世の中のサラリーマン諸氏は、仕事用にスーツをいったい何着用意しておられるでありましょうか。
KAIは、これが3着であるのですが、これにスペアのズボンが一つあって、この3着4本を1週間つまり5日、交替で着たおしてきたのであります。
しかし、今週、このサイクルに、破綻が生じてしまった。
そりゃ無理もありません。今回の破綻の原因となった、3着のうちの1着は、これをすでに東京駅大丸でオーダーメイドしてから10年以上がたつ。もちろんずっと着用していたわけではなく、オーダー当時の出来上がりに満足できなくて、長い間ハンガーにぶらさがったままでいたものが、数年前、別のスーツが使えなくなり、やむなく現役に呼び戻されたものです。
このズボンの尻が、突然予告なくL字状に裂けてしまった。
もはや残ったスーツでまわしていくことは、不可能。
更にこれに追い討ちをかけるかのように、日曜日の夕方から、仕事が入ってしまった。まさか、唯一休日用の半ズボンで出かけるわけにもいきません。
かくして、一大決心をば。目黒駅の駅ビルにあるユニクロに出かけた。
なにせ上京以来、東京駅大丸以外でスーツを買ったことは一度もないと言うし、それも数年毎だから、別に上顧客でもなんでもないわけです。
もちろんユニクロにスーツを求めに向かったわけではありません。上着はなんとかなるでしょうから、ズボンと、ついでにこれも襟首の擦り切れが目立ち始めたシャツを調達するのが目的。
ありました。事前にネットで調べたチノパン。サイズは一番でかい100/85。100はウェスト。85は股下だそうです。これを試着して、ぴったし。このサイズがあるのが4色のみと言うことで、4本持ってすそ上げをお願いする。
そしてシャツ。こちらのサイズも、一番でかいXL。こちらもサイズがあるのが白を含めて5色しかない。試着OKとのことで、首筋の汗がつかないように気にしながら、これもぴったしかんかん。
しめて2万2千円。パンツに至っては、1本2千円もしない。これで4年はもつから、なんともお得。
ズボンの直しに、待つこと1時間。受け取って、帰りの車を運転しながら、思わずにやにやしてしまった。
すべて大満足かと言えば、そうではない。店員の対応が、悪すぎ。
KAI以外は、このお店に通いなれた女性客であふれ、もくもくと品定めをして廻っている。一人根掘り葉掘り質問するKAIに、いちいちめんどくさそうに応対する男性店員。恐らくデパートのように付きまとわないと言うマニュアルがあるのでしょうが、こちらは、付きまとってほしいの。なんでこんなことが敏感に感じ取れないんでしょうね。
お店は人が基本のKAI。こんなことでは、ユニクロの未来は、決して明るくないと申し上げる他はないのであります。せっかくいい商品を出しながら、まことにもったいないことであります。
もちろんこれは、他山の石、人の振り見て我が振り直せ。努々忘れてはなりません。
と言うことで、忘れない週末テニス。
土曜、落ち葉がすごい。テニスコートの周りの道路が、落ち葉であふれている。いよいよ冬本番。と言うわりに、暖かい。絶好のテニス日和で、結果は6-2、4-6、1-6、1-0。ネモトくん相手に、いまひとつ詰めが甘かった。
日曜。天気予報は、くもりのち雨。さいわい正午にはまだまったく雨の気配がない中で、スタート。結果は、7-5、6-2、2-6と、まずまず。なにせ今日は夕方からお出かけの予定につき、無理せずほどほどにがよかったのかも。
同様、アンジェロも、いつもの生ビール、1杯でがまんがまん^^;。もちろん2杯でも、サウナ2時間の間にすっかり抜けるけど、今日はそんなゆとりはありません。家へ帰って洗濯して、買ったばかりのユニクロのパンツをはいて、るんるんお出かけ。
用事が終わった午後10時。外はすっかり、冬の雨でありました。 KAI
ぬけぬけとデフレ宣言とは。
「政権交代」が現実となったあの晩、ここにすでに書いたことであります。
もうこれは間違いなく、再びデフレ突入です。
(ずっしり重い、塩焼き用鯛の切り身が398円)
そもそもデフレとは、いったいなんなんでしょうか?
