September 30, 2009

伊勢神宮の式年遷宮と時間の力

伊勢神宮の、20年ごとに内宮(ないくう)、外宮(げくう)の社殿を交互に建造し、本宮を交換すると言う式年遷宮。産経新聞のコラムに載ったこの話題が、KAIの中で思わぬ波紋を拡げています。

発端はこの記事。

 さびてぼろぼろになった刀が13世紀のものだと書かれているのを見て、紀元前でもないのに、どうしてこんなに保存状態が悪いのだろうと思った。大阪市中央区の大阪歴史博物館で開かれている「伊勢神宮と神々の美術」(11月9日まで)の展示品のひとつだ。20年ごとに社殿を造り替える式年遷宮を記念して弊社などが主催しているのだから、こんなものを展示するのは、なおさら情けない。
(中略)
 ところが、これも無知のなせる誤解で、実は技術の伝承のため例外的に保存してあるという。式年遷宮は、社殿の部材となるヒノキの確保も大変だが、人間には実用性のない神宝を作る技術の伝承は、近年さらに困難となっている。

 日本には法隆寺のように世界最古の木造建築もある。神宮も、もっと頑丈な社殿を建てれば式年遷宮などしなくてもいいのに、なぜそんな面倒なことをするのか。清浄を求める神道精神によるものとも考えられているが、真相はわかっていないという。

 物は保存することができるが、技術は金庫に入れられない。磨かれ続けながら人から人へと伝わっていく。有力なもう一つの説として、式年遷宮は技術や建築様式の保存のために始まったとも考えられている。

 それが本当なら、古代人はなんとぜいたくな技術の伝承を思いついたのだろう。そして神宮は、技術を時間ごと保存している数少ない金庫といえるのではないか。(大阪文化部長 真鍋秀典)
【from Editor】新し物好きの神々

KAIは30年以上前の大昔、大学生のころ、伊勢神宮に参拝し、その時確かに式年遷宮の話を聞いた記憶はあります。しかし当時、残念ながらその意味までは理解が及びませんでした。なるほど、技術伝承のための仕掛けだと聞くと、まことに納得の行く話です。

ただ、それだけのためと言ってはなんですが、技術を伝承する必要のある神殿はあくまで入れ物。もっと本質的な意味があるのではないか。この記事を読んでの疑問が、ふつふつと湧いてきたのであります。

そして、毎早朝の散歩。

散歩しながら、次々と完成した一戸建ての建売に売約済みの赤札が張られていくそばで、ついこの間まで更地だったところにショベルカーが入って、建築計画の看板がたっている。まことにすさまじいエネルギーで、つぎからつぎへと新しい家が建っていく。一方で古いビルが取り壊されいつのまにか更地になっている。

これこそ、日本社会の底力。家やビルを建てるには、相当のエネルギーが要る。これが間断なく続けられることは、社会に「ソコヂカラ」があると言うこと。

今朝散歩しながら閃いた。まさに式年遷宮の意味とは、これだった。

20年と言う時間のエネルギー。しかも、それだけではなかった。

用材
遷宮においては、1万本以上のヒノキ材が用いられる。その用材を伐りだす山は、御杣山(みそまやま)と呼ばれる。

御杣山は、14世紀に行われた第34回式年遷宮までは、3回ほど周辺地域に移動したことはあるものの、すべて神路山と島路山[2]、高倉山[3]という内宮・外宮背後の山であった。

(中略)

神宮では、1923年(大正12年)に森林経営計画を策定し、再び正宮周辺の神路山・島路山・高倉山の三山を御杣山とすべく、1925年(大正14年)または1926年(大正15年/昭和元年)から、三山へのヒノキの植林を続けている。遷宮の用材として使用できるまでには概ね200年以上かかるため、この三山の植林から生産された用材が本格的に使用されるのは120年以上後の2120年頃となる。また、この計画は、400年後の2400年頃には、三山からの重要用材の供給も目指す遠大なものである。なお、内宮正殿の御扉木について、本来の様式通りに一枚板とするためには、樹齢900年を超える用材が必要となると試算されている[4]。2013年(平成25年)に行われる予定の第62回式年遷宮では、この正宮周辺三山からの間伐材を一部に使用し、全用材の25%が賄われる。
神宮式年遷宮、Wikipedia

なんと2400年。式年遷宮とは、200年、400年、900年単位と言う膨大な「未来」の時間のエネルギーを建物の形に定式化したものだった。

冒頭の引用した記事に戻れば、法隆寺は、「過去」と言う時間の象徴。これに対して、千年先まで未来と言う膨大な時間を、建物の中に織り込んだのが、式年遷宮。

ソフトウェアとは「時間の缶詰」と言うけれど、式年遷宮とはまさに、20年と言うクロックで動作するソフトウェアそのもの。

古代人の智恵に、感服するしかありません。 KAI

September 27, 2009

続モラトリアムと週末テニス

日曜朝、テニスに出かける前のサンプロがめちゃくちゃ面白かった。

いやはや亀井静香は役者やのぅ。

全コメンテーターから総攻撃を受けても、びくともしない。おまけに、鳩山さん更迭しなさいとまで挑発する。さすがに「利息も払わなくて良い」と言うのには歯切れが悪かったけれど、これも愛嬌。

それにしてもさんざん国すなわち国民から助けてもらいながら、銀行業界は国民に何一つ恩返しをしていない、今回だって銀行業界がイニシアチブをとって中小企業支援に動くのが筋と言う亀井発言には、ひさびさに政治家の発言として胸がすく思いがします。

やっぱり政治家とは、こうでなくっちゃ。

しかしなぜこうまですべてのコメンテーターが、そろいもそろってこうなのか。翼賛体質まるだし、まったくなさけないったらありゃしない。これだけ声高に非難する以上その根拠に確たるものがあるのかと思えば、それが「原理主義」とはまさに笑止千万。

そもそも、亀井発言の意味、すなわち中小企業の資金が足りていないことにまで踏み込んだ議論が、なぜできないのでしょうか。その理由は実は簡単です。

彼らがそろいもそろって、あまりに中小企業の側に立った実態に疎いからに他なりません。亀井の元には日々届く中小企業の、それも地方の経営者の生身の声は、彼らの耳にはまったく届いていないのです。いえ、テレビに登場する誰一人訊く努力さえしていない。向いている方向が全く逆だから、聞こえるものもまるで聞こえない。

これはしかし、思いっきり既視感が。

2003年5月17日、りそな銀行が国有化された。

この時、榊原英資は、この国有化を指揮する竹中平蔵を、ペーパードライバーと酷評し運転する資格すらないとこき下ろしたが、結果はこれを境に株価が反転し、日本経済復活へ大きく面舵をきることに成功したのでした。

