March 28, 2010

毎日が戦いなんてなんて素敵な週末テニス

映画やテレビドラマのようなシーンなんて、自分の身のまわりには、まったくない。にもかかわらず、人は、事故を起こし、怪我し、毎日毎日傷つきながら戦っているのであります。

常在戦場。

やっとこれに目覚めた力士がいます。

朝青龍が土俵を追われ、三国志の一角を縫うがごとく頭角を現した、把瑠都。

相撲と言う、パワーバランスの中で、その礼節に欠けるとはいえ、朝青龍が占めていたパワーには並外れたものがあったことに、誰も疑いをさしはさむ余地はないのであります。

この朝青龍が、不本意にも引退させられた途端、一人の外国人力士にパワーバランスがまわってきた。以前の把瑠都の相撲は、琴欧洲に酷似していた。腰が高く、腕力に頼るから、廻しが取れないと手も足も出ない。

大相撲の醍醐味は、他の競技と違って、昔の柔道もそうだったわけですが、体重別にランク分けされないことにあります。小兵が大男を倒す。こんなことが、なぜできるのか。それは、自らの重心を大男の重心の中に入れることで、一見不可能に見えることが実現するからであります。

大男もこれは一緒。相撲の極意とは、重心を上下させずにいかに低く保てるか。この一点にあると理解して、大相撲の取り組みを観ると、勝負の分かれ目がどこにあったか、一目瞭然なのであります。

身長198cm、大男である把瑠都。いままでこれが理解できていなかったから、いつまでたっても腰が高い。

ところが一転、なにがきっかけとなったかは明々白々、見違えるように腰が低くなった。これが一番よく分かるのが、寄り切り。しこを踏む姿勢で相手を寄り切る。これができるようになると本物なのであります。

このきっかけは、やはり朝青龍の強制引退。実は、相撲の重心とは、身体の重心だけではない。身体の重心と、もう一つ、心の重心と言うものがある。この二つの重心が一致して初めて、いわゆる心技一体となるのであります。

常在戦場。横綱でさえ強制引退させられる。緩みきっていた把瑠都の心の重心を下げた。すると自然に身体の重心も下がる。不思議なもんであります。

そして毎日が戦いの中のオアシス、週末テニス。

土曜、4-6、4-6、3-5の3連敗は、なんともふがいない。これに発奮しないわけにはいかないと言うことで、日曜。6-2、7-6(8-6)、2-2と、2勝1分で少し挽回。

心と身体の重心を低くして、心と身体のバランスを取る、それが週末テニスなのであります。 KAI

March 27, 2010

なぜ冤罪がなくならないかよく分かった

足利事件で菅谷さんに無罪判決が出たばかりと言うのに、ここにもあそこにも冤罪事件はなくならない。

これなんかは、冤罪と言うより警察の悪質な犯罪としか言いようがない。

2006年3月3日午後2時30分頃、高知県高知市(事故当時は吾川郡春野町)で、道路左側のレストラン駐車場から出てきたスクールバスが、国道56号の交差点を右折しようとしたところ、高知県警交通機動隊の巡査長が運転する白バイと衝突し、白バイに乗っていた巡査長(当時26歳)が、胸部大動脈破裂で死亡した。バスの乗員乗客にけがはなかった。

スクールバス運転手(当時)が、安全確認不十分のまま道路に進入したことによって、事故を起こしたとして、逮捕・起訴されたが、運転手は、起訴事実はなく、バスは停止しており、複数証人もいるとして、無罪(冤罪)を主張した。

また、弁護士と一部メディア[1]が、交通事故鑑定人による検証実験、目撃者取材などを行った結果、「バスは動いていて、急ブレーキをかけた」とする警察・検察側の主張には疑義があり、提出された証拠は捏造された可能性が高く、当時、現場周辺では違法な白バイの高速走行訓練が行われており、事故は自損事故であると主張。一方、高知県警は、高知県議会や記者会見で、証拠捏造や白バイ側の過失を否定した[2][3][4]。

2008年、最高裁は上告を棄却し、禁固1年4ヶ月の刑が確定。元運転手は10月23日、加古川刑務所(交通刑務所)に収監され服役し、2010年2月23日出所。身元引受人が居るにも関わらず仮釈放が認められなかった為、満期での出所となった。
高知白バイ衝突死事故、Wikipedia

争点となっている、時速10kmで走っていたとするバスのブレーキ痕の写真を見ても、いったい裁判官の常識とはなんなのか、憤りを感じざるを得ません。KAIも毎日車を運転するけれど、一体どうやれば10kmで走っていて、1メートルものブレーキ痕をつけることができるというのか。

更に不思議なのは、白バイの速度。見通しのよい道路で、目の前にバスが進入してきたとしても、60km走行が本当なら、容易に停車できるスピードであるにもかかわらず、バスに激突している。

ここで警察の捏造、証拠隠滅を疑わせる決定的事実がある。それは白バイのブレーキ痕の現場写真が一切存在しないと言う事実。

普通の2台の車の衝突事故であるなら、双方の責任の有無を確認するために、両方同じだけの現場の証拠写真を保存するのが当たり前。それが白バイのものだけ、一切、ない。

これだけをとっても、白バイのスピードを隠蔽しようとする意図がありありなのがわかるけれど、裁判官はまったく考慮しない。

それどころか、逆に裁判官が最大限に考慮したのが、バスの運転手が半年前に起こした一時停止違反。おいおい、こんなことで判決がおりるなら、全員死刑だよ。

そして、つくづく分かった。

冤罪は意図して作られている


すでに最初に、誰かが「絵」を描く。すべてはここから始まっているのであります。

足利事件も、そう。この「絵」にそうように犯人を用意し、都合のいいDNA鑑定まで出てくれば、万事OK。

白バイ事件も、まったく同じ。バス運転手を犯人にする。この1点において、捜査がなされる。最初から白バイ警官は、「白」。

みなさん、犯人とされた人がそうではない可能性を探る刑事や検事が出てくるテレビドラマなんか、まったく信じちゃダメです。こんなことは、あり得ないのであります。

彼らがやることは、一旦犯人とした人間の、犯人である証拠集めであって、犯人でない可能性を示す証拠には、一切目もくれません。そのための捜査も徹底してやらない。それどころか、公判維持の名目で、白バイ事件のように、弁護側に有利となる証拠の隠滅さえ平気でやってしまうのであります。

