最近のエントリーを読み直すにつけ、なさけない話題ばかりで、これも世間の「大気」の流れとあきらめるしかない。
そんな中で、最近になって、「透けて見える」ことが、あまりに多いのに気がついたのであります。
「透けて見える」とは、その人々の行動や言葉を時系列に並べていくと、その行動や言葉で表明されるものとは裏腹な、真に意図する「意志」なるものが垣間見えてくることを言うのであります。
例えば、村木裁判。世間は検察の失態ばかりに目がいってますが、ずっとここに書いてきたように、元係長の単独犯行とするには、その失うものとのバランスがどうにもこうにも説明できないことと、探して見つけてくださいとばかりに自宅に保存されていた5年も前のFD。この二つの不可解な「事実」から「透けて見える」こととは、検事ごとき木っ端役人に負けてたまるかと言う女高級官僚の凄まじいまでのプライドであります。
もちろん、これだけではありません。仙谷の尖閣問題への稚拙な対応を始めとして、菅、「小」、「鳩」に共通して「透けて見える」のは、先日の代表選会場正面に国旗より上に掲げられた党旗が象徴するように、「国益」よりも「党利党略」優先。民主党の政権存続しか頭にないのであります。
これをおかしいと言っても始まらない。すべて女と言う種の不可解な行動原理が、種の保存の要請に基づくものであって、個々の個体の感情レベル、個性レベルの問題ではないと理解することと、種の保存原理においてこれはなんら違いはないのであります。(ちょっと飛躍^^;)
こう言った「透けて見える」のは、なにも政治や事件だけではないのであります。
本特集で記者が最も伝えたかったのは、「先端技術の発信源が変わった」ということだ。従来は、コンピュータメーカーやソフトウエアメーカーが開発する技術こそが先端であった。LinuxにせよPostgreSQLにせよ、これまで人気のあったOSSは、機能面で先行する商用ソフトを追いかけていた。
クラウド育ちのOSSは違う。クラウド事業者は「自社のために」「欲しい技術が外部には無い」から、基盤ソフトを自らの手で開発してきた。
(「クラウド育ちのOSS」から透けて見えるIT産業の構造変化 )
そもそも「クラウド」とは何かと言えば、その圧倒的コンピューティングパワーに裏づけられたコストパフォーマンス。これが日本では、原価主義による高価格とカスタマイズ前提の、ハイコストサービスに豹変する。
本来「クラウド」は、中小企業にこそメリットがあるはずが、これでは高コストを負担できる大企業にしか普及しない。
なんで日本は万事が万事、こうなってしまうのかは、言わずもがな。「人月」商売しかできない経営者ばかりなんであります。
これを根本的に変えていきたいと言う、私たちのASPサービス。しかし、こちらの「意志」はと言えばなかなか世の中に「透けて見える」とはいかないようであります。
まさにいま、これを変えようとするまっただ中で、週末テニス。
土曜、朝から台風通過の余波が残る小雨。すこしずつこれがあがって太陽が見えるころに、やっとエンジンがかかって、結果は0-6、4-6、7-5と、第3セットで貴重な1勝ゲット。
日曜、太陽が雲の間に見えるから気温はきのうより暖かいとは言え、低め。風もなく絶好のテニス日和、と思いきや、M田さん、きのう厚着してサッカー応援にでかけて午後から急に暖かくなって汗かいてかぜひいて体調最悪。それでも結果は、4-6、6-3、0-6、0-3と、こちらが後半9ゲーム連続のラブゲーム。体調ではなく体力に問題があったようであります。 KAI
国民も、なめられたもんであります。
法律に従っていれば責任を取らなくてもいい官僚を利用して、自らの責任をとろうとしない卑劣極まりない政権を、メディアがこぞって批判していますが、みなさん批判する相手を根本的に間違えている。こんな事態をまねいたのは、昨年の8月30日民主党に投票した、まぎれもないあなた自身なんであります。
要するに、民主党、いや民主党でなくてもいいのですが、現在の政権にこれ以上「期待する」ってことをやめませんかってことです。もういいかげん、ないものねだりを、やめましょうってことです。
よく考えていただきたいのは、あなたがたが政治に求めているのは、いったい何かってことであります。たいへん申し訳ないもの言いになって失礼かとは思いますが、つきつめれば、子ども手当てのような「実利」でしかないのではありませんか?
日本の世界の中の外交的地位であるとか、ロシアとの北方領土問題だとか、日本と言う国が近い将来どうなっていくのか、まるで考えてはいないのではありませんか?
みなさんの生活が一番!
ふーん
それで?