デフレーション(deflation)とは、物価が持続的に下落していく経済現象を指す。 デフレとも呼ぶ。物価の下落は同時に貨幣価値の上昇も意味する。同じ金額の貨幣でより多くのものを買えるようになるからである。なお、株式や債券、不動産など資産価格の下落は通常デフレーションの概念に含まない(参考:物価)。
(デフレーション、Wikipedia)
つまり、デフレの反対のインフレは、モノの値段が高くなると言う「痛み」を伴うから、具体的な実感があるのに対して、デフレにはこの「痛み」がない。
これは一見、消費者には都合が良いように見えるけれど、事態はまったく逆。デフレで貨幣価値が上がっても、この貨幣自体の手取り、すなわち収入は逆にじりじりと下降する。手持ちの減ったお金でやりくりしなくてはいけないから、結果的に物価の下落の恩恵は減じられるか、あるいはまったく恩恵とはならないのであります。
これを人間の身体にあてはめれば、物価とは体温であり、収入とは血圧です。この体温も血圧も両方低下すると言う、身体にとって生命を維持できるかどうかの危機的状況にあると言うことであります。
先の衆院選挙の前から、この傾向は顕著であり、いずれの政権にとっても最重要課題であったわけですが、この認識を著しく欠く民主党が政権を取った瞬間、運命は決したのであります。
とは言え、処方箋がないわけではないと、KAIは考えています。
人間の身体であれば、体温を上げようとすれば、まず血圧を上げるしかない。同様に消費者の収入を増やすことが、物価の下落に歯止めをかけることに繋がることになります。当然消費者の収入を増やすことは、その源泉である企業の収入を増やすことであり、これ以外に方法はありません。
こんなことは、当たり前。みな企業の収入をいかに増やすか、これに頭を悩ましているんだよ、ボケ。なんてお叱りを受けそうですが、はたしてほんとうに「このこと」にみなさん頭を悩まして努力しているんでしょうか。
そもそも、「一律に」企業の収入を増やす方法なんて、あるわけないじゃありませんか。
あるのは、「個々の」企業の収入を増やすことであり、しかもこれを考えてやるのは、その個々の企業の経営者であり、従業員であります。国や銀行は、この一点に集中してこれを間接的に支援する。ただこれだけであります。
しかし、ただこれだけであるにもかかわらず、これが全くできていない。できていないどころか、思いっきり足を引っ張ってばかりいる。例えば、規制緩和ないし撤廃。驚くことにこの発想自体が、皆無。次々と事業凍結や事業仕分けで、企業の収入となるはずの事業をカットする。どいつもこいつも、まったく分かっていない。
いまのところ「個々の」企業の収入に貢献する政策は、唯一モラトリアム法案だけ。これのどこが企業の収入に貢献するのか、亀井エライ大臣以外は誰もまったく理解できていない。
中小企業にとって、収入とは、単に売上だけではありません。マイナス支払もそのまま立派な収入となります。銀行への返済は、毎月発生するもの。これが3年間猶予されるだけで、毎月の返済分の収入が3年間保証されたことになる。
こんな直接的に実効性のある方法は、他にはまったくないのであります。
それにしてもであります。
一体全体、日本経済は、どうなっていくんでありましょうか? KAI
シンクロニシティは続く。これも、連日のシンクロニシティ。
では「表の技術」とは何か。それはすなわち、ネットワークであると山田氏は説明した。たとえば携帯音楽プレーヤーを例にとって考えてみると、おそらくアップルのiPodの初期製品とソニーの同じ時期のウォークマンを比較すれば、ウォークマンの方が圧倒的に細部の作り込みは巧みにできていた。iPodにはケースのかみ合わせがずれていたり、バリがとれていなかったりするような製品が平気で混じっていたが、ウォークマンにはそんな不良品はいっさいない。
しかしiPodにはウォークマンにはない魅力があった。それがネットワークだ。音楽配信サービスのiTunes Storeと楽曲管理アプリケーションのiTunes、それに機器のiPodがシームレスにネットワーク化されることによって、どこでも自由に音楽が聴けるという環境を作り上げていたということだ。
(日本ITの国際競争力)
このネットワークは、今に始まった話では、もちろんありません。
例えば、テレビと言う商品。放送網と言うネットワークがなければ、これはただの箱、いや板(パネル)に過ぎません。そもそも電化製品自体、電力網がなければなりたたない。車と言う商品もしかり。高速道路を基幹とする道路網と言うネットワークに、これまたすべて依存している。
もともと、ありとあらゆる商品は、その商品が持つ「ネットワーク」こそが、そのままその商品が持つ付加価値となるのであります。
生鮮食料品でさえ、これは成り立ちます。すなわち、生鮮品の生産者と消費者との間を、もっとも効率よく結ぶ流通ネットワークが、生鮮品の価値を最大化するのです。
そしてここで一番重要なことは、このネットワークに付加価値を与えているのが、国や会社といった組織ではない、このネットワークを構想し、構築した一人の個人が持つ「意志」にあると言うことであります。
iPodやiPhoneのネットワークには、スティーブ・ジョブズの「意志」が。生鮮品のネットワークには、流通の革新を夢見続けてきた一人のスーパーマーケット経営者の「意志」が。
この強力なる「意志」が、ネットワークに参画する一人一人の心の共鳴となり、ネットワークの力となり価値となって行くのです。そしてこの共鳴とは、人々の『笑い、感動、感謝、生き生きワクワクした気持ち、さらには、敬虔な祈り』の意識の共有であり、これこそがネットワークを通した自然の贈与たる「人間的成長」の本質であり意味であります。
なるほどね。万事が万事、すべてはここに繋がっていく。
そして、もう一つのネットワーク、感動の週末テニス。
土曜。3連休初日につき、O谷さんが所用でお休みのため、いつものダブルコーチ。結果は6-3、6-2、2-3と、絶好調。
日曜。本日は、夢株式会社設立から3周年記念日。こちらもやっとネットワークが立ち上がってきた。石の上にも三年。まったくこれは間違いありません。
肝心のテニスは、お休みのM田さんに替わってシミズくん。コーチのシミズくんの調子がよすぎると言うよりも、こちらのペースが上がらないまま、結果は、6-2、0-6、2-6、2-3とシミズくんの4連勝を許してしまう。
たまには、コーチに花を持たせるのも、大事な「仕事」なのであります(イイワケ)。 KAI
これはもうシンクロニシティの力としか言いようがない。
商業というのは本質的に等価交換であり、そこからは何も富は生み出されない。重農主義者たちはそう考えた。
「『純粋の商業は・・・等しい価値と価値との交換にすぎず、これらの価値にかんしては、契約者どうしの間には、損失も儲けもない。』なぜなら、『交換は何ものをも生産せず、つねにひとつの価値と等しい価値の富との交換があるだけで、その結果真の富の増加はありえない』(ケネー)からである」(中沢新一、『純粋な自然の贈与』、講談社学術文庫、2009年、100頁)
ところが農業生産だけは富をつくりだす。
「農業では地球が創造をおこなからだ。大地に春撒いた百粒の小麦種は、秋にはその千倍の小麦種に増殖をおこなう。この増殖分から、労働に必要だったさまざまな経費や賃金をさっぴいても残るものがある。ケネーが『純生産物』と呼んだ、この増殖分こそが、農業における剰余価値の生産をしめしている。」(Ibid.)