これに裁判官も、根拠のない性善説で加担する。

どんなことをしても、ひとたび犯人とされてしまえば、よほど優秀な弁護士にでも出会わない限り、私たち一般庶民には検察、警察の魔の手から逃れるすべはないのであります。

なんとも空恐ろしい、背筋の寒くなる世界なのであります。

それでは、もし、無実であるあなたが犯人として逮捕されたら、どうするか。もちろんこんなとき、冷静でいられるはずはありませんが、理解するべきは、この「刑事は自分に有利となる捜査はしてくれない」と言うことです。決して刑事に話せば理解してもらえるなんて、甘い期待を持ってはいけません。この時点で、刑事は味方ではなくあなたを犯人に仕立て上げようとする明らかに「敵」なのであります。

この前提に立って、ここから刑事およびその後ろで捜査を指揮する検事と言う「敵」との戦いが始まります。

まず一番にすべきことは、弁護士と言う「味方」と連絡を取り、「刑事は自分に有利となる捜査はしてくれない」ことを自分の頭に叩き込み、いの一番に自分に有利となる証拠集めを弁護士に依頼することです。弁護士はこの証拠を元に即日拘留取り消しの準抗告の訴えを起こします。

次にやるべきことは、刑事や検事が描いているはずの「絵」を理解することです。これに、そうではないと否定するだけでは、勝ち目はありません。もし本当にあなたが犯人ではないのなら、この「絵」には必ずいくつかの矛盾があります。

これを理解したうえで、あなたが、あとやるべきことは、たった一つだけであります。

それは、真実しか話さない、です。

「敵」が描いている「絵」が見えていれば、あらゆる戦いの中で、「敵」があなたに期待している供述内容はあなたには丸見え。ここで「真実」のみ話して、絶対に「敵」の期待に応えてはいけないのであります。

さらにそれから、どうするか。

神はあなたを決して見放さない。これを信じて、ひたすら幸運を祈るのであります。 KAI

March 26, 2010

教育とは「創る喜び」と言う「感動の連鎖」

たまたま見たNHKの再放送番組、倉本聰の創る世界が、よかった。

 今夜(18)放送の『倉本聰の創る世界』(NHK総合 後10・00〜10・50)から。数々の名作ドラマを世に送り出してきた脚本家の倉本聰。NHKでは初めての新作ラジオドラマの脚本と演出に挑んだ「マロース」を再放送(初放送は09年の12月12日にNHK-FMで放送)が決まった。マロースとはロシア語で、“冬将軍”という意味。倉本自身のライフワークである自然破壊への警鐘をテーマしたラジオドラマで、原案は、半世紀前に「人間が作り出した化学物質が自然のサイクルを壊す」と訴えかけた米国の海洋学者レイチェル・カーソン著「沈黙の春」。そこに、鳥インフルエンザの問題を盛り込み、環境破壊の危険性を問いただしていく。

 今回のドラマ制作には、倉本の思いが深く込められている。自身が主宰する「富良野塾」が、この春閉塾するという大きな節目に、脚本家として第1歩を踏み出した「ラジオの世界」を見つめ直そうと思ったことがきっかけだった。昨年夏の執筆開始から秋の完成まで、その制作現場を詳細に記録、倉本ドラマの秘密に迫る。

 常に「自分は人の心に届くものを書けるのだろうか」という強烈な不安と闘いながら、自らを脚本創りに没頭させていく倉本。それはまさに己の心と精神力との死闘である。さらにラジオという音声だけの世界にも関わらず、実際に喫茶店を作って役者たちに演技させるなど、その演出に妥協はない。せりふ収録や効果音作りの至るところに倉本流の“創るこだわり”が詰まっている。

「“創る”ために、いかに“リアリティー”にこだわっていくか」、その決して“ぶれる”ことの無い強固な制作力が倉本ワールドを形作っていく。観客の心に寄り添う「作り手」であることを信条とし、何もない所から自由に想像力を働かせていく過程こそ“創る”ことだと語る。

 番組は、その創作の世界に密着して、北国・富良野から生まれる倉本ワールドの真髄に迫る。富良野の森や沼をモチーフに、30年あまり暮らしてきた倉本の思いが込められている。ラジオドラマの役者やスタッフには、富良野塾の塾生やOBが大勢関わっているほか、森田美由紀アナウンサーなどNHK札幌放送局のアナウンサーも加わった。

 ちなみにラジオドラマ「マロース」の再放送は、NHK−FMで3月27日(土)の後4・00〜4・50。またドキュメンタリー番組はNHK総合テレビで3月20日(土)の深1・50〜2・40にも再放送される。


ラジオ番組は、(マロース、zoome)とか、(ニコニコ動画)で聴くことができる。

この番組を見て、一番納得がいったのは、最後の場面。冬将軍(マロース)が鳥となって去っていく場面の羽音。倉本はこれを500円の透明のビニール傘で、仕立て上げる。これをスタッフの若い技術者達が横で見て覚える。

そうなんだよね。こう言う場面を、ドラマ作りを目指す若い高校生に見せれば、日本中に倉本聰の2世、3世なんか、あふれかえるのは間違いないのであります。

KAIも、中学生の技術の時間に、車のディファレンシャルの模型を見て、こんな仕組みの車を自分の手でも作ってみたいと、めちゃくちゃ強く思ったのであります。さっそく毎日設計図を書いてはゴーカート作りを夢見ていたのでした。

