May 31, 2009

予知能力的週末テニス

随分昔の予知能力と言うエントリーにコメントが入っていた。

僕は、結構前から夢で見たことが現実でもおこてます。これも予知能力ですか?
Posted by: 祥太
予知能力

現実に起こることを夢に見るのは、予知夢とか正夢とかいいますが、これと予知能力とは、似て非なるものです。この違いを分かりやすくいえば、予知夢は受動的であり、予知能力は能動的です。

受動的と言うのは言葉どおりで、誰かがこれから起きる現実を「夢」に与えてくれるようなもの。

これに対して、能動的とはどう言う意味なのか。

それは、これから起きるであろう現実に自ら積極的に関与して、その時間の流れの中に身をおくことによって、これから起きる現実を予め体験することを意味しているのです。つまり、予知能力においては、そもそも未来も過去もなく、すべてが現実であると言うことです。

これは、天気との関わりで考えるとイメージしやすい。天気が晴れるかどうかを予測するのは、普通の天気予報。この100%の予報が予知夢。そして天気が晴れるようにと思って晴れるのが、予知能力。

それじゃあ、天気予報が雨のとき、予知能力によって晴れに変えることができるのかと言うと、イエスでもノーでもない。予知能力とは、天気予報とはまるで関係ないところで、明日の天気の中に身をおくことができて、明日晴れることが分かる。分かるけれどこれは頭で分かるわけではなく身体で分かる。これを心は「明日天気にな〜れ」と思うようになるってわけです。ですから天気になれと思うと、必ず天気になる。

しかし、明日雨だと身体で分かると、決して天気にな〜れと思わないかと言うと、そうではない。身体が明日天気になるように自動的にその場所へ移動していく。だから、予知能力のある限り決して雨にならない。え?!

と言うことで、奇跡のように雨を止めての、週末テニス。

絶対できないといわれながらの、朝から大雨の土曜。10時スタートで小ぶりになって12時には、また降り始める。結果は、5-7、6-3、3-6、4-1の2勝2敗。イトウくんとウッシー相手の大健闘に、大満足。(もっと簡単に勝てると思ったのに^^;)

日曜は逆にいつ降り始めてもおかしくない、雲行き。

案の定、12時前からパラパラとくるも、気にしないでゲーム開始。そしてゲーム終了2時少し前に本格的に降り始める。なんでこうなるのかわからないけどね。

結果は、6-4、2-6、6-4、0-3と昨日と同じ2勝2敗。天気にフォースを使いすぎて、ゲームまで気が廻らないけど、これは致し方ない。 KAI

May 29, 2009

Google Waveはクラウドコンピューティングのキラーアプリケーション

ついにといおうか、やはりといおうか、Googleから究極のアプリケーションが現れた。

 米Googleは5月28日、同社の開発者向けカンファレンス「Google I/O 2009」で、リアルタイムでのコミュニケーション、コラボレーションを提供するWebサービス「Google Wave」を発表した。年内に予定している一般公開に先駆けて、開発者向けにGoogle Wave APIやGoogle Wave Federation Protocolが公開された。

 Google Waveは、メール、IM(インスタントメッセージング)、ドキュメント共有などを統合したリアルタイムのコミュニケーション、コラボレーションサービス。ユーザーはまずコミュニケーションの場となる「wave」を作成し、そこに参加して欲しいメンバーを加える。メンバーはリアルタイムで会話しながら、wave上のドキュメント、写真、地図、ガジェットなどを利用したり編集でき、ほかのオンラインコンテンツを追加することもできる。メンバー間のやりとりは履歴として保存される。
リアルタイムのコンテンツ共有:Google、リアルタイムコラボレーションツール「Google Wave」を発表

この技術的な意味については、こちらの記事が詳しい。

 プロジェクトリーダーで、Google Waveの基調講演でデモンストレーションを行ったラース・ラスムセン氏は、Google Waveは「3つのP」からなると説明する。

Waveを構成する3つの「P」

 1つ目のPは「プロトコル」。Waveサーバはグーグルが独自に書き起こしたHTTPサーバの一種で、SMTPを置き換え得るサーバソフトウェアだ。通常のHTTP上でWaveのプロトコルを使ってクライアントと通信する。クライアントとは基本的に小さなXMLファイルをやり取りする。

 SMTPと異なるのは、サーバ同士がメッセージの送受信のたびにピア=ピアで通信を行うのではなく、ユーザー間で1つのサーバ上のWaveオブジェクトを共有するモデルとなっている点だ。この構成によって、Comet(コネクションを切らずにHTTP通信を行うテクニック)による非常に応答性の高いリアルタイムコミュニケーションが可能となる。タイプ中の文字は1文字ずつサーバに送られ、各クライアントにほとんどタイムラグなしに動的に表示される。多くのインスタント・メッセンジャーでは、相手がタイピング中であることは表示されるが、実際に相手のメッセージが届くのを待つことになる。これがWaveではタイプ中の文字がサーバからリアルタイムに送られてくる。「これは会話をとてつもなくスピードアップさせます」(ラスムセン氏)。
Google I/O 2009レポート【詳報】Google Waveとは何なのか?

なんとまあ、エジケンがやろうとしてきたことそのままではありませんか。

だからと言うわけじゃありませんが、あきらめないで続けていれば、一躍コミットアプリケーションのリーディングカンパニーになるチャンスが目の前にあったのに、となるわけです。ま、覆水盆に返らず。致し方ありません。

クライアントはWebブラウザ

 Waveを構成する「3つのP」の2つ目は「プロダクト」。サーバソフトウェアのほかに、グーグルはHTMLベースのクライアントを公開。デモンストレーションではChrome、Firefox、Safariで同様のUIが実現している様子や、異なるPC上の異なるWebブラウザ間で、同時に文字や画像が追加されていく様子も披露した。Waveクライアントは、画像のドラッグ&ドロップによるアップロードや、ユーザーリストからアイコンをドラッグ&ドロップして会話に加えるなど動的なUI が印象的だ。ただし、デスクトップからのアイコンのドラッグ&ドロップについては、現在仕様を提案中で、この機能を利用するにはドラフトの仕様を実装したソースコードをビルドする必要があるという。また、ネットワーク接続が切れていたためにデモはうまくいかなかったが、iPhoneとAndroid端末の間でもWebブラウザベースのクライアント(HTMLページ)を使って同様のリアルタイムコミュニケーションが可能だという。
Google I/O 2009レポート【詳報】Google Waveとは何なのか?

このおかげであらゆる業務系のアプリケーションに、グループウェアやSNSの機能を簡単に組み込めるようになる。と言うか、ソーシャルサービス系の業務アプリケーションは、ほとんどこれで簡単に構築できるようになるのですから、これはユーザーにとっても開発側にとっても劇的な影響を及ぼすことになります。

コラボレーションプラットフォームとしてのWave

 「3つのP」の3つ目は「プラットフォーム」。各Waveは構造化されており(XMLドキュメント+アノテーション)、メールやチャットのようなコミュニケーション、WikiやGoogle Docs、EtherPadのようなコラボレーションツールに似たプラットフォームとして利用できる。
(中略)
ボットを使ったWaveの拡張

 Waveは共同作業の強力なツールとなるという意味でもプラットフォームだが、ほかのWebサービスなどのハブとなるという意味でもプラットフォームだ。

 Waveは一風変わった方法で機能拡張が行える。Twitterなどで一般化したボットをサーバで走らせ、これを各種サービスとのプロキシとして利用するという方法だ。

 例えば、ブログサービスと接続する「bloggy」(ブロギー)というボットをWaveの会話に加えると(人間の参加者を加えるのと同様だ)、そのWave上の発言を、直接ブログにパブリッシュできるようになる。基調講演でラスムセン氏は、ブログサービスとbloggyを双方向に結び、にわかに信じがたいデモンストレーションを行った。

 まず、Wave上で書いたテキストがブログにパブリッシュされる。そのブログを見た誰かがコメントを付ける。すると、bloggyを通してそのコメントがブロガーが見ているWave上にリアルタイムで反映されるのだ。このコメントに対してWave上でさらにブロガーが返信すると、そのコメントは1文字1文字とブログページのほうでも表示されていく、といった具合だ。

 ブログが掲載されているWebページに対してリアルタイムにコメントを1文字ずつ反映するこのデモンストレーションは、ブログサービスをWave対応として実装しているからこそ可能で、今のところ一般のブログサービスではこうはなりそうもない。ただ、MovableTypeやWordPressでWaveプラグインが登場する可能性は十分にある。もしも、ブログや掲示板、メディア、SNS、企業のカスタマーサービスページなどで次々とWaveクライアント対応が進むようなことになれば、われわれは、あちこちのWebページで常に書き換えやコメント追加が発生する「リアルタイムWeb」の世界を生きるようになる可能性すらあるだろう。
Google I/O 2009レポート【詳報】Google Waveとは何なのか?

長い引用で申し訳ありませんが、全部引用しないと、このプラットフォームとしての機能が果たす意味、つまり何に使えるのか、よく理解できません。

これは要するに、ブログをはじめとしたWeb系のアプリケーションはすべて、リアルタイムのコミュニケーションの小窓化できると言うことでしょう。

つまり、ブログを使って、世の中のありとあらゆる出来事の、実況中継が可能になると言うことです。これの一番影響を受けるのは、ジャーナリズムの世界。

例えばプロ野球の現場から、ファンが実況中継も可能になると言うことです。まさかパソコン持込禁止にするわけにもいきませんから、ファンによる実況中継のコラボレーションも夢ではなくなります。

これが世界中の、あるときはクーデターの現場かもしれない、あるときは自然災害の現場かもしれない。エジケンの目指した、「オープンコミュニケーション」がこうやって実現に近づくことだけでも、このGoogle Waveが、クラウドコンピューティングのキラーアプリケーションとなるのは間違いありません。 KAI

May 28, 2009

共同体幻想さようなら

またぞろ共同体論が跋扈し始めた。

 共同体の呪縛(じゅばく)から逃れ、自由を謳歌(おうか)する現代人の多くは、いまやその反動として、社会から孤立するようになった。格差拡大によって貧困層が目立って増え、日本社会の温もりが消え、人と人との絆が希薄になり、人心が荒(すさ)み始めた。これが日本社会の現状だ。

 もちろん、昔のままの日本に戻るという選択肢はありえない。そんなことは不可能である。しかし、このまま突き進めば、日本社会はその本来の良さを失い、日本文明は荒廃に向かうだろう。この辺りで立ち止まり、「孤立した貧困層」の問題を直視すべきなのではないだろうか。(なかたに いわお)
【正論】三菱UFJリサーチ&コンサルティング理事長・中谷巌

「孤立した貧困層」の問題を、共同体論で片付けることは簡単ですが、ご本人もおっしゃるとおりそこに解決の答えはありません。

そもそも「共同体の呪縛から逃れ、自由を謳歌する現代人」と言う話を、冷静に考えてみる必要があります。そんな自由を謳歌する人が、いったい私達のまわりに、いるのでしょうか。依然として、家族、会社、学校、自治体など制度に組み込まれた共同体の呪縛から、私たちは逃れることができず、もがき続けているのが実態ではないでしょうか。

そしてこれをもう少し深く考えると、私達の古くからあった共同体は、中谷氏が言うほど「機能」していたのでしょうか。

社会的不確実性を排除した社会によって担保されてきた、安心。社会的不確実性を前提にした社会においてこの不確実性を乗り越えるための、信頼。関係性検知能力に依拠した安心社会ではなく、人間性検知能力に裏打ちされた信頼社会。
安心と信頼

単に、共同体と言う安心社会の「安心」を、共同体の「絆」と勘違いしていただけではないのか。

このことの意味は、きわめて重要です。

どちらが先にあるかと言えば、「絆」ではなく、共同体の「安心」であると言うこと。「安心」を維持するための「絆」であったし、今も昔も、これになんら変わりはない。

すなわち、これはすでに言ったとおり、共同体の問題として解決できる話ではないと言うことです。結論をいってしまえば、「孤立した貧困層」とは、安心社会の村八分、共同体から弾き飛ばされた人々であり、制度としての共同体概念の限界といえます。

人間社会は、生き物。生き物をよりよく成長させる方法は、いまやっと理解した。

共同体と言う制度自体に言及しても、なにも変わらない。

「人を助ける」ことに価値観をおき、具体的に「人を助ける」活動こそ、世の中を変えていきます。これをインターネットのソーシャルサービスが、いままでの制度としての共同体とは、まったく異なるかたちで、実現する。最近、KAIは、これを強く信じているのです。 KAI

May 24, 2009

身体で考える週末テニス

天気予報では、週末は雨。幸い土曜はおおはずれで助かった。かわりに日曜が朝から雨。降雨確率も午前午後とも70%、まったく見込なし。

例のごとく玄関に出て、雨雲を見上げながら顔で直接雨粒を受ける。これでやれるか判断するわけです。やることにしたけれど、12時スタートのハードコートは早々に諦めて、一縷の可能性にかけて10時半にオムニコート到着。フロントに確認して当然がごとく他の予約はすべてキャンセルになっている。一応12時から予約を入れて、一旦車に戻る。

11時、雨が嫌いなO谷さんに電話を入れる。今風邪を引くと大変ですからやめましょうよ。新型インフルの影響がここにも!

仕方がないので、フロントへ再び。予約キャンセル、ではありません。

誰か相手をしてくれるコーチ、いません?

ハヤカワコーチなら、できるかも。でも、今のレッスンが12時10分までなんです。その後のレッスンが2時からですから、その間に可能かどうか今のレッスンが終わってからでないと聞けません。それでいいならどうぞ。

そして待つこと1時間10分。インドアのコートから出てきたハヤカワくんに、彼のレッスン生だったT橋さんが直接交渉して、OK!

0時15分ゲーム開始。おかげで雨もほとんど小降りの小康状態。予知能力のフォースは今も健在。

できないと思っていた身体が、なかなか思うように立ち上がらない。おまけにハヤカワくんと組んでいるのに、初めてのペアでコンビネーションがちぐはぐ、なかなかポイントに繋がらない。やっとのことで6-4ときわどい1勝。

2セット目は、ハヤカワくんが次の2時からのレッスンの準備があるから1時半までしかできない。これがハヤカワくん相手に2-5となって、負けは確定したラストゲーム。ここで負ければ2-6で完璧なお仕舞い。3-5なら時間切れお仕舞い。負けは負けでも随分違う(はず^^;)。

なんとかこれを3-5にして、気分良くお仕舞い。

いい汗、かいた。

と、朝からのことを綴ってみたけれど、結果はまるで朝から想像だにしていなかったことばかり。雨粒を顔に受けて、オムニコートに移動して、フロントの娘と話して、すべて身体を動かしながら考えついたこと。なんとも不思議な気がします。身体を動かしながら考えて、思いもよらないことを思いつく。まさに身体で考えていることを、実感。

実際、土曜日も、実はまったく反対の意味でそうだった。

先週痛めた右臀部をカバーしていたら、この1週間左膝から左太股と痛みが広がるばかり。こう言う時に限って、ネモトくんがネットぎりぎりにフェイントボールを打ってくる。いつもはダッシュして取れるのに、ダッシュできない。

いや、できないんじゃなく、フェイントを打ってくることが予測できない。

ダッシュする時は、打ってからダッシュするのではなく、相手が打つ前にダッシュする。打つ前にフェイントボールを打ってくることが自然に分かるからです。

これは、簡単な話で、相手が自分の左側に打ってくるとわかると、多少離れたところに打たれても打ち返せるけれど、左に来ると思っている時に右に打たれると、たとえラケットを延ばせば届く50センチ先でも取れないのです。

左脚の痛みが、ことごとく左脚の痛みを避けるように、思考を奪っているのです。

考えてみると、これはなんとも恐ろしいことです。無意識の中で身体が考えている。あるいは考えることを忌避している。

しかしてその結果は、6-3、4-6、3-6と、ネモトくんの3連勝をまたしても許してしまった。

これも言い訳を身体が考えているのかもしれません^^;。 KAI

May 20, 2009

坂本龍一のモールトエモーショナル

人生、これすべて出会い。出会いは偶然にして必然。すなわちシンクロニシティ。

坂本龍一にとって、ベルナルド・ベルトルッチとの出会いが、彼の運命を大きく変えたのでした。

 −−映画音楽を手がけられ、世界に認められていきます。映画監督ベルナルド・ベルトルッチとの出会いが大きいようですね

 坂本 一番影響を受けたのは音楽ですね。それまでは「音楽は音による感情表現だ」ということに抵抗があったんです。大学ではもうちょっと“数字的な音楽”を作ろうと勉強していたけど、それを見事にベルトルッチに打ち砕かれました。理論的にじゃなく、現場で。

 −−どの作品でですか

 坂本 「ラストエンペラー」です。ロンドンのスタジオで録音していたら、本番中にベルトルッチが飛び込んできて「モールトエモーショナル(もっと感情的に)、モールトエモーショナル」って一人で怒鳴ってるんです。つまり感情の閾値(いきち)(最小値)みたいなものがあって、それを超えないと響いてこない。イタリア人はかなりそれが高いんでしょうね。

 −−それであの曲に?

 坂本 そうですね。2回目の「シェルタリング・スカイ」のときは、メーンテーマを引っ張り出すまで1週間スタジオにこもってました。入学試験じゃないけど、かなり上のほうまでいかないと許してくれない。映画監督は独裁者タイプの人が多い。「ラストエンペラー」のとき、(撮影監督の)ヴィットリオ・ストラーロが3〜4時間かけて入念に作ったライティング(照明)を、ベルトルッチがファインダーをのぞいて、「だめだ」とけ飛ばして帰っちゃったんですよ。

 −−そんな乱暴な

 坂本 プロデューサーのジェレミー(トーマス)が、「ああ」と嘆いてるんです。彼は“その瞬間”に1億円分ぐらい失っている。エキストラ何百人、馬は何十頭、ラクダ何十頭って1日の経費がそのぐらいかかっている。だから音楽も、一生懸命に書いたって簡単にボツにされます。感情的な音楽でしか響かない人たちもたくさんいることを見せつけられて、それまでの自分の音楽はだいぶん変わりましたね。(堀晃和)
【話の肖像画】音楽は自由にする(中)音楽家・坂本龍一(57)

なんともすごい話である。これを「感情の閾値」と表現するのも、これまたすごい。

出会いは、人の「感情の閾値」を超えることを要求し、より上位への変化を求められる。そしてこれに応えると言う、人と人との関係性の中から、人はより高度な身体性と精神性を身に着けることが可能になる。

なるほどいわれてしまえば、その通り。コーチと選手との出会い、師と弟子との出会い、ライバルとの出会い、人は出会いによって何らかの「閾値」を高めあいそれを超えることができる。

そしてここで最も重要なことは、出会いとは一方通行ではなく双方向であると言うこと。出会いは互いに強く影響しあうと言うこと。ライバルとの出会いはもちろん、師と弟子との出会いも、弟子だけでなく、師も自らの「閾値」を超えることが求められるのです。

坂本龍一は、KAIと同じ52年生まれ。30代半ばでベルナルド・ベルトルッチと出会って作曲した「ラストエンペラー」で、日本人初めてのゴールデングローブ賞と、アカデミー賞作曲賞を受賞する。その3年後91年、同じくベルナルド・ベルトルッチ監督の「シェルタリング・スカイ」で2回目のゴールデングローブ賞を受賞する。

この2つのゴールデングローブ賞は、坂本龍一だけの賞ではないと言うこと。ベルナルド・ベルトルッチ監督にとっても、坂本龍一との出会いによって、自らの作品である「映画の閾値」を超えることができたのです。

もしかして、男と女の出会いもそうかもしれないけれど、二人が超えなければいけない「閾値」って、いったいなんなんでしょうね? KAI

May 17, 2009

大人がこけると痛い週末テニス

いや、痛かった。

ネットの目の前のイトウくんのバックハンドボレーが、右のサイドラインすれすれに飛んできた。そのまま右横にラケットを出しても間に合わないと思って、斜め後ろに飛んでボレーで受ける。これが見事に右サイドラインすれすれに決まったのを見届けて、思いっきり尻餅をついた。まさに捨て身のボレーでありました。

大人になってこけたのは何度かある。

今から十数年前、昼間の仕事中、五反田駅のガード下近くにある横断歩道を、青になってさっそうと上下のスーツを着て横断していたときのこと。駆け足で横断歩道を外れて斜めに横切ろうとした瞬間、なにかに蹴躓いた。もんどりうって思い切り柔道の背負い投げをくらったように1回転して、立った。そうです学生時代柔道をやっていたおかげで、見事受け身をとった。何事もなかったようにそのまま先を急いで、あとからスーツをチェックしたけれど、擦り跡ひとつ残っていなかった。

こけても、このときのように、大抵受け身がとれるから、痛くない。

今日のボレーも、捨て身とはいえ、そのつもりでした。

しかし、オムニコートの砂がいけなかった。すべって受け身を取れないまま、思い切り尻餅をついてしまった。

これが、なんとも痛いこと。

そのままゲームは続けられるけれど、鈍痛が治まらない。なんとか右臀部をカバーしながら最後までもった。しかし結果はさんさんたるもの。

土曜の結果は6-4、2-6、1-6、1-3。こけた第2セット以降、ゲームにならない。

日曜テニス、痛みは多少和らぐものの、今度はカバーする左脚が痛み出す。どうにもこうにも自分の身体にもかかわらず、思うようにならない、もどかしさ。

結果は、6-1、0-6、6-7(4-7)。第1セットは、我慢のテニス。おかげで内容最悪にもかかわらず、6-1はラッキーそのもの。第2セットは、なすすべなしのラブゲーム。そして第3セット。なんと5-1まであっと言うまにリードして、後1ゲームと言うところで、Y木さんのサーブ。なんどかセットポイントがあったのに、キープを許す。

ここからがいけない。まったく先週の繰り返しで、5-5まで挽回されるも、きわどく6-5とY木さんのサービスをブレイク。そしてここでKAIのサービスを、まったく先週と同じく、落として、タイブレーク。あとはこれを4-7で取られてお仕舞い。

先週からの油断大敵も、こうして身体の状態の影響を、簡単に受けてしまう。

大人になるとは、こう言うことを回避する智恵を身につけること。これに失敗すると、身体も精神も大変なダメージを受けることを、あらためて思い知らされる週末テニスでありました。 KAI

May 16, 2009

一郎のマスクに見る安心社会と信頼社会

NYではマスクをしている人をほとんどみかけないと言う報道が、喧しい。

日本人のマスク観が大きく変わったのが、花粉症がメディアで騒がれだしてからだと思うが、それまでは単に風邪をひいたからマスクをしていた。咳をして風邪を人にうつさないためです。外科の医者がマスクをして手術するのも、頭のヘアキャップと同じで、患者の感染予防を目的にしたものです。

これがