどうやってカウントするのか。

もう一つが、礼経済圏における「経済効果」とはいかなるものか。

今回は、前者のみに触れて、本試論を締めることにするのであります。

品礼数はどうやってカウントするのか。これは簡単であります。品礼数は時間数とするのであります。15分単位で1品礼となります。30分のサービスなら2品礼。では35分なら、これは3品礼となるのであります。

こうすることで、基本的に礼法人単位に自治体により発行された品礼数は、従来の料金体系で支払が行われなければ、減ることも増えることもないのであります。

では、従来の料金体系で支払が行われる場合はどうなるのか、と言うのが後者の議論でありまして、これは次回以降とするのであります。

で、肝心のすでに礼経済圏を実現する週末テニス。

土曜、0-6、7-5、5-6。日曜、6-4、0-6、7-5。土曜の夜、娘の彼氏くんが始めましての挨拶に来ると言うので、大変だったけど楽しかった話も、また次回と言うことで、よろしく。 KAI

October 16, 2010

官僚の国家的犯罪(2)

昨日のエントリーの最後に書いた、霞ヶ関官庁の出勤簿の出し入れの操作と言う犯罪について補足するのであります。

この犯罪は、あの社保庁の歴史的犯罪をも上回るものであるにもかかわらず、メディアも沈黙するきわめて悪質な犯罪であるのであります。メディアに報じられないから、誰も知らない。当の官僚でさえ犯罪を犯している認識すらない、とんでもない犯罪であります。

で、本題。丸の内線と日比谷線。霞ヶ関駅に朝の9時、地上出口にたって見渡してみてください。ぞろぞろと次から次へと公務員と思しき人間が地下からわいて出てきて、官庁に出勤する姿を目撃することができる。

これが9時半、ぴたっと人の流れがなくなるのであります。まるで出勤時間が9時半であるかのように。

官庁の職員は、いまだに出勤簿、退勤簿と言う黒の表紙と背表紙にはさまれた名前の書かれた紙に朱肉の印鑑を押すことで、出勤退勤を毎日届けているのであります。

基本的に朝の出勤時間が9時であるとすると、出勤簿は朝9時を過ぎると職員により片付けられ、以降は遅刻扱いになるのであります。

ところが、労使の秘密協定で、これが9時半までそのまま置かれているのであります。そうするとどうなるか。9時半まで遅刻扱いにならないばかりか、事実上の出勤時間が9時半となるのであります。

退勤も、まったく同じことが行われているのであります。5時が所定の退勤時刻とすると、退勤簿は4時半に出されて出口近くのテーブルの上に置かれている。

朝と夕方、合わせて1時間、公務員の労働時間が短く設定されてしまっているのであります。

霞ヶ関に何人の職員がいるのか調べれば分かると思いますが、例えば1万人いるとすると、彼らの給与が時給換算で3千円、掛ける1万人。毎日3千万円の不正なサボタージュが行われている。月間6億円、年間72億円であります。

もちろん、これは1万人に限った話でないことは、明らかであり、何十年にもわたる慣行であることから、国民の受ける損害は優に数千億にも及ぶ国家的大犯罪であるのであります。

これを読んで証拠を出せと言われるなら、9時に官庁に行けばよろしい。職員がせっせせっせとはんこを押す姿を目撃できる。そう言うことであります。

もういいかげん、こう言うウソ八百の世界をやめにしませんか? KAI

October 15, 2010

官僚の国家的犯罪

国民の代表たる政治家がだらしないと、こうまで官僚が驕り高ぶるものかと、ただただあきれはてるばかりであります。

この菅直人、乗数効果も知らないのかと思ったら、今度はこの「悪用」であります。始末に負えないとしか言いようがない。

それにしても、この話で何が問題かと言えば、官僚。決して「責任を取らなくていい」からこんなことができる。

モデルを恣意的に操作することは、誰でも簡単にできる。しかし、この結果に責任を伴うから、普通の人間はやらないし、やれない。

ところが、官僚にはこの責任を取らせるかっこうの存在がいる。閣僚であります。今回は、首相ですからもうこれは完璧なんであります。もちろん、官僚自身、これっぽっちもモデルなんか信用してはいないのであります。国家財政の危機に取り組んだと言うアリバイ作りさえ完璧なら、結果はもうどうでもよろしい。
破綻請負人と言う因果と週末テニス