結局、国の将来なんてほったらかして、今のカネまみれの政治を支えているのは、まぎれもない「あなた」自身。
他の人ではない、まぎれもない「あなた」自身なんだと言うことであります。
いまの日本の政治のレベルとは、政権を支持するあなた自身のレベル。
(期待すること自体が間違いの元なんやで)
ほんとに不思議でしかたがないのは、みなさんなぜ、いまの日本と言う、国の「かたち」がガラガラと壊れていくのが見えないのか、と言うことであります。
みなさん、もうすっかり忘れてしまったでありましょうが、つい3、4ヶ月前までの国会。ことごとくの法案を始めとして、一切の議論と言うものが行われず、万事が万事、「説明」と言うものがなされないのであります。
もちろん野党となった自民党もだらしがないけれど、これを許しているのは民主党を支持し続けるあなた自身なんだと、KAIは強く言いたい。
今回の事件もまた、「説明」と言うものが一切ない。ないどころか、「当事者責任」さえから逃避する。これを卑怯と言わずして、一体何を卑怯と言うのか。
政治とは何か。それは「権力」以外のなにものでもないのであります。
この「権力」のすみからすみまでを、国民の利益をはかることには一切使わず、党利党略にすべて搾取しているのが、民主党であります。
そして、この民主党を、あなたは支持する。
なにをかいわんや。 KAI
げに女は恐ろしい。脇の甘い男は、かように女の毒牙にかかっていくのであります。
負けがないと見た瞬間、反転、徹底してたたき始めたのであります。男ならここまでやらない。
と言うことで、前回のエントリーで、今回の「絵」を描いたのが「弁護側」と書きましたが、これが見事「女」が描いたものであることが判明したのであります。
今回検事緊急逮捕のFD。このFD、これがフロッピーディスクの略であることを知らない世代に移りつつある今、実に興味深い事実が浮かんでくるのであります。
報道写真を見ると、元係長が偽造したとか言う公文書は一太郎で作ったもののようであります。官庁のパソコンにインストールされているワープロソフトは、一太郎。元係長の自宅から押収されたこのFDが、役所で作って持ち帰ったのか、自宅にノートパソコンを持ち帰って作ったものかは不明ですが、印刷した現物の紙を見ればこのFDを使って役所のプリンタで印刷したのは間違いないのであります。
ここから、果てしない疑問が次から次へと浮かんでくるのであります。
このFDを使って役所で印刷したのは、2004年6月。これが元係長の逮捕の時に自宅で押収されたのが、2009年5月。なんとまるまる5年間もの間保存されていたものであります。
そして、この逮捕の3ヶ月前には、検察は関係者の逮捕に踏み切っているのであります。
元係長の立場からすれば押収されるとわかっている、証拠となる5年も前のFDをなぜわざわざ自宅に保存したままにしておくのか。普通は逮捕される前に破棄するでしょうが。
そのわけは簡単であります。
証拠として検察に押収させたいがため、これ以外にはないのであります。
逮捕された検事もなさけない。押収時点で、このFDの作成プログラムを見ればよかった。報道写真を見れば一目瞭然、一太郎2008。一太郎2008で、2004年6月に、いったいどうやれば文書を作れると言うのか。いえいえこれはコピーや更新途中で、2004年より古いバージョンの一太郎が書き換わったものと言い逃れをするかもしれない。いまとなってはオリジナルが存在しないので、証明しようがないと思いきや、さにあらず。
FDがコピーでもなんでもいい。上に書いたように、役所のプリンタで印刷したんだから、寸分たがわず同じものが印刷されないとおかしい。なぜならバージョンが違っても同じ一太郎データなら基本的に同じプリントになるからであります。
公印を押した偽造文書は押収されているのだから、この二つを光にすかして較べてみるのは簡単なんであります。
え、役所のプリンタが当時のものがないからダメだって。役所ですから、購買記録も万全。当時のプリンタの機種なんかすぐ分かるんであります。もちろん当時インストールされていた一太郎のバージョンも含めてであります。
まず間違いなくスペースの位置が微妙に違っているはず。だって2009年2月に作ったんだもん。
さてここで百歩譲って、この押収されたFDは、2004年6月作成のオリジナルとしましょう。もちろん作成日は6月8日であったものを、前回のエントリーに書いたとおり検察を罠にはめるために6月1日1時14分32秒に作り直したものかもしれない。
