April 30, 2010

テレビとは「意識の中の街の風景」(3)

ここにも、大きな犠牲を払って、この一連のお話をやっと理解した人、と言うかリクルートと言う会社の経営者の面々がいました。

 リクルート事件で自民党単独政権が崩壊し、その12年後に小泉純一郎首相が誕生しました。竹下内閣退陣後、9人の方が首相に就任し政局が混迷を極めたことは、私が「政界によかれ」と思ったことが裏目に出てしまい、慚愧(ざんき)に耐えない思いを今も抱いています。それは生涯背負っていく負い目だとも思っています。

 東京地検特捜部には恨みがましい思いは抱いていません。特捜の使命は大きい。ただ取り調べは参考人も含めて全面可視化でなければならないと思います。

 リクルートの私の次の社長は一切メディアに出ない。その次の社長も出ない、今の社長も出ない。リクルートの売り上げは今や1兆円を超えているんです。その社長の名前、わかります? メディアに一切、出ませんから。江副がメディアに出ていたことを彼らは学習したわけですよ。
(中略)
 江副浩正(えぞえ・ひろまさ) 昭和11年大阪市生まれ。73歳。昭和30年甲南高校卒、35年東大卒。同年にリクルートの前身、大学広告を設立。59年には社名をリクルートに変更。63年リクルート会長退任。平成元年NTT法違反(贈賄)容疑で逮捕され、15年東京地裁で執行猶予付きの有罪判決を受けた。現在は江副育英会理事長。著書に「リクルート事件・江副浩正の真実」など。
【詳説戦後・政治とカネ】(3)江副浩正氏インタビュー「事件後の政局混迷、慚愧に耐えぬ」 (2/2ページ)


江副浩正。今の20代からすれば、誰それ?なんて言われてしまいそうですが、今で言えば、楽天の三木谷10人分くらいの有名人であったのであります。

この江副が、インタビューに答えているように、メディアを通して政界に深くかかわるようになる。テレビに写ることで、知らず知らずのうちに自分の姿を肥大化させていったのであります。

昔の人は、この危険性を本能的に理解していたのであります。いわく「写真に写ると魂をぬかれる」と。これが、写真がテレビに移って人々の本能が働かなくなってしまった。

この「魂をぬかれる」感覚は、人の生きるチカラ、すなわち生命力の源泉に関わる、きわめて重要な能力であります。

生命力とは、自分と言う個体の中にあるのではない。ほとんどの方々はこれを勘違いしている。朝、起きて、さあやるぞと、なんでやる気が出るかと言えば、それは他者との関係が良好であるからであります。これが良好であればあるほど、自分の生命力を感じる。

逆に言えば、人は、他者から生命力を吸い取って生きているとも言えるわけであります。テレビとは、視聴者と言う他者に生命力を吸い取られる、そう言うメディアであるのであります。

このメディアの中にあって、さんまやタモリがなぜ生命力を吸い取られ尽くされることなく、かくも長い間タレント生命を保つことができるのか。これは彼らが、一般人や他のタレントの参加番組の司会者であることにヒントがあるのであります。

つまり、さんまやタモリは巧みに、自分自身の持つ生命力ではなく、番組に出ている他の一般人やタレントの生命力が視聴者に吸い取られるように仕向けているのであります。ですから、番組に参加する一般人はもちろん毎回変わっていくし、タレントも常に生命力のある若手に変えていくことを繰り返しているのであります。

これから已むを得ず、テレビと言うメディアとお付き合いしないといけないことになった方にとって、このお話は大いなる参考になるはずです。

すなわち「裏方に徹する」であります。たとえインタビューを受ける場合でも、インタビュアーを立てて立ててを徹底することであります。決して主役になってはいけないのであります。テレビとは、危険なメディアであると心すべしなのであります。ま、そう言うこと。 KAI

April 25, 2010

便秘とはエントロピー問題だよ週末テニス

いきなりですが、「便秘」問題であります。さいわいにして、KAIはこれに悩まされた経験はありませんが、世の中の多くの、特に女性における、重大なる悩みなのであります。

今回、これについての、形而上学的考察なのであります。

形而下的対処療法は、ちまたあふれておるのでありますが、おそらくこれは人類史上初めての形而上学的アプローチではないかと、思うのであります。と、もったいぶった前置きはこれまでにして、本題。

本来であれば、まず、便秘とは、いかなる状態を言うのかといった議論から始まるのでありましょうが、すべてパスして、今回の結論。

それは、エントロピーの法則における自然の摂理なのであります。

つまり、生命とは、エントロピーの法則に則って言えば、無秩序の中の秩序であるわけでありますが、排泄とは、秩序から無秩序(排泄物)を排出することで秩序を保つ働きであります。

また勇気をくれる本に出会いました。ものづくり魂(サンマーク出版、井深大、2005)です。ホンダ、ソニー本にはいささか筆者も「でつくし感」があって、本屋の平積みにあってもほとんど手に取らないのに、今日はなぜか見た瞬間、便意が^^;;。

この現象を解説しますとなぜか筆者の場合(カミさんの場合ビデオでそうなるとの証言あり)読みたい本に出会うともよおすのですが、毎朝愛犬リキの行動と同じでこの現象に納得しています。リキと毎日5年間海外出張中以外の早朝大陸横断鉄道くらい散歩してきたのですが、必ず、リキはおいしそうなにおいのところでよだれを垂らしながらおもいっきりデッカイうんちをします(リキはゴールデンですので人間並み^^;)。

つまり、生き物は自分に意味がある情報に出会うと、負のエントロピーを吸収するために、それに見合うウンチと言う正のエントロピーを排泄すると言う、まことにもってみごとに情報理論どおりの行動をする、これは実証的事実以外なにものでもありません。
ものづくり魂と負のエントロピー


5年前のエントリーですが、人(リキもか)が、有用な情報に会うと便意を催すのも、より秩序を生みだす働きであるといえるわけであります。

しかしここで注意しなければいけないのが、「便意」と「有用な情報」との間にあると思われる順序関係であります。これは便秘状態にあっては、「便意」の生じないことが最大の悩みであるわけでありますが、この順序関係の対偶を考えると、「便意」がないから「有用な情報」がないとなるわけであります。

つまり「有用な情報」がない、とはすなわち「有用な情報」を欲してないということであり、すでに「情報過多」なわけであります。この「情報過多」がストレスからきているのかどうかは分かりませんが、便秘との関係からこう考えれば、便秘解消方法は一目瞭然なのであります。