こちらは、財務官僚が、犯罪的操作に手を染めているお話でありましたが、国交省の役人も同じ穴の狢でありました。

「アタシがわからないのはね、そこなんですよ。あまりに数字がぴったりすぎる」「どうしてだね、コロンボ君、国土交通省のモデルは精緻なんだよ」

「はい、それはよくわかってます。でもね、この計算モデルの基になった昭和33年(1958年)から1982年の間に上流にダムが三つ増えているんですよ。そのダムが水を貯めちゃうんでね、昭和33年の時と1982年の時は、その分、流量が違うんですよ。

もし、その三つのダムがなかったとしたら、1982年の実測値は毎秒9102トンになったはずなんです。国土交通省の計算モデルにはこの三つのダムは入ってませんから、計算モデルの計算値は9102トンに近いものにならなきゃおかしいんです。

だけどダム三つがモデルに入っていないはずの国土交通省のモデルで計算すると、ダムが三つ増えた後の実測値毎秒8192トンにぴったりの毎秒8172トンになってるんです。どうしてそうなるのか、私にはわからない。あなたどう思います、河川局長」

つまり、国土交通省は、数字が合うように捏造してしまったが、そのときに前提条件が変わったことを忘れて捏造したのでつじつまが合わなくなった。

そういわれて国土交通省は、以前のモデルとは流域の分割の仕方を変えたから、この数字が出てきたのだ。新しいモデルは正しいのだと強弁する。

では、それを検証するためにその流域分割図を出してくれと言われて、前原前大臣は出しましょうと言った。もはや河川局の嘘がばれる!
河川局の犯罪


国民を愚弄するのは、もういいかげんやめれ。

ただ公務員試験に合格しただけの人間が、合格しただけで自分達は優秀な人間だと勘違いすると、こう言うことをしでかすのであります。

いまや計算や検索はすべてコンピュータに置き換えられ、モデルの操作など、ある意味中学生レベルの知識があれば誰でもできる。これがわかってないから、コロンボに指摘されるまで、前提条件を間違えていることに気づかない。滑稽としか言いようがないのであります。

つまり、今の世の中、ネットやゲームの世界では、言葉こそ違えどモデルやシミュレーションにちまたあふれかえっているのであります。こんな世界で暮らしている人間にとって、モデルやシミュレーションがどんな仕掛けでできているかなんて、まったく関係ない。要は、感覚的に合うか合わないか、ただこれだけなんであります。

すなわち、モデルやシミュレーションの世界が特殊にあるのではない。現実と感覚的に合わないものは、たとえモデルやシミュレーションと言えども決して通用しない。

ですから、増税してそのままでは決して景気が良くなることもないし、昔の自然環境に基づくモデルが、何の操作もなくそのままで四半世紀たった自然環境に適用できるはずもないことくらい、誰でもわかる。

もはや、そう言う時代ではなくなったことに、霞ヶ関の人間どもは、いいかげん気づけよ。

それから、すべての官庁における出勤簿の出し入れの時間操作で、公務員の勤務時間の操作と言う国家的大犯罪にも、やがて天誅がくだることを、覚えて置いていただきたいものであります。 KAI

October 11, 2010

ザックは本物だよ週末テニス

選手経験がないだの、イタリアではもはやどこも招聘するチームはないだの、岡ちゃんの時もそうだけど、なんでマスコミに出たがるやつはこうもあほうなんでしょうか。

「韓国にどうすれば勝てるかではなく、自分がどれだけ成長しているかが問題なのだ」


これは、韓国戦を前にザック監督が語った言葉であります。

この言葉は、そのまま選手の胸に響くのであります。選手もインタビューに答えて、「自分たちがいかに成長しているかが大事なんです」と、ザックの言葉をそのまま繰り返す。こんな短期間に、ザックは選手たちの胸に目標とするところをしっかと浸透させてしまったのであります。

これができるまでに岡ちゃんは、随分苦労をし、時間もかかったのに、であります。

それを実現したキーワードが、「成長」。岡田ジャパンの「ワールドカップ4強入り」と言う目標に較べて具体性に欠けると、これまた批判的なコメントが聞こえてきますが、まったくもってそうではないのであります。