マルクスも、富の増殖については、流通過程以外のどこかで剰余価値が創造されていることについてはケネーと同意見だった。
だが、重農主義者とは違い、マルクスは「自然の贈与」ではなく、「労働力」が富の源泉だと考えた。
労働力は「ピュシス」の力である。
外部の自然は、労働者の身体を通して、贈与を行う。
「労働者は、商品という形に物質化された労働を、資本家に売っているわけではなく、この抽象的なピュシスの力である労働力を売っている。ここに資本主義世界における、剰余価値発生の秘密が隠されている。」(106頁)
(ピュシスの贈り物)
これは、人類が生み出した、まったく新しい第二の「アグリカルチャー」だったのです。
自然が与えた「ソフトウェア」と言う生命を、「アプリケーション」として育てること。これこそがプログラミングの意味だった。
もちろん、プログラミングと言っても、オフラインのアプリケーションではない、インターネット上の成長するソフトウェアとしての自己組織化アプリケーションのプログラミングのこと。
そして、このアプリケーションのネットワークに参画する人たちが、「人間的成長」と言うこの自然の贈与を享受できる。
つまり、クラ交換という何の富も生み出さない無限交換のプロセスにおいて、「外部の富」は、共同体のネットワーク形成と儀礼参加者たちの成熟というかたちで世界に滲出しているのである。
ビジネスの場でゆきかっている商品やサービスや情報そのものは富を生み出すわけではない。
そのようなビジネスを行う相手を安定的に確保するためには、そこに「共生」の関係がうちたてられなければならないということと、ビジネスを円滑にすすめるためには当事者に人間的成熟が必須であるということが、ビジネスのもたらす「外部の富」なのである。
(ピュシスの贈り物)
もうこれは、20周年記念的お話そのものではありませんか。
ここでウチダ先生が書く「人間的成熟」こそ、KAIの言う「人間的成長」です。すべてはここに帰すると言うこと。
なるほど、ビジネスをこの次元にまで高めることと、ビジネスにおける成功とは、まったく同義のことであったのであります。 KAI
今週は、なにかと20周年の話題が続く。9日、ベルリンの壁崩壊記念、12日、平成天皇即位記念。そして来月12日は、私たちの会社の設立から20周年。
20年前、13年間勤務した前職の後始末と新会社設立のごたごたの中で、当時周りで何が起きていたか、今から思えばほとんど関心がなかったとしか思えないくらい、さっぱり記憶に残っていませんでした。
なるほど、思い出しました。1989年1月7日。昭和天皇崩御。翌8日、平成の元号を発表するあの小渕さん。そして昭和の終わりに呼応するかのように、この年ベルリンの壁が崩壊したのでした。
この20年前に始まった、平成と、「壁」の崩壊が象徴するグローバリズム経済の跋扈。そして私たちの会社。共通するキーワードは、オープン。開かれた皇室であり、ワールドワイドのオープンマーケット。私たちも社名も社是も、オープン。
そしてあれから20年、平成もグローバリズムも、私たちの会社も、いますべて大きな正念場を迎えているのは間違いありません。
それにしても、私たちの会社です。
このところのひらめきが、この私たちの20周年の意味を、なるほどそうだったのかと教えてくれる。なぜ20年もの歳月が必要だったのか。これがやっとわかりました。
人間的成長。『笑い、感動、感謝、生き生きワクワクした気持ち、さらには、敬虔(けいけん)な祈り』の意識。アプリケーション概念の拡張。
これらすべてが、いま明確に繋がりました。
なるほど、このために20年と言う歳月を要したのかと。
これを一言で説明できるほどまでには、まだまったく消化できていませんが、私たちが志向したアプリケーションのサービス化と言うネットワークを拡大するために、このネットワークに参画するプログラマ、ユーザー、サポート、営業の、すべての人たちの「人間的成長」を待つしかなかったと言うことであります。
この「人間的成長」こそが、要だったのです。
しかも、プログラマやサポート、営業と言ったいわゆる「社内」の人たちだけではなく、ユーザーはもちろん、これからユーザーになるであろう人たちまでを含めた、ネットワークに参画するすべての人たちの「人間的成長」を待つしかなかった。
これにやっといま、世間が追いついてきたと言う他はありません。
しかし、それにしても長かった。しかもなぜ、ユーザーまでも含んだ「人間的成長」なのか。この意味がいまになってようやく理解できたのですが、サービス開始当初から、この事業の根幹がユーザーとの関係性にあることは気づいていました。これがいま霞が晴れるように、その意味が明らかになったのです。
ただ、これをうまく文章にできない。できないと言うか、いまこれを文章にしてしまうと頭のなかにあるものとまるで違うものになってしまうような気がするから、あえて文章にはしない。
そして、週末テニス。こちらは、とっくに20年は超えたけれど、このネットワークの「人間的成長」がこれを支えてきた。これが「生命の場」であるとも書いてきた。なるほどすべてがすべて、ここで繋がっているのでした。
土曜は、前線性の嵐。雨はそれほどでもなさそうだけれど、風が強くて、即行中止。もちろん砧公園1周は、欠かせません。
日曜、一転しての快晴。結果は、6-1、7-5、3-6、0-2の2勝2敗ながら、すこぶる快調。
あとは実践あるのみ。 KAI
この文章は、きわめて歴史的重要な文章になると思うから、全文引用になりますがここに引用します。
≪チンパンジーとの差極少≫
2003年、ヒトの全遺伝情報(ゲノム)の完全解読が、10年以上の年月と世界各国の研究者の協力を得て完了した。生物学のアポロ計画と呼ばれるほどの大プロジェクトであった。
それから2年後の2005年、ヒトに最も近い現存動物種であるチンパンジーのゲノムが解読され、ヒトゲノムの設計図との全体的な比較が行われた。
地球上におけるどんな生物にも設計図があり、私たちをヒトたらしめた謎もまた、DNAに記録されていると考えられた。
他の生物とのDNAの違いこそが人間らしさを示すものと誰もが期待していた。だが、チンパンジーのゲノム解読後、ヒトのゲノムと比較してわかったことは、意外にも、その差はわずか3・9%だった。ヒトゲノムの全長32億塩基対から考えれば、本当にわずかな違いである。
もっと興味深い事実が判明した。それは、ヒトにあるが、チンパンジーには無いという遺伝子は、一つも発見されていない。このことは、ヒトという種を決める特別の遺伝子は無いことを意味している。
それでは、ヒトとチンパンジーのゲノムの3・9%の差とは一体何かとの探索が行われた。
これが分かれば、ヒトをヒトたらしめるDNA配列を探り当てることができる。
≪「遺伝子スイッチ」が重要≫
探索した結果、その一つに、大脳皮質のしわの形成に関与する配列が発見された。興味深いことに、その配列はタンパク質をつくるためのDNAではなかった。
以前は「がらくたDNA」と呼ばれていた部位にあり、現在では遺伝子スイッチのオンとオフの、タイミングや場所の決定にかかわるものと考えられている。
全く「がらくた」だと思われていたDNAが、実は大変重要な働きをしていたのだ。
このようなDNAは、脳以外でも見つかっており、ヒトの器用な手の動きにかかわる配列が報告されている。
他にも、発話と強く関連する遺伝子において、ヒトとチンパンジーの間で、スイッチのオンとオフのタイミングや場所の違いを生み出す可能性のある変異が見つかっている。
こうしたゲノム解読によって見えてきたのは、遺伝子スイッチの重要性だ。形態の進化を引き起こす最大の推進力は、遺伝子の基本的設計図の変異ではなく、オンとオフをつかさどる遺伝子スイッチの変化である可能性が高い。
進化以外でも、生物の発生過程や、がんなどのさまざまな疾患において、遺伝子スイッチの重要性が指摘されている。
そしてこの10年の間に、環境による影響、たとえば栄養分やストレスなどの感情が、DNAの基本設計図に変異を加えることなく、DNAの働きを変えることが明らかになった。
遺伝子がオン・オフの機能をもつことは、もはや明白な事実であり、それは一生固定されたものではなく、与える環境によって変化する。
その環境には、次の3つが考えられる。1つは気候変動などの物理的要因、2つ目は食物と環境ホルモンなどの化学的要因、そして3つ目は精神的要因である。
私は精神的要因に注目し、「心と遺伝子は相互作用する」という仮説を2002年に打ち出した。
ごく最近、笑いという陽性刺激が、糖尿病患者の食後の血糖値の上昇を抑え、その際、オンまたはオフになる遺伝子を発見した。この業績をもとに、世界で初めて博士が誕生した。
≪良い遺伝子をオンにする≫
心にも、ある種のエネルギーがあり、「思い」や「心の持ちかた」が遺伝子のオンとオフを変えるという事実である。
つまり、心の働きを変えるだけで、遺伝子レベルでも高次の人間に進化できる可能性があるということが分かり始めた。
この事実は、人の生き方や考え方に、新たな望みを与えてくれる。なぜなら、人のDNAは自分で変更できないが、心は自分で変えられるからである。
チャールズ・ダーウィンが『種の起源』を発表したのは、今からちょうど150年前のことだ。
彼は「すべての生物は共通の祖先に由来し、自然淘汰(とうた)により進化した」ことを、自らの足で探索し、観察した膨大な事実をもとに発表した。
そして今、ダーウィンの進化論を超える新しい進化論が生まれようとしている。
私は、笑い、感動、感謝、生き生きワクワクした気持ち、さらには、敬虔(けいけん)な祈りまでもが、良い遺伝子をオンにすると考えている。
これからの私たちは、意識して、よい遺伝子のスイッチをオンにすることで新しい人間性を生み出すことができる可能性がある。
この新しい進化に貢献するのが人間の使命であり、すべての生き物の「いのちの親」の望みに添うのではないかと思っている。(むらかみ かずお)
(【正論】筑波大学名誉教授・村上和雄 「心」を変えてヒトは進化する)
21世紀の科学は、心の科学こそ、メインストリームです。
いままで心と身体が、互いに作用しあう関係にあることは、現象学的には間違いなく実証されてきてはいるものの、そのメカニズムに至っては、いかなる科学者も手に負える代物ではありませんでした。
これがいま、心と身体の間の相互作用が、遺伝子レベルで行われていることが明らかになった。中山教授のIPS細胞の発見とシンクロする、21世紀の科学の流れの本流となる、世紀レベルの画期的発見なのであります。
未来の心の科学は間違いなく、やがて人の遺伝子スイッチを自在にコントロールするためのこの根本原理を発見し、人類と言う種の進化に直接かかわることになります。
いよいよ、人は「神の領域」に足を踏み入れ始めたのです。
それにしてもこの話で面白いのは、『笑い、感動、感謝、生き生きワクワクした気持ち、さらには、敬虔(けいけん)な祈り』の部分です。
心と身体の問題を扱うときに常に登場するのが、その倫理性の問題です。
この倫理性とは、みなさんがこれを一番大きく勘違いしていることですが、道徳的で規律的と言ったなにかネガティブなものとして捉えがちであると言うことです。
しかしそうではなく、倫理性とはこれとまったく異なる概念であり、丁度これを説明するのが、先ほどの『笑い、感動、感謝、生き生きワクワクした気持ち、さらには、敬虔(けいけん)な祈り』です。実はこれこそが、倫理性の本質であると言うことであります。
そして、なぜ心と身体の問題に倫理性が常に登場するのか。この倫理性の本質を理解すれば自ずと納得できる話であります。
すなわち、クローンや遺伝子組み換えと言った心と身体に直接的に関わる技術が、真に人の進化に寄与するものであるかどうか。これに、この具体的な倫理性の本質に根ざしたものであるかどうかの判断が欠かせません。
『笑い、感動、感謝、生き生きワクワクした気持ち、さらには、敬虔(けいけん)な祈り』の意識こそ、私たちの命を支えるすべてのエネルギーの源泉であり、生命進化の源であると言うことであります。 KAI
まったく理解できないのは(いえ、理解できてはいるんだけどね)、せっかく海外から呼び寄せた看護士や介護スタッフを志望する人たちに、いったいなんで日本語の資格試験を課すのでしょうか。
これはもう、本心は受入拒否、ただ単なる形式上の受入としか言いようがない。
日本を訪れる海外からの観光客に対しては、観光客が読めるように観光地のあらゆる場所が英語併記になっている。外国人就業者の職場には、単にこれと同じ、と言うより外国人職員だけを対象の英語表記で事足りる。この費用を国庫レベルでやったとしても1億円にもならない。ITを駆使するまでもなく、外国人就業者の職場向け専用サイトに手動翻訳機能をサポートするだけで、これは解決。
こういった施設を、特定施設として届出制にして、ここで働くことを条件の資格試験を、英語でやればすむこと。
もちろん現場での患者や介護者との会話が、一番問題だけど、これこそITの出番。タッチパネルのコミュニケーションボードを開発するだけで、事足りる。
コミュニケーションボードを使えば、その医療や介護の現場に応じた、相手に伝えたい用件は、必ず限定される。万一それ以外であっても、選択肢は必ず表示される。ソフトウェアの専門家に言わせれば、こんなインターフェイスきわめて簡単なことです。
その上このコミュニケーションボード。いろんな現場に使えると思う。
一般消費者向けなら、海外へ行く人向けの、訪問国言語対応のコミュニケーションボード。これってひょっとして、特別な専用機を開発しなくても、iPhoneアプリケーションで簡単に実現できるじゃない!