これが、高校生の時のアポロの月着陸で、無重力船開発へ興味が移ってしまったけれど、ここで火の点いた技術者の「創る喜び」が、いまも煌々と燃え続けていることは、あらためてここで申し上げるまでもないのであります。

倉本は脚本家だけれど、この「創る喜び」は、ハードウェア、ソフトウェア、コンテンツ、すべて一緒。

そしてこれを次の世代に伝えていく、教育も、この「創る喜び」と言う「感動の連鎖」以外にはない。むしろこれこそが、教育そのものの本質であるとさえ言えるのであります。

いまあらためて、「創る喜び」を若い技術者に伝えていきたいとの思いが、KAIの中でふつふつと湧いてくるのであります。 KAI

March 21, 2010

春分の日に週末テニス

自然の摂理の中で、人は生きている。この真理に、抗うことは、人はできない。

春分の日もまた、自然の摂理。であるからして、人は春分の日を彼岸の中日として、特別な日としてきたのであります。

もちろん、これを人が積極的に意識することはないのでありますが、気がつけば人の振る舞いとはこうした自然の摂理の中で執り行われていると言う事実は、当たり前と言え実に驚くべきことなのであります。

すなわち、日常あたかも自らの意志で墓参りをし、コンサートに行き、レストランで食事をすることが、実はすでに自然の摂理の中で約束された出来事で、ひょっとしてあるのかもしれない。

いまあなたは、なぜそのテレビを観て、流れる音楽を聴き、その場所にいるのか。当然、1ヶ月前からの約束の人もいるでしょうが、だからといっていまのいま、なぜそうなったかは何も説明されることはないのであります。

かように、人が生きると言う、一見偶有性に満々としたものに見えることが、実はまったく反対の自然の摂理と言うものにより深く、これが支配されているのではないのかと言うことであります。

そして、彼岸の中日をはさんだ三連休。道路は大渋滞。これもまた、自然の摂理なのであります。自然の摂理に逆らえなかったO谷さん、週末テニスに向かう途中の東名大渋滞で、40分遅刻。

そして、自然の摂理の結果は、7-6(7-5)、2-6と1勝1敗。なぜか最初からタイブレーク。これに辛くも7-5で凌いだけれど、これが「兆候」であったことは、翌日分かる。

日曜テニス。春の陽気と舞う風に悩まされる。いまひとつペースが上がらないから、着ていた上着を取って半そでシャツ1枚になったら、なんだか蓑から出た蓑虫、貝殻のないヤドカリ気分。なぜかサービスのフォームが全然決まらない。身体のバランスが、バラバラ。冬の間の厚着モードから、夏テニスモードへの切り替えが、第4セットになってようやく間に合う。と言う結果は、3-6、1-6、4-6、3-1と3連敗の後の貴重な1勝。

まことに人は、自然の摂理の中で、ひたすらに生きていくしかないのであります。 KAI

March 20, 2010

「脳化社会現象」とは社会が脳化する現象を言うのであります

世の中の大きな流れなんてものは、地球の自転と一緒で、流れと一緒の地上にいてはまるで見えない、そう言うもんであります。ですから、おそらくこれは誰の「センサー」にも、いまのいま、いまだ感応していない重大問題なのであります。

民主党の生方副幹事長解任騒動と、世間のツイッター気触れが、実はそれを端的に示す兆候であるのですが、いったいそれはいかなるものであると言うのでしょうか。

この二つの事例の特徴は、条件反射的、短兵急であると言うことであります。

解任騒動問題は、あとで説明するとして、問題のツイッター気触れ。

この「逆進」がうまく機能しなくなった理由も簡単です。ソフトウェアと言う技術の「逆進」とは、技術を身体性に近づけることを通り越して、身体性そのもの、すなわち身体化を意味しているからであり、身辺にあるモノを通して理解することは、もはや原理的に不可能になってしまったからです。

言わば、モノの技術の「逆進」が身体性といかに近づくかと言う距離空間問題であるのに対して、ソフトウェア技術の「逆進」は、過去の思考体験と言う身体内部における時間空間への「逆行」と言えるわけです。
(中略)
だとすれば、唯一の可能性は、「つぶやく」者たちには「スライス」可能なもう一つの身体があるとしか考えられません。これはまさにネット空間における、2チャンの「匿名」に継ぐ第3の自己、「実名」と「匿名」両方の性質を兼ね備えた、言わば「量子化した自己」であります。

なるほど、Twitterで何が起きているのか。それは身体の量子化と言う、凄まじい変化です。人は、果たしてこの環境にいかなる適応をし生存していくのでしょうか。他人事ながらまことに興味深い問題であります。 
逆進する技術、逆行する身体

ここに書いた「凄まじい変化」は、すでに20年前の私たちの会社の創業当時から、これを現実として受け入れ、現場に応用してきたからこそ、もっともこの意味を理解していると言えるのであります。もちろん、「スライス」可能なもう一つの身体が「公」の身体だから可能になった話ではありますが、この話はのちほどまた。

私たちの会社には、創業当時からのメールシステムがあります。

PCSと言うのは、プランニング・チェック・シートの略で、KAIが20数年前にKJ法に対抗して^^;考案し発展させてきた、問題解決技法です。

PCSでは、発生する問題項目をすべて、s項目、p項目、i項目のいずれかに分類して、そのそれぞれの項目毎に、発生日、期限、解決日、担当者、対策を明示する仕掛けです。これを初期の頃はA4横のワークシートに項目を10件記述できるようにして、利用していましたが、現在は1件、1件の項目をすべてメールで記述するルールに進化しています。

s項目とは予定項目のことで、例えばいついつまでにこのプログラムを作らなければいけないといった場合、このメールのサブジェクトは次のようになります。

s:6/20:/:kai:アウトバウンドコミッション計算オプション作成

p項目は計画外項目のことで、プログラムに不具合が発生したとか顧客からクレームがあったとかといった、予定外の問題が発生した場合に使用します。s項目でない、対策の必要な問題はすべてp項目に分類されます。

p:5/19:/:kai:出荷業務出荷作成機能不具合レポート

最後のi項目は、情報項目といって作業を伴わない項目です。いわゆる単なるおはなしです。

i:5/19:kai:SMBC担当者からTEL

KAIが現役の頃は(今も現役ですが^^;)、A4のPCSを常時100枚くらいかかえていて、その中の半分以上の項目に解決日が記述されていませんでした。つまり未解決のs項目、p項目が常に数百件あったと言うことです。