このロジックも石井一のゴルフ場と一緒であります。凛の会からの催促の日付とFDの日付の間に矛盾が生ずるようにするってことであります。逮捕前であれば、公人でないかぎり、5年も前のスケジュールをいじるなんて朝飯前。実は会からの働きかけは5月31日だったものを、6月8日と供述。この場合は、FDを操作する必要はさらさらない。
6月8日の働きかけを示す動かしようのない供述以外の証拠が残されていたとすれば、FDの日付をいじるしかない。
こうしてまんまと押収させたFDを前にして、当然のように検事は証拠として使えないじゃないかと、途方に暮れたのであります。裁判所にも証拠申請はできなかった。
押収から3ヵ月後、元係長に返却する直前、検事はぶつぶつと言いながらなにやらパソコンをいじり始めた。
ほんとにまんまとはめやがって。この6月1日は、絶対に6月8日なんだよ。こうすれば、ほら6月8日になっただろう。どうせ証拠として使えないんだから、いいだろう。
でもね、すでに無罪が確定してしかもこのFDは元係長のもの。それをなんで女が手に入れねほりはほりやるのか、このことだけをとっても、自分の無実を証明する証拠を壊された女の恨みの念を感じないわけにはいかないのであります。
かように女は恐ろしいのであります。男は自分が脇が甘いと自覚するなら、こう言う女をお縄にしようなんて、ゆめゆめ考えてはいけないのであります。 KAI
もしこの記事がほんとだとすれば、バカとしか言いようがない。だれがって、言うまでもありませんが。
菅直人首相の「新成長戦略」は財務官僚主導により制作された増税正当化のための「計量経済モデル」で誘導されている。
8月29日の日曜日、内閣府計量分析室はそのインターネット・ホームページの「経済財政政策関係公表資料」コーナーの「計量経済モデル資料」にさりげなくある資料を追加した。「経済財政モデル(2010年度版)」と銘打ってあるが、「新成長戦略」と財政健全化シナリオ「財政運営戦略」を動かす羅針盤のようなものである。
計量モデルの内容はいかにも高度で専門的で、思わずすっ飛ばしたくなるが、「乗数効果」さえ理解すればどうってことはない。乗数効果とは財政支出や増減税の結果、どれだけ景気や財政収支上の効果があるかという予測値で、財政の指針になる。「官僚の中の官僚」である財務省が並み居る官庁エコノミストたちをけ散らし、計量経済モデルを采配(さいはい)するゆえんである。菅首相は財務相時代の1月下旬、参院予算委員会の質疑で乗数効果について答弁できず、立ち往生した。以来、菅氏は財務官僚に操縦されるようになった。
くだんの計量モデルを見ると、いかにも増税論者に都合のよい乗数効果が満載されている。公共投資を減らしても増税しても国内総生産(GDP)はさほど減らず、財政収支が改善に向かうという基調で一貫している。焦点になっている消費税については、2%ずつ引き上げると、消費者物価は1・3%以上押し上げられ、公債発行残高は5年目にはGDP比で実に4・61%分も減るという具合である。1%程度の物価上昇による脱デフレ、増税と成長の両立と財政再建をうたい文句にする菅首相がこのシナリオに飛びつくのも無理はない。
この計量モデルについては、1月5日、当時の鳩山由紀夫首相が宍戸駿太郎筑波大学名誉教授らの批判を受けて、内閣府に見直しを命じたいきさつがある。内閣府モデルは、宍戸教授が米ペンシルベニア大学の計量経済学の大家、L・R・クライン名誉教授と共同開発したモデルやその他の有力民間経済研究機関のモデルが示す乗数効果に比べて、増税、財政支出削減による経済へのマイナス効果を極端なまでに低く見積もっている。鳩山首相が退陣に追い込まれると、内閣府はほんのわずか微調整しただけで、以前とほぼ同じモデルを菅内閣に受け入れさせた。
計量モデルというものは前提条件をいじるだけで乗数効果の予測は大きく変えられる。自民党政権時代の大物首相は時折、口をはさんだ。今や脱デフレ政策の道標になるのだから、いち早くその適否を外部の専門家に問い、欠陥を直し信頼性を向上させるのが国益というものである。なのに菅首相は官僚任せにして批判を黙殺し、既成事実化をもくろむ。
1997年の橋本龍太郎内閣による消費増税やその後の事実上の所得増税、引き続く公共投資削減など緊縮財政のもとで、デフレが慢性化し、税収が減り続け、雇用も財政も悪化の一途を辿(たど)ってきた。増税により日本を元気にできるという計量モデルが正しいことが証明されるなら、まさしく驚天動地、ノーベル経済学賞ものだが、日本はあと何年ものそんな常識外れの実験をしているゆとりなど残ってはいない。狂った羅針盤のために日本という巨船はデフレの大海で漂流を続け、沈む恐れのほうが強いのだ。
(【経済が告げる】編集委員・田村秀男 狂った羅針盤)
それにしても、この話で何が問題かと言えば、官僚。決して「責任を取らなくていい」からこんなことができる。