すなわち、頭の中を大掃除すること、頭の中が空っぽになるまでリフレッシュすること、これしかないのであります。

そのための方法は、もちろんひとそれぞれ。スポーツをして思い切り汗をかく。森林浴をする。南の島で一人バカンスを楽しむ。なんでもいいから、頭の中を空白にする。すると自然に便意はやってくる。信じるもののみ、救われるのであります。

と言うことで、快便快食の素週末テニス。

今週のメンバーは、土日とも、Y木さん、O谷さん、ネモトくんといつものスーパーレギュラーメンバー。であるからして、展開もまったく似たようになる。

土曜が、6-0、1-6、5-7、2-1。日曜、6-3、3-6、1-6、4-3。勝って、負けて、負けて、勝って。もうこのメンバーで長い間やっていると、もはやみなさんそれぞれ芸の域であります。まさにこれこそ、至福のテニスなのであります。 KAI

April 18, 2010

今なにが起きようとしているのか週末テニス

新党が続々とできている。「創新」は、中国語で「イノベーション」の当て字だそうですが、大化の「改新」、明治「維新」ときて、平成「創新」とは、なかなかうまいもんであります。

それにしても、世の中これからどうなっていくのか。もちろん神様でも何でもありませんのでわかりませんが、予知能力のフォースに身をまかせれば、おのずとこれも見えてくるのであります。

すなわちそれは、「政治のオープン化」以外にはないのであります。1980年代に始まったパソコンによる「コンピューティングのオープン化」を皮切りに、1990年代の「経済のオープン化」いわゆるグローバリゼーション。そして2000年代のインターネットによる「コミュニケーションのオープン化」と、世界中で「オープン化」の嵐が次々と襲来しているのであります。

そして、2010年代、世界中を「政治のオープン化」の嵐が襲うのであります。先陣を切るのが、わが日本。

「オープン化」で何が起きるのか。それは、「地位」の逆転であります。

「コンピューティングのオープン化」は、「メーカー」と「ユーザー」の地位が逆転し、ついでに「ハードウェア」と「ソフトウェア」の地位も逆転した。「経済のオープン化」は、「メーカー」と「消費者」の地位が、「コミュニケーションのオープン化」は、「メディア」と「消費者」の地位が、すべてにおいて逆転してしまったのです。

では、「政治のオープン化」で何が起きるのか。それは、「政治家」と「市民」との間の地位の逆転であります。

わかりにくい話ですまない((C)ウチダ先生)。

「政治家」は、選挙に落ちれば只の人。ですから、選挙に勝つためだったら、何でもやる。ポピュリズムと言われようがなんだろうが、違法でないかぎりなりふりかまってはいられないのであります。むかしもいまも、なんら変わりはない。しかし一旦選挙に勝てば、絶対的権力を持てる。

一方の有権者である「市民」は、そうはいかない。美人投票と一緒で、多くの人が美人と思う女性に投票しない限り、勝ち組に入ることは適わない。自分の好き嫌いだけで投票する限り、自分の希望を叶えるすべはなかったのであります。その上、勝ち組に入ったとしても、所詮お願いするだけで、実質的に次の選挙までなにもできない。

これが、いま変わった。

多数派の指標である、政党支持率。無党派層が、過半数になった。これは何を意味するのか。実権が、有権者である「市民」のフリーハンドになったってことであります。つまり、無党派層を押さえない限り、政治の主導権も、議席もなにも取ることはできないのであります。

今の新党ラッシュも、この無党派層の拡大に呼応したものでしかないのであります。

もちろん、なぜ無党派層が過半数になり、新党も次々できだしたか。これは簡単に説明することができる。これもまた「コミュニケーションのオープン化」によるものであります。先に書いたように、多数派イコール与党政党、あるいは、利権団体しかなかった中で、利権イコールメディアである、この「メディア」の地位が、「コミュニケーションのオープン化」で「市民」と逆転してしまった。つまり、コミュニケーションを主導するのは、「メディア」ではなく「市民」に移ってしまったってことであります。

この点においても、いま「メディア」を「偏向報道」と批判する方々は大いなる勘違いをなさっている。いま「メディア」が報じているのは、「市民」の意識そのものであり、そうしなければこの「メディア」は「市民」から取り残されるだけなのであります。

もともとからして「市民」の意識とは、多様なものであります。美人投票の必要がなければ、最初から「メディア」や多数派に白紙の委任状など差し出す必要はさらさら、ないのであります。

「政治家」にとって、「市民」に自分に投票してもらうためには、議員となったその日から、次の投票日当日まで、いままでのような「メディア」へのアプローチではなく、直接「市民」へのメッセージを送り続けるしかない。

では、具体的にどうやって、これをやるか。このために、「ブログ」と言うあらたな「メディア」があるのであります。もちろん記録として参照の難しい「つぶやき」では、これはできない。そして政党も当然のように公式ブログで発信する。この公式ブログを読めば、民主党のように政策がころころ変遷するのも、一目瞭然となる。

これらの「ブログ」を読み「続ける」ことで、「政治家」や「政党」を「市民」が選ぶ。

いま「市民」は誰も、選挙の時だけの耳に心地好い「マニフェスト」を聞いても、まったくこんなものは信用してはいないのであります。主導権は、「政治家」にではなく「市民」の側に移ってしまったことを認めるしか、「政治家」や「政党」が生き残るすべはないのであります。

つまりはそう言うことであります。

こう考えると、この夏の参議院選挙は、もちろん、民主は大敗し自民も去った人の数を確保するのに精一杯となる。

鳩山から菅に替わった総理と違い、相変わらず幹事長に居座る小沢。自らの訴追問題を抱える以上、辞めるにやめられないのであります。

一方、参院選大敗で選挙の小沢の呪縛から解放された民主は、衆参ねじれ解消のために、あらたな連立を組む。ここは小沢の辞任と議員辞職を条件に、連立先の党首を首相にするしかないのであります。これにたいして、もちろん小沢は抵抗する。そして民主は、割れる。

が、波乱もいったんここまで。あとは3年後の衆参同日選で、またあらたな連立。

2010年代は、これを繰り返し、やがて「政治のオープン化」が完了するのであります。

だいたい、こんなもんでいかがでしょうと言うことで、週末テニス。

あいかわらず、こちらも人材不足^^;。土曜、ネモトくんとサコタくんのダブルコーチで、7-5、7-6(7-5)、0-4と第2セット、辛くもタイブレークを制して、2勝1敗。