以来、榊原がこれに始末をつけた様子は見受けられません。所詮この程度の男にすぎないと言うことですが、他の識者といわれる方々も、目くそ鼻くそです。

当時も今も彼らが理解できていないのは、竹中平蔵がよく使う「メッセージ」と言う概念です。

国有化当時の「空気」を一言で言えば、「銀行憎し」です。いつになっても反省しない銀行経営者。相変わらずの高給取りの銀行員。世間の「空気」はきわめて重苦しく、閉塞感に覆われていました。識者といわれる人々は、この「空気」が読めない。榊原を始めとしたこのKYな奴が的外れなことを言うから、余計「気分」が悪くなる。
日本の経験に学べと言うけれど

丁度7年前です。この時まで、銀行経営者は何年にも亘って不良資産を隠し続け責任回避に終始してきたのです。このため必要なところに必要なお金を廻すと言う金融の本分が果たされず、日本経済は10年以上に亘っての低迷を余儀なくされていたのです。これが資産査定の厳格化を徹底した竹中平蔵によってようやく日本経済は息を吹き返します。

この時の状況と今とでは、舞台も登場人物も大きく変わったけれど、識者と言われる方々が相も変わらず世間の「空気」が読めないで、銀行の肩ばかり持つのは、まったく同じ。

確かに見かけ上不良資産は少なくなったかもしれないけれど、ではそのお金の貸出先はどうなっているのか。

中小企業向けの銀行貸し出し残高は、2006年6月の177兆円から2008年3月の185兆円まで上昇傾向にあったものが、2008年4月以降一転下降を始め、2008年12月政府による緊急経済対策により一時的に増えたものの、2009年5月には176兆円まで急激に落ち込んでいるのです。いわゆる貸しはがしが明確に起きているのです。

しかし、もっと大きな問題は、銀行貸し出し残高全体に占める、中小企業向けの割合です。2009年5月の残高の合計は、468兆円。176兆円は、その37.6%。しかし1年前のそれは、182兆円で40%。6兆円もの落ち込みです。

逆に、合計自体は3.1%増、つまり14兆円の増加。6兆円と合わせた20兆円ものお金が、なんと中小企業から大企業への資金として流れてしまっているのです。

このもっとも重要な事実自体は、もちろん隠蔽のしようがない。隠蔽はできないけれど、メディアも識者も取り上げないから、世間は知らないままになる。

しかし知らなくても世間の「空気」と言うものは、ごまかせない。

この「空気」こそ、景気を大きく左右しているのです。

果たして亀井静香、7年前の竹中平蔵となれるやいなや。その期待は、まことに大きい。

と言うことで、週末テニス^^;。

土曜は、ネモトくんお休みでサコタくん。このサコタくんとのペアを組む感覚が、いまだにつかめない。いわゆるちぐはぐして、なかなかペースに乗れない。おまけに5-4のセットポイントで絶好の決め球をボレーミスまでしてチャンスを逃してしまう。

最後はタイブレークを7-9で落として、逆転負け。情けないったらありゃしない。

セカンドセットは、今度はサコタくんが相手。これもなんとまあ、4-6で落として完敗。ところが、事件はこのあと起きる。

第3セット。これまで時間を使いすぎて時間がない。1ゲームをタイブレークでやることにして、その途中、これは絶対に落としたくないと言うポイント。O谷さんが、これをなんとか拾おうとして前につんのめる。脚をすりむくのは回避したけれどこれを支えた手のひらを思い切り擦って出血。おまけに手首をひねってしまった。

致し方ない。これにてゲームオーバー。

しかし、これだけでは終わらなかった。この負傷につき、O谷さん、明日のテニスはできません。当然ですねと言いながら、電話を切ってそのまま替わりの人をあたるしかない。

それにしてもこう言う時は、なんとかなるもの。土曜出勤から帰宅したT中さんから、奥様にした伝言を聞いて、電話をくれる。もちろん大丈夫です。参加します。まことにありがたきことの極みであります。

その日曜テニス。亀井発言に気分良く、たまに日射しが見える曇天のもと、ゲーム開始。なんだかボールが重いのは、気のせい?

それでも決めるところではパッシング、グランドスマッシュと次々決まって、気持ちいい。結果は、6-4、1-6、3-6、2-1の2勝2敗。無理をしないで、これくらいがちょうどいい。全てのゲームで勝とうとすると、どうしても無理をする。無理をするとペースを崩して本来の調子をなくしてしまう。

なんでもマイペースが、一番。

テニスの後ここにもマイペースの人が、いました。ずいぶん遅い誕生日のプレゼントが届いていました。娘からのメッセージを書き込んだ絵本です。しあわせは、思わぬところにあるものだと、胸を熱くする。ウルウル。 KAI

September 26, 2009

ああセキュリティ!

就任早々になんですが、鳩山さん、オバマさん同様、ほんと暗殺に十分注意したほうがいいですよ。

産経新聞の元政治部長だった花岡信昭氏が、日経BPで「記者クラブ制度批判は完全な誤りだ」と主張している。昨今の記者クラブ開放に反対する勇気ある発言、といいたいところだが、その論理があまりにもお粗末で泣けてくる。彼はこう宣言する:

日本の記者クラブは閉鎖的だという主張は完璧な間違いである。アメリカのホワイトハウスで記者証を取得しようとすると、徹底的に身辺調査が行われ、書いてきた記事を検証され、指紋まで取られる。そのため記者証取得には何カ月もかかる。[・・・]内閣記者会には、日本新聞協会加盟の新聞社、通信社、放送会社に所属してさえすれば、簡単に入会できる。


これは「閉鎖性」とは何の関係もなく、アメリカはセキュリティ・チェックがしっかりしていて、日本はいい加減だということである。私がNHKに勤務していたころは、記者証を政治部の記者に借りて首相官邸の中まで入ったこともある。武器のチェックもしないので、テロリストが記者証をもってまぎれ込んだら一発だ。
花岡信昭氏の「絶滅危惧種的メディア論」

そうなんですか、そんなお粗末なんですか!

やっぱり日本って国は、芯まで「安心社会」なんだと、つくづく思います。これが「信頼社会」に変わっていくなんて、ありえないと考えるしかありません。

そもそも個人ではなく新聞社やテレビ局といった組織を信用するのが、「安心社会」におけるセキュリティ。もちろん組織が信用できれば、何の問題もありません。しかし、もしこの組織に偽装や不正があったら、誰もこれをチェックできない。

しかも、万一の場合、その組織のトップでは責任が取れない。一人二人の首がとぶレベルの問題ではないと言うこと。

これがまったくもって国家のセキュリティの責任者が、分かっていません。セキュリティとは、責任以外の何者でもない。オバマの命の責任は、国家の最高のセキュリティ責任者の責任。あたりまえだよね。これが、日本では、そうはなっていないと言うこと。どこかの新聞社のトップレベルで、いったいどうやれば責任取れると言うのでしょうか。

この「責任不在」も、「安心社会」の大きな特徴と言えます。「安心」「安全」がデフォルトで保証されている(と思いこんでいる)のが「安心社会」ですから、だれも責任持って「安心」「安全」を維持する必要はない(と思いこんでいる)。