モデルを恣意的に操作することは、誰でも簡単にできる。しかし、この結果に責任を伴うから、普通の人間はやらないし、やれない。
ところが、官僚にはこの責任を取らせるかっこうの存在がいる。閣僚であります。今回は、首相ですからもうこれは完璧なんであります。もちろん、官僚自身、これっぽっちもモデルなんか信用してはいないのであります。国家財政の危機に取り組んだと言うアリバイ作りさえ完璧なら、結果はもうどうでもよろしい。
なるほど、こう考えると、官僚に責任を取らせる唯一の方法、日本国の破綻。もうこれしかないのであります。
こう考えると、やっと民主党と言う政党の役割が見えてきた。日本と言う国の「破綻請負人」であります。官僚主権から国民主権への「民主的」移譲方法は、もはやこれしか残されてはいないのであります。
これなら、なんでこんなぼろぼろの民主党を国民が支持し続けるのか、まったくもって理解、納得できるのであります。
と言うことで、こちらは破綻阻止の週末テニス。
9月も後半になって、やっと収まってきたけれどまだまだ、暑い。
土曜、6-4、4-6、0-2と、ネモトくんの替わりにこの組み合わせ初めてのサコタくんが入って、がぜん面白くなった。なにごとも新鮮が一番なのであります。
日曜、6-7(8-10)、0-6、4-3と、こちらも体力が戻ってきて、ゲームも拮抗。面白い。炎熱の夏をひたすら凌いだあとに、しあわせはようやく顔を出すのであります。 KAI
今週末連休中に密かに行われる小鳩会談で、すべてが決まる。
この会談を受け、すでに「政権」はこちらにあるとの「御旗」のもと、「小」を支持した200人全員の囲い込みに入るのであります。
案の定、ことごとくの新たな党の役職への固辞は、その「意志」表示であることはいまさら言うまでもないのであります。
そして10月某日、新党「新民主党」発表。党首「鳩」、幹事長「小」、所属議員200人の大所帯であります。以降、野党と連立のうえ、倒閣、新政権樹立。もちろん新政権に「小」の名はない。メディアの「政治とカネ」批判封じ込めに陰に撤して「実」を取る作戦であります。
年明け議員数で配分される政党助成金が振り込まれる2月、一気に総選挙であります。ここで与党自民党と選挙協力のもと、旧民主党を壊滅に追い込む作戦であります。
代表選敗北ではらわたが煮えくり返っている議員達の「熱い」心には、これは強烈であります。一気に鋼のような結束がうまれるのであります。
よかった。これでやっと閉塞状況に風穴があく。久しぶりに心地好い週末を迎えることができるのであります。 KAI
NHKの番組クローズアップ現代で、いまごろなぜか「ダークマター」が話題に。
既存実験の100倍の検出感度
ダークマター直接探索実験は世界中で行われており、激しい国際競争の中にあります。図6はダークマター探索実験の感度をダークマターの質量を横軸、ダークマターと核子の反応率を縦軸として示したものです。青と緑の線は既存の実験による検出感度、黄色い丸は特に可能性が高いと考えられている部分です。XMASS実験では、既存のダークマター探索実験の100倍の感度を持ち、いち早く超対称理論で予想されるパラメータ領域(グレーの領域)に大きく踏み込み、直接探索によってダークマターを発見する可能性が大きいと考えられています。
(XMASS(エックスマス)実験)
そしてこれが準備が整いいよいよ10月から実験開始、開始早々「ダークマター発見」の期待が大きくふくらむのであります。
そもそもダークマターって何って方のために、こちらも引用。
宇宙で目に見える物質はたった4%
宇宙が何でできているかを調べてみると、われわれが知っている、陽子や中性子など”目に見える”(観測されている)物質は全体の約4パーセントにすぎません。その5〜6倍は未知の物質(ダークマター)が占めていると考えられます。残りはダークエネルギーと呼ばれている正体不明のものです(図1)。これまで観測に利用されてきたのは、光やX線、赤外線などの電磁波ですが、”暗黒”物質というのは、電磁波での観測では見ることができないため、”暗黒(ダーク)”という呼び名がついています。ダークマター存在の証拠はいくつもある
ダークマターは様々な観測からその存在が示唆されてきました。1970年代後半、渦巻き銀河の回転速度分布を観測し、銀河内の明るい星や星間ガスではない、光では観測できないが重力を感じる物質の存在を立証しました(図2)。また、非常に重い物質(すなわち大きな重力)があると光が曲げられる、という「重力レンズ効果」からもダークマターの存在を示す証拠が得られています。
(ダークマターとは?)