日曜は、足を治療中のM田さんに替わって、シミズくん。6-3、6-4、2-6、2-2と、シミズくんから貴重な1勝をもぎとる。

大きな流れの中に、変わらない日常がある。このしあわせに、感謝するしかないのであります。 KAI

April 17, 2010

マットペインターとはエンターテイナーであった

マットペインター。これまた、テレビからの情報でありますが、世の中いろんな仕事があるもんであります。

マットペイント(matte paint)はSFXのひとつで、実写映像と背景画を合成する技術のこと。または、その描かれた背景。

マットペイントを描く人間をマットペインターと呼ぶ。有名なマットペインターにはピーター・エレンショウ、ハリソン・エレンショウ、マイケル・パングラジオ、渡辺善夫、上杉裕世らがいる。
マットペイント、Wikipedia


この上杉裕世くん。マットペインターとして活躍中と、テレビに登場。と思いきや、テレビ登場は、ずっと昔の1987年。

上杉 裕世(うえすぎ ゆうせい、1964年11月29日 - )は、アメリカ合衆国で活躍する日本人のマットペインター。武蔵野美術大学油絵科卒。

  • 1964年‐広島県に生まれる。

  • 1985年‐マットペインターのロッコ・ジョフレに師事

  • 1987年‐アメリカ合衆国に渡り、師のジョフレのスタジオに勤める

  • 1989年‐ILMに入社。以後数々の映画作品のマットアーチストとして活躍している。

『欽ちゃんの仮装大賞』に出場したことがあり(第21回、そのときのネタは「カブトムシ対クワガタ」)、見事優勝、賞金100万円でアメリカに渡った。1990年の『ダイ・ハード2』のラストシーン(エンドタイトル直前)の飛行場のマットペイントを手がけ有名となった。左利きである。
上杉裕世、Wikipedia

いやはや、これ観てましたよ。なんとあれから23年。同時代を生きていると思うと、感慨深いものがあります。KAIもいろいろありましたが、裕世くん、賞金そのまま持って渡米。以来、大活躍です。

受賞 [編集]
エミー賞ビジュアルイフェクツ賞受賞(『インディ・ジョーンズ/若き日の大冒険』)

主な作品 [編集]

  • 『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』

  • 『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2』

  • 『ゴーストバスターズ2』

  • 『ダイ・ハード2』

  • 『ジュラシック・パーク』

  • 『フック』

  • 『インディ・ジョーンズ/若き日の大冒険』

  • 『フォレスト・ガンプ/一期一会』

  • 『マスク』

  • 『スポーン』

  • 『スター・ウォーズ三部作 特別篇』

  • 『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』

  • 『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』

  • 『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』

  • 『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』

  • 『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』

  • 『アバター』

上杉裕世、Wikipedia

なんとアバター以外、全部観た映画ではありませんか。

冒頭の番組で紹介された、ダイ・ハード2のエンディングシーン。彼の描いたマットペイントには、飛行場一面に駐機している飛行機やそのまわりの救急車の側面に、そこらじゅう小さく「ケロケロ」とイタズラ書きされている。まことに映画とは、細部に拘らないのであります。

それにしても、この『欽ちゃんの仮装大賞』優勝賞金でもって渡米したエピソードは、実に面白いし、興味深いものがあるのであります。

もちろん、才能ある裕世くん、万一優勝を逃したとしても、工面してアメリカに渡っていたことは、まずまちがいありませんが、それでも彼にとって、『欽ちゃんの仮装大賞』には大きな意味があります。

それは、エンターテインメントとは、なんであるか。「仮装大賞」での「カブトムシ対クワガタ」と言う「一発芸」こそ、彼が全身の生身の身体と言う「肉体」で理解した「エンターテインメント」の「本質」であったわけです。

ここで身体全体で理解したことが、マットペイントそのものの中に生きている。つまりはそう言うことなのであります。主な作品すべてが、KAIの記憶の中に鮮明に残っているのも、なるほどうなずけるのであります。

なにごとの「本質」も、身体と言う「肉体」でしか理解できないものなのであります。 KAI

April 16, 2010

テレビとは「意識の中の街の風景」(2)

昨日のお話。テレビだけではなく新聞、ネットも、「意識の中の街の風景」にはならないのかと疑問に思われるかもしれない。新聞、ネットは、あくまで主体は「文字」。「文字」は意識的に「読む」必要がある。しかし、テレビは、「視る」必要はなく、「見える」で十分。つまりはだから「風景」となるのであります。

更には、実際のリアルな「風景」について、世界中を旅したことのある人以外は、大半がテレビでしか見たことがないもの。私たちの「共通」する「意識」の中に占めるテレビと言う「意識の中の街の風景」の割合が、思うほどに決して小さくはないと言う事実は、ことの本質を理解する上できわめて重要なポイントとなるのであります。

このお話に関連して、今、政界の「風景」を見るにつけ、いまほど政策なるものの「合意形成」とはなんであるか、これを理解するのにうってつけな、まことに面白い時代はないのではないかと、KAIは思うのであります。

古きよき自民党政権時代の、「合意形成」。派閥内部や派閥間の議論を、国民はテレビを通して長い間見せつけられた末に、ある一つの「政策」が出てくる。もちろんそのあとも、議論は尾を引くけれど、最終的には国会の議決で決着することになっていた。

これは、国民にとって、テレビを通して見る自民党内部の議論が、あたかも「シミュレーションゲーム」のように疑似体験となっていたことは、間違いないのであります。

実はこの、恐らく誰も計画的に意図したわけでもない「仕掛け」こそ、政策の「合意形成」のために欠くべからざる<「共通」する「意識」>を、国民一人一人の「脳内」に醸成するきわめて大きな役割を担ってきたのであります。

これが、小泉政権に至っては、テレビの中から飛び出してきた。例の郵政選挙であります。ですから、国民にとっての郵政選挙は、決して「意識の中の街の風景」だけではなく、現実のリアルな風景であり、リアルな時間的経験として、私たちの「共通」する「意識」の中にあるのであります。

このことを自民党の今の総裁は、すっかり忘れてしまっている。

 この決着の翌日、国会では党首討論が行われた。しかし自民党の谷垣禎一総裁は、郵政問題について一切質問をしなかった。
【正論】慶応大学教授・竹中平蔵 国民の負担を増やす「郵政改悪」


自民党をぶっこわした、市場原理主義で格差を拡大した。確かにこれも「意識の中の街の風景」となってしまった観がある。しかし、だからと言って、自民党を支持してきた国民の「共通」する「意識」を無視することは、決して許されることではないし、自民党にとって一文の得にもならないことが、なぜ理解できないんでしょうか。ま、どうでもいいけど。

もっとひどいのが、民主党。

すべてがすべて、先に述べた「合意形成」のための必要十分条件と、180度反対のことばかりであります。

普天間しかり。普天間問題解決のための「共通」する「意識」を、ことごとく覆していく。「合意形成」とは、いままで一致していなかった意見や考え方が突然一夜にして合意に至るなどといった話とは、まるで違うのであります。

議論するための「共通」する「意識」と言う土俵がなければ、議論を始めることすらできない。この「共通」する部分がたとえ最初は少なくてもこれを少しずつ広めていくのが、「合意形成」と言うものの基本であります。

これが、かつての自民党政権のような党内の議論も何もなく、場外乱闘だけの格闘技選手権さながらに、ラウンドを重ねていく。

別に民主党政権に塩を贈るつもりもないので、これ以上は何も申し上げませんが、「党」のために「国民」を、他国に差し出すようなまねだけは勘弁願いたいものであります。 KAI

April 15, 2010

テレビとは「意識の中の街の風景」

出たいと言っても出してくれるわけではないんですけど、テレビに出ない効用は、こんなところにあるんであります。

それにしても高橋源一郎の政治感覚は鋭いなあ・・・と横で話を聞きながら感心。
1時間ほどお話したあとに赤坂中華料理屋へ。
こんどは鳩山由紀夫総理を囲んで、秘書官も加えた6人でお昼ごはんをいただきながらおしゃべり。
総理は全身から「いいところのおぼっちゃん」オーラをばりばり発信していた。
自分から「オレがオレが」と自己主張しなくてもよい環境で育ってきた人に特有の余裕がある(私や源ちゃんにはそれがない)。
(中略)
たいへん健全な見解だと私は思ったが、むろん詳細についてはこんなところで申し上げるわけにはゆかない。
たちまち二時間が経つ。
話が佳境に入ったところだったので、「この続きは『Sight』でやりましょう」ということになる(勝手に決めてごめんね、渋谷くん)。
次回のセッションにゲストで総理においでいただきましょうということで話がまとまる。
大学生を聴衆にしてゼミ形式でやるのはどうかという案も出て、高橋さんのお勤めの明治学院大学で一度やってみましょうという話になる。
だったら、神戸女学院大学でもやりましょうよと申し上げるが、「神戸はちょっと遠いので・・・」という懸念が事務方から表明されて却下。
そういえば、総理の移動は護衛といっしょの大編成の車列を組んでなされるのであった。
総理を送り出したあとレストランを出ると、総理番の番記者たちが10人ほど待ち構えている。
「副長官、今日は何のお話だったんですか?」と松井さんが訊かれている。
同行の高橋さんには気付いた記者もいたが、私には誰も気づかなかった。
黒いジャケットを着た背の高い、ごつい男が政治家ふたりとゲストの作家の横に立っているのだから、きっと護衛官だと思ったのであろう。
テレビに出ていないとこういうときに便利である。
政治と経済と武道について語る週末


このなにげないお話には、きわめて重要なメッセージが隠されているのであります。すなわち、テレビと言う視覚空間の本質が、実はここにあると言う事実であります。

この一般人としての記者に限らず、テレビを見る習慣を持つすべての人々は、知らず知らずのうちにテレビと言う空間を、意識の中でなお無意識に共有している。

これに、アメリカ大統領でさえ逆らうことができない。

 米国の大統領は絶大な権限を持ち、オバマがその気になれば米国のアフガン戦略などすぐ転換できると、多くの人が思っているだろう。しかし現実は全く逆である。オバマが電撃的にカブールを訪問した直後から、米国のマスコミでは「カルザイは信用できない」「カルザイは反米に転じた」といった報道が大量に流され、カルザイがいかに反米か、米政府がいかにカルザイに不信感を持っているかという話を、やたらに強調する記事があふれた。

 911以来、米国では(日本と同様)マスコミ報道が一定方向に偏重するプロパガンダ機関と化しているが、偏重の方向性はオバマの戦略を流失させるものになっている。この事態の前に、オバマはむしろ無力である。

 そもそも実は、最もこの情報の偏向にまとわりつかれているのは、米国の一般国民ではなく、歴代の米大統領である。諜報機関や顧問らが毎日、米大統領に政策決定の材料となる情勢分析の報告を上げてきたが、その中には間違った判断を誘発する歪曲情報が混じっていたはずだ。間抜けな前任者はころりと騙され、イラクとアフガンに侵攻した。

 オバマはブッシュより聡明らしいので、自分のところに上がってくる情報が歪曲されていると勘づいているだろう。だからこそ「カブールなんか行く必要はありません。ホルブルックに任せておけば良いんです」という側近の提案を無視し、超多忙な日程の合間をぬって無理矢理カブールまで行ってカルザイと会い、アフガン戦略を立て直そうとした。

 しかし、オバマのカブール訪問自体がプロパガンダ機関に都合が悪いらしく、ほとんど報じられず、訪問直後から米マスコミはカルザイと米国の関係を悪化させる報道をあふれさせ、オバマのアフガン戦略を失敗の方に押しやっている。
カルザイとオバマ


このオバマを悩ます偏向報道もまた、形を変えたテレビと言う視覚空間の本質を意味しているのであります。

日本の歴代首相が、なぜか軌を一にするかのように、 支持率低下とともにテレビと言うメディアと対峙し始めるのも、これまたまったく同じお話。

小沢問題で、メディア批判を繰り返し小沢を擁護し続ける人々や、普天間問題で自滅する鳩山を、メディアが過剰報道でつぶしにかかると批判するエセジャーナリストもまた、まったくもってこれが理解できていないのであります。

KAIはいったい何を言わんとしているのか。訝しく思われる方々もおいででありましょうが、ここはひとつひとつご説明します。

そもそも私たちの「意識」とは、一体なんであるのか。一見、私たちには「意識」の一部を互いに「共有」しているかのような「何か」があることを前提に、あらゆるコミュニケーションが行われているのでありますが、「意識」の主体はあくまで一人一人の「脳内」にあるのであって、物理的にはまったく切り離された世界で展開されていることに、まず一番に気づく必要があるのであります。