しかしそれでもまったくあせる必要がありませんでした。なぜなら“すべての問題が記述されている”からです。仕事を終え終電で帰る時も、問題がすべてPCSに記述されていることさえ確認すれば、会社のドアを出たその瞬間頭の中はプライベートモードに切り替わります。翌朝も簡単です。出社して一番の仕事がこのPCSをチェックすることです。期限によってプライオリティを決め一つ一つ淡々とこなしていきます。あっと言うまに終電の時間です。この繰り返しです。
久しぶりにPCS


ここにある不具合レポートだけではない。バグレポート、アドレポート、対応レポート、デモレポート、出退勤メール、勤務届け、掲示板、ありとあらゆる事象が、メールフォーマットに従い、リアルタイムに社内を流れる。

もちろん、顧客とのやりとりのメーリングリストも共有化され、24時間365日のコールセンターがこれをチェックする。いついかなるところにいようとも、私たちは「現場」に居合わせることができるようになったのであります。

かように、とうのむかしから、ツイッターがなくても、すでにリアルタイムの「現場」世界を、私たちは享受してきた。しかしこれはあくまでビジネスと言う「公」の世界でのお話しだから、可能であったこと。

20年遅れて出てきたツイッターの世界は、「公」ではなく「私」。この「私」と「私」が瞬時に繋がっていると言う、全能感。この全能感によるのかもしれないが、「私」としての「量子化した自己」には、どうやら麻薬的効果があるようです。瞬く間に常習化し、環境と化してしまった。

「環境の動物」と言う言葉どおり、私たち人間は、ほとんど無意識のうちに、自らを取り巻く環境に適応し生きている。当然のように、ツイッターと言う環境にも、適応し始める。

これで何が起きているのかと言えば、それは、条件反射的に入力情報に反応する人間の大量生産であり、脳の中でのニューロンのスパークネットワーク形成とまったく同様のことが、私たち社会でも着実に進行し始めていると言うことであります。

こう考えると、生方問題も、よく見えてくる。なぜ後先考えず短兵急な解任劇が起こるのか。もちろん後先考えていたら、こんなことは起こらない。この「短兵急」であることこそが、社会の脳化を示す典型的な特徴と言えるのであります。

これはなにもツイッターに限った話ではない。視聴率や世論調査への過敏な反応も、これまたしかり。一人一人の思考と言うポテンシャルを、社会は明らかに喪失しているのであります。

はてさて、この事態に私たちはいったいいかなる対処の仕方があると言うのでありましょうか。きわめて深刻な問題なのであります。 KAI

March 14, 2010

質素な生活が豊かなものを生み出す基礎になる週末テニス

KAIが世界の大富豪にランクインされたとしても(トーゼンあり得ない話ではありますけど^^;)、自信を持って言えるのは、着る物であり、毎日の食事であり、住まいであります。いわゆる衣食住。それは、KAIの生きている間だけ住めれば十分な家であり、毎朝納豆と焼き魚の食事であり、ユニクロの衣服で十分であることであります。

それはなぜか、このわけを明かす前に、同じことを考えていた人物がいました。

白川静。しらかわしずか。平成18年、96歳で亡くなるまで、生涯現役の漢字学者を貫いた男であります。

 長く研究を手伝った長女の津崎史(ふみ)さん(68)が、一般書として『漢字』(岩波新書)を出版したときのことを思いだして笑う。「担当編集者から、お願いだから活字にできない文字を減らしてくださいと頼まれました。とにかくゲタ(活字がないことを示すムムマーク)だらけですからねえ」
(中略)
 史さんの夫、幸博さん(64)は、義父のこんな言葉を覚えている。

 《質素な生活が、豊かなものを生み出す基礎になるんです》

【日本人とこころ】白川静と出遊(上) 漢字を読み解く知的冒険  (4/5ページ))、(同(5/5ページ)


衣食住の、例えばブランドであるとか、高級であるとか、はたまた豪華であるとかに拘る方々にとって、そもそもでもって衣食住そのものに、人生の目的たる価値を置いていると言わざるを得ません。キャピタルゲインで100億、200億の自宅をこしらえてきた創業オーナーたちの名前を列挙するまでもない話であります。これはこれで、人生の価値を、そういった金銭的、物質的なものの豊かさに置く限りにおいて、まったくもってなんら問題があるわけではありません。

しかし人は、ひとたび、豊かなものを「生み出す」こと、すなわち「創造の喜び」なるものにふれた瞬間、金銭的、物質的豊かさが害悪でさえあることを、直感的に理解することになるのであります。

これは、別に小難しい話でも何でもない。「創造力」の源泉は、センサー。五感はもちろん、第六感まで、研ぎ澄まされたセンサーを働かせることができる環境こそ、質素な生活をおいて他にないと言うことであります。

質素な生活は、また、ルーチンな日常でもあります。

創造的な仕事は、何か特別な環境で生まれるんだと勘違いしがちですが、まるで逆で日常のルーチンの繰り返しの中にこそ創造性を育む環境は、あります。

そう言う意味で、今朝の産経新聞のコラム「わたしの失敗」は全文引用したいくらい示唆に富む内容の記事です。

 千住が大きな壁を乗り越えられた理由は、もうひとつあるという。
「東京芸大時代に担任だった(日本画家の)平山郁夫先生から『どんなに描けなくても、毎日決まった時間にアトリエに入る癖をつけなさい』と言われたのです」。以来、どんなスランプの時も、朝早くアトリエに入り、にかわで絵の具を溶き、筆を並べ、絵を描く準備だけは続けてきたという。
「千年残る仕事」に萎縮(産経新聞、わたしの失敗 日本画家・京都造形芸術大学長千住博さん(49)、2007/8/21、p.17)