決して目で見ることのできない物質と未知のエネルギーで、夜空一杯に拡がるこの宇宙の大半が満たされている。考えてみれば、なんとも不可思議であり、想像力を激しく刺激するのであります。
そして、思うのであります。同じことが私たちの意識の世界にもあるのではないかと。
私たちの意識の世界とは、実は大半が「無意識」の世界であることはよく知られている事実であります。しかしこれがなぜそうなのかは、誰も説明できない。
これがもし、私たちの意識の世界が宇宙の世界と同形であるとするならば、宇宙と同様意識することのできる(観測できる)世界はほんの数パーセントで、残り大半がダークマターやダークエネルギー同様、決して意識として顕在化されることのない世界でありながら、一方でしかし意識と言う世界の存在となりたちそのものを強く支配していると言うことであります。
かように考えると、また一つ、あらたな視点が見えてくるのであります。
それはすなわち、今まで無意識をいかにすれば意識化できるかばかりを考えてきたけれど、これはまったくもって無意味であるかと言うことであり、そうではなく「無意識」そのものをそのまま受け入れ、「無意識」がもつ強大なるポテンシャルエネルギーの世界に意識の世界の中心を置くと言うことであります。座禅であったり瞑想であったりは、すべてこのためのもの。
これが自然に、無意識に、できる。
このとき、人は、内なる世界に強大なるパワーを秘めることができるのであります。 KAI
人の行為や言葉なんてもんは、それをどんな言葉で着飾ろうと、時間と言う証人の前では答えは一つしかない。それは、ウソであったか、ホントであったかと言うこと。
例えば、村木裁判における元係長。
この元係長が、いまから5年後、いかなる組織でいかなる地位にあるか。これを見るだけで、この裁判における証言が、ウソかホントか、一目瞭然となるのであります。
これは、民主党のマニフェストも同じこと。にもかかわらず、1年と言う時間がたって結果が出た今になってもなおウソを通そうとするのは、よほど国民はバカ、つまり、どうせ覚えてなんかいないと、考えているに違いないのであります。
ま、これは受けた恩を平気で忘れる(世間はなぜデフレの恐怖が理解できないのか(2))国民だから、半分以上は当たっているわけではありますけれど。
中国もまた、これにはまことにもって強かなんであります。
日本の大使を休日の深夜零時に呼びつける目的は、尖閣諸島の領土略奪。
いわゆる、難癖。ついこれまではこれが武力で行われていたけれど、さすがにいまはできない。替わりにありとあらゆる機会を利用して、仕掛けてくるのであります。もちろんこれも、20年後、国連の見事中国領土とのお墨付きを得て、メディアも国民もなんでだろうと憤慨することだけは忘れないのであります。
と言うのはちょっとオーバーですが、かようにメディアも国民も、そろいもそろって時間軸上でものごとを考えると言うことができないと言うか、大の苦手なのであります。
これがなぜかと言うと、日本語独特の叙述的思考方法にあると、KAIは考えています。
語順の制約を受けない日本語には、過去も未来もその区別はありません。すべては絵巻物の世界として、今の中に空間的に配置されます。この意味では確かに日本人は「水平的」です。対する漢文や英文の世界では、語順と言う時間的配置こそ、その意味の根幹を成す。まさに思考のレトリックとしての、言語のその特性があるのです。
(レトリックとしての自虐と悲観)
そして、「悪人」を懲らしめるために厄払いの週末テニス。
台風のおかげで朝方はずいぶん涼しくなったと思いきや、日中はまだまだ厳しい。土曜、6-4、2-6、2-1。日曜、6-0、4-6、0-6、4-2。ゲームの結果も、ねんざした親指とともに、すこしずつ回復の兆しが見えてきた。あともう少し。 KAI
まったくもって、甘い。
今回の村木裁判における検察は、見事なまでに弁護側の描いた「絵」にまんまとはめられてしまったのであります。
すなわち今回は、弁護側のシナリオ通りの判決であり、そのシナリオとは、公判における検察の挙証根拠となる供述調書の全面否定による無罪獲得であります。
しかし、公判で翻した係長の証言どおり、係長の単独犯行とすれば、係長と凛の会の直接の接点が示されなければならないし、たとえ接点があったとしても係長にとって公文書偽造は間違いなくクビがとぶ重大犯罪。しかも生涯を保証された中央官庁の係長と言う一公務員が、この程度の接点で自分の人生を棒に振るようなリスクをとったとはまったくもって考えられないのであります。