簡単に言ってしまえば、一人一人の「意識」の世界は、まったくそれぞれ別個の存在であり、互いのそれがいかなるものであるか、今の私たちにはそれは不可知としか言いようのないものなのであります。

にもかかわらず、互いがなぜコミュニケーションできるかと言えば、「意識」の「共有」ではなく、「共通」する「意識」によってそれを可能にしているのであります。さらには、この「共通」する「意識」とは、すなわち、社会生活や教育といった時間的経験であり、また、天気を含めた地理的、物理的な、空間的経験に他ならないのであります。

そして、もう一つの、「共通」する「意識」の存在。話が長くなりましたが、実は、テレビと言う視覚空間こそ、このもう一つの「共通」する「意識」であり、意識の中における地理的、物理的な、空間的経験と同値なるものなのであります。

KAIはこれをいままで「意識の中の街の風景」と呼んできたのですが、リアルな街の風景と同じように、誰かがこれを恣意的に操作できるものではなく、すべては刻一刻と変化を遂げていった結果に過ぎないのであります。

この視点に立てば、テレビと対峙する、時の総理も、偏向報道とメディア批判を繰り返す与党支持者も、風車に突進するドン・キホーテと、寸分たがわず同じであることが、きわめてクリアにご理解、ご納得いただけるのであります。

しかして、上に引用したオバマの戦略。すこぶる賢明と言うことであります。

もちろん庶民にあっては、ウチダ先生のように、絶対にテレビに出てはいけないのであります。多くの署名人がテレビに登場し、潰されていく。別に誰が悪いのでも、なんでもない。テレビとは、ただ単に、そう言うものであると言うしかない。

一つこの話に付け加えるとするならば、「意識」の「共有」がないわけではない。KAIが言う「大気」がそれで、しかし、これはあくまで「意識」そのものが一つの「大気」の中にあると言うことで、今回とは別次元のお話。と言うことでこのお話は、次回。 KAI

April 11, 2010

パンの缶詰ハイチに届く週末テニス

外交とは、なにか。

たった30分の番組が、この本質的意味を、KAIに教えてくれた。TBSの「夢の扉」。

「パンの缶詰」は、1缶およそ400円で発売されることに。

自治体などでは、防災用の備蓄として注目が集まり購入してくれることに。

2009年10月のテレビ放送された「笑ってこらえて」(日本テレビ)に出演。
注目を集め、日本人宇宙飛行士の若田光一さんが、国際宇宙ステーションに持ち込み、紹介されたことで、「パンの缶詰」は、全国的に知れ渡ることとなりました。

しかし、自治体などが災害などの備蓄用に購入してくれた「パンの缶詰」も、賞味期限の3年を超えると廃棄されてしまうことから。

自治体や企業などからは、購入後2年経ったものを下取りし。
世界で最も食料を必要としているところへ送るという活動をスタート。

「救缶鳥」というサービスを始めました。

そして、秋元さんは、大地震の被害に悩むハイチに「パンの缶詰」を片手に乗り込んだのです・・・。
「パンの缶詰」(株)パン・アキモトの秋元義彦社長、ハイチ地震支援に向かう。


かき集めた3万食。国際貨物もボランティアで協力してくれてこれを届ける。3月、秋元も事前にサンプルを持って、現地に入った。

この映像を見て、すべてがわかった、この映像とは、秋元の缶詰のパンをむさぼるように食べた子どもたちが、秋元との別れ際に次々とキスを求めてくるのであります。

遠い遠い日本と言う国から、ただパンを届けるためだけにやってきた56歳の男に、子どもたちは、できる最大限の感謝の気持ちを伝えようとした、そんな決定的映像なのであります。

この子どもたちが成人して、自分の国以外に大好きな国をあげるとするならば、間違いなく日本を選ぶでありましょうし、万一この国の利害関係に関わることが生じたとしても、彼ら彼女たちが、日本の味方となることは疑いようもないのであります。

まことに、日本人もすてたものではない。一方で、こんな市井の人たちの努力を思い切り踏みにじる輩奴がいる。口先だけの「友愛」外交。こんな外交から、こうした味方が増えることなど、まったくもって一切ない。もはや「行動」を伴わない「口先」だけの男であることが、世界中に知れ渡ってしまった。

そして、こちらは外交とはまったく無縁ながら、律儀に約束を守ろうとする人の、週末テニス。M田さん、右足親指の爪の治療のためギブスをつけていると言うのに、無理して参加。そうなんです。4人いないと話にならない。いったん出ると言えば休むわけにはいかないのが、週末テニスの掟也。

見るからに痛そうと言いながら、走れないM田さんの横にボールを集めるのは、情実無用、勝負の世界の掟也^^;。

とその結果は、2-6、3-6、6-4、1-3と、O谷さんの4連勝。

あ、これは日曜。土曜は、結婚おめでとう、先週ハワイで結婚式だったネモトくんと、いつものメンバ。結果は、7-5、3-6、0-6、2-2と、第1セット、結婚式疲れと思しきネモトくんと組んで、辛くも1勝。

先日来の持病の、手首の痛みが、多少治まってきた。なにごともすべて時間が必要なのであります。 KAI

April 10, 2010

iPadとは究極の「モバイルコンピュータ」(2)

iPhoneやiPadが、いままでのタブレットPCと、一体何が違うか。それは、いったい何本出てきているのか、いまや正確に把握することさえ困難になり始めた「iPhoneアプリ」と言われる「アプリケーション」の存在であります。

10:07:App Storeの最新動向。40億アプリがこれまでにダウンロードされる。18万5000のアプリが用意されている。iPadアプリは3500本以上。
アップル、「iPhone OS」イベントを開催--発表内容をライブカバレッジ


いままでのタブレットPC向けのアプリを考えれば、このことがことの本質であることを、みなさん誰もがご納得いただけるはずなのであります。

それにしても、なぜこんなことが起きるのか。

これを理解するためには、「iPhoneアプリ」と言われるものの「正体」を見る必要があるのであります。すなわち、これらアプリの大半が、パソコン勃興期に大量に現れたアプリケーションやゲームと言う、当時パソコンと言うまったく新しいプラットフォーム向けのプログラムと、なんら違いがないと言う事実なのであります。