この「千年残る仕事」とは、大徳寺聚光院別院の襖絵を描く仕事です。千住博がこの仕事の指名を受け快諾したのはいいけれど、1年間まったく目の前の画面に筆を入れることができなかった。「自分には無理でした」と断るしかないと決断した瞬間、名誉と言う呪縛が解けて、絵を描くことが楽しくてしようがない高校生であった自分に戻っていた。

 「あの時、ふと心が楽になって描こうと思った瞬間、手元に筆がなければ、絵の具がなければ、絶対的なチャンスを逃していたかもしれない。襖絵は完成しなかったかもしれない」

こうして2004年春、6年の歳月を掛けた襖絵77枚が、聚光院別院に奉納されました。これをKAIはNHKの番組で見た記憶がありますが、それは壮大なものでした。

サブジェクトにあげた「日常が生み出す創造性」の日常を日課に置き換えても同じ意味です。この千住博の日課の中からアイデア、構想が生まれ、淡々とした6年間にも渡る日課の中から77枚もの壮大な襖絵が生み出されていったわけです。
日常が生み出す創造性

この千住博の体験もまた、「質素な生活」であり「ルーチンな日常」こそが、センサーが感応し、「豊かなものを生みだす基礎」となることを、如実に示すものであります。

週末テニスもまた、「質素な生活」であり「ルーチンな日常」なのであります。え?質素じゃないって、言下に却下。

今週は、久しぶりに雨の心配がない。気温も上がって、半そで気分も、汗をかくために上着は欠かせません。

そしてゲームは、絶好調。

土曜、6-3、6-2、7-6(7-3)と第3セットのタイブレークを制したのが、実に大きい3連勝。日曜、7-5、1-6、7-6と、コーチのシミズくんに貴重な1勝を上げての2勝1敗。

こんな週末テニスで、何が創造性なんて、言うなかれ。これがあるからこそ、1週間のビジネスがある。なんとも言いがたい、週末テニスと言う「豊かなものを生みだす基礎」を得た、幸せなのであります。 KAI

March 13, 2010

子育てとは、子を信頼することに尽きるのであります

今週は、初めての子育てに悩む新米ママとパパのために、とっておきの育児情報をお届けするのであります。

 育児の大変さは「今」「ここ」で待ったなしに、わが子の要求を受け止めなければいけないことであろう。乳幼児は楽しく笑ってばかりはいない。不安になり泣き出すと、自分をどうすることもできない。しかも、あるがままを出せる相手は、母親や、よくなじみ親しんだ人に限る。受け止めてもらうと不思議に落ち着き、ほっとするが、親が暗い眼でにらむと、萎縮(いしゅく)してしまう。

 子供の脳の発達は不連続である。頭囲が急に増大する時、脳も急に発達し、それに呼応して感情や行動の調節は悪くなる。特に胎児期、乳幼児期、思春期は脳がぐんと大きくなり、「キレ」やすさが高まるときである。赤ちゃんの胎動は強いほど元気な証拠。それと同じように、2歳前後の「いやだ!」も、12歳前後の生意気な反抗も、健やかなこころの印である。子供自身にとり、この時期は心身のバランスの崩れやすい時期でもある。

 育児はこの脳の爆発的な発達期に、特に難しくなる。子供自身が内部の変化に驚き、いつになく泣きわめき、母親にしがみつくからである。これは新しい認知行動機能が芽生える直前の2、3週間に起きる。
【母親学】慶應大医学部専任講師 渡辺久子(2)脳の発達と子供の「キレ」やすさ (1/2ページ)


人の成長とは、きわめて興味深いものであります。すでに30年前の結婚以来3人の子育てを経験してきたわが身にとって、あらためてこれを読むと、すべてが思い当たることばかりです。

しかも、この歳になって不思議なことに、子供を育てる自分ではなく、自分自身が幼い子供であった頃のことが鮮明によみがえってくるのであります。それは、言葉には言い表せないような癇癪に支配された、自分の気持ちをコントロールできない自分であり、そのどうしようもない思いを、母親にぶつけている姿であります。

KAIにとっての救いは、この記事にあるとおり、二十歳で結婚し3人の子を産んだ母親の存在であったのです。

教育者でありながら酒乱の父の暴力に苦しめられた母が、KAIに対して暗い顔を見せた記憶は、皆無なのです。全幅の信頼を与えてくれた母の存在なくして、今のKAIはないのであります。

 オランダの生態行動学者、プローイユ夫妻はこの時期を詳しく研究した。生後20カ月までに、どの乳幼児にも「退行期」(赤ちゃん返り)と呼ばれる母親泣かせのぐずり期が10回ある。飛躍的発達の前兆で避けることはできない。生後1歳ごろまでの退行期は、なんとか子供の気を紛らわせてしのげるが、1歳から1歳半にかけてはごまかしがきかなくなる。激しい癇癪(かんしゃく)を起こして母子は衝突し、育児ノイローゼや虐待につながりやすい。

 多くの母親はこの「退行期」に、「こんなはずではなかった」と自信をなくし、育児が楽しいどころか、赤ちゃんをかわいいと思えず苦しむ。このような育児の混乱が、全国約13・5%といわれる母親の産後鬱病(うつびょう)の背景にもある。

 育児に孤立は禁物。アムステルダムのスラム街の母子のために、プローイユは「ハードルを飛び越える」という名の子育て支援プログラムを実施した。虐待された生い立ちを持つ母子4〜8組を1つのグループに集めた。「退行期」には子供自身が不安でぐずるのだから、お母さんは決して自分を責めないように。また、この後に必ず新しい発達があるからあわてないで、毎日子供の様子をじっくり観察し記録しよう、と励ました。