おまけにカーナビのヴォイスインターフェイスと同じ機能を使えば、相手方の選択肢を表示するために、いちいちパネルを押す必要もなくなる。
そうですよ。iPhone片手に、世界中の人たちが翻訳不要の会話する。めちゃ、このアプリケーションって、有用です。ぜひどなたか、開発しませんか? KAI
松井の、日本にいる時からのここ一番の勝負と言う時に期待に応えてくれない悪い癖が、今回はまったくでなかった。やっと野球人としての成長を遂げた結果だと思うけれど、これは今年春のWBC優勝以来のイチローの言動が彼を大きく変えるきっかけになったことは、間違いないとKAIは思う。
同様に、原もWBC優勝におけるイチローの活躍を目の当たりにして、優勝するためには、自身をも含めて選手の人間的成長以外にはないことを、激しく理解したに違いありません。
人が何事かを成し遂げようとするときに、それが成就するかいなかはその人の「人間的成長」にそのすべてがかかっていると、KAIはずっと信じてきました。
そしてこの「人間的成長」とは、結果としての「成長」ではなく、現在進行形の「成長」のことであって、「成長」し続けることこそ「人間的成長」と呼べるのです。
これを頭だけで理解することは、非常に難しい。松井も原も、この実践者であるイチローの、華々しい成功にではなく、WBCの不振に始まりシーズンをもだえ苦しむ姿の中に、「人間的成長」の本当の意味を見出すことができたのです。
翻って鳩山外交。一国を代表する政治家にとって、外交の成否は、その国を国家の繁栄と言う「優勝」に導くための最も重要な問題であります。
国連演説で初戦勝利したかのように見えましたが、これ以降、まったくの成果もなにもないすべて連戦連敗。(もちろんこの成果とは国益のことですから、負けるとは国益が失われるってことですね)
なぜ負けるのか。その理由が、さきほどの「人間的成長」にあると言うのが、今回の解題。
外交における「人間的成長」とはいったいなんであるかは、一旦置いておいて、松井や原がイチローの中に自らの「人間的成長」を見出したと同じように、鳩山にとって外交における「人間的成長」を具現化しているのが、イチローではなく(鳩山)一郎であることの問題であります。
鳩山一郎自身がいかなる外交を行ったかは、その筋の方の解説をお読みいただくとして、いわゆる「友愛」外交なるものの存在であり、それがいま生身の生きた人間ではない、遠い過去の「一郎」であることの問題なのです。つまり過去の人が相手ですから、これは結局過去の「一郎」の名を借りた自分自身、すなわち鳩山由紀夫その人の「友愛」外交にすぎないのであります。
野球の「イチロー」は、現実に目の前にいて具体的な日々の戦いの中で「人間的成長」を続け、最高の結果を出し続けている。決して頭の中で考えた理想の話ではなく、理想とは対極にある「現実」世界の具体性の極みとしての「人間的成長」の話であります。
これは、対する「友愛」外交には、まったく「現実」世界はなく、鳩山個人の「理想」世界しかないと言う、恐ろしい話に繋がってくるわけです。
外交が、きわめて「現実」世界であることは、あらためて申し上げるまでもありません。にもかかわらず、この外交の成否を左右する鳩山の「人間的成長」には現実的な何の裏付けもないと言うことであり、これはすなわち国家としてとんでもなく大きな「リスク」をかかえていることになります。
このところずっと感じてきた、この漠然とした「不安感」。いよいよ「恐怖」の現実となる日は、もうあなたのすぐ目の前に近づいている。
そして何の脈絡もなく、週末テニス。
しかし、こちらの「人間的成長」は着実に見えてきたようです。土日負けなしはひょっとして初めてかもしれない。土曜、7-5、6-1、6-3の3連勝。日曜、6-4、6-4、3-3の2勝1分け。
もちろん、これはテニスだけじゃなかった。ここには書けないけど、二つ、三つ大きく進展。乞うご期待。 KAI
日本語をリストラするとか、構造改革をストップするのが保守だとか、なかなかほほえましい言説にあふれる世界は、まことに楽しい。
そこでつらつら考えるに、ニッポンの「国語なんたら審議会」には刺客を送り込まれ、全国の国語の先生たちからはカミソリを送られてきそうなことなのだが、「国家百年の計」を考えると、ここでおもいっきり、日本語の言語体系を大幅リストラして簡素化することが、国家戦略として正しいんじゃないかと思えてきた。
(国家生き残り戦略としての日本語リストラ)こうした状況のなかで、自民党内に、構造改革路線への回帰が党復活の道だと主張する政治家が多くなっているのは、実に驚くべきことだ。しかも、それが保守の再生と呼ばれていることにも呆(あき)れざるをえない。保守思想は改革のための改革を批判し、構造を攻撃の対象にすることを最も忌避してきた。ましてや、自民党を崩壊に押しやった小泉型の「改革政治」を追求することなど、保守思想からはもっとも遠いところにある。
(【今日の突破口】ジャーナリスト・東谷暁 「改革政治」阻止が使命)
確かに、まことに楽しいのだけれど、このお二方には決定的に欠けていることがあります。それは、「保守」とはなんであるかの理解であります。
これを理解しないかぎり、「国家百年の計」などと言う言葉は、口が裂けても言えません。
この保守とは何かを考えるヒントになるのが、アメリカの共和党と民主党の関係です。共和党が保守政党で、民主党がリベラル(自由主義)政党であると言う2項対立は「常識」としてみなさん、受け入れていますが、この意味、この二つの政党の本質を、本当によく理解したうえでこれを考えたことのある日本人はいないのではないかと、KAIは思っています。