「ワールドカップ4強入り」は、確かにより具体的ではあるけれど、では一人一人の選手にとっていま何をしなければいけないのか。目標があまりに遠すぎて、これがさっぱり見えてこないのであります。

この意味において、「成長」は、一人一人の選手にとっては、きわめてより具体的であります。どの選手にとっても、昨日の自分より今日の自分の「成長」と言うかたちで、努力した結果を実感することができるし、反省し明日の「成長」に繋げることもできるのであります。

ザックをしてイタリアの料理人と呼ぶ人がいますが、まことに的を射た言葉であります。

オシムが典型ですが、おおかたの料理人は最初から自分の得意な料理と言うものがあって、作る料理が決まっている。ザックはこれがまったく違う。まず食材である選手一人一人を観察する。その上で、食材をそのまま食べてどう言う味がするのか確認するように、プレーする選手の中に一緒に入って、目の前で選手のプレーを確認する。

その上で、これらの食材を組み合わせて、どんな味の料理を作ることができるか考えるのであります。

岡ちゃん風にすでにアレンジされた和食の味を確かめながら、さて中華にするかイタリアン、フレンチ、はたまたこのまま和食のままにするのか、自在なのであります。

スポーツの本質を理解した人間にとって、スポーツとは、かように奥が深いのであります。

そして、こちらも奥の深い深い週末テニス。

土曜、午前中一杯雨の天気予報を予知能力のフォースでおしのけた結果は、4-6、6-4、4-4。日曜、7-6(7-4)、2-6、1-1。

接戦になればなるほど、ゲームは面白い。毎週毎週、意図せざる無意識の世界で、この料理ができあがる。毎日の食事と一緒。飽きることは、ないのであります。合掌。 KAI

October 10, 2010

ノーベル賞が生み出す不思議な力と言葉

あのノーベル賞ラッシュから2年、また嬉しい知らせがやってきた。


この湯川から始まる分かれた二つの系譜が、南部の発見を小林・益川が理論的にその根拠付けして、また先で繋がる。時間を越えたシンクロニシティ、意味ある偶然としかいいようがありません。

ここで重要なのは、こうした繋がりが、ただ単なる互いの出会い以上の、もっとより具体的なところに、その根源的な理由があると言うことです。それは、湯川を源流とする、数式と言う道具を使って生きた気の流れを操る方法を伝授された人々の系譜です。

数式と言う道具を使って計算できることは、単に数式を操れるだけのことです。世の中の学者といわれる人々の大半がそのレベルにとどまっている。対して、この系譜の人々は、数式を使うことでその数式の中に流れる気を自在に操る方法を習得し、最後真理の扉を開くことができる。
ノーベル賞ラッシュはこれもまたシンクロニシティ


この系譜と言うシンクロニシティが、またここでも再現されていたのであります。

前回の湯川と言う源流にかわるのが、イギリス生まれの化学者ハーバート・ブラウン。湯川と同じように、ノーベル賞を受賞し、すでに鬼籍の人なのであります。

まず、ブラウンと鈴木章との関係。

北海道大学での勤務は、理学部で2年半、工学部で32年半におよんだ。途中、1963年(昭和38年)から1965年(昭和40年)までの3年間(実質的には2年弱)、アメリカ合衆国インディアナ州のパデュー大学のハーバート・ブラウンのもとで有機ホウ素化合物の研究を行う。このときの経験が、当時助手だった宮浦憲夫(現在、北海道大学特任教授)とのカップリング反応の研究に活かされ、1979年(昭和54年)発表の鈴木・宮浦カップリングの発見につながった。
鈴木 章、Wikipedia


1963年から1965年、二人は師弟の関係であったのであります。ブラウン51歳、鈴木33歳。

そして、根岸英一。

同大卒業後、帝人へ入社[1]。その後、帝人を休職してフルブライト奨学生としてペンシルベニア大学へ留学し同大学院博士課程修了。1963年にPh.D.(理学博士)を取得。博士課程での指導教授はアラン・R・デイ。
Ph.D.取得後は日本の大学での勤務を希望していたが職場が見つからず[5]、1966年に帝人を退職してパデュー大学博士研究員となる。このときの指導教授はハーバート・C・ブラウン博士(1979年ノーベル化学賞受賞)であった。1968年にパデュー大学助手、1972年にシラキュース大学助手、1976年に同大学准教授を経て、1979年にブラウン教授の招きでパデュー大学へ移籍し教授に就任。1999年からパデュー大学ハーバート・C・ブラウン化学研究室特別教授の職位にある。
根岸英一、Wikipedia


こちらは鈴木の後すぐの、1966年から68年まで、ブラウン教授のもとでの博士研究員。

鈴木、根岸、どちらもブラウンと直接関係していたのは2、3年と短い。しかし期間は関係ないのであります。このわずかな間に、二人はブラウンからしっかりと、「数式の中に流れる気を自在に操る方法」を習得していたのであります。

こういった人々にことごとく共通するのが、「夢」。

「基本的な能力があれば、正しく夢をもっていけば50年も追えば、わたしも50年夢を追っているわけですが、その夢が実現する可能性というのは、かなり高いと思います。みなさんもぜひ、その線で頑張っていただきたいと思います」


これは根岸の受賞直後の授業のときに若い後輩に向けて語った言葉であります。

夢が、ノーベル賞を生み、ノーベル賞が、夢を生む。ノーベル賞とは、「夢の力」なのであります。

そして、根岸の言葉には、もう一つ重要な言葉があるのであります。

それが、「基本的な能力」。一見、学力のことかと思いがちですが、そうではない。それは「知らないことを知る」そう言う能力を指して言っているのであります。何がわからないのかが分かる。それが「正しく夢をもっていく」の正しさに繋がっていくのであります。

また、元気が出てきた。ありがたきことかな。 KAI

October 09, 2010

マンガは、時間の駆動装置

今週号のビッグコミックオリジナル、弘兼憲史の黄昏流星群を読んでいて、突然閃いたのであります。

マンガは、時間の駆動装置だと。

別々に歩んだ20年・・・

そして今、再び・・・!?

二○三○年 東京


舞台は、いきなり2030年東京で始まります。

歯科医院の診察台、スーパーでの買い物風景、セグウェイとスクータのあいのこ風の乗り物。すべて20年後と言う未来の想像上の風景。これを映画で表現しようとすれば、たとえCGでこれを製作したとしても、莫大なお金がかかる。対してこのマンガ、これが十数コマの絵で表現されてしまうのであります。

つまり、映画やテレビの映像で時代をリアリティに表現しようとすればするほど、そのコストたるや黒澤ならずとも想像を絶する世界なわけであります。

では、小説の世界ではどうか。「歯科医院の診察台、スーパーでの買い物風景、セグウェイとスクータのあいのこ風の乗り物」と言う、登場人物のお話ではない背景描写をリアリティをもって文章で表現することは、小説と言うスタイルからして不向きであると言わざるを得ないのであります。

こう考えると、マンガとは、ふだん何気なく見ているけれど、これほど優れて「時間を表現」することのできるメディアは他にないのであります。

もっと言えば、マンガの一コマ、一コマを、映画のフィルム映写機のようにスクリーンに映しているのは、他でもない自分自身なんであります。自分が自在にコマと言う時間を進めることができるのであります。

お気づきでしょうか。日本には一千数百年前のずっと大昔から、この伝統があった。絵巻物であります。

絵巻物の説明はいまさら必要ないでしょうが、絵巻物と言う横に長い長い1枚の巻物に描かれているのは、空間的に展開された絵ではなく、左右に時間的な流れを持つ絵なのであります。マンガは、この中の一部の絵をコマ、すなわち小間として切り取られたものであるとみなせるのであります。

恐らく漫画家の頭の中にあるのは、この元となる絵巻物ではないかと、KAIは想像するのであります。

今回は、このお話が、何に繋がるのかは、わかりません。ただ、なぜか気になって仕方がないから、ここにこれを書きとめておくのであります。 KAI

October 03, 2010

国民に責任、あたりまえだの週末テニス

良い悪いの問題ではない。事実として、自らの責任を自覚することからしか始まらない。

これをなぜメディアが言い出さないかは、簡単に分かる。そのまま読者批判に直結しているからであります。

と思っていたら、遠回しながらやっと出てきた。

 今また、彼の後継者が取り沙汰(ざた)されている。報道のように3代目への世襲が決まったのなら、北朝鮮の貧困や社会制度に対する同情はもはや無用だろう。国際社会を核武装で恫喝(どうかつ)し、罪もない外国人を拉致して恥じないのが北朝鮮である。その体制を支えているのは、まぎれもなく北朝鮮に住む国民一人一人なのだ。