 その結果、虐待の発生はゼロになった。そして母親が育児に興味を持ち、自信をつけた。「キレ」やすさや「赤ちゃん返り」は発達上意味がある。うまく育っていないと勘違いしてはならない。
【母親学】慶應大医学部専任講師 渡辺久子(2)脳の発達と子供の「キレ」やすさ (2/2ページ)


なぜ、人は必ずこの「退行期」があるのか。考えれば、これは赤ん坊が母親の覚悟、資質を問うていると言うことでは、ないのでありましょうか。

子に全幅の信頼を寄せる母親にとって、子の癇癪などへでもない。

しかしこれに耐えられないとすれば、どうなるか。

自分の成長の可能性ではなく、自分の生命としての生存の可能性に面舵を切る。

つまりは、そう言うことであります。

この母親の元で、生き延びることを最優先とするか、人の社会的価値の世界の住民となるかどうか、母親の持つ器量しだいであるのであります。

もちろんパパの存在も、無視できません。パパがこの一生懸命の母親の子育ての邪魔をするのも、同罪です。逆に味方であれば、アムステルダムブローイユ同様の役割も可能になるのであります。

器量を持つことができたママたちには、次のステップが待っている。

今、話題になっている脳科学に基づく久保田カヨ子さんの「0歳からの教育法」ってご存知ですか?ご存じでない方のために、ご紹介したいと思います。どなたでもご家庭で簡単にできるものばかりですが、全て、脳科学の理論に基づく教育法です。

久保田カヨ子さんってどんな人?

独自の「天才児教育法」を確立し、息子を東大へ
夫は脳神経科学の世界的権威である京都大学名誉教授の久保田競氏。そこで、カヨ子さんは、夫の文献を基に脳科学を学び、昔ながらの子育て法が脳の発達に大きな効果があることを確信し、独自の「天才児教育法」を確立しました。

その教育法で教育された息子の広さんは、7ヶ月で歩き(通常1歳前後)、1歳で3000単語しゃべり(通常 2〜3歳)、2歳でひらがなを読み(通常 3歳〜6歳)、最終的には東大に合格。

カヨ子さんが言うには、「子どもはみんな天才であり、それを天才じゃなくしていしまうのは親次第。脳の発達が最も著しい1歳までが天才児教育に最適であり、そこで、一生の脳の働きが決まる」ということです。

0歳育児教育法7ヶ条

赤ちゃんの脳を育む本(主婦の友社)
著者:久保田競
夫の久保田競氏の著書「赤ちゃんの脳を育む本」の解説を交えながら、ご紹介します。

1.オムツを替える時は必ず声をかける

「おむつを替えて気持ち良くなったね」と気分のいいことを表わす言葉は何度も繰り返してあげましょう。話す技術がないだけで、言葉を話す脳の機能はすでに働いています。

たとえ、言葉の意味はわからなくても、母親の声の調子や表情で、それがどんな意味を持っているのかを神経回路は理解しているので、赤ちゃんの表情も豊かになってきます。

2.「いない いない ばあ」は1日に5回以上やる

赤ちゃんの知的な発達を促す遊びとして重要な意味を持っています。何かに視線を集中し、物事を期待して待つという行動は前頭連合野の訓練に最も適しているということです。

3.子供の服はカラフルなものを着せる

赤ちゃんが最初に認識できるのは赤、青、黄の三原色です。次に黒、白、いろいろと複雑な色が区別できるようになってきます。多くの色を見せることが重要です。

4.なるべくおんぶする

運動能力に不可欠な平衡感覚を養うのに有効です。おんぶをされることが、成長後の運動能力に影響を与えます。

5.幼児語を使わない

赤ちゃん言葉を覚えることは赤ちゃんの脳の無駄遣い。正しい言葉を覚え直さなければならないので、最初から正しい言葉で話しかけることが言語力を高める秘訣です。

6.箸や鉛筆などはいきなり持たず、まず正しく使っているのを何度も見せる

ミラーニューロンシステムを鍛えることになります。ミラーニューロンシステムとは、動作、駆動を見て、理解して、真似をするシステムで、真似をすることは創造性の発達を促し、前頭連合野の発達につながっていきます。

7.どっちが好き?と、質問する

人生はどちらを選ぶかということの連続で、決断は前頭連合野の最も重要な働きのひとつと言われています。
脳科学に基づく0歳児教育 久保田メソード


たとえ0歳児とは言え、子供との信頼関係なかりせば、すべての人間の成長は始まらないのであります。 KAI

投稿者 kai : 08:59 PM | トラックバック

March 07, 2010

幸せの同窓会的週末テニス

今週は、天気予報で見る限り土日、激しく雨。土日両方ともテニスができないのは、久しぶりと言うか何年かぶりと思っていたら、やはりそうはならなかった。

土曜は用があって、朝の8時頃から埼玉まで出かけていた。もちろんすっかりテニスは諦めていたのに、9時現在、埼玉現地は雨が上がって明るくなってきた。用が済んで東京へ向かう高速の中からY木さんに電話すると、できそうだよとのこと。これは、完全にあきらめていたKAIのフォースではない。あきらかにY木さんのフォースであります。

かようにフォースとは、日頃から周りの人たちに伝播することを実感して、10時ちょっと遅れてゲーム開始。ときおり小雨が降るも、まったくもって影響なし。結果は、6-0、1-6、1-6、4-3と辛くもネモトくん相手に1勝をゲットし、まずまず。

ゲームが終わるのを見計るように、また雨脚が強くなりだした。本日はこのあと、毎年恒例の同窓会につき、アンジェロの生ビールもほどほどにして、帰宅。洗濯を終え、いそいで出かける。

といっても、今年の開催地は東京新宿。車で30分。ワシントンホテルの駐車場に車を入れ、チェックインを済ませて、新宿3丁目のすし屋へ移動。6時開宴にぎりぎりまにあった。