これはある意味「水不足問題」と共通している。

いわゆる、「日本人は安全と水はタダと思っている」と言うやつです。

八ッ場ダムも50年間完成しなくても何ら問題なかったわけですからと言う、民主党のみなさんはすっかり忘れてしまっていますが、首都圏における水不足は常態化しているのです。

生活に支障をきたす度々の異常渇水
 利根川における主要渇水は下表のとおりですが、昭和30年以降の水需要急増に伴って、昭和33年から現在まで、2年〜4年に一度の割合で深刻な渇水に見舞われています。
 特に、昭和33年は暖冬で春型渇水に見舞われ、5〜7月にかけての異常渇水時には利根川下流部において干塩害が発生し、水稲に多大な被害を与えました。また、オリンピックが開催された昭和39年にも大渇水に見舞われ、関東地方では給水制限が1年にもおよび、住民の生活や社会活動に大きな支障をきたしました。昭和62年には降雪量、降雨量とも極端に少なく、ダムの貯水量が底をつくことが危惧されたため、7月に利根川では初めての30%取水制限が実施されました。
 近年では、平成6年、夏期に猛暑と少雨の影響により、利根川では30%の取水制限となり、水道用水では高台で水の出が悪くなったり、赤水が出るなどの被害が起き、給水活動が行われました。
 平成8年は、冬期・夏期の2度の渇水にみまわれ、利根川では初となった冬季渇水では、取水制限が76日にも及び、社会的に大きな影響を与えました。また、夏期の渇水では30%取水制限を実施しました。
不安定な首都圏の水事情

もちろん水不足が起きて給水制限が始まると、メディアが中心になって大騒ぎします。これもしかし、のど元過ぎればなんとやら、水不足が解消するとみなすっかり忘れてしまい、誰も責任持って水不足問題に取り組まない。

もちろん個々には上記引用先のように日々この問題に取り組んでいる人たちはいるけれど、このすべての責任を取れる人間は、残念ながら誰もいない。誰もいないから、誰も責任を取らない。

当たり前と言えば当たり前ですが、これを異常と言わずして何を異常と言えるでしょうか。

閑話休題。

冒頭に戻って、鳩山さんに万一のことが起こったら、みなさんどうするんですか?

わしゃしらん、ではすまされない人が、そこにもここにもあそこにも一杯いるんと違います? KAI

September 24, 2009

ああモラトリアム!

亀井静香の言うことには、まったくもって信用ならないけれど、今回のモラトリアムだけは、KAI的にはけっこう評価しているんです。

モラトリアム法に対して、前例がないであるとか、銀行の収益に重大な影響が出るとか、貸し渋りになるとか、はたまたモラル低下で経済がめちゃくちゃになるとか。こういった反論にもならない反論を、メディアがさも知ったかぶりで言えば言うほど、かえってこの策は意外にいいんじゃないと思えてくるから、不思議です。

前例については、それでは去年のサブプライムによる危機に前例があるんかいな、と言いたいし、銀行の収益、なにそれ?

元本返済猶予であって利息もカットなんて、誰も言ってない。まさか元本が銀行の収益とでも思ってるのでしょうか。銀行の収益とは利息ですから、逆に3年間の収益が保証される話です。その保証も、大半が保証協会の保証。当然追加の保証料は政府が払う、つまり税金ですが今回の補正予算凍結分からまわせばたいした額にはまるでならない。

じゃあ貸し渋りになる?なるわけない。貸しはがしできなくなるから、今貸しているところへの貸し渋りは原理的にない。新規はどうよと言われても、サラ金と違って貸すお金がないわけじゃない。逆にジャブジャブある。

モラル低下って、返さなくてもいいなんて、一体誰が言ってるのでしょうか。

そして最も重要なことですが、あの経済危機から世界がそろそろ立ち直ろうとしているこの時期に必要なのは、出口戦略。しかしモラトリアムは、入り口戦略。まったく的外れな政策だよと、メディアが声高にがなりたてる。

中小企業の一体どこで、そろそろ立ち直りの気配がしていると言うのか。

これを言うやつは、メディアに出てきて、言ったことの責任を取れ。

ますますデフレが進行し始めているこの時期、入口はあっても出口なんかあり得ない。

では、具体的にモラトリアム法には一体どんな効果があると言うのでしょう。それは、中小企業の毎月の資金繰りに、直接貢献することになります。実際のデータを持っていませんが、だいたい中小企業の毎月の元本返済額は、10万から100万単位の額になるかと思います。これを3年間猶予されると言うことは、総額360万から3600万円のキャッシュが無条件で借りられると言うことです。

今のこの時期、中小企業の資金繰りにとって、この金額がどれだけありがたいか。

よくぞ亀井静香、言ってくれたと、褒めてあげたい。なんとしてもつぶされないで、やりとおしてほしい。フレ!フレ!静香! KAI

September 21, 2009

ああ、いいきもちだ、週末テニス

人のために何ができるか。

いま、母は、なぜこれを子に言わなくなってしまったのか。

「ひとというものは、ひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」
(宮澤賢治の母、イチ)

 幼い宮澤賢治と添い寝するとき、いつも語りかけていたという、このことばほど、彼を象徴するものはない。人のために自分は何をできるのか。そう問い続けた賢治は昭和8(1933)年のきょう、37年の生涯を終える。
(中略)
 さがし続けたものを、賢治は見つけることができたのだろうか。わからない。ただ、彼の最後のことばは、「ああ、いいきもちだ」−だった、という。
(産経新聞、次代への名言、宮澤賢治の母 イチ、2009/9/21、p.6)

この宮澤賢治の母が特別だと、思わない。「出産」と言う体験を通して、母は人が人に支えられて生きていることを否応なく教えられる。我が子にも「人のために」生きてほしいと願って、慣れない子育てを開始する。

しかし、たちまち「出産」と言う助け合い社会から一転、「子育て」と言う競争社会が立ちふさがる。競争社会とは、規範社会。競争社会の中で、子だけでなく、母もまた、母としての社会の「規範」を学ぶことになります。

それこそが最も重要な社会の「規範」、すなわち「助け合い」なのです。この「助け合い」と「競争」、一見両立しないかのように見えますが、そうではありません。

そして都市社会の構成員としてのあり方について、後藤はこんなことを言っています。

「まず我が身を修めるというほかはない。我が身を修める自治の力が治国平天下の基礎である。
かねて私のいう自治の三訣(さんけつ)『人のお世話にならぬよう。人のお世話をするように。そして報いを求めぬよう』と少年時代から心がけてこれを実行するのであります」


標題の「自助、互助、自制の精神」です。「人のお世話にならぬよう」が「自助の精神」。「人のお世話をするように」が「互助の精神」。「報いを求めぬよう」が「自制の精神」。
自助、互助、自制の精神

後藤とは、政治家・後藤新平。「自助、互助、自制の精神」と言う規範があってこその競争社会。

冒頭の疑問の答えは、ここにあります。せっかく子を産み与え、子のために生きる喜びを教えた天の意志に背き、子を自己の所有物と勘違いする母。この母にとって、競争とは「自己」と言う自分自身の競争。「人のため」とはすなわち「自己のため」。まるで次元が違っている。

昔も今も、この母と賢治の母との間には、天と地ほどの開きがある。

つくづく、しみじみと、週末テニス。

さすがに秋分間近になると、暑さもひと段落して、絶好のテニス日和。

にもかかわらずの土曜。5連休初日のせいか、コートはガラガラ。誰もいない。なんとももったいないことであります。

ガラガラのコートで思う存分走りまくって、結果は、6-1、0-6、6-4、2-5の、2勝2敗。ネモトくんから貴重な1勝をゲット。少しネモトくんの攻略法が、見えてきたけど、それはここには書かない^^;。

このあとアンジェロ。こちらはコートとまったく逆。アベックと家族連れでテーブルは満席、カウンター席も3人で一杯。連休初日は近場で様子見、と言うことのようです。

そして日曜も、心地好いまでの秋晴れ。台風の風か強めの風も、まったく気にならない。肝心のテニス。ゲームをコントロールする感覚が少し戻ってきて、6-4、4-6、5-3と2勝1敗。

それにしても思うのは、毎回毎回、恐ろしいまでに変化する調子。ずっと同じ調子を維持しようとするのではなく、変化し続ける中で調子も変えていく。まさに福岡伸一の言う「動的平衡」の世界観(この話はまたあらためて書きます)。

アンジェロもまた同じ。昨日とうってかわって、閑散。みなさん、やっと連休お出かけのようです。 KAI

September 16, 2009

9月16日、仏滅

本日は、六曜仏滅、干支甲子、大禍日です。大禍日はたいかにちと読みます。

大禍日
たいかにち。三箇の悪日の中でも最も悪い日とされている。口舌は慎み、家の修理、門戸の建造、船旅、葬送は厳しく忌むべし、とされている。
三箇の悪日、Wikipedia


仏滅に結婚式を挙げると大幅に料金が安くなるそうですが、省エネ内閣、こちらもその一環でしょうか。

大禍日も、国旗毀損なんでもありの民主党ですので、全く問題なしであります。

波乱を予感される航海の、出帆です。 KAI

September 15, 2009

椅子が倒れた

全米オープン。男子シングルス決勝。第1セット6-3、第2セットの5-3まで、フェデラーが無難にリード。この時点でフェデラーの優勝を疑う余地は、まるでなかった。

にもかかわらず、結果はそうはならなかった。このあとデルポトロが6-6に追いつき、タイブレークを7-5で取って、1セットオール。第3セットは4-6で失ったものの、第4セット7-6(7-4)、第5セット6-2と2セットを連取し、4大大会初優勝。

デルポトロとは、フアンマルティン・デルポトロ、アルゼンチンの20歳の新鋭です。これまで彼の試合はほとんど見た記憶がなく、今大会の準決勝でナダルを倒した試合も見逃してしまった。もともとKAIは、こういった長身(198センチ)の選手のプレーは、好きではない。長身からの力任せのサービス頼みで、荒削りでミスが多いから、面白くない。面白くないから、試合も好んでは見ない。

しかし、デルポトロは違った。

そもそも第1セット。ダブルフォールトを繰り返して決して調子の良くないフェデラー。もちろんこのダブルフォールト、セカンドサービスが、甘く入るとすかさずたたいてくるデルポトロを警戒して、いつも以上のスピードとコーナーをねらってのこと。

このフェデラーを右に左に振り回す。他のプレーヤーならこれで簡単に終わるはずが、フェデラーはこの状態からダウン・ザ・ライン(川下りならぬボールの線下り)の強烈なストレートで切り返す。

つまり、余りのハイレベルな試合に、互いに相手の出方を探り合う展開と、一種の拮抗状態のまま第2セット。フェデラーが突然ネットに出る作戦に切り替えるも、デルポトロも絶妙のロビングとパッシングで、これをかわして、第8ゲーム。フェデラー、1ブレイクアップのサービスゲーム。

30-30のファーストサービス。ストレートのノータッチエースと思いきや、リターンのデルポトロがラケットで向かいのスタンドの方を指して何か言っている。椅子が倒れたらしい。

フェデラー、しぶしぶサービスのやり直し。

結局このゲーム、フェデラーが取って5-3とワンブレイクアップのまま。

しかし、ここで、拮抗が破れた。とKAIは思った。

あらゆるものごとの流れには、その結果を決定づける、ある重要な出来事が起きます。この出来事は、まるで小さななんでもない顔をして、その場は通り過ぎる。しかし、流れは、これを境にして、大きなうねりへと変わっていく。

実は、今回の選挙でも、丁度2年前これを感じる出来事があったのでした。

なんでこんな男を出してくるんだ、自民党は。

今朝のサンプロをみて、自民党が選挙で大敗を喫するのを確信しました。

安倍さんも、ついてない。つぎからつぎへ使えない部下ばかりでは、安倍さんの天命は別のところにあると覚悟したほうがよさそうです。

民主党ぎらいのKAIも、さすがに今朝のテレビを観て、1回だけ民主党に政権をとらせて自民党にお灸をすえたほうがいいと、本気で思いました。
年金問題解決(2)

2年前すでに、今日の結果は決まっていたと言うことのようであります。 KAI

September 13, 2009

HV、PHV、EV、週末テニス

ハイブリッドと言う車とは、車の進化の歴史において、いかなる意味合いがあるのか。未来の車は、EVすなわち電気自動車に、すべて置き換わっていくものなのかどうか。

これらを、その細かな実現方式の議論ではなく、車の進化と言うもっと大きな歴史の流れの中で考えてみたいと、朝世界のどこかのモーターショーのニュースを見て、なぜかふと思った。

本質は、車のエンジンが内燃機関から電動機関への移行であるのは間違いありませんが、そもそもその内燃機関と電動機関との違いとは、一体何なのか。それは、人類の歴史における「火」との付き合い方、そのものの問題であります。

電力自体、「火」との関係において、水力発電のように「火」とまったく関係しないものもありますが、火力発電から究極の「火」である原子力発電まで、世界中を見渡せば実用レベルで「火」と「非火」がハイブリッドで活躍している事実に気づくはずです。

しかし、これこそは、EVかHVか、はたまたPHVであるのか、これからを占う上で大きな意味を持っているのです。すなわち、ハイブリッドとは、車の進化と言う歴史の中の過渡的な技術ではなく、実は車自体が「発電機」として機能するための究極の技術となるのではないかと言うことです。

 寺島 要するにアメリカという国の20世紀、T型フォードを生み出して、大量生産、大量消費のメカニズムをリードしてきたアメリカが、やはり行き着くところまで行って行き詰まって、内燃機関で自動車を走らせるという仕組みから、やはりEV、電気自動車の方向に流れが切り替わっていかざるを得ない。その電気自動車に電気を供給する仕組みとして、大規模集中から、小型分散をネットワークでつなぐという、つまりシステムの基本的コンセプトが変わろうとしているのかもしれない。そういう考え方でとらえるならば、これはあながち、絵空事でないと。
オバマ「グリーン政策」は「IT革命」を超えるか?常識の源流対論・寺島実郎 その1 4/5ページ

寺島 今、若干かかわっているプロジェクトに「プラグイン・ハイブリッド」というのがあります。要するに車自体が発電機で、走っているうちに蓄電して、その蓄電したやつのコンセントを電源として利用するって話。

プラグイン・ハイブリッドは始まっている

 寺島 アメリカのようにめちゃくちゃ広い国、送電線をものすごいコストを掛けて引かなきゃいけないようなところにとって、例えば別荘地なんかに週末に行って、電気なんか引いてなくても、ぱこっと車からコンセントをつなげば、逆に48時間ぐらい電力を供給できるというもの。
オバマ「グリーン政策」は「IT革命」を超えるか?常識の源流対論・寺島実郎 その1 5/5ページ

すでに何度も取り上げている寺島実郎氏の発言ですが、あらためてこれを考えると、問題の本質が車の進化とは何かってことにあることに気づきます。

PHVについて、もっぱら家庭用電源で充電するためのプラグインに議論が集中して、日本では駐車場付きの家が少ないことを理由に普及の可能性に否定的ですが、まったく発想が逆です。プラグインは充電するためのプラグインではなく、電源を供給するためのプラグイン。もちろん「スマートグリッド」の技術を前提にして、あらゆる駐車場が電力会社と契約し駐車するPHVの車から電力会社に電気を供給し、駐車料金の替わりに電力会社から代金を受け取る。

引用文中にあるような電気の引いていない別荘地なんて言うのは、日本ではあまり考える必要はないと思うけれど、都市部と違って車が集中しない地域で生活する人にとっては、この仕掛けに意味があるのかどうか。

もちろんこれがあるのです。これが車の2番目の進化、「情報発電機」としての意味です。電話、テレビ、インターネット、あらゆる情報端末に車が進化する。これらすべてを地球上に配置された固定の衛星と通信することができるようになり、プラグインで接続されたケーブルを通して家庭内や別荘の中に供給することができる。

初めの話に戻れば、この時、もし電気が引かれていない場所であるなら、電源は高性能に進化した蓄電池とこれが足りなくなれば、エネルギー効率を高度に上げた内燃機関のエンジンとの、ハイブリッドで供給することができる。

こんなふうに考えると、車の開発メーカーの技術陣の課題も、よく見えてきます。

すなわち、内燃機関のエンジンは決して古い技術ではなく、これからますます進化の可能性を秘めた技術であると言うこと。

ガソリンスタンドも、供給するのはもっぱら急速充電より、ガソリンではない新しい燃料に変わっていくだけで、その役割が衰えることはないと言うこと。

蓄電池も、現在のトヨタのハイブリッド方式のようにすべて内燃機関のエンジンと、電動機関のエンジン(ブレーキ)と両方から充電し、これ以外の充電も蓄電池の交換も不要となるものであること。もちろんPHVであれば外部からの充電もありだけど、この比重は小さい。

と言うことで、週末テニス。

土曜は生憎の雨。10時開始30分前からスコールのような熱帯性の雨。これが1時間でぴたっと止む。いつものフォースが足りない理由はわかっているんだけど、ここには書かない^^;。

砧公園1周してからアンジェロでいつも通りの生ビール2杯。やめられません。このところの朝の散歩をサボりがちがいけなかったのか、サウナで体重を量ったら大台を軽く突破。目標2.0キロ減量のサウナで1時間半。死にそうになる。しかしなんと2.5キロも減っていた。びっくり。

日曜。一転して快晴。こう言う時は、テニスも快調。結果は、6-1、3-6、6-7(3-7)と、第3セットのタイブレークを3-7で落としたけれど、中身は濃くて充実して燃え尽きた。おかげでやっと良いアイデアも湧いてきた。 KAI

September 10, 2009

選挙に負けては意味がない、試合は負けても意味がある

今回の選挙は、あくまで「政権交代」。マニフェストを選択していないのだから、国民が「白紙の委任状」を渡したのではないことを、民主党の人たちは、ぜひとも心してほしい。具体的な政策、一つ一つについて、ことあるごとに、日教組などではなく国民の声をきいて実行してほしい。さもないと、すぐ国民は見放します。

この選挙について、こんなことを書きました。

それにしても、結果はどうあれ、ながらく霞がかかってもやもやしていた霞ヶ関と永田町。一気に霞が晴れた。これが選挙の効用ってもんです。何事にも、勝ち負けは必要ってこと。

週末テニスも、一緒。KAIの週末テニスは、ご承知のようにゲームのみ。試合をやって勝ち負けをつけるから、自分の弱点も分かる。それを克服して、ゲームに勝つための戦略も立てられる。テニススクールも、それはそれで経営上仕方ないんだけれど、練習ばかりやっていてもテニスは上達しない。
選挙と週末テニス

この「試合」について、ウチダ先生、こんなことを書いています。

一年近くかかった本をようやく仕上げたので、気分がだいぶ楽になったので、杖道の稽古に大学まででかける。
暑い中、4人部員たちが来ている。
体育館で形稽古。みんなずいぶん上達した。
全剣連に加盟して審査を受ければ、それなりの段位が得られるのだろうが、加盟すると「試合」というものに出場しなければならない。それが厭なのである。
私は競争的環境に置けば人間の心身の能力が高まるということをあまり信じていない。
もちろん一時的には高まる。劇薬的な効果がある。
でなければ、これほど「試合」が繁昌するはずはない。
けれどもそれはあくまで「劇薬」である。
生きる知恵と力を高めるということを目的とするなら、「劇薬」を投与して、一時的にパフォーマンスを向上させるということは避けた方がいい。
たいていの場合、劇的効果をもたらすあらゆる薬物がそうであるように、その「支払い」のための長期的な苦痛は、効果がもたらした一時的な快楽上回るのである。
私に同意してくれる人はきわめて少数であろうが。
ふた仕事終わる


ここで取り上げられている「試合」は、全剣連と言う公式の「試合」。KAIもまた、公式のトーナメントに出なくなって、30年。この理由は、昔書いた通り(週末テニスに学ぶ勝負心得)、公式の「試合」に出て、勝負に勝つためには、我慢のテニスを強いられるから。

ウチダ先生が言う、公式「試合」が「劇薬」であるかの当否は別にして、公式「試合」と言う「勝つこと」を目的とする「試合」は、「試合」を職業とする人以外には、その効果よりも弊害の方が大きいと、KAIも思う。

ならば、高校野球も、高校サッカーも、弊害ばかりじゃないのかと言えば、さにあらず。優勝チーム以外は必ず負ける。人は、勝つことよりも負けることの方が、それから学ぶことははるかに大きい。

学校の勉強だけではメシは食えない!(こう書房、岡野雅行、2007/11/10)

 失敗することは悪いことじゃないんだ。全部経験として見れば、かけがえのない貴重なことなんだから。だけど、ひとつだけ注意がある。それは、失敗して騙されて、世の中に流されないことだ。最初自分が決めた道を突き進むんだ。そうすればその先に、成功が見えてくるだろう。(p.213)


立秋になぜ人は本を読むのか(2)

岡野の言う通り。会社も人生も、まったく同じ。何度も何度も小さな失敗(負け)を積み重ねて、成功(勝ち)に至る。それが、最初から真剣で果し合いなんかしたら、それこそ切り殺されて一巻の終わり。そんな果たし合いに生き残って行くうちに、身も心もカブトムシの雄のような、戦うためだけの鎧をまとう、そんな姿に固定化されてしまう。

そもそも「人間の心身の能力」とか「生きる知恵と力」なんてものは、カブトムシのように「試合」の対戦相手に勝つことの中にあるのではなく、自分自身であり自分自身の中にある大きな気の流れの中にしかそれを高める道はないのです。

しかしそうは言っても、自分自身の中で戦うことはとても難しい。その意味で、負けることのできる公式でない「試合」こそ、思い切り相手の中に自分自身を投影してシミュレーションができる。まさに実戦ではない「試合」、「ゲーム」の効用と言えます。

そして、このシミュレーション。決して相手の裏をかくといった駆け引きではなく、相手の弱点をつくことがすなわち自分自身の弱点の克服に繋がる。相手が勝ち、自分が負ける。それは相手が自分の弱点の克服方法を教えてくれている。そう考えれば、KAIにとって「試合」とは「生きる知恵と力」を与えてくれる宝の山。なんともすばらしいお話ではありませんか。 KAI

September 09, 2009

国家の成長を個体の成長と同じとする大きな間違い

今や日本は成熟社会に突入し、あとは人口は落ちるところまで落ちるのが当たり前、と言う論がある。

果たして成熟社会であるのかどうか、はなはだ疑問であるけれど、これ以上の疑問は、社会が成熟すると、人口が減少に転ずるものなのか。これを人の一生と同じとして、成熟とは老化であり、人口を体重に例えてそれが減少するものであると言うらしい。

もしこの例えが正しいとするなら、国家には寿命があり、国家はやがて自然消滅することになるけれど、そんなことは近代国家においていまだ起こったためしはない。

そもそも、社会の成熟とは、なにをもって成熟とするか。これを考える上で一番重要なことは、そのそもそもに戻って、社会とは何かである。今回学問的な定義はどうでもよくて、単に百万、千万人レベルで子孫を継続的に残すことができる人間の集団とすると、原理的にこの社会には、寿命はない。

寿命がないのであるからして、通常の人の成長とその老化に至るプロセスと、人間社会との間の類似性に根拠がないのはもちろんのこと、社会の成熟と言う概念自体、寿命がないのであるからして、これまた原理的に無意味なものとしか言いようがない。もし成熟があったとしても、ではそれ以後、ポスト成熟が永遠に継続するなどと言うのは、「成熟」としたこと自体の誤りと言わざるを得ません。

すなわちこれは、「成長」と「成熟」と言うキーワードが、その本来の意味を逸脱して、きわめて左翼的、イデオロギッシュに利用されているだけです。

ここで話は思い切り飛躍しますが、そもそもの共産主義者たちが、はたして社会の「すべての」人たちの幸せなど、決して受け入れてはいないのです。

マルクスが「疎外された労働」という言葉で言おうとしていたのは、こういう現実である。
「労働者が骨身を削って働けば働くほど、彼が自分の向こうがわにつくりだす疎遠な対象的世界がそれだけ強大になり、彼自身つまり彼の内的世界はいっそう貧しくなり、彼に属するものがいっそう乏しくなる」(『経哲草稿』、310頁)というのは単なるレトリックではない。
先ほどの婦人服工場の少女が死ぬまで働かされたのは、「外国から迎え入れたばかりのイギリス皇太子妃のもとで催される舞踏会のために、貴婦人たちの衣装を魔法使いさながらに瞬時のうちに仕立てあげなければならなかった」からである。
痩せこけた少女たちが詰め込まれた不衛生きわまりない縫製工場で作られた生産物がそのまま宮廷の舞踏会で貴婦人たちを飾ったのである。
その現実を想像した上で次のようなマルクスの言葉は読まれなければならない。
マルクスを読む

確かに、この記述は真実に違いありません。しかし、真実であればあるほど、コミュニストからすれば、労働者を隷属させる人間集団、すなわち自分達とは思想も価値観も異にする「悪魔」の経営者は、社会から排除される以外には、共存の道はありません。

これが、実は「成熟」論と、同根であると言うのが、えらい前置きが長い今回の結論なのであります。

え?話がまるでわからない?

当然です。確かにいまの社会、ウチダ先生の記述にあるような悲惨な労働者はいないかもしれない。しかし成熟とは程遠い、成熟社会から取り残された人々がそこかしこにいる。むしろ社会の大半でさえある。その彼らこそ、成長偏重社会の犠牲者であり、すなわち「成熟」社会における本来の「正当」なる市民に他ならないと言うわけです。

実現できなかった共産主義社会。彼らは、これを平然と「成熟」社会に置き換える。「成熟」こそ理想であるわけです。

はてさて、一体誰がこれに同意できるでしょうか。

世界中を見渡せば、日本の、日比谷公園に集まった人たちの言う惨状など、高が知れている。戦禍にまみえるわけでもなく、餓死の恐怖もない、すでに社会は「成熟」していると唱えるこの国で、彼らの主張するこれ以上の「成熟」とは、一体いかなるものであるのでしょう。

この矛盾が、結果としての「成熟」論からくることは、考えるまでもなく明らかです。悪魔の「経営者」を排除するためだけの、「成長」の否定、すなわち「成熟」論にこそ、この矛盾の根源があります。

すなわち、私たちが是とするべきは、結果としての「成熟」ではなく、プロセスとしての「成長」以外、ないのであります。 KAI

September 06, 2009

腑に落ちないで週末テニス

このところ、なにかしら腑に落ちないことが多すぎる。小泉・竹中批判の不快と克服もその一つだけれど、まだまだ書き足りない。

例えば「市場原理主義」あるいは「市場万能主義」と言う言葉。資本主義を選択しおまけに目一杯それを享受しておきながら、「市場原理主義」を否定する。あるいは行き過ぎた「市場原理主義」と非難する。経済成長もしかり。すでに成熟社会だとして、世代間問題の解決も示さぬままただ縮小均衡だけを是とする方々。そうそう悪玉「グローバリズム」批判もある。

はてさて、すべてがすべて、そうでしょうか?

「市場原理主義」を否定するなら、すでに歴史が破綻を証明した「計画経済」しかない。あるいは、行き過ぎと非難するのは、では、行き過ぎないとは統制された市場と何が違うのか。統制された市場を市場と呼べるのかどうか。はたして日本社会は、成熟社会と言えるのか。ならば成熟社会先進国の西ヨーロッパで出生率が上がっているのをどう説明するの。「グローバリズム」批判、結構だけど、明治以来、輸入と輸出、すなわち貿易で国家が成り立っていることを、こちらもどう説明するのでしょうか。

格差社会論も米国陰謀論も、これらすべてが「為にする」議論。彼らの「下心」が透けて見えすぎて、不愉快きわまりない。

はてさて、一体全体どうしたものか?

もちろんただ無視すればいいだけのことと分かってはいる。KAI的には、何の実害もないんだし。しかしそれでも、スッキリ、サッパリ感がなくて気持ちが悪い。まるで便秘のようにお腹にたまったまま。

こう言う時に、快刀乱麻のごとき、蒙昧論者をばったばったと切り倒す論客を、ついつい期待してしまうのは、ひょっとして選挙の後遺症かもしれない^^;。

と言うことで、後遺症で心神ままならないまま、週末テニス。

土曜。朝から天気は、すこぶる快適。もちろん暑いことは暑いけれど、このくらいがテニスには丁度良い。ちょうど全米オープンも始まり、前段の後遺症とは裏腹に、最高のコンディション。

久しぶりのネモトくんが入って、6-2、6-7(4-7)、1-6と、第2セットを惜しくもタイブレークで落としたものの、ネモトくんに2本のパッシングも決めて、最高に気持ちが良い。

日曜テニスも、秋本番。お休みのM田さんに替わって、シミズくん。M田さんの代打が誰もいない。どうしようと、最後の望みの綱、コーチの親分シミズくんに電話したら、一発返事でOK。ありがたいことです。

ネモトくんといい、シミズくんといい、強い子とやると俄然燃えるのが、いつものこの面子。しかして、6-2、3-6、1-6、2-1の2勝2敗。辛くもシミズくんの連勝は、阻止。

おかげで、もやもやも吹っ飛んだ。週末テニスの、最大の効用です。 KAI

September 05, 2009

世界柔道惨敗は既得権問題の象徴

既得権にメスを入れないと、なぜダメなのか。今回の世界柔道男子メダルなしが、端的にこれを示しています。

棟田康幸。男子100kg超級、3回戦。ドルシュパラム(モンゴル)に後ろから襟首を掴まれたまま倒れこんで受身ができず左腕を脱臼。そのまま痛々しい中、4回目の指導で反則負け。

穴井隆将。男子100kg級、準々決勝でエルマル・ガシモフ(アゼルバイジャン)に隅落としで一本を取られる。隅落としなんて体のいい名前をつけているけれど、要するに力で振り回されて、これも柔道着を後ろから引っ張られて背中をつく。

二人とも、まるで柔道の型になっていない。しかし、いまやこれが世界柔道、「JUDO」の本質なのです。

彼は、気付きました。「柔道」と「JUDO」は違うと。日本柔道の不振は、日本柔道界の「柔道」から抜け出せない凝り固まった考え方に、その原因があることに石井は気付きます。2008年2月オーストリア国際で優勝はしたものの、これをいやと言うほど理解した石井は、オリンピックに向けて二つの特訓を開始します。
ものごとの本質を理解すれば君は勝てる

石井とは、石井慧。北京オリンピック、男子100kg超級の金メダリストです。彼は、北京オリンピックに向けて真剣に金メダルを目指します。

その一つは、レスリングや相撲の技を次々と取り入れているヨーロッパの「JUDO」対策です。それは一本による勝利ではなく、ポイントによる勝利と同義です。ポイントで勝っても勝ちは勝ちです。ヨーロッパの選手は、寝技に入る前のところからでも投げを打ってくるように、どんな体勢でも技を仕掛ける練習を積み重ねています。組み手ではなく、相撲のとったりのように足を取りに行く練習を、何度も何度も繰り返している。
ものごとの本質を理解すれば君は勝てる

そしてもう一つのトレーニング。

そのまま二つ目の特訓に繋がる話です。石井は、5分の試合時間に、ヨーロッパの選手が3分たって急にパワーが落ちることに気づきました。それなら自分は5分パワーを維持できれば、試合に勝てる。試合開始から3分後「石井ちゃんタイム」のスタートです。この時間に技を掛けに行く。すでに指導で1ポイントリードされている相手は、更に苦しくなる。まさに、1ポイントでも勝ちは勝ちの勝利です。
ものごとの本質を理解すれば君は勝てる


この持久力のために、後輩を肩に襟巻きのように横に担いで30分のマラソンを、オリンピックまで毎日繰り返す。尋常な努力ではないのであります。

この彼の努力に、柔道界は、何を報いたか。よりにもよって石井を追い出してしまったのです。石井の無念が、手に取るようにわかります。しかし、神は見放さない。今回の世界柔道の結果こそ、日本柔道界と言う既得権者に対する「天誅」以外の何者でもありません。

いま柔道界が生き残るために、何ができるか。例えば石井慧を特別強化コーチに迎え入れるなんて、「既得権」からして、まったくあり得ないことであることは、簡単に理解できます。かように、「既得権」とは、強固にして堅牢なる存在であるのです。

この「既得権」を打ち破って、「柔道」を新しい「JUDO」に作り変えていくためには、あと何回かの世界選手権での惨めな敗退を繰り返すしかありません。

既得権者から見れば、「JUDO」は、正統である「柔道」の破壊者。しかし、「柔道」の進化形こそ「JUDO」です。棟田も穴井も、技を決められてもなお柔道着を強く引きつけ最後の最後までどんな体勢になっても切り返しの技を仕掛けてくる、型破りの「JUDO」に完敗したのです。「JUDO」にとっては「型破り」も「型」の一つ。これに「柔道」が対応できていない。

ここで注意が必要なのは、「既得権」問題とは、決して世間で言われる「既得権益」問題ではないと言うことです。つまり「既得権益」ではなく、「既得権力」です。これは、日本柔道界の問題を考えれば一目瞭然。「力」があってこその「既得権」であり、その「力」を失ってもなおその「権力」が維持される構造です。

とは言えこの「権力」、その実質的な「力」との間の乖離が大きくなりすぎては、やがては瓦解を免れません。

日本柔道界が、この変化に、いかなる対応ができるか。この山場は、2010年、東京開催の世界選手権。まさか主催国が2年連続メダルなしでは、面子もへったくれもなくなって、役員総入れ替えするしかなくなる。ここで初めて改革が始まる。そう言うことであります。 KAI

September 02, 2009

小泉・竹中批判の不快と克服

小泉・竹中批判が、惨い。「売国奴」よばわりまでする奴輩がいるが、こんな年寄りの作家までもが、「米国陰謀論」と言う週刊誌ネタにふりまわされるとは、世も末としか言いようがない。

−−自民党が凋落し始めた時期は

 なだ (1971年の)ニクソン・ショックで、変動相場制に突入してからですね。米国はドルのインフレで起こる経済危機を世界に振り向けることができるようになった。だから、日本政府は米国べったりにならざるを得なくなってしまった。最近の郵政民営化にしても、米国からの圧力が遠因でしょう。西川(善文・日本郵政社長)という人は銀行員時代、米国の銀行に利子を保証して債権を買うと約束した。誰が彼を郵政のトップにして喜ぶか。米国しかない。

 −−小泉政権から麻生政権までを振り返って

 なだ 小泉純一郎元首相は米国依存症でした。安倍晋三元首相、福田康夫前首相は、何か本当に大きな問題にぶち当たったわけじゃないのに、政権をほうり出してしまった。ある意味で、元首相の大平正芳氏や福田赳夫氏は哲学を持ってました。人気がなかったけれども、最後まで頑張りましたよね。
【話の肖像画】老婆心ながら…(中)精神科医・作家 なだいなだ(80)

一体全体、なぜこんなことになってしまったのか。このKAIと同じ疑問を持つ人が、ここにもいました。

もっとも討論というのは、反対意見を際立たせる事が前提ですが、自民党、民主党、その他全ての政党が、大なり小なり小泉・竹中批判で一致していたのはどうしてなのでしょうか。異口同音に「行き過ぎた規制改革を巻き戻す」と叫ぶ様は、「なんかヘン」というのを通り越していささか不気味でした。海外に住み、海外メディアの論調を吸収し、日本国内メディアから遠ざかりながらも池田さんのブログだけはしっかり読んでいた私には、現在の日本経済の低迷は行き過ぎた小泉改革の結果ではなく、小泉政権で端緒がつけられた改革路線を、続く安倍/福田/麻生がしっかり継承しなかったからというのが世論の主流だと当然のように思っていたもので。いったいどこでどのように、日本国内における言論統制(?)がこの政界あげての小泉/竹中批判翼賛状態を生み出したのか、皆目見当がつきませんでした。どなたか事情に詳しい方、ここらへんのからくりの種明かしをご教示いただけませんでしょうか。
総選挙に関する雑感 - 矢澤豊

そもそも、この「行き過ぎた規制改革」と言う批判が正当なものかどうか。これが正当どころか、いかに不当で卑劣な欺瞞に満ちた言いがかりであるか、これを統計からきちんと検証した本が出ているのです。

 本書では実際に「小泉改革で格差は拡大したか」が詳しく議論されているので、少し追ってみよう。(中略)さて、では、小泉政権の期間はというと、2001年から2006年である。あれ? 小泉改革は格差の広がりと関係ありませんね、という結論が出る。(中略)
 いや、「小泉改革で格差は拡大した」というのはジニ係数だの所得格差のことではない、完全失業率の問題だ、という主張もあるだろう。雇用が悪化したのは小泉改革の弊害であるといった議論だ。(中略)むしろ、完全失業率の増加は小泉政権以前から見られるので、小泉改革が失業率を減らしていると言えそうだ。あれ? それでいいのか。では、単に働いていない若者を数えるとどうか。これも1990年代からの増加で小泉政権下での目立った増加はない。つまり、ここでも「小泉改革で格差は拡大したか」というと、どうやらそうではない。
 では、話題になっている非正規雇用者の増加はどうだろうか。これも統計を見ていくと、同様に特に小泉政権下との関連はなく、それ以前からの変化が続いていたとしか言えない。では、ワーキングプアの増加はどうだろうか。これは統計の扱いが難しいが、やはり同様の結論が出てくる。ではでは、生活保護世帯の増加はどうか。これも小泉改革との関係はわからないとしかいえない。さらに、ホームレスとネットカフェ難民もと統計値を見ていくと、むしろ減っているように考察できる。結局どうなの?

 本稿のテーマは、小泉政権が格差を拡大したのかどうかを検証することでした。
 これまで見てところでは、わたしたちの実感とは異なり、それをはっきりと裏付けるデータは、公式統計からは見当たりませんでした。

 え? そうなのか。いや、そうなのだ。それが、各種統計を見て出てくる結論であって、逆に、小泉改革で格差は拡大したという議論は、おそらく、特殊な方法論を使っているか、ごく主観的な主張に過ぎないだろう。
[書評]不透明な時代を見抜く「統計思考力」(神永正博)

これだけ明白なデータが出ているにもかかわらず、です。

再び言う。一体全体なぜこんなことになるのか。これを一言で説明する言葉があります。

為(ため)にする

ある目的に役立てようとする下心をもって事を行う。
kotobank 為にするとは デジタル大辞泉の解説

要するに「下心」なわけです。あーやだやだ。日本経済にとって大恩のある二人に対して、こともあろうに「下心」からの批判とは。これはもう必ずや「天誅」が下されることでありましょう。

それにしても自民党。前回のエントリーで、小泉ジュニア圧勝にこそ、自民党復活のヒントがあると書きましたが、小泉・竹中批判地獄に堕ちてしまった方々には、皆目この意味が理解できないでしょう。

小泉批判、世襲批判と言う大逆風の中、世襲であり、小泉である、このジュニアに対して、なぜこれだけ支持が集まるのか。地元と言うだけでは、これは決して説明できる話ではありません。それは、小泉ジュニアと言う「人」そのものへの支持と考えるのが、最も納得がいく答えです。すなわち、世襲であり小泉であることこそ、「小泉・竹中路線」を決して裏切らないと言う確固たる信頼を、有権者から勝ち得たからに他なりません。

つまり、自民党が有権者の信頼を取り戻すためには、「小泉・竹中路線」のような、有権者を決して裏切ることのない明確な政策を打ち立てる以外にはないのであります。

現在の日本経済の低迷は行き過ぎた小泉改革の結果ではなく、小泉政権で端緒がつけられた改革路線を、続く安倍/福田/麻生がしっかり継承しなかったから
総選挙に関する雑感 - 矢澤豊

当然、自分たちが犯したこの大きな間違いを、清く反省することがスタートになります。その上で、「小泉・竹中路線」に変わる、成長戦略のための規制改革路線の政策を、改めて明確に打ち出すことです。

民主政権になって、必ず10年前以上のデフレがより深く進行します。再びあのどうしようもない閉塞感が、世の中を覆い尽くすのは、目に見えているのです。

この時に、自民党の手で解決の道筋を示すことが出来るかどうか、これが自民党の命運を決するのは、間違いありません。できたらこれをジュニアに成し遂げて欲しいと思うけれど、まだ若すぎて、荷が重すぎる。

となれば、石破茂。52歳とまだまだ若い。彼なら、この程度の成長戦略は、簡単に理解できるし、自民党の中で経済問題と距離を置いてきたのは返って好都合。おまけに防衛問題では自民保守本流を行く。

自民党の皆さん、ここはひとつ石破茂に託してみてはいかがでしょうか。 KAI