ゆえに、事実は検察側が描いた「絵」のとおりであると、KAIは思うのであります。
これは、この事件のできごとを時系列にならべたものですが、今回の弁護側のシナリオは、2009年2月の広告会社社長逮捕直後に練られたものに違いありません。(障害者団体向け割引郵便制度悪用事件、Wikipedia)
- 2009年2月 - 大阪地検特捜部が、広告会社の社長らを逮捕。
- 2009年4月 - 大阪地検特捜部が、大手家電量販店など広告主や凛の会の関係者を逮捕。
- 2009年5月 - 大阪地検特捜部が、厚生労働省元係長、郵便事業株式会社関係者を逮捕。
- 2009年6月14日 - 大阪地検特捜部が、村木厚子・厚生労働省雇用均等・児童家庭局長(不正当時社会・援護局障害保健福祉部企画課長)を逮捕。
- 2010年9月10日 - 村木に無罪判決。
このままいけば、凛の会、石井一、厚労省元部長、村木、係長すべてが手繰り寄せられる。そこで出た結論は、係長の単独犯行。例の押尾の「お前の面倒は一生おれがみる」であります。初犯ですから当然執行猶予。厚労省のいきのかかった組織で面倒見ればいいだけです。村木もともだおれなら、これができなくなるわけであります。
そこで打たれた手は二点だけ。
まず一点目。係長が逮捕されたとき、弁護士から「被疑者ノート」を差し入れるので、これに取り調べの内容を毎日記述する。そして最後に必ず「調書は作文」と入れること。これによって、公判で供述調書否認の根拠となる。
二点目。凛の会元秘書が石井一に接触した日付を、石井一のアリバイのある日に変更する。元秘書のスケジュールの記録なんて自由に改ざんできる。
この二点において、見事村木の上と下の接点が切れるのであります。
それにしても、検察は甘いと言わざるを得ません。
最初から組織防衛のため、係長が供述を翻すなんて、簡単に予想できたこと。石井一だって、はいそうですかなんて素直に認めるわけがない。
これを前提に、逃げても追い詰めるだけの証拠固めをやるのは、検事だったらあたりまえなんであります。
すなわち、係長の供述調書に凛の会の接点に関する内容を盛り込む。単独犯行と供述を翻したとき当然直接凛の会との接点があるはず。それを肯定、否定どちらでもいいのであります。肯定する供述ならそのまま採用。否定なら、凛の会のメンバー一人一人の写真を見せながら面識のあるなしの供述で十分なんであります。
この供述が「調書は作文」となりえないのは明らかであります。面識のあるなしを検事が作文する必然性は皆無だからです。
では、石井一の接点はどうなるのか。当然石井にアリバイのある日を言ってくることを前提にすれば、その日の元秘書自身のアリバイとなるスケジュール表の前後の確認です。もちろん古い記録ですから出てきません。おかしいですね、なぜその日だけがはっきりしているのか。当然です。それが作った日だからです。
ですから、もちろん元秘書が自信をもって言った日付は採用しません。いついつ頃に会った、で十分なんであります。
そうすると石井側は大変なんであります。千葉のゴルフ場のアリバイが無力化するのであります。
係長が作成した文書の日付が6月1日。凛の会から催促したのが6月8日。この証言もまた同じ構造。なんでそんな昔の日付が簡単に特定できるのか。あくまで日付の範囲で供述を取っておけば何の問題もないのであります。(文書のコンピュータ上の日付の改ざんなど朝飯前なんですけどね)
検察の甘さの構造とは、要するに「絵の描き過ぎ」につきるのであります。
公判で供述を否認されても耐えるだけの「供述調書」。これこそ、真に罪を犯した者にとって恐怖の調書となるのであります。すなわちどっちに転んでも「証拠」になってしまうからです。
鈴木宗男とあわせて「国策捜査」と批判する人々が、いる。
当然であります。真実は、当事者のみしか知らないのですから、これをなんとでも批判できるわけであります。この批判に耐える検察の捜査とは、「真実の立証」でもなんでもない。愚直なまでの当事者の証言の「裏づけ」捜査以外にはないのであります。
ここで検察が犯す失敗は、罪を犯したとする証言の「裏づけ」捜査は一生懸命やるけれど、犯行を否認する証言の「裏づけ」捜査を一切やらないし、証言自体採用しないことであります。
あれ?
おかしいんじゃない?
それでは立証できないんじゃない?