パソコン向けの当時のアプリの大半は、いまやアクセサリーやアドオンとして、あるいは無料のアプリとしてパソコンで使用することができるのであります。とは言え、これが新しいプラットフォーム向けと言うことだけであるなら、こんな大量のアプリが出てくることはないのであります。

この現象に対して、納得いく説明ができるとすれば、これは唯一つ、「ネットワーク」向けアプリケーションの存在しかありえないのであります。

話がまわりくどくてすまない。

要するに、iPhoneやiPad向けのアプリケーションとは、「ネットワーク」を前提とした、いわゆる「ソーシャルアプリ」であり、あるいはそれに類似する「ネットワーク」の窓となって動作するWebアプリケーションがその実体であると言えるのであります。

さらにはこれが、マウスやキーボードと言うインターフェイスを前提に進化してきたアプリケーションの世界から、いままでとはまったく異なる、マルチタッチのユーザーイクスペリエンスを実現するアプリケーションの世界へと、世界を大きく変えてしまったのであります。

ただしかし、まだこれらは、KAIの言う「自己組織化アプリケーション」や「高度化アプリケーション」の域に達するに至ってはいません。この進化のためのほんの端緒についたに過ぎないのであります。

それでもやがて、アプリケーションとアプリケーションが相互に繋がり、アプリケーションと言う生き物が、地球全体を覆いつくす日も、そう遠い未来でないことは、間違いのない真実なのであります。

ここでいきなり話題を変えますが、このアプリケーションとアプリケーションが繋がるための技術に関連するお話です。

 オブジェクト指向言語「Ruby」の開発者である、まつもとゆきひろ氏が語る日経Linuxの連載記事「技術を斬る」で最近、「BASE」という概念がよく登場する。BASEとは、「Baseically Available」(不整合は滅多に発生しないので可用性を重視し)、「Soft-state」(状態の厳密性を追求せず)、「Eventually Consistent」(途中はともかく最終的につじつまが合えばよい)、という考え方だ。

 実は、クラウドを支えているのは、この“ゆるい”考え方にほかならない。

トランザクションはもう古い?

 BASEは、トランザクションの概念が大量の情報を処理するシステムには適さない、という考えから登場してきた。データを正しい状態で維持するために必要なACID特性、すなわちA(原子性)、C(一貫性)、I(独立性)、D(永続性)を、大規模な分散処理では維持できないという「CAP定理」が裏付けになっている。

 CAP定理とは、C(一貫性)、A(可用性)、P(ネットワーク分割された場合の耐性)のうち、二つまでしか同時に満たせないことを数学的に証明したものだ。クラウドシステムでは多くの場合、CAPのうち可用性とネットワーク分割の二つが重要となる。この場合、一貫性で妥協する必要がある。具体的には、大量のサーバー機でデータを複製保持し処理すれば、一時的に整合性が失われる問題が発生する。

 従来は、トランザクションの厳密性を堅持しつつ、この問題に対応しようと努力してきた。1990年代には“2フェーズコミット”のような分散トランザクション技術が、近年ではデータベースソフト「Oracle」が備えるようなクラスタリング技術が開発された。

 しかし、同時アクセスのクライアント数が1万台を超えるような場合に起こる様々な問題、いわゆる「C10K」(クライアント1万台問題)の前では、“古い”トランザクションの概念を捨てざるを得ない。

 そこでBASEの考えを取り入れた「ROMA」や「kumofs」など“NoSQL”(Not Only SQL)と呼ぶ新たなデータベース群が、クラウドを裏で支えている(関連記事)。一時的には不整合な状態を作っても、最終的に整合性を取るという実装になっている。
クラウドを支える“ゆるさ”


iPadのアプリケーションの話をしていると、こういったクラウドの話とまるで関係がないかのように思われるかもしれませんが、まったくそうではありません。

と言うことで、このお話は長くなりますので次回に、また。 KAI

April 09, 2010

iPadとは究極の「モバイルコンピュータ」

iPad発売以来、これに関連する興味深い記事がいくつかあがっている。

iPad初体験レビュー

ビットが紙のフリをするのをやめた日


それぞれ一理も二理もある考察で、コメントし始めればこれだけで終わりそうですので、割愛^^;。

今回、KAI的に一番しっくりきたのが、これ。

iPadをあとから出して、Appleは大正解だった。

iPadを使ってからiPhoneを使うと、実に窮屈で無理矢理な印象を受ける。
iPadの廉価版みたいなイメージだ。
処理速度も遅くて、画面も狭い。
ほんの数日前までは、iPhone3GSが遅いなんて考えもしなかった。
だが、iPadを一度でも使えば、誰もが僕と同じ感想を抱くだろう。
つまり「こっちが本物」なのだということを。
むしろiPhoneは、iPadが登場するための伏線に過ぎなかったのではないか。
たぐい稀なる完成度を誇る実験機。真打はむしろiPadで、その前にはiPhoneはもちろん、全てのiPhoneもどきが色褪せて見える。

「3GのiPadがあれば、iPhoneは解約してもいいな」

コーイチはそう言っていた。
彼はサンフランシスコに住んでるソフトウェアエンジニアで、Macにもそれ以外にもかなり詳しい。
iPadは"本物"だ

要するに、iPhoneの進化形がiPadであると。

KAIは以前、iPhoneについてこう書きました。

これはフォンではなくコンピューターであることに、いいかげん気づいて欲しい。

パソコンが何の役にたつかといわれながら世界中を席巻したあと、いまやっとパソコンの後継者が現れた。それはアイフォン。みなフォンを買い求めているのではないことに、いいかげん気づいて欲しい。もちろんスマートフォンでも、まったくありません。

いま表参道に並んだ人たちが求めているのは、間違いなく「モバイルコンピュータ」です。

そうむかし、行列を作って買い求めたパソコンとWindows95と寸分たがわず同じです。

行列を作っている人々は、誰もフォンを買うために並んではいません。みなコンピュータを買うために並んでいるのです。まったく新しいコンピュータ、モバイルコンピュータ。

ザ・モバイル、人々が求めているのは「モバイル」なのです。
iPhone3G考(2)