今年の参加者は8名。遅れて名古屋と新潟からの2名が到着して、全員で乾杯。

みな、もういい年になってしまった。なんとも言葉にしようのない心地よい空気の中で、3時間があっと言う間に経つ。店を出てゴールデン街をぶらぶらとぬけ、2次会の昭和の雰囲気漂う生バンドのカラオケのお店に到着。今年の幹事のタマコシくんが通う、30数年来のお店。広い店内に先客は1組だけ。あとから1組、2組と少し混む程度で丁度いい塩梅。

歌の順番を取り合う風もなく、思い思いに自分の持ち歌を歌っているうちに、これまたあっと言う間に、午前0時。シンデレラはお家に帰らなければ、ということで、ホテルの一室での3次会のための酒をコンビニで買い込むみんなを尻目に、一人タクシーに乗り込みホテルへ帰って、ばたんきゅう。

目が覚めたらすっかり6時を廻っていた。朝食券で一人和定食をいただいたあと、チェックアウト。みんなはこれから新宿観光だけれど、こちらは日曜テニスがあるので、お先に失礼する。しかし、今朝も天気予報通りの、あいにくの雨。

もちろんテニスが始まる12時頃になると嘘のように小降りになって、やろうと思えばできたんだけど、さすがに2日続けてとまではと中止にする。わざわざ柏から2時間かけて出かけてきてくれたイサカくんに、一緒に砧公園を走りませんかと言ったけれど、断られて一人で一周。

走り終わって、クラブハウスでテレビを見ながら待っていたイサカくんと二人でアンジェロへ。このあと羽田までひとっ走りしないといけないから、生ビールはパス。

羽田から帰ってきて、洗濯しながら風呂に入ると、時間は丁度夕方6時。

ゆっくり晩酌をしながら、これを書く。

なんとも心地よい週末なのであります。 KAI

March 05, 2010

保守を考える(2)

KAIは、和田秀樹と言う人物がどういった方であるか、まったく存じ上げないのですが、さすがにこんな次元の低い議論を公にされては、文句の一つや二つ言いたくもなるってもんであります。

 小泉純一郎内閣以降、自民党はむしろ改革政党を身上としてきた。保守政治家の代表格に思われがちな安倍晋三氏ですら、「改革をやめるな」がスローガンだった。従って、前回の総選挙での民主党圧勝は、民意が自民党の「改革」以上の改革を求めて政権交代を望んだのか、逆に「改革」以前の自民党のような政治を求めたのかを十分に分析すべきだろう。

 「保守」が日本の良さを守るという意味であるなら、いつの時代の日本の良さを守るのか、ということも考えないといけない。それは、戦前、あるいは長い歴史を持つ国としての日本の良さである以上に、自民党の長期政権時代の良さなのではないか。かつての日本は、多くの国民にとって、そこそこ満足できる国だった。だからこそ、自民党も長期政権を維持できたのだろう。
(中略)
 ところが、日本はその失敗した教育改革の後を追い、国土の広さや天然資源がない分だけアメリカ以上に重大な学力低下や産業低迷の高い代償を払うことになった。

 経済面でも日本のアメリカ型の「改革」の結果、人々が格差社会と感じるような社会が生まれ、製造業も外需依存を強めた。外国の景気が悪いとたちどころに不況に陥る構造と化した。さまざまな民営化は、財政上のお荷物を解決することになったが、赤字部門の撤廃で、結果的に地方の交通網その他が大打撃を受け、地方と首都圏の格差の拡大につながった。

 私の考える保守とは、このような弊害をなくし、日本の良さを再建するモデルの提示であるが、もちろん一例に過ぎない。ただ冷戦後の保守は、単純に、資本主義を守るといった意味だけではなくなった。自民党の掲げた保守主義に期待するが、その際、何を守る「保守」なのかを国民に提示することこそ、夏の参議院選挙で、国民に示す選択肢になり得る道と考える。
【正論】精神科医、国際医療福祉大学教授・和田秀樹■自民党は「保守」で何を守るのか

デマゴーグとしてならまだしも、大学教授たるもの、いったいいつまで、この取り上げるだけで腹立たしい小泉改革が格差を生んだと言うデマを、検証もせず固定化して繰り返すのか。

おまけに、「保守」を、「日本の良さを守る」とか「日本の良さを再建する」と言うのは、これは単なる「復古主義」であり、そもそも「保守」と「改革」を較べてこれを対立する概念ととらえること自体、はなはだ失礼ながら小学生並みのご理解としか言いようがないのであります。

伝統とは何かに関しては、能や歌舞伎のような実体を伝統とする説から、生き方・精神の形・言葉づかいの規則のような形式を伝統とする説まで諸説ある。だが、保守主義や保守的といった言葉が指すのは、特殊な場合を除いて、この政治思想としての保守主義である。対立する概念は、革新と呼ばれる現状変革を求める考え方である。保守主義は、変化を求める側からは批判的に守旧派・反動派と呼ばれる場合がある。だが保守主義は、以下に見るように、単なる現状維持としての守旧や復古主義的な反動とは異なる。[要出典]

フランス革命当時の保守主義は「今あるアンシャン・レジームとレッテル貼りされた諸制度は、遠い過去からの取捨選択に耐えてきたものであり、これを維持存続させることが国民の利益になる」(とする主義)と定義されていた。

「維持せんがために改革する」というディズレーリの言葉や「保守するための改革」というエドマンド・バークの言葉からも明らかなように、保守主義は漸進的な改革を否定せず、過去に獲得されてきた市民的諸権利を擁護する。
保守、Wikipedia


このウィキペディアの記述を持ち出すまでもなく、「保守」と「改革」とはまったく次元の異なる概念であり、「保守するための改革」と言うように、互いに両立し補完し合う概念なのであります。