それでいいのであります。立証できなければ不起訴にすればいいのです。それを起訴することこそ「国策捜査」の誹りを免れないし、たとえ公判で供述を翻されても、その裏づけ捜査がなされていれば、こわくもなんともないのであります。
「冤罪」の根絶。
これは、あなたにとって、決して「他人事」ではないのであります。 KAI
ものごとの大きな流れと言うものは、結局のところすべて一つに繋がっている。
いまなぜこんな時代に、こんなアホーな人間達が跋扈して世の中をめちゃくちゃにされなければいけないのか。四則計算、いや足し算引き算さえまともにできない人間に経済のかじ取りをやらせるようなデタラメに、いったいぜんたいなぜなってしまったのか。この意味をKAIは、ひとしきり考え続けていたのであります。
そんなとき、この文章に出会って、これがなぜか脳裏にひっかかって、しかし、それがなんであるかわからなかった。
釈尊もキリストも、人間が生きるためには他の人のことをも思いなさいと教えられている。そこには忍耐と寛容そして慈愛が必要である。
最近、私はアメリカでベストセラーとなったグレッグ・モーテンソンとディヴィッド・オリバー・レーリンの著「スリー・カップス・オブ・ティー」を読んだ。実はこのティーは大切な人間関係を教えたものであった。タイトルに「一杯目はよそ者、二杯目はお客、三杯目は家族」とあり、最初は「はてな?」と思った。舞台はパキスタンのカラコルム山脈から始まる。ペルシャには「暗いときには星が見える」という諺(ことわざ)がある。作者は山で遭難し、地元の小さな村のシェルパとポーターに助けられたことから、この貧しい村に学校を建てて、小さくても未来への星をたくさん育てようと奔走するのである。しかし、よそ者が村に学校を建てたいという夢を持っていても、その村の部族の人々に話を聞いてもらい、信頼され、迎え入れられることは大変厳しい。
だけど作者は忍耐と寛容の中で一杯目のティーをいただくことになる。そして、打ち解け合い、必要な人と認められたときにはじめて賓(ひん)、すなわち客として二杯目の茶をいただく。茶道の教え、賓主互換である。最初の茶は探り合い、価値観を共有できるかという試しの茶であった。そして、時を経て三杯目を振舞われるが、家族と同様にすべてを許容されたという実証の茶であった。たった三杯のティーで人間関係の絆(きずな)をつくるという、この地域の茶の意義の深さを知った。このことにより、国柄や生活習慣は変わっても、一杯すなわち一●(いちわん)のお茶の功徳は共通しており、そこに生まれる心の交流の大切さをしみじみと感じた。
マザー・テレサの言葉がこの本にも述べられていた。「心配したり、怖がったりしてはいけません。すべては過ぎ去っていきます。神は変わりありません。忍耐はあらゆることを成し遂げていきます」。私たちは今日から昨日へと後ずさりはできない。明日に向かっておそれず前に進んでいかねばならない。でなければ何もできないし進歩もない。
そして何事にも辛抱が必要である。また単なる自己の欲望にのみとらわれていては人生の意義を見失ってしまうことになる。人間は共に苦労し、協力し合ってこそ良き芽が育つのである。(せん げんしつ)
●=怨の心を皿に
(【一服どうぞ】裏千家前家元・千玄室 「家族」をつくる三杯の茶)
しかし、どうやらそうではなかった。
そうではなく、答えはこの文章の引用冒頭の「寛容」であり「慈愛」の方にあったのであります。ただ耐える意味での「忍耐」ではないと言うことであります。
そしてであります。この文章の中でもっとも重要な部分が、これ。
「一杯目はよそ者、二杯目はお客、三杯目は家族」
みそくそ一緒にしてはいけないのであります。
大変だよね。
でもやりがいがあるよ。
とても大切な仕事だよ。
がんばっておやんなさい。
お客様に喜んでいただくこと。
それが一番大切なんだよ。基本は自分がしてもらいたいことを相手にもしてあげることなんだよ。
相手の立場になって考えるんだよ。
経営でも人生でも同じなんだよ。
([書評]小倉昌男 経営学(小倉昌男)、経由、経営者は何によって記憶されるか――追悼・小倉昌男)(小倉昌男の言葉)
そうです、いまなにをやらなければならないのか、これで明確に見えてくるのであります。すなわち、「よそ者」には一杯目のお茶を振舞い、「お客」に二杯目のお茶と、段階をふんで「人を幸せにする」ことなんであります。
そして相手は一人二人ではない、社会そのもの。社会の中の一人一人とかかわり「峻別」していく「忍耐」。これが、マザーテレサの、この言葉の意味なのであります。
「心配したり、怖がったりしてはいけません。すべては過ぎ去っていきます。神は変わりありません。忍耐はあらゆることを成し遂げていきます」
と言うことで、今週もまた週末テニス。
なるほど考えてみれば、こちらも何十年もよく続いたもんだと思う。「家族」や、たまに「お客」も入って続けることができたのは、「慈愛」の賜物。
9月に入ったとは言え、炎熱に衰えはない。土曜、超のつくスローペースで、3-6、5-7の2セットでお仕舞い。