「コンピュータ」とは何か。それは「汎用」コンピュータのことを言います。では「専用」コンピュータは何か。これを「デバイス」と呼ぶのであります。

四則計算のための「専用」コンピュータが、電卓と言う「デバイス」。電子ブックのための「専用」コンピュータが、キンドルと言う「デバイス」。

こう考えると、iPhoneもiPadも、「コンピュータ」であることは間違いない。

しかし、いままでのタブレットPCと、iPhoneもiPadもいったいなにが違うと言うのでしょうか。

それを決定付けるのが、「モバイル」と言うキーワードなのであります。

すなわち「ポータブル」(可搬性)では足りなくて、「モバイル」(携帯性)を必要としているのが、「モバイルコンピュータ」であります。

更に重要なポイントは、ネットワーク。iPhoneは、最初からフォン(電話)としての機能がデフォルトでしたからなんら問題はない。これに対して、iPadにはまだ多少難がある。

次に、「クラウドを活かせていない」「母艦としてMacかPCが必要(単体で使えない)」「16GB/32GB/64GBというラインアップがナンセンス」という点。これらは、実は同じことを別々の側面からいっています。

だいたい、これだけの革新性がある製品を、買ってきてそのまま単体で使えないとはどういうことか。こればかりは本当に理解しがたいことです。iTunesの価値をさらに高める戦略、またデータのバックアップ問題を解決する一つの方法であることは認めます。しかし、MacやPCとの「シンク」を前提としたために、犠牲になった使い勝手のマイナス要素はとても大きいと感じます。
iPad初体験レビュー

このエジケンの発言や、

「3GのiPadがあれば、iPhoneは解約してもいいな」
iPadは"本物"だ

この「3GのiPadがあれば」と言うところの問題ですが、これについては「アプリケーション」のお話になりますので、次回に。

いずれにせよ、iPadによってまたしても「コンピュータ」がまた一歩次なる次元に進化したことは、間違いないのであります。 KAI

April 07, 2010

なんでスポンサーは怒らないのか?

いきなりですが、これで大迷惑しているKAIであります。

きょうからアナログTVの画面の上下に黒い枠を出す「レターボックス」の放送が始まった。これはHDTVの横長の映像を左右を切らないでアナログTVに出すもので、「アナログ放送はもうすぐ終わる」と知らせるためのいやがらせ放送である。さらに来年4月からは、下のように放送画面の全体に「デジタルに買い換えろ」という表示が1日中出る予定で、7月に電波が止まる前にアナログ放送を見ることは事実上不可能になる。
始まった「いやがらせ放送」


阪神巨人戦を観ていたら、突然、この「レターボックス」画面の黒枠部分に、脅迫文の表示が始まった。気分が悪いので、デジタルに切り替えた。

別に、「レターボックス」画面は嫌いなわけはないけれど、見慣れたアナログテレビに「映像的価値」を置くKAIにとって、環境映像の「質」の変化には、きわめて敏感に反応するのであります。

放送側が、まったく勘違いしているのは、画面が見にくい(見るに耐えない)と言う、厳然たる事実であります。

ですから、コマーシャルも、見にくい(醜い)。だって、葬式用の写真じゃないんですから、四方を黒枠に囲まれた映像なんてものは、まったくもって見るに耐えないのであります。

恐らく、しかし、スポンサーの価格は同じはず。これってめちゃくちゃおかしいですね。レターボックスならまだ許されるけれど、左右までも含めて黒枠と言うのは、間違いなく詐欺です。

スポンサーのみなさん、こんなむごい形で、コマーシャルが流れ始めていることを知らないでしょう?

ぜひとも、KAIは、これを厳重に抗議していただきたいのであります。 KAI

April 04, 2010

楽天が勝てないのにはわけがある週末テニス

まだ11試合消化だけとは言え、最下位の日ハムと並んで8敗。

この楽天が勝てないのには、明確なわけがあります。そうです、ご想像の通り、あの解任劇。

特に、楽天社長ほど、この世に監督の意味を理解していない人間はいないのではないかと、KAIは真剣に思う。監督とは、現場の総責任者である。その責任者が、これから自らの使命である決戦に立ち向かおうとする矢先に、その結果を問わず監督解任を通告されるなどと言うのは、恐らく人類史上初めてではないかと、KAIはオーバーにではなく、思う。
岡田監督と野村監督、あと週末テニス


残った選手達にとって、もちろん万年最下位からCSに勝ち残るまでになったのは野村監督のおかげではあるけれど、自分たちの実力でもあると思いたい。それを証明するために、新しい監督のもとでも勝ち続けなければいけない。はずが、そうはならなかった。

いったいなぜなのか。これを見事に説明するのが、ウチダ先生。

楽観派は「いや、けっこう来ますよ」と残留率を高めに設定し、悲観派は「いや、よそに流れます」と低めに設定する。
このバトル(というほどでもないけれど)が、入試シーズンの風物詩なのである。
私はもちろん人も知る楽観主義者であり、残留率高め設定を主張しているが、私の無根拠な楽観に対して同僚たちは総じて不安顔である。
その拮抗の中で今年度の残留率が算定されたのであるが、私の「楽観」と同僚たちの「悲観」のどちらがより現実を正確に把握していたのかは、あと1月ほどで判明する。

私が好んでものごとを楽観的に見るのは、悲観的予測をするとしばしば悲観的未来を進んで呼び寄せてしまうことを経験的に学んだからである。
というのは、悲観的予測をしたあとに、そのような事態が到来しなかった場合、それは予測者の知性がかなり不調であったことを証明してしまうからである。
それゆえ、大学教員のように自分の知性が好調であることを証明することが死活的に重要である職業においては、悲観論者は(無意識的に)、悲観的事態の出来を願望するようになる。
予想とおりの危機的事態が起こり、楽観論者が備えをしていなかったせいで、右往左往している様を見て「だから、言ったじゃないか」と冷笑を浴びせる日の来ることをいつのまにか待望するようになるのである。
そして、その日の到来を前倒しにするために、わずかずつではあるが、悲観的事態そのものを自分の手で作り出すようになる。
日常的には「だから、この学校はダメなんだ」という捨て台詞を会議や打ち合わせの席で頻繁に口にするというあたりから始まり、教場で学校のシステムや同僚の無能をあげつらう、やがては近所の高校生に「女学院大学に行きたいんですけど」と訊かれたときに、反射的に「止めたほうがいいよ」と忠告するようになる。
このような人々の日常的努力のおかげで、問題の多いシステムが円滑な機能を回復するということは起こらない。働きの悪い同僚たちの士気が高まるということも起こらない。学生たちが上機嫌で勉強するようになるということも起こらない。
もちろん彼らのおかげで志願者数が増加するということも起こらない(絶対)。
残留率と楽観主義