これを正しく理解するための基本的考え方は、ここにすでに書いてあります。

自民党が「正しく再生」できるたった一つの方法とは


この池尾和人先生の講義録を読めば明らかな通り、私たちの社会と言うものは、世界的大潮流の中にあって、いまのいまも激しく変化していると言う認識であります。

つまり、「保守」とは何であるかの「定義」いかんに関わらず、「保守」の主体たる私たちの社会は、常に「変化」していると言う事実であります。

この社会が「変化」していると言う事実に立てば、いかなる社会を理想とするかは、たった二つの結論しかあり得ないのであります。すなわち、「変化」を受け入れた社会か、「変化」を受け入れない社会かであります。

「変化」を受け入れないとは、簡単に言えば現状否定です。現状を否定するところに私たちの理想とする社会があると考えるわけです。

ですから、「改革」にも二つあって、現状を受け入れ「変化」に対応するための「改革」と、「変化」とは無関係なところで理想社会を目指す「改革」。これこそが、逆説的に、「保守」と「反保守」を定義することになるのであります。もちろん前者が「保守」であり、後者が「反保守」であるのは言うまでもありません。

人の価値観とは、多様です。同様に、私たちの社会とは、多様であり、また多様であるべきであります。「保守」とは、この社会の多様性を受け入れ、これを維持する思想であり、逆に「反保守」思想が、(特定の価値観に依存する)理想社会と言うかたちでの社会の多様性の否定に繋がっていることは、誰が考えても明らかなことであります。

今の民主党の恐ろしさの本質は、まさにここにあるのであります。 KAI

March 03, 2010

なぜ石原慎太郎は季節感を喪失してしまったのか?

石原慎太郎が、二十四節気に異議を唱えている。

 以前から気になっていたことだが、テレビなどでの気象予報の折に聞かされる大寒とか、立春、啓蟄(けいちつ)といったいわゆる二十四節気とその折々に我々が生活の中で感じる季節感に誤差といおうか、実際の季節感と節気の呼称の間にギャップがありすぎる。

 例えば今年の小寒や大寒は一向に寒くはなく、逆に立春にいたって今年の冬一番の寒さに悩まされた。これらの節句は、太陽の動きを元にして地球と太陽の位置関係を二十四等分してもうけられているが、これが積雪の多い雪国などではまた一層違って、我々が太平洋側の都会で味合う実感とははるかに隔たりがあるに違いない。

 いずれにせよこれら二十四節気は、一部をのぞいてどうもその呼称と季節感にへだたりがありすぎるような気がしてならない。
【日本よ】石原慎太郎「正確な二十四節気を」

確かに今年の大寒と立春は、おかしかった。しかしこれはKAI的には、「カオス」の典型的な現象であって、おかしくもなんともないのであります。

大寒の日と、立春の日が逆転してしまった。大寒に記録的暖気、立春にこれまた記録的寒波。

このフェーズが逆転する現象をして、これを「カオス」と呼ぶのであります。

もとより、気候変動なるものは、複雑系そのものであります。これはしかし、複雑系ではあるものの、大局的にはけっこう安定しているもの。これが「カオス」的徴候を示すのには、なんらかのわけがあるわけです。

それは、「新しい秩序の誕生」です。
新しい秩序誕生の予感

これに対して、石原は、こう主張する。

 いずれにせよ現行の節気や節句と現実の季節の味わいとの間に誤差が感じられるのは、一つははるか離れた中国の季節に関する言い伝えを鵜呑みにしてしまったのと、旧暦を新暦に変えたことに所以(ゆえん)してる。

 ということで、太陽の動きを十五度ごとに区切ってものされたという二十四節気を、気象観測の技術が進み気象のデータが豊富に取り揃えられたこの現代で、その呼称なり節気の設定の月日なりを修正したらどうだろうか。そうすることで我々は、この変化に富んだ日本の風土を覆う季節をより深く親身なものとして味わうことが出来るに違いない。それは民族の情操を強く育むためにも必要なことではなかろうか。
【日本よ】石原慎太郎「正確な二十四節気を」

要するに、今の二十四節気が、現実の「石原慎太郎」個人の感性と誤差があるから、改善すべしとな。なんとまあ、放漫な主張だこと。

知事には、ぜひ、毎朝の散歩をお勧めしたい。

このKAIのブログにも、二十四節気はたびたび登場するけれど、早朝の空気の中で感じる二十四節気は、まったくもって、いまだ何ら変わらないそのままの二十四節気であるのであります。

石原にとって不幸は、この五臓六腑の五感ではなく、ただ「脳」の中の知識だけで、ものごとの理路が決まるとする、おおいなる勘違いです。

すなわちこれは、二十四節気そのものが季節感を喪失しているのではなく、石原慎太郎と言う個人の「季節感の喪失問題」そのものであるのであります。

なぜそんなことを断定的にいえるのか、訝しがられる方も当然のようにおられるでありましょうが、話は簡単です。

大寒の日と、立春の日が逆転してしまった。大寒に記録的暖気、立春にこれまた記録的寒波。

確かに、KAIは、こう書いている。

しかし、季節が「逆転」することと、季節感が「ずれる」こととは、本質的な意味が違う。にもかかわらず、これを、節気の呼称や月日が「ずれる」ことと混同し、おまけにその「ずれ」解消を訴える主張の根拠とまでする。

これが、石原慎太郎の「前頭葉」の仕業であることは、まず間違いありません。

かようにこれは、現代に生きる知識人の、病理と言うものなのであります。

突然ここで、ウチダ先生について言及するわけでありますが、KAIがなぜ、常日頃ウチダ先生の論に着目しているかと言えば、唯一彼こそが、この「知識人の病理」を克服した言論活動を実践しているからであります。

もちろん光明なる読者の方々にとって先刻ご承知とはいえ、この根拠が、ウチダ先生の実践する、合気道と言う武道にあるのであります。

KAIにとって、週末テニスがそうであるように、前頭葉ではない、そのフィジカルな体験こそが、すべての論の根拠となるのであります。

そうではなく、ただ前頭葉だけに支配された世界が、いかに脆いか、ぜひとも慎太郎は、この原点回帰が必要なのであります。 KAI