日曜、同じく6-1、2-6、3-3と第3セットの途中で時間切れ。
あとはアンジェロの生ビール。ですが、本日は夜娘が手作りの料理をご馳走してくれるので、お昼はひかえめにであります。
そして帰宅後、誕生日のプレゼントだと言って娘にもらった焼酎のぐい呑みで二人で乾杯。これがまた美味い。出てくる料理もこれまた美味いから、ぐいぐい飲んでけっこうよっぱらったけれど、たまにはこれもいいのであります。
いつのまにか、ざぶとん枕にうたたね。いまやむなく離れ離れに住んでいる家族だけれど、心は一つだと、夢の中で思ったかは定かではありませんが、これもまた「幸せのかたち」なのであります。 KAI
小沢の政治とカネ問題で、いまだにメディアによる偏向報道を問題にする人がいるけれど、彼らも小沢本人も一向に説明しようとしないのが、事業家でもなんでもない一個人が自宅に10億、20億単位の現金を持っている事実であり、税務上を含めて公的チェックのないままなぜそんなことが可能になるのか、たとえ可能であったとしてもなぜそんなことが必要なのかってことの説明であります。
ましてや遺産相続とかの現金は、低金利前のお話で、数千万の利息をふいにしてまで現金で持ち続けたとは、到底ありえないし考えられないのであります。
まさに、彼らの説明からこの部分がぽっかりと抜け落ちている、見事なまでのブラックゾーンな問題なのであります。
当然のように、これが説明できないのは、説明できない事情があるからであって、これ以外のなにものでもないことは、世間は承知の助。この意味で、ある意味、民主党内部でこの問題が「タブー化」していたわけでありますが、代表選は民主党議員がこれを正面切って話題にすることをタブーでなくした画期的機会となったのであります。
そしてこの代表選。二人にそれぞれ期待するだの期待はずれだの、もはやこんなレベルでの議論に堕するしかない方々には、ぜひとも気づいていただきたいのであります。
それは、そもそも1年前の総選挙で民主党を選んだ人たちが、1年経ったいま、普天間問題やオーバーキルによる経済危機といった民主党政権がもたらしたこの国の混乱に、まったくもっていまだ始末をつけようとはしない、その「心の姿勢」の問題であります。
わかりにくいもの言いですまない。
要するに、民主党、いや民主党でなくてもいいのですが、現在の政権にこれ以上「期待する」ってことをやめませんかってことです。もういいかげん、ないものねだりを、やめましょうってことです。
よく考えていただきたいのは、あなたがたが政治に求めているのは、いったい何かってことであります。たいへん申し訳ないもの言いになって失礼かとは思いますが、つきつめれば、子ども手当てのような「実利」でしかないのではありませんか?
日本の世界の中の外交的地位であるとか、ロシアとの北方領土問題だとか、日本と言う国が近い将来どうなっていくのか、まるで考えてはいないのではありませんか?
みなさんの生活が一番!
ふーん
それで?
結局、国の将来なんてほったらかして、今のカネまみれの政治を支えているのは、まぎれもない「あなた」自身。
他の人ではない、まぎれもない「あなた」自身なんだと言うことであります。
いまの日本の政治のレベルとは、政権を支持するあなた自身のレベル。
つまりは、そう言うことなんであります。
一方で、そんなことは関係ないお話ではありますが、いままでの「定説」がくつがえるようであります。
『がんや感染症かかりにくい』
「血中のコレステロール値が高い方が長生きする」。日本脂質栄養学会(理事長・浜崎智仁富山大和漢医薬学総合研究所教授)は、三日に愛知県犬山市で開く同学会で、こんな内容のガイドラインを発表する。コレステロール値をめぐっては、日本動脈硬化学会(北徹理事長)が「値が高い人は動脈硬化になりやすい」と正反対のガイドラインをつくっていて、医療分野の常識となっていた。
投薬治療や食事療法の目安となる二つのガイドラインが相反することにより、現場の医師が混乱する恐れがある一方、病状に応じ治療法の選択肢が広がる可能性がある。
新たなガイドラインでは延べ十七万人の病気などの死亡率を、総コレステロール値が「一六〇〜二〇〇未満」の人とそれ以外の人とで比較。「一六〇未満」の人は男性が一・六倍、女性は一・四倍と高かった。「二〇〇以上」は女性に差がないが、男性は低かった。
また、悪玉と呼ばれるLDLコレステロール値でも、原因別の死亡率について分析。心疾患では、値の高い男性が低い男性に比べて死亡する率が約二倍となったものの、心疾患以外では逆に値が高い方が死亡率が下がる結果が出た。女性は、心疾患でも死亡との関係が見られなかった。
一方、日本動脈硬化学会のガイドラインでは、総コレステロール値の目標を「二二〇以下」としている。高LDLコレステロールについても危険因子だとして摂取を控えるよう指導している。
浜崎理事長は「総コレステロールが高ければ、がんや感染症にかかりにくい。医師は迷うかもしれないが、新しいよりどころとしてほしい」と新たなガイドラインの活用を呼びかける。 (山田晃史)
(コレステロール『高い方が長生き』脂質栄養学会 きょう指針発表)