楽天の選手たちは、本来はみな楽観主義者だった。野村監督におだてられてここまで来てしまったのは、楽観主義者以外のなにものでもない。そんな彼らを、野村監督の解任は、ものの見事に悲観論者に変えてしまったのであります。

開幕以来の最悪の勝率は、解任が間違っていると思う選手たちが、無意識的に解任が間違いであったことを証明しようとしている結果なのであります。そしてこれをメディアが補強する。昨シーズン、初っぱなからメディアに野村監督のぼやき映像が出ない日はなかったのに、今季、取材記者すら集まらない。

当然こんなことになるのは、簡単に予想できたこと。

そうならないようにする方法は、いくらでもあった。野村監督が、チーム作りを完成させようとした、今季1年限りの契約とするだけで十分だったのであります。野村監督も、選手たちも、楽観論のまま、CSの勢いそのままにペナントレースを突っ走ることができる。勝つことの必然性を負っているから、悪い方向に働くものが微塵もない。いまごろ恐らく1位か2位を争っていたのはまず間違いありません。

では、そのあとのシーズンはどうするのかって。当然がごとく、日本シリーズ制覇という有終の美とともに引退の監督、その後を継いだ新監督のもと、気分一新、ますますの快進撃となるのであります。

これぞ、楽観主義者の真骨頂。

そして、楽観主義的週末テニス。のはずが、土日、どちらも1勝しかできなかった。土曜、4-6、2-6、6-2、1-3、日曜、3-6、1-6、6-1、3-4と、そろって1勝3敗。理由は、なかなか回復しない持病のせい。それでも1勝できるだけでも、ありがたい。気分が全然違うもんね。

それにしても、楽観主義。毎週毎週、よくメンバーがそろうもんだと思うけれど、それでもなんとかなるもんであります。

だから、私は同僚たちには(多少の無理を承知で)、「楽観的に行きましょうよ」とつねづねご提案しているのである。
「まあ、なんとかなるよ」と言った手前、その未来予測の正しさを実際に「なんとかなった」ことによって証明せねばならないからである。
そのための努力を惜しむと、事後的に自分が「バカだった」ことになってしまう。
これはたいへんと、こまめに出来の悪いシステムを補正し、同僚たちを励まし、学生たちに微笑みかける。
個々の効果は微々たるものであるが、塵も積もれば山となると俚諺に言うように、楽観的な人間が多数派を占める集団は悲観的な人間ばかりで構成されている集団よりも危機を生き延びる確率が高いのである。
残留率と楽観主義


もちろんこれはテニスだけではなく、仕事も何も、すべていっしょ。テニスも仕事も、集まってくる人たちがみな楽観主義者だったから、ここまで続けることができたのであります。なかには悲観論者もいたけれど、そう言う人は長くは一緒にいられないから、やがて一人もいなくなった。

そういえば、サンプロの後番組。5分見ただけだけど、すぐチャネルを変えてしまった。こう言う悲観論者ばかりの番組って、いったいなんなんでしょうね。 KAI

April 03, 2010

良心と自尊心

ウォーレン・バフェット。世界的な著名投資家兼経営者。経済の真髄、経営の本質を知りぬいた男の言葉に、さすがのKAIも、いっぺんに目が覚めました。

目的を達成しようと思ったら、
良心に訴えかけてはいけない。
自尊心に訴えかけるのだ

バフェットの大不況を乗り越える知恵、徳間書店、メアリー・バフェット、デビッド・クラーク、2010/3/19、p.114)

そうか、そうか、そう言うことだったのか。経済とはお金。お金の扱い方が、いままでどうしても感覚的に理解できなかった。これが、この言葉で、ものの見事に「氷解」した。

え?わからん?

そりゃそうですね。と言う方々にもう少し引用しましょう。

 アフリカの貧困撲滅を目指して活動するロックスターのボノは、何とかしてアメリカの一般大衆の支援を得たいと考え、ウォーレン・バフェットに相談を持ちかけた。
(中略)
「人々の良心に訴えかけてはいけない。自尊心に訴えかけるのだ。そうすればきっと、君の目的は達成されるはずだ」
 人間の良心に訴えかけることは、遠回しに善悪観を問うことにひとしい。飢餓に苦しむ貧しいアフリカの人々を助けようとしないなんて、いったいあんたはどんな人間なんだ? このような訴えは罪の意識を刺激する。わたしたちは罪悪感をかき立ててくる相手を嫌う傾向があり、実際、そういう相手との接触を極力避けようとする。
 ボノがアメリカの人々の良心に訴えかけようとすれば、聴衆の前でこんな演説をすることになるだろう。
「アフリカでは大勢の貧しい人々が飢えに苦しんでいます。世界一裕福な国に住んでいるあなたたちは、黙って彼らを見殺しにするつもりですか?」
 では、このバージョンを、次のバージョンと比べてみてほしい。
「あなたたちは地球上で最も知性の高い国民です。あなたたちの国家は、あらゆる困難を克服して第二次世界大戦に勝利し、天を突き抜けて月にまで人間を送り込みました。わたしは今、とてつもなく困難な問題に直面しています。貧困と飢えに苦しみ、夢も希望も持てないアフリカの人々に、何とかして救いの手を差しのべたいのです。誰に支援を求めるべきかと考えたとき、わたしはぱっとひらめきました。世界で最も偉大な国を頼ればいいのだ。数々の難題を解決してきた人々の、不可能を可能にしてきた人々の力を借りればいいのだ、と」
バフェットの大不況を乗り越える知恵、徳間書店、メアリー・バフェット、デビッド・クラーク、2010/3/19、p.114-115)


なるほどね、こう言う歯の浮くような科白をシラっと言えることが、肝要なんだと。

いえいえ、「シラっと」なんて言ってはいけません。

これこそ、「ビジネスの本質」なんです。「自尊心」と「マネー」の交換なんです。

これは、お客様との関係だけではありません。技術者である社員の人たちを含めたすべてのビジネスに関わる人々との関係において、これが成り立つ。これに気づいたことが、最大の収穫なのであります。

ともするといままで「ソフトウェアの良心」と言う形で、ソフトウェア技術者に「倫理」を求めてきたけれど、よくよく考えれば、オープンソースムーブメントを始めとした世界は、「プログラマの自尊心」に支えられている。

ビジネスの本質、ここにあり。長い長い時間がかかったけれど、ようやくわかった。ウォーレン・バフェットさん、ほんとうにありがとう。 KAI