すなわち、共和党と民主党の関係とは、決して対立構造ではないと言うことであります。もちろん、具体的な「市場主義」とか「自由主義」とか、表面上のこれらの言葉から導かれるレトリックとしての政策には、確かに異なるものがみえるかもしれないけれど、両党がともによってたつ「保守」思想には寸分の狂いも、ありません。
そうです、米国の共和党だけではなく、民主党も、そのものずばり、保守政党なのです。米国市民は、保守政党そのものは、すでにとっくの昔からの前提条件であります。どちらの政党を選んでも、「保守」に変更はないと言う、安心感。この安心感こそ、「保守」政党の本質であります。
そしてこれもシンクロニシティ。「保守」とは何か。これを明確に説明する文章に出会うのです。
わずか500メートル上がれば菜の花が咲く春先となり、山を下ればバナナもブーゲンビリアも咲き誇る盛夏、熱帯となる。病原菌を仲介するハエやゴキブリ、ノミたちは、気圧か乾燥した空気か温度のせいで住みにくく、しかも美しい山の水が手近にある所だった。チリやメキシコシティーが、なぜかくも天空に近い地にその文化が栄えたのか。医療の行き渡らない時代のリスクマネジメントとして、先人はこのことを知り尽くしていたのだろう。旅はしてみるもの。本に書かれていない疑問が解ける。
わが国の飛鳥、藤原、奈良、京都と移り変わる遷都も、実は人口増加に伴う糞尿(ふんにょう)の処理と疫病の関係に由来するところが大きかった、と思う。藤原京が、なぜかくも短命な都だったかは、その地が平坦(へいたん)に過ぎたのではないかとも思える。排水が思うに任せず、糞尿処理ができなかったのではないだろうか。平城の内裏から南大門にかけても、わずかに斜面が南に駆け下り、平安京でも洛北から南に向かって傾斜があり、十分な水とそれを流す下り坂が鎮座する。このことが都を1000年続けさせたのではないだろうか。
(【アートな匙加減】画家(日本芸術院会員)絹谷幸二 「地」のリスクマネジメント)
保守とは、「地の利」を守ること以外にはありません。「地」には「利」もあれば「不利」もある。この「不利」とはならない、「地の利」に適う社会を保っていくことこそ、「保守」の本質であります。
アメリカには、民主党も共和党もよってたつ普遍のアメリカの「地の利」があり、日本には日本の「地の利」がある。
そしてこのそれぞれの「地の利」に適う言葉があると言うこと。私たちの祖先はこの言葉を「地の利」に適うように永い永い年月をかけて変化させてきた。この言葉を、他の「地」に適うように強制的に変えようとすることは、そのまま「言葉の死」を意味することは、もうこれ以上説明するまでもないでしょう。
構造改革も同じこと。日本と言う国の「地の利」に適うように絶えず社会制度を変化させてきたのが、構造改革。いまに始まったことでもなんでもない。当然のことながら、他の国の「地の利」を前提にした構造改革は「社会の死」につながる暴挙であり、到底許されるものではありません。
しかし、この他の国の「地の利」を前提にした構造改革とは、小泉構造改革のことでもなんでもない。このとんでもない構造改革とは、戦後の連合国占領軍(GHQ)による日本の国力の解体を目的とした占領政策と言う「改革」のことであって、これと小泉構造改革を較べれば、「地の利」の意味するところは自ずと理解できるはずです。
ですから、自民党の崩壊は、小泉構造改革の否定それ自体が日本の「地の利」を守ると言う「保守」の精神の喪失に繋がることを理解できなかった一連の指導者たちの蒙昧にこそ、そのすべての責があるのです。
それにしても、この蒙昧。いつまで続く? KAI
本日は文化の日。祝日はいつも、NHKの祝日早朝の番組、名前のとおりの「ホリデーインタビュー」が、KAIのひそかな楽しみであります。
ホリデーインタビュー
「やり投げ選手 村上幸史」
今年8月、ドイツで開かれた陸上の世界選手権、男子やり投げで銅メダルを獲得した村上幸史さん。この種目で日本選手がメダルを獲得したのはオリンピック、世界選手権を通じて初めてです。そんな村上さんは愛媛県上島町生名島出身。瀬戸内海に浮かぶ周囲およそ10キロ。人口2000あまりの小さな島です。村上さんは銅メダルを獲得した後、今回初めてふるさとに帰省しました。野球少年だった村上さんがなぜ陸上競技のやり投げを始め、世界トップレベルの選手にまでのぼりつめることができたのか、村上さんの“ふるさと愛”も含めてお聞きしました。
オリンピック2度の出場を果たすも、すべて予選落ち。今ひとつのところで伸び悩んでいた村上が、久しぶりのふるさとの海辺で、子どものころからの趣味である釣りをしたときのこと。竿を投げる姿勢で、ふと気がついた。竿は元を握る左手がないと右手だけでは投げられない。そうかそう言うことだったのか。高校生から始めたやり投げ。いまのいままで左手を意識したことは、ただの一度もなかった。
村上は、これをきっかけに80メートル台を安定して投げられるようになる。そして今年8月、ベルリン世界陸上で、日本人初となる銅メダルを獲得。
思わぬところに、ヒントなんてころがっているもんだ。それにしても、このやり投げが、片手だけで投げる競技ではなく、もう一方の手である左手も使う競技であると再定義することの意味は、とてつもなく大きい。
この意味を理解するには、まず室伏広治のハンマー投げを知る必要があります。2004年アテネオリンピック。ドーピング疑惑からのたなぼたながら、日本人初の金メダル。
室伏広治の父、室伏重信が編み出した4回転。これを広治が完成させた結果であります。あのボーリングと同じ16ポンドの鉄の玉を、80メートル投げる。球と槍の違いはあるにせよ、80メートルと言う距離を争う競技には、ある意味共通するものがあります。
ハンマー投げを目の前で目撃すれば、この迫力と言うか、ハンマーの飛んでいく先が自分に向かう恐怖は、ただごとではありません。ましてや、回転するコマから放たれるかの4回転は、いくら間にネットがあるとはいえ、恐怖以外のなにものでもない。
要するに、4回転と言うのは、人間の肢体すべてを支柱にして、水平に回転するハンマーとの高度なバランスの上になりたっている。
これとまったく同様に、やり投げは、人間の肢体すべての鞭がしなるような縦方向の回転の先にやりが乗っている。こう考えるとハンマー投げの両腕が回転のモーメントとなっているのとまったく同じように、やり投げもまた片手ではなく両腕が回転のモーメントに寄与しなければならないのであります。
恐らく村上はこの左手のモーメントをイメージすることにより、右手だけの力に頼らない投げ方を会得することができたに違いありません。
まことに人間の智恵とは、すばらしい。感服の極みであります。 KAI
このところの深夜のテレビ中継を観ながら、KAIはなんども叫んだ。「負ければいいのに」。
対ブラジル戦。ロスタイムの失点は、ドーハを彷彿とさせたけれど、これもかつての日本代表と同じ理由があった。スイスに3-4の逆転負け、メキシコにも0-2で負けて3連敗。
この高校生たちにとって、特にスイスとの2-0でリードした後の逆転負けは、恐らく狐につままれたかの思いを拭えないのではないでしょうか。
なぜこうまで簡単に逆転負けを許してしまうのか。その訳は、試合開始前の国歌の演奏にあると、KAIは確信しています。
どの対戦相手国の選手も、みな口を開けて国歌を歌い、国旗に向かって忠誠を尽くす。対する日本。見るも無残に、どいつもこいつも口を閉ざしたまま。敬意の目線すら感じられない。
こんなやつらが、国を代表して勝てるわけがない。
ブラジルに善戦して引き分けてよかったねで終わるはずが、ロスタイムに3点目を入れられて負け。でも強豪ブラジル相手じゃしかたないよね、なんて思い上がりが、そのままスイス戦へ。前半いきなり2-0でリードしたまではよかったけれど、あれよあれよと4連続失点で、叩きのめされる。対メキシコ最終戦には、ゴールする気力すら残っていませんでした。
なぜこうなのか。野球のWBCでのイチローをみれば一目瞭然。あの恐ろしいまでの、国を代表して戦うことに対する責任感。試合前帽子を胸に当て国歌を歌う、清々しいまでのイチローの表情から、これを感じないわけにはいきません。
そして、勝つことの次元が決定的に違っている。イチローにとって勝利とは、日本人の代表として誇りあるプレーをすることこそ第一義の目的であり、勝利とは単なるその結果に過ぎません。対するU17の高校生。国歌に口を閉ざす彼らの表情には、ただ勝ちたい、勝ちたいだけの我欲しかない。これがいかに恥ずかしいことであるかを教えようとしない、監督も同罪。
週末テニスは、意味も次元もまったく異なるけれど、誇りあるプレーにかける気持ちはまったく一緒。
土曜、いつものネモトくんに替わってサコタくん。このサコタくんに、思わず叫んでしまった。繋がないで!決めてくれなきゃ勝てないよ!
レッスンコーチを長くやっていると、コーチの職業病と言うものにかかってしまう。それは無意識に相手のいるところにボールを返してしまうこと。レッスン中に当然のように決めるボールを打つことはない。
実は、この決めるボールを打つと言うのは、実に難しい。来る方向が分かっていれば、ほとんどのボールは取れるから、決めるためには、相手が来ると思う方向とは違うところに打つ。いわゆる逆を突くこと。あるいは予測してもそれ以上のスピードなら取れない。
しかし、逆を突くのもスピードボールを打つのも、相手のあることだから簡単ではない。しかもダブルスは、二人が相手。そこで無理に決めようとして、ミスをする。相手のミスを誘うのも、もう一つの決めるための重要なポイント。
結局すべてが人間性なんです。相手の裏をかくのもミスに乗じるのも、テクニックではなく人間性同士の戦いなんです。こんなことは、レッスンでは誰も教えてくれないんです。
ですから、誰とゲームをやるかが、とても重要。このメンバーだから、十年、二十年と続けられるとも言えます。
そんなテニスの結果が、7-5、0-6、5-6のサコタくんの3連勝。第3セットは、5-1の絶対的有利からほんのわずか手を緩めただけで、5ゲーム連取され逆転負け。努々情けは人のためならず。え?違うって?
そして、日曜。朝から何かおかしい。起きてから何かおかしいんだけれど、なにがおかしいかわからないまま、ふと、左の耳を塞いで右耳だけでテレビの音を聞いてみた。人のしゃべっている声が、ラジオの雑音のようにしか聞こえない。こりゃ大変と、何度も鼻をかんで確認するけれど、右耳だけがまったく聞こえなくなった。ひょっとして昨日の帰りがけ耳掻きしながら運転中に、鼓膜に穴でも開けてしまったのかしら。
不安ですが、これはテニス優先。テニスコートでまた左耳を塞いで音を聞くも依然回復せず。ストロークしてもなんだかまるで違う世界にいるよう。異次元空間的テニスの結果は、6-3、2-6、1-6のM田さんの一人勝ち。耳の聞こえなくなったKAI、手首を捻挫したままのO谷さん、手首も膝も関節痛のY木さん、持病のないのはM田さんだけだから仕方がないよねと言い訳をして、本日はお仕舞い。
お仕舞いではなかった。家へ帰ってそのまま広尾のERへ。ここには耳鼻科がないと言われて、消防庁テレフォンセンターで教えてもらった耳鼻科のある慈恵医大のERに電話するも、こんな時間では聴力検査ができないから来るだけ無駄といわれる。聞こえないのは耳垢が詰まったか突発性難聴だけど、今日明日どうこうなるものでもないから、あした近所の耳鼻科でみてもらってくださいと。
なるほど、KAIがテニスして遊んでいる間も、彼らは人の命を救う仕事をしている。心がけが間違っていました。人間性をどうのこうのと言える資格がありませんでした。出直しますです。 KAI