 こう考えたとき、あらためて日本の現状を思い返した。朝鮮学校の授業料無償化を進め、拉致問題の糸口さえつかめず、尖閣諸島も守れない首相や大臣を選んだのは、私たち日本人である。民意の持つ意味の重さに向き合わなければならないときはもう来ている。(くどう みよこ)
【日本の面影】ノンフィクション作家・工藤美代子 「民意」の持つ重さ


悲劇ならぬ喜劇を一緒に踊らされる北朝鮮の国民の責任まで問うのはどうかと思うけれど、ここ日本のいま抱える問題すべての責任は、政権にではなく、この政権を選んだ国民に、間違いなくある。

これが下がったとは言え、4割もある支持率は、いまだにこの責任を自覚できない国民がまだまだそこかしこにのさばっている証左であります。

のさばっている方々には、これを読んでおおいに怒り心頭になっていただきたいのであります。これくらいに書かないと、こちらも怒り心頭なんだと、お気づきいただけないのではないかと懸念するしだいなのであります。

1年以上たっても、まったくもってなんら成果がない。いや、つぎからつぎへとこれでもかとばかりにマイナス成果を出し続けているのであります。これを、の方(のさばっている方々と長いので略)は、まだ政権に慣れないからだと甘やかす。

成果さっぱり、マイナス成果たっぷり。

あのね、の方のみなさん。あと1年これにつきあってください、そうすれば政権運営にも慣れ、成果も出てきますからとでも言うつもりですか。

これまでの1年でできなかったことが、突然これができるようになるとは到底信じがたいことではありますが、の方のみなさんには、の方以外の国民に、これをお願いする責任があることになぜお気づきになられないんでありましょうか。

まさに、ドンカン。鈍菅政権を支持するだけのことはあります。

北朝鮮じゃないんですから、我欲のために他人を巻き込むのだけは、KAIは固くお断り申し上げる、週末テニス。

この週末テニス、毎週毎週、繰り返してるとはいえ、一度たりとも同じテニスがないのも不思議であります。まるでデジャブと言う感覚がない。それだけ、毎回毎回変化し続けていると言うことなんであります。

そして今週も、土曜、6-7(4-7)、3-6、0-4とタイブレークを逃しての3連敗。いままでも3連敗はなんどもあるけれど、この3連敗も少しずつ進化しているのであります。それは、次に繋がる3連敗と言うこと。そう言うリアルな感覚が確実に身体に残るようになる、そんな進化なんであります。

日曜、2-6、6-2、5-5の、1勝1敗1分け。最後の5-5は、時間前にお仕舞い。あと少し時間はあったけれど、やれば5-6で間違いなく負けていた。こう言う予感が、大事なんであります。 KAI

October 02, 2010

デフレ肯定論者に鉄槌を打て

このニュースが、あまりに大々的に取り上げられないのが、不思議でしょうがないのであります。

 民間企業に勤める人が平成21年の1年間に受け取った平均給与は406万円で、前年を23万7000円(5・5%)下回り、下落幅、下落率とも過去最大となったことが28日、国税庁の民間給与実態統計調査で分かった。平均給与額は9年の467万3000円をピークに減少に転じ、今回は元年の402万円に次ぐ低水準となった。
勤め人はつらい…過去最大23万円の下落 昨年の民間平均給与406万円に 国税庁まとめ


デフレ肯定論者の根拠が、物価安で実質賃金の上昇を言うけれど、この事態をなんと説明するのでありましょうか。物価下落以上の賃金の下落は、生活破綻に直結しているのであります。しかも賃金の下落は、平均値です。人数的に圧倒的多数を占めるのは平均値以下の給与生活者であり、その影響は計り知れないことが、デフレ肯定論者には理解できていません。

これは、もう少し分かりやすく言うと、賃金の下落は当の本人にとって平均値ではなく絶対値の下落ですから、下がった分はそのまま収入が減ります。これに対して物価の下落は平均値であって、身の回りの生活費がすべて下がるわけではありません。例えば家計の多くを占める家賃であるとか生命保険料はそのままでは下がることはありません。

引っ越せばいい、有利な保険に入りなおせばいいなんて言うのですか?

引越しの費用、解約による期間利益の喪失は、いったいどこで補填されるのですか?

大手メディアの記者たちは、100%平均値より上であり、この事態の極めて深刻であることの認識が、決定的に欠けているのであります。平均値より上の、しかも高額と言われるメディアの記者にとっては、ボーナスが減ることはあっても毎月の給与は減ってはいないのであります。だから日常生活においては、痛くも痒くもない。彼らにとって物価の下落は、こちらとしてはまったくもって納得いかないけれど、良いことだらけなんであります。

はてさて、どうしたもんでありましょうか。

「新民主党」。もはやこれしかない。がんばれ、小鳩! KAI

October 01, 2010

コミュニケーション問題の本質に迫る二題

これはたぶん、KAIがいつも考え続けてきたことで、しかし言葉にできなかったことのそのものずばりを、初めて言葉として目にすることができたのではないかと、少々感動しながら思うのであります。

これらの断片的事実から推論される結論は意外なことに「公共性と身体性は相関する」ということである。
書いている私もびっくりである。
身体技法の学習とは、端的に言えば、他者(師匠)の身体との鏡像的同期のことである。
他者の身体に想像的に入り込み、他者の身体を内側から生きるということが身体技法の修業ということのすべてをそぎ落としたときの本質である。
その修業は「どのようにして他者の身体に同期するか。どのように呼吸を合わせるか。どのように筋肉のテンションや関節のしなりを揃えるのか。どのようにして内臓感覚を一致させるか」といった一連の技術的な問いをめぐって進行する。
それらの問いは「どのようにして他者との深く、肌理細やかなコミュニケーションの回路を存立させるか」というふうにも言い換えることができる。
コミュニケーションの回路を行き交う「コンテンツ」の意義や真理性よりも、コミュニケーションの「回路そのもの」が順調に機能しているかどうかを優先的に配慮する人間はたぶん「あの、ちょっと」的な本は書かない。
「あの、ちょっと」な本について


要するに、といつものようには要約できないのでありますが、見事なまでにコミュニケーションの本質を言い当てているのであります。

そして、こちらはマーケティングと言うコミュニケーション問題。

実はこのリリースが今回最大のファインプレーだったかもしれない。ヤフートピックスだけでは一晩のお祭りで終わっていたかも知れないところ、今度はこのプレスリリースがきっかけとなってまたニュースになり、地方紙や雑誌からの問い合わせが急増し、それが記事として取り上げられる、という好循環に入ったのである。

元はと言えば話題作りのためではなく、生保業界の構造的な問題である情報の非対称性に一石を投じたい、消費者が商品について知るべき当然の情報を了知した上で購入の意思決定をしてもらいたいと考えて行った情報開示だった。それがこれほどにまで話題になり、賛同を呼ぶとは。いかに旧来の業界のあり方への不満が溜まっており、消費者が情報を渇望していたかを痛感した。

当たり前のことを、一つ一つ堅実に進める。それが信頼につながり、事業の成長を加速化させる。やはり近道など存在しないということも強く感じた。

今回の一件を機に取材が増え、かつ知名度がこれまでよりは一段上がったことを感じた。12月の申込件数は11月の619件から968件と約5割増の伸びをみせ、ついに1000件の大台が見えてきた。
ネット生保立ち上げ秘話(25)13文字の衝撃 − 岩瀬大輔


こちらは、冒頭の「身体性」のお話とは、まったく別のお話かと言えばさにあらずなのであります。

マーケティングにおけるコミュニケーションの成立条件には、この「身体性」が不可欠であり、この「実感」抜きにした頭だけのマーケティングなどと言うのは、端からありえないのであります。

「一石を投じたい」

比喩でも何でもない。この「身体性」を伴う言葉にこそ、マーケティングと言うコミュニケーションと言うものの本質が隠されているのであり、その本質が、伝える側と伝えたい相手との間における、「身体性」と言う「コミュニケーションの回路」の形成にあると言うことなのであります。

なるほど、そう言うことであったのであります。 KAI