July 31, 2009

成長ホルモン入りウナギ

なぜ土用の丑はウナギなのか。

「なぜ土用の丑はウナギ」でぐぐると、最初に出てくるのが以下の説明。

土用丑の日とウナギ
夏の土用の時期は暑さが厳しく夏ばてをしやすい時期ですから、昔から「精の付くもの」を食べる習慣があり、土用蜆(しじみ)、土用餅、土用卵などの言葉が今も残っています。
また精の付くものとしては「ウナギ」も奈良時代頃から有名だったようで、土用ウナギという風に結びついたのでしょう。
今のように土用にウナギを食べる習慣が一般化したきっかけは幕末の万能学者として有名な平賀源内が、
夏場にウナギが売れないので何とかしたいと近所のウナギ屋に相談され、
「本日、土用丑の日」
と書いた張り紙を張り出したところ、大繁盛したことがきっかけだと言われています。
丑とうなぎの「う」がいっしょだから??
  この時、平賀源内が焼き鳥屋さんに相談を受けていたとしたら今ごろは・・・・・・。
なぜ丑の日なのか? ウナギなのか?
丑の日とウナギの関係ですが、丑の日の「う」からこの日に「うのつくもの」を食べると病気にならないと言う迷信もあり、「ウナギ」もこれに合致した食べものであった!?
別の説では、十二支のうち「丑辰未戌」の4つが五行説の「土」に配当されています。
ひょとすると「土用最初の土の日」・・・・・かも知れません。
土用の丑の日とは

と言うことで、今年はしっかり節約モード。鰻やではなく、自宅で済ませることにして、ポロロッカで鰻の蒲焼を買う。鹿児島産は、1300円。中国産は500円。産地偽装の問題を考えれば、最初から中国産表示は正真正銘の中国産。中国産を買わない手はありません。

この見事なまでの論理が、あえなく破られた。

週末テニスのあとのアンジェロ、このKAI式中国産ウナギ擁護論に対して、Y木さんからクレーム。中国産は成長ホルモンが一杯入っているからやめたほうがいい。このY木さん、世界の食材情報の専門家。なるほど、言われてみて思い出した。

成長ホルモン入りの牛乳。すっかり忘れていたけれど、成長ホルモンが蔓延している。

長い前置きになりましたが、と言うわけで、本日の土用の丑。残念ながらウナギが食べられなかったのあります。トホホ。 KAI

July 30, 2009

日本語問題

恐らく社会学的に、この「日本語」が問題となる時代には、その社会情勢との関連において、なんらかの所見を見出せるはずと思うけれど、それはひとまず横において、いま確かに、日本語論が面白い。

ついこの間までの、「日本語が亡びるとき」。タイトルとは裏腹に、日本語の存亡の危機を訴える内容に、梅田氏やウチダ先生など肯定的コメントが多数寄せられた。

しかし、KAI的には、これらがまったく「日本語論」をなしていないと思っていままでコメントしなかったけれど、やっとまともな日本語論が出てきたのかも(すみませんまだ読んでいないので断定できません^^;)。

認知言語学では、意味から独立した統語論を否定し、文をメタファーの関係としてとらえる。ここでもっとも基本的なのは、外的な世界を概念化する過程であり、文法はその概念=メタファーの関係をあらわす形式にすぎない。そうした形式のルールは記号論理学として完成されており、そこには主語という概念は存在しない。たとえば「犬が走る」という文はf(x)のような関数(述語)として表現され、その複合が命題になる。多くの文は複数の述語の複合した命題であり、その論理的な関係は集合の包含関係に置き換えられる。
日本語は論理的である

つまり、思考は並列であり、言語は直列です。並列問題は、原理的に直列問題として解決できない。要するに、日本語存亡論者のように言語を単なるコミュニケーションの道具と考えている限り、この文章にあるような日本語の「価値」がどこにあるかなど、言語本来の役割を理解することはできないのであります。

とうのウチダ先生でさえ、こんなことを書いている。

たぶん、創造性ということについて微妙な違和感を覚えるからである。
私の場合、「創造的」というのは、ほとんど「口から出任せ」というのに等しいんだけど。
その場合に、ある言葉がふと口を衝いて出て、それがどういうふうに転がって、どういうふうに収まるのか、予見できぬままに言葉が繋がり、やがて「そんな話になるとは思わなかった」ことを言い始める。
しゃべった本人が「へえ、私はそんなことを言いたかったのか」と事後的に知る、というかたちで「新しいアイディア」は生まれる。
私の場合は、とにかく、そうである。
問題は、このようなデタラメな言語運用は母語についてしかできない、ということである。
それと「同じこと」を私は外国語では行うことができない。
英語で合気道

すなわち言語論とは、思考の問題であって、コミュニケーションとしての道具論ではまったくない。ましてや、英語か日本語か、道具の優位性など、なんら言語の「価値」とは異なる次元の問題であることは、少し頭を働かせれば簡単に理解できる話であります。

日本語が、あと一千年、いや二千年、三千年、日本国に住む日本人がいる限り、生き残っていくことに、何の疑義があると言うのでしょう。国家の消滅の前に言語の消滅など、あり得るわけがないではありませんか。

そう言う意味で、憂うべきは日本語ではなく、日本国そのものであり、日本国の歴史の継承以外のなにものでもありません。

反日、自虐史観教育の「大罪」に、必ず神の鉄槌がくだることでしょう。 KAI

July 29, 2009

シーメンスの補聴器

今朝きた新聞の折り込みチラシに、ドキリとした。

二つの縦に並んだ耳の写真がある。上の耳には補聴器が詰まっているけれど、下の耳にはそれが見えない。説明を読むと、耳穴の奥に入っていて、耳たぶ裏の本体と細いコードで繋がっているらしい。確かによく見ると透明のコードが見えるけれど、まったく目立たなくていい。

欲しい。

実はKAIは、難聴ぎみ。「ぎみ」というのは、健康診断の聴力テストで聴かされる波長の音がまったく聞こえない。それで「難聴」と診断書には記載されているのだけれど、耳鼻科の医者と話しても、きみは僕(医者)の言っていることが聴こえているから、難聴じゃないよと言う。

しかし、人の話し声が聴きづらいのは事実。

欲しいと思って、チラシの裏側を見ると、権之助坂のお店で診断の上購入できるとある。

めったなことではチラシなんか、目もくれない人間の目に、見事にはまったこの広告は、なかなかするどい。補聴器をつけるのはいいけれど、いかにも老人といった感じでちょっとなと言う、潜在意識に見事に訴えかけているのです。

といいながら、ここでしばし踏みとどまる。

KAIはあと50年(近く^^;)は生きるつもりですので、もし今ここで補聴器を着けてしまったら、これから50年、補聴器に依存した生活からぬけられなくなってしまう。まだメガネならまだしも、補聴器は電池がいる。たびたびではないにしろ、この先いったい何個電池を取り替えることになるのか。

この「依存症」の怖さを、つい最近体験したばかりであります。8年前から使っているソニーのカーナビ。これがうんともすんとも反応しなくなったのが先々週。先週修理のために取り外して以来、カーナビが使えない。なんともこの不自由なこと。

まったく意識していないうちに、カーナビ依存症に首までどっぷりつかっている自分に、激しく驚愕したのであります。

昔なら知らない土地に出かけるときは、事前に必ず道路地図で下調べして、地図のコピーを持参して道順と現地の場所を確かめていたものが、今はそうではない。行き先の住所さえあれば、カーナビにセットしてお仕舞い。もちろん事前にかかる時間は、カーナビでなくても地図サイトの経路検索でできるので、何時に出発すればいいかも考えなくてもいい。

今は、カーナビが使えなくても、地図サイトで簡単に住所検索も経路検索もできるから、昔に較べれば格段に便利になった。しかしカーナビがないことで何が不便かといえば、見知らぬ土地でいま自分がどこを走っているのか、これが皆目わからなくなった。

カーナビがない時代は、このカーナビの役割は、自分の「頭」がやっていた。事前に調べた「頭」の中の地図の上を走っていく。目印の交差点をいちいち確認しながら、「頭」の中の車の位置が移動していったのです。

久しぶりに、この「頭」の中のカーナビを取り出して、車を運転するのは、とても新鮮。しばらくはとまどうけれど、それでも昔取った杵柄。昔のある意味の「緊張感」が戻ってきた。

やっぱり人間は、この「緊張感」を忘れてはいけない。

もちろん補聴器がなくてはまったく聴こえない人は、こんなことはいってられない。それでもまだ少しでも聴こえるうちは、補聴器に頼らない、聴くことの「緊張感」を持ち続けようと、喉から手ならぬ耳から出かけた手を引っ込める言い訳を、必死で考えるKAIであります。 KAI

July 26, 2009

知花くららのナイスな着眼点と週末テニス

シリーズが復活した、NHKの「課外授業ようこそ先輩」。

この間まで、土曜テニスの前、テニスコートへの移動の最中にいつも見ていて、これがいつのまにかつまらない料理番組に変わって、まったくみなくなってしまっていました。

日曜の朝、なんとこの「課外授業ようこそ先輩」の新シリーズが、始まっていました。しかも、今回の先生、めちゃくちゃ「いい女」。しばしくぎづけでみていて、結果、まいった。

知花くらら

初めて聞く名前ですが、沖縄出身、ミスユニバース2006の日本代表として準優勝。Wikipediaに「WFP(国連世界食糧計画)のオフィシャルサポーターであり、アフリカ、アジア各地へ自ら足を運び、チャリティー活動に熱心である。」とあるように、彼女は実際にアフリカへ行き、飢餓に苦しむ子どもたちを目の当たりにしてきた。

NHKのこの番組で、彼女は小学生の子どもたちに、宿題を出します。

今日の晩ゴハンと明日の朝ゴハンは、このサツマイモ1本です。

子どもたちは、目の前の宿題を家に持ち帰って、これを実践するのです。事情を聞いたおばあちゃんが、嬉々としてこれを蒸してくれます。もちろん調味料も一切加えず、自身が終戦前後に経験したままを、可愛い孫に語りかけながら、経験させます。

孫の反応が面白い。美味しくないのです。しかし食べなければお腹がすくから、明日の朝の分、半分を残して食べる。ぜんぜん足りないし、しかもあまり美味しくない。空腹のまま朝食のサツマイモは、どうなったか。

なんと日曜の朝、9時に約束があるため番組途中で外出。この結果がどうなったかは、神のみぞ知る^^;。といいながら、子どもたちが、残った半分のサツマイモに美味しそうにかぶりついてたのは、まず間違いありません。

かように、たった半日の体験で、ものごとの「本質」を実感することができる。

マイケルは伝説になった(2)の中の一節。

 鬱には断食がいいだろう、と私は今でも思っている。日本では、安全が普通で危険は例外だと思っていられる。飽食はあっても飢餓がない。押し入れは物でいっぱいで、部屋にあふれた品物が人間の精神をむしばむ。
 もちろん世の中には、お金も家もなくて苦労している人がいるが、それより数において多くの人が、衣食住がとにかく満たされているが故に苦しんでいる。
 人間の生活は、物質的な満足だけでは、決して健全になれない。むしろ与えられていない苦労や不足が、たとえようもない健全さを生むこともある。このからくりをもう少し正確に認識しないといけない。
(産経新聞、透明な歳月の流れ、欝には断食がいい 苦労や不足が健全さを生むこともある、曽野綾子、2009/7/1、p.7)

ボランティア教育も、もちろん諸手を上げて賛成だけれど、こう言う断食教育は、ぜったいにやるべきだね。バカ親が子どもが餓死したらどうするのか責任取れと騒ぐでしょうが、むしむし。

と言うことで、気分良く、週末テニス。

土曜は、やっとネモトくんの連勝を阻止。6-3、0-6、5-4と、最終セットを時間切れゲットして、ネモトくんから貴重な1勝をあげる。

別にこちらの調子が特別いいわけでもない。勝つときと言うものは、そう言うもの。ミスを少なく常に攻撃してプレッシャーをかけ続ける。

そして日曜。いよいよ炎熱テニス本番。風が強い分救われるけれど、湿度が高いから汗が出続ける。テニスグリップにとってこの汗は大敵。たいていのプレーヤーは、グリップテープを巻いて滑らないようにしているのに、KAIはむかしながらの買ったときのレザーのまま。

しかし、これが滑らないようにするいい方法を思いついた。短めのタオルをパンツの右ポケットの横にかけて、端をポケットにいれる。これだけで常に手のひらと手首の汗をふけるからグリップが滑らない。時々グリップ自体もタオルの間に入れて汗を取れる。

試合の合間に必ずシャツを替えるのも、汗だくだくのシャツから手首に汗が滴り流れてくるからで、この汗もタオルで簡単にふける。

グリップが滑らないと、ボレーもしっかりできるから気持ちがいい。こんな簡単なことが、勝負ごとではとても重要なんだと、ずいぶん後になってから気づいた(なんでも気づくのが遅いんだよきみは)。

しかし、結果は6-4、4-6、1-4と、1勝しかできない。もちろん理由は簡単。「ミスを少なく常に攻撃してプレッシャーをかけ続ける」ことが、なかなかできない。

疲れてくると途端に、攻撃するエネルギーをなくしてしまう。基礎体力維持が不可欠なんだけれど、いかに楽して勝つか、課題は尽きないのであります。 KAI

July 24, 2009

その人のために死ねるか

クリップの続き。

 「その人のために死ねるか」ということは、愛の本質を見極める一つの踏み絵だと私は過去にも思ってきたし、今でもそう思っている。私が『誰のために愛するか』というエッセーを書いたのは1970年。もう40年近くも前のことだ。しかしその間に私は答えを変質させることができた。
 愛は「好きである」という素朴な感情とはほとんど無関係だという厳しさを知ったからである。キリスト教における愛というものは、むしろ自分の感情とは無関係に、人間としてなすべき態度を示すことだ、とされている。つまりその人を好きであろうがなかろうが、その人のためになることを理性ですることなのだ、と私は知ったのである。
 私たちは子供のときから、裏表のある態度を戒められるが、キリスト教は、むしろ裏表を厳しく要求しているように見える。心の中は憎しみで煮えくり返っていても致し方ない。そのときでも、柔和に、しかも相手のためを思う理性を失わないことだ、というのだ。
(産経新聞、「小さな親切、大きなお世話」、神のいる場所、曽野綾子、2009/7/24、p.1)


愛の本質とは「理性」。身に沁みる言葉であります。 KAI

July 23, 2009

透き通った風のような人がそばに居るだけでいい

今週は、人類が月に降り立ってから40周年とか皆既日食とかあると言うのに、なぜか書く気力が湧いてこないので、気になった言葉のクリップだけ。

 −−映画「おくりびと」がヒットしました

 帯津 「おくりびと」の原作とされる「納棺夫日記」を書いた青木新門(しんもん)さんとは“飲み友達”です。私は、本の中にある「(末期者には)透き通った風のような人がそばに居るだけでいい」という一節に圧倒されました。
【話の肖像画】「死」は楽しみ!!(下)医師・帯津良一

「透き通った風のような人がそばに居るだけでいい」。延命治療の嫌いなKAIにとって、ものすごくよく分かる気がする。 KAI

July 19, 2009

山椒とちりめんじゃこと週末テニス

季節の便り、山椒を、田舎の母が送ってきてくれたのが丁度1ヶ月前。

季節の便り山椒が届く週末テニス


これはこれで美味しいのだけれど、山椒だけが煮てあって、いつものちりめんじゃこが入っていないと母に文句を言ったら(文句なんか言える立場でない自覚なし^^;)、スーパーのちりめんじゃこ4パックとお〜いお茶のペットボトルに入った薄口醤油、それにレシピを書き添えて送ってきてくれた。これが、日曜の早朝8時過ぎに届く。ヤマトのお兄さんはまことに働き者です。

コーヒーの大きな空き瓶一杯に入った山椒は、まだほとんど残ったまま。これと送ってくれたちりめんじゃこを一緒に炊き合わせる。

レシピどおり、なべいっぱいのちりめんじゃこ、これが多すぎてこれでいいのかふつふつと疑問に感じながら、これに事前にポロロッカで買ったお酒を「ひたひた」と入れる。レシピによれば「ひたひた」だけど、この「ひたひた」の意味がよくわからない。

適当に「ひたひた」入れて、ぐつぐつするまでしばらく待つこと、数分。なんどかふきこぼれそうになる前に、なべを浮かせながら中身を長箸でかきまぜる。そこで、ペットボトルの薄口醤油を入れようとして、ありゃりゃ、一気に入ってしまった。レシピには、多すぎないようにと書いてある。

覆水盆に返らず。あきらめて、コーヒー瓶の山椒をすべてなべにぶちこんで、混ぜる。多すぎないかと心配したちりめんじゃこはすでに初期の体積から半減していて、山椒をくわえてちょうどいい按配の量になる。さすが年季が違います。

ぐつぐつ煮込んではいけないと、レシピにはある。長箸を差し込むと、丁度煮立った汁が部分的に泡をたてている。なるほどね、この泡の消えるタイミングで火を止める。

長箸でつまんで味見。やはり醤油を入れすぎたかも。

火を止めてすぐの熱いままを、もとのコーヒー瓶に入れる。もちろん全部は入らない。パックに残りをつめて、すべて冷蔵庫の冷凍庫にほうりこんだ。そして1時間半後、取り出して、もう一度味見する。いいんじゃない。いいですよ、これは。毎年母の送ってくれてた味とは、いささか違う気がするけれど、想定どおり、しっかり味がしみこんでいる。急速に冷やすことでうまみがまして、入れすぎた醤油の味が全然気にならなくなるんだよね。

一人悦にいりながら、ビールを飲みたい気分を押さえて、テニスに出かける。

その週末テニス。

土曜は、3週間ぶりのY木さん、ペルーの土産話をききながら、いつものメンバーでいつものテニスは、ほんと心地よい。結果も6-1、0-6、5-7と、ネモトくんの連勝ストップに、あと一歩。

日曜も、久しぶりのいつものメンバー。山椒とちりめんじゃこの炊き合わせの成功で一気に連勝かと思いきや、一つ問題が。昨日テニスから帰ってきて、へんな体勢でテレビを観ていたのがいけなかった。右の背中の筋を違えたようで、トイレで右手で尻をふくにも痛みで手が届かない。こんな状態では、まともにテニスはできない。

にもかかわらず、山椒とちりめんじゃこ効果か、第1セット、6-2で楽勝。しかしこれも第2セット、5-3とリードしたところで限界。結局6-7のタイブレークで逆転負け。第3セットは、ゲームにならず0-6。あと10分あるけどこれにてお仕舞い。

歳を取ると身体がかたくなると言うけれど、なるほど「かたくなる」意味が、痛いほど(ほんとに痛いんですけど)わかった。 KAI

July 18, 2009

名前には命がある

shi3zの日記で極推奨されていたまつもとゆきひろ コードの世界(日経BP出版センター、まつもとゆきひろ、2009/5/21)をアマゾンで注文したのが、2週間前。

これがやっと届いて、一気読み。

面白かった。久々に、「コードの世界」に浸って、知的刺激をうけまくり。shi3zくんの書くとおり、これからプログラマを目指す人を含めてすべてのプログラマ必読の書であることは間違いない。さっそくもう1冊買ってプログラマを目指す長男にプレゼントすることにする(親バカだよね)。

それにしても、このmatzことまつもとゆきひろのセンスは、抜群です。

 さて、この信仰はある程度真実ではないかと感じることがあります。つまり、事物の名前には、理屈では説明しきれない不思議なパワーがあるような気がするのです。
 例えば、本章で解説したAjaxもそのひとつです。(中略)
 私には、このAjaxの成功の原因が、単なる技術の組み合わせに魅力ある名前をつけることができたことにあるのではないかという気がしてならないのです。名前は本当に重要です。
(中略)
 そんなこともあって、私の設計上の座右の銘は「名前重要」です。あらゆる機能をデザインする時に、私はその名前にもっともこだわります。プログラマとしてのキャリアの中で、適切な名前をつけることができた機能は成功し、そうでない機能については後で後悔することが多かったように思うからです。
(中略)
 これはつまりこういうことなのではないかと思います。適切な名前をつけられると言うことは、その機能が正しく設計されているということで、逆にふさわしい名前がつけられないということは、その機能が果たすべき役割が自分自身でも十分理解できていないということなのではないでしょうか。個人的には適切な名前をつけることができた機能については、その設計の8割が完成したと考えても言い過ぎでないことが多いように思います。
(名前重要、p.150)


これとまったく同じ経験と思考のプロセスを歩んできたKAIは、この記述を読んでうちふるえました。

昔取った杵柄、プログラミングにおいてはもちろんのこと、いまの私たちの会社の名前、開発した製品の名前、そのサービスの名前、おまけに3人の子どもたちの名前、これらひとつひとつの名前にはそれぞれの名前へのKAIの思いとこだわりのすべてが込められているのです。

例えば「オープン」。

日本で初めてこの「オープン」を社名にしました。もちろんドメイン名も「open」であり、商標も「open」で登録されています。起業当時、IBMのOSF(オープンソフトウェアファンデーション)がありオフィスにもよく間違い電話がかかってきましたが、社名の「オープン」の由来はOSFとはまったく違うところにあります。

それは、実はKAI自身の名前に由来しているのです。自分の名前を命名した亡き父の思いは、今更知る由もありませんが、昔から英語で自分の名前を「ウォームハーティッドマン」と紹介していました。「ウォームハーティッドマン」すなわち「オープンマインド」だと。

中学生になって入った新聞部で使い始めたペンネームの「KAI」は、漢字で書けば「開」。これもまた「オープン」。

そして初めて自分で考案した設計技法の名前を「オープンチャート」と命名したのが、起業する10年前。その後いよいよ創業のとき。IBMの汎用機を中心とした閉鎖的なソフトウェアからの脱却を目指して、「オープンソフトウェア」と命名したのです。

さらには、閉鎖社会の象徴、江戸幕府を開国に導く使者となった「ペリー」をアプリケーションの名前にし、開国した新たなる国、新大陸を「アナザーランド」と命名し、今に至るのです。(もちろん3人の子どもたちの名前にも、これに負けずおとらずの歴史があるのですが割愛^^;)

まさに、人生は歴史です。名前の歴史であり、この名前にこだわり続ける人生こそ、人生の本質です。成長と共に名前を変える魚や、元服の名前、名は体を現すの例を出すまでもなく、人生がこの名前と共にあることを理解することは、きわめて重要です。

そしてさらに重要なことは、名前が先であること。matzも書くように「適切な名前をつけることができた機能については、その設計の8割が完成」とは、すなわち名前が先だと言うことです。この先にある名前がその実体に命を吹き込んで、また名前自体が命をもつようになる。そう言うことであります。 KAI

July 16, 2009

評価と金は後から付いてくる(2)

青木薫と竹内薫。同じ薫どうし、お二方とも、まことにいい仕事をしています。

青木薫は、これもまたシンクロニシティ。昨日の宇宙を織りなすものの翻訳家。

一方の、竹内薫。以前こんな形でここで取り上げました。

評価と金は後から付いてくるとは、常日頃、親や先輩から言いきかせられる言葉です。にもかかわらず、評価されないことをぐちったり、給料の安さを嘆いたりするのは人の常。

しかし、人は、その一生の中のある時突然、この言葉の本当の意味に気づきます。評価も金も、自ら真に欲するものではなかったことに、気づきます。人が真に欲するものは、人様々ですが、決して評価も金も、人の真に欲するものの中にないことに、気づきます。

もし評価と金を得ることができたとして、ではその先にあるのは一体なんでしょう。評価と金は魅力的です。強力で巨大に魅力的です。その陰に隠れて見えなかった、あなたの真に欲するもの。それが何もなければ、ただむなしいだけ。

そして、ここに自ら真に欲するものがなにかやっと気づいた人がいます。

落選の理由が「文章は巧いけれど、やはり難しい」だったそうで、それなら、もう一歩譲歩して、優しく柔らかくするのかと思いきや・・・オレは、はたと思い至った。

そうだ、オレは、大切な何かを忘れかけていた。

オレは、もともと、トップダウン式に偉い人々に引き上げてもらって出世するタイプではないのだ。

オレはボトムアップ式の草の根の読者の支持だけで、これまで生きてこられた。

だから、ブルーバックスの物理書のコアの読者がオレに(かつて?)期待していたような、もうバリバリの物理書に回帰する決意を固めた。
薫日記 やはり反骨で

以前のエントリー間主観性−「心配力」の研究(4)で取り上げた99.9%は仮説( 光文社新書、竹内薫、2006/02)の著者のBlogにある文章です。
評価と金は後から付いてくる

ところが彼は、こんなことを書いている。

誰かが「評価と金は後からついてくる」と掲示板に書いていたが、全然、ついてこないんですけど(笑)

必死に踏ん張ってるつもりだけど、なんだか、かなり辛いよ。

彼の、読まないでくれと言う書き込みを、取り上げるのはフェアじゃないけれど、彼にはぜひともわかってほしいことがある。

それは、人が真に欲するものとは、それを本人が自覚するか否かに関係なく、実はその人の目の前にいる人が欲しているものであって、それをいま目の前にいるその人に与えることができることが、人の真の喜びであり、真の快楽なんだと言う、そう言うことです。

目の前の人の求めるものと自ら真に欲するものとが、互いにシンクロし共鳴しはじめるときに、人は、ある不思議なしかし強大なパワーを得ることができます。これが、創造性のパワーと言うやつですが、この話はテーマをわけて書くことにします。
評価と金は後から付いてくる

ま、そう言うことです。ガンバッテネ!薫! KAI

July 15, 2009

訳者の鑑

ブライアン・グリーンの「エレガントな宇宙」に続く著作、宇宙を織りなすもの(草思社、ブライアン・グリーン(著)、青木薫(翻訳)、2009/2/23)をやっと読み終えた。もちろん上下巻合わせて800ページもの大作ですので、ほんの通読ですが。

しかしこれを読んで、この本の中身もそうですが、これを訳した青木薫氏の「仕事」にも、KAIはいたく感服しまくりです。

才能のある物理学を志す学生にとって、この書籍が果たす役割は、とてつもなく大きいです。必ずやこの読者の中から次世代のノーベル賞を受賞する物理学者が現れると、強く思うのです。それは、いまのいま最先端の物理学が目指すものが何か、この書籍は、初学者にも手に取るようにわかりやすく書かれているからです。そしてこれが、日本人の学生にとってもきわめて分かりやすい日本語に翻訳されていることも、きわめて重要なことです。

ともすると専門書と言うのは厳密な記述を重視するあまり、わかりにくい。

しかしこの書籍は、一切数式を使うことなく、見事なまでに「最先端」の物理学の概念を説明することに成功している。もしKAIが物理学科の学生であった時にこの本を読んでいたなら、ほぼ間違いなく、そのままこの道を歩み続けることになったでしょう。

それにしても、この宇宙をめぐる超豪華スペクタクルを眺めながら、このKAIの若かりしころの熱き思いがよみがえってきました。いまKAIがあるのもこの熱き思いがあるからこそ、と思いながら、ブライアン・グリーン、青木薫、この二人の、本物の「仕事」に熱きエールを贈らずにはいられません。 KAI

July 12, 2009

意味を理解する週末テニス

すべての流れには、その意味がある。これを意識するかどうかだけで、これがまるで違ったものに見えてくるのは、なんとも不思議なことです。

いつもの週末テニスのメンバー。Y木さんの海外旅行でそのアナを埋めるのが大変と、先週書いたとおり。ところが不思議なことに、これがなんとかなるもんです。

土曜テニス、Tジさんが、昨年末12/27以来の半年振りの参加。もちろんその間何度かチャンスはあったのですが、雨で流れたとかタイミングが合わなかったのに、今週はぴったしはまった。

このTジさん、還暦とおに過ぎても、矍鑠として元気そのもの。テニスはもちろんですが、仕事も現役で専門書の出版社を経営。むかしの同期はみな引退して現役でやっているのは2人だけだといいながら、この出版不況の中、手堅く自分にしか出せない書籍にこだわり続けている。

そして日曜が、T木さん。KAIより少しだけ年上だと思うけど、彼もまた堅実に会社を何年も経営している。もうちまちま儲けるのも飽きてきたね。いなかでのんびり暮らしたいよ、ね、KAIさん。

T木さんは、この週末テニスには初参加だけれども、もう20年来のテニス仲間。試合をやるのは3年ぶりなんていいながら、厳しいボールをビシバシと決めてくる。このT木さん、もしやと思い出して電話したのがよかった。

お二方とテニスをやりながら、いつのまにか自分の姿を重ね合わせて見ている自分に気づく。普段自分で自分の姿が見えない分(あたりまえだけどね)、意識していなかった自分が目の前にいるのが、不思議であり驚く。こうして人は歳を取っていくのか。

そういえば週末の朝、床屋へ行く前に洗面所で自分の顔をしげしげとながめていたら、ずいぶん髭に白いものが混じってきているのに、驚いた。

まるでいままで守りにはいるなんて考えもしなかった。それがいま、攻めることではなく守ることを考えている自分がいる。

もちろん、いつまでも攻め続けるテニスに変わりはない。土曜は、このTジさんとO谷さん、それにネモトくん。最初にネモトくんと組んだTジさんの調子が良すぎて、2-6、1-6、6-1、3-4とまたしてもネモトくんの連勝阻止ならず。日曜、3-6、6-2、3-3と、一応先週からの日曜の連敗は免れる。

開票速報を見ようと思っていたのに、WOWOWのインディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国を観ているうちに寝込んでしまった。目が覚めたら自民大敗。ま、しかたないけど、明日から1週間が楽しみになってきた。寝よ。 KAI

July 09, 2009

キーワードは「はっきり言う」

いまの政局、キーワードは「はっきり言う」。何を「はっきり言う」かといえば「本音」です。この「本音」。いまインターネット時代になって、「Webは嘘をつかない」に書いたとおり、おそろしいまでに世間に伝わるようになってしまった。

麻生さんも、首相に選ばれるまでは、「本音」を「はっきり言う」政治家と思われていたし、事実「本音」をはっきり言っていた。ところが郵政民営化反対の「本音」をついうっかり、はっきり言ってしまってからおかしくなってしまった。こんな「本音」はたまったもんではない。集中砲火をあびて、本音でないことをはっきり言っても、だれも信じなくなってしまった。以来本人は「はっきり言う」ていると思っても、「口籠もる」ようにしか周りには聞こえないから、不思議なもんです。

なぜ東国原や橋下に人気が集まるかと言えば、すべて「はっきり言う」からです。

言語明瞭、意味不明瞭ではないからです。

これは小泉首相から大きく変わってきました。それまでの政治家は、そうじてはっきり言わない。明言しないから、きいても、すっきりしない。これが小泉によって、政治家の言葉が、非常に清々しいものになった。政治とは、もともとそんな清々しいものではないんだよと言う人々の反発をよそに、快進撃を続けられたのは、これを世間が「諒」としたからです。

しかし、安倍、福田、麻生とたらい回しが続く内に、自民党の方々は、この「世間の気分」がすっかり見えなくなってしまったようです。

では、舛添はどうか。いままでは多少のぶれはあるものの「はっきり言う」ことができたかもしれないけれど、総理と言う立場で「はっきり言う」を貫くことができるかどうか。

いずれにせよ、世間はもう、「はっきり言う」政治家しか、受け付けなくなっていることを、政治家の皆さんは気づくしか道はありません。そう言うことであります、ハイ。 KAI

July 05, 2009

大数の法則的週末テニス

ペルー旅行中のY木さんのアナを埋めるのは、なかなか大変。おまけにO谷さんも、仕事が午前中に入って参加できなくなったと連絡が入る。

KAI一人になってしまった。

こう言うときの強い味方が、いました。ウッシー。アメフト歴二十年の現役ですので、体力は申し分なし。テニス歴数回ですが、そこそこ試合になる。

と言うことで、土曜テニス。メンバーはウッシーに加えて、ネモトくん、イトウくんと言うダブルコーチの贅沢。非常事態につき致し方ありません^^;。

今日のゲームのポイントは、ウッシーが1勝をあげられるかどうか。もちろんKAIと組むのではなく、2人のコーチとペアを変えながらです。

第1試合。KAI・ネモト対ウッシー・イトウ。いまひとつしまりのないネモトくんが幸いして、いきなり3-3まで拮抗するも、ウッシー・イトウチーム力尽きて負け。結果は6-3。

第2試合。KAI・イトウ対ウッシー・ネモト。結果は6-1でしたが、緊迫した非常に良いゲームが続く。

第3試合。KAI・ネモト対ウッシー・イトウと最初の組み合わせに戻る。コーチと一緒にプレーするウッシー。KAIも昔テニスではなくピアノで先生と連弾したことがあるのですが、この気持ちの良いこと。いまのウッシーも恐らくそんな感覚ではないかと、ふと思う。それくらいウッシーの動きが心地よい(想像ですが)。しかし結果は非情の、6-2で負け。

同じペアのまま、おまけの第4試合。4-0で時間切れ。

勝負の世界は、厳しい。ウッシー、4連敗と1勝もできず。しかしこれは致し方ありません。2人のコーチの間に歴然とした力の差がない限り、勝敗はKAIとウッシーの力の差による。KAIが勝つのは当たり前。

それにしても、コーチといえどもペアをカバーするのは、ほんと難しい。ペアで戦うのは、それが足し算ではなく掛け算だからです。つまりペアのどちらかが、1より小さい場合にどうするかです。

これは夫婦と言うペアも、まったく同じ。いつかは必ずどちらが先かは別にして、1より小さくなっていく。そのときジタバタしても、遅い。これを早くにシミュレーションできるテニスと言うスポーツは、まことに深い。

そして日曜。一転して、上級者メンバーが勢揃い。こう言う時は必ず誰かが3連敗する。と言う悪い予感通り、2-6、0-6、3-6、0-1(2-7)とKAIの4連敗。

昨日の4連勝のあとの4連敗は、まことに痛い。痛いけれど、4連勝したから4連敗したともいえる。

つまり4連勝は勝つべくして勝っただけで、何の努力もしていない。ペアであるコーチが優秀であっただけのこと。しかし今日は、違った。ペアは上級者と言えども自分を含めていくらでもミスをする。このミスを互いにカバーする力がないだけで、試合は簡単に負ける。このことを4連勝して忘れている。わかっているつもりなんだけど、簡単に頭の中から消えてしまうのは、ほんとにまだわかってないってことだよね。

一人でいったアンジェロで、生ビールを飲みながら、一人反省。テニスと言うスポーツは、まことに深い。 KAI

July 03, 2009

そして、政局

そして、政局である。

昨年の12月13日、こんなことを書いたのを覚えている人は、当然がごとくKAIだけしかいないと思いますが。

この問題は、麻生政権がどうなるか以上に難題です。この麻生政権、識者といわれる方々は麻生政権を目一杯見縊っていますが、首相の権限とはそう軽々しいものではありません。就任直後の解散が消えた今、任期満了直前の解散総選挙こそ、唯一残された道です。

この理由は、簡単。

これはどれだけ秘密を守れるかにかかっていますが、選挙を1ヶ月早めるだけで、主導権を取れるからです。当然任期切れ1ヶ月前を照準にして、スキャンダルを含めたすべての問題が露出するよう、コントロール可能だからです。もちろんそれまで持つかどうかですが、これから起こるGMの破綻をはじめとした出来事に、世間はすっかりその気がなくなります。
ビッグ3を救うべきか、見捨てるべきか


これに対して、当時の一般的見方。

というわけでさっそく麻生内閣の今後について予測をする。
麻生首相は近い将来にまた舌禍事件を起こすか、政策上の食言を犯して、メディアの袋だたきに遭い、自民党内部から「麻生おろし」」の動きが始まる。
麻生首相を「選挙の顔」で解散総選挙となった場合に、自民党が歴史的大敗を喫することは明らかだからである。
麻生太郎のあとに与謝野馨が選挙管理内閣をワンポイントで担当する(その方が「負け方」が少ないと古賀誠が判断するのである)。
もちろん自民党はそれでも大敗する。
けれども民主党もそれほど圧勝というわけではない。
政局は一気に流動化する。
こういう状況が大好きな小沢一郎が自民党に「手を突っ込み」多数派工作を開始する(“これ”がやりたくて解散総選挙を促しているんだから)。
ターゲットは山崎拓と加藤紘一である。
そして加藤に「自民党を出て、こちらに来るなら、総理ポストを提供する」と持ちかける。
加藤は多少揺れるが、政治家となった以上「総理大臣」のポストを提供されて逡巡するということはありえない。結局小沢のオッファーを受諾する。
新55年体制へ向けて


これが、2008年12月3日のウチダ先生の見解。なにもウチダ先生の見方がすべてとはいいませんが、まさかここまで持つと当時考えた識者およびメディアは、皆無であったことは間違いありません。

このKAIとウチダ先生と言う、二つの見解の相違とは、何か。

それは「大局観」の違い以外なにものでもありません。畏れ多くも、KAIには「大局観」があってウチダ先生にはない、と言いたいのではありません。同じ「大局観」であっても、見てる「盤面」が違うと言うことです。

政局とは、政治の力学ですから、政治家の集合である政界と言う「盤面」を見ているのが、ウチダ流「大局観」。一方、政治の力学とは、すなわち選挙の力学であり、選挙の勝敗を左右する世間と言う「盤面」を見ているのが、KAI流「大局観」。

どちらも政局を左右することになりますが、いままでのところは、任期満了まで世間の動きはないとしたKAIの見方に沿って政局は動いています。

しかしもう後がなくなった。

はたして「麻生おろし」となって総選挙になだれこむのか、そうでないのか。政局はこの一点に絞られてきたようです。

そしてこれを決定的に左右することになるのが、7/12の都議会議員選挙の結果です。

はっきりいって都民と言う世間は、迷っています。

ここでキーとなるのが、昨年書いた上の文章にあげた、隠し球である「スキャンダル」。これは、まだ暴露されていません。小沢秘書問題も鳩山の故人献金問題も、この隠し球ではありません。これが出るとすれば、来週発売の週刊誌。

迷っている都民が、これを見ていかなる選択をするのか。

これがすべてうまくいけば、「麻生おろし」もなくなり、ぎりぎり自公過半数維持するし、「スキャンダル」の爆発力が弱くてなんて事態は、「麻生おろし」一直線。

それで舛添を総裁に担ぐことができれば、起死回生となるし、これができなければ、一気に民主政権となる。

ま、こんなところです。 KAI

July 01, 2009

マイケルは伝説になった(2)

自殺といえば、ちょうどのタイミングで曽野綾子が、絶妙の文章を書いている。

 平和で食料も十分にあるこの日本の生活を、幸福と実感できない日本人がたくさんいて、多かれ少なかれ鬱に苦しんでいるということは、不幸なことだと思う。
 私も若いとき、2度にわたって長い不眠症と鬱の時代を過ごしたが、30代のときは、まだ力もないのに多作を強いられたからだった。(中略)
 50歳直前のときは、視力の危機だった。(中略)運が悪ければ手術をしても執筆生活は不可能になるかもしれないとなったとき、私は鬱になった。
 それにもかかわらず私は一見元気に振る舞っていたので、以前に約束したトルコへの調査旅行の日取りが近づいてきた。私はもう行く気がなかった。自分の行動も不自由になっていたからだ。(中略)
 迷子にはさせませんから、と同行者が言ってくれて私は出かけることにした。皆の計画に水を差すのも辛かった。しかし旅に出てからも、私はずっと死ぬことを考えていた。
 私たちはイスタンブールに着き、そのまま約400キロの道をアンカラに向かった。今はすっかり様変わりしているだろうが、当時のこの幹線道路はドライブインもなく、道もところどころ未舗装で、夕方6時ごろには着くという予定はどんどん狂った。途中で食事をする場所もなかった。私たちは手持ちのお菓子などを分け合って飢えをしのいだ。
 夕暮れの中で私はある感動にとらえられた。6本の連載をすべて休載してから初めて、私はその数時間だけ死ぬことを忘れていた。私はいつ夕飯を食べられるだろうかということだけを考えていたのだ。それは「欠落」によって得た輝くような生の実感だった。
 鬱には断食がいいだろう、と私は今でも思っている。日本では、安全が普通で危険は例外だと思っていられる。飽食はあっても飢餓がない。押し入れは物でいっぱいで、部屋にあふれた品物が人間の精神をむしばむ。
 もちろん世の中には、お金も家もなくて苦労している人がいるが、それより数において多くの人が、衣食住がとにかく満たされているが故に苦しんでいる。
 人間の生活は、物質的な満足だけでは、決して健全になれない。むしろ与えられていない苦労や不足が、たとえようもない健全さを生むこともある。このからくりをもう少し正確に認識しないといけない。
(産経新聞、透明な歳月の流れ、欝には断食がいい 苦労や不足が健全さを生むこともある、曽野綾子、2009/7/1、p.7)


つまり、最後のくだりの「このからくり」こそ、今回の自殺多発問題の本質です。

「苦労すること」、「不足すること」。この反対の、「楽すること」、「充足すること」を第一義とするのが今の消費社会であり、エコといいながら、決してこの消費のための二枚カンバンがおろされることはありません。

「苦労すること」、「不足すること」を忌避した無菌社会で、何が起こっているのか。それは「苦労すること」、「不足すること」に耐性がない、鬱病患者と自殺者の急増であります。彼らや彼女たちにとって、この耐性がないことの自覚はありません。ただあるのは、望まない「苦労」や「不足」を押し付けられたと言う「被害者意識」だけであります。

この「被害者意識」は、日々生きていれば当たり前に起きる些細な「苦労」や「不足」をさえエネルギーにして、目の前の「苦労」や「不足」と言う厄災を自分にもたらすとする仮想敵相手に、癌細胞がごとき異常増殖を続けるのです。

「鬱には断食がいいだろう」と曽野が書いている通り、「被害者意識」と言う左脳に支配された鬱病患者を救う方法は、断食と言う無条件の「苦労」と「不足」の状況を、患者本人に受け入れさせることです。

しかし現実社会では、この具体的な「断食」はなかなか難しい。難しいけれど、メディアが、これを伝えることは容易です。もちろん、メディア自身がこの「このからくり」を理解していなければ、これは実現されません。ただメディアがやるべきことは、簡単です。単に、ドキュメントで断食によって鬱病が劇的に改善されることを、伝えるだけで良いのです。

マイケルも、ネバーランドが奪われると言う「苦労」と「不足」に見舞われた。恐らく彼にとってこれは、生まれて初めてのことだったから、耐性もない。いつものように「処方ドラッグ」に溺れたのは間違いありません。

一方で、ロンドン公演のためのリハーサルを繰り返せば繰り返すほど、これをぶち壊すと言う誘惑にかられる。ひたすらネバーランドの仮想敵を倒そうとした。

そして公演まで、あと13日。これを、マイケルの左脳が、決行する。

マイケルに、ビートルズの救いとなったインド哲学なんだよと言って「断食」をやらせるような人間が、もしいれば、歴史は変わっていたかも知れない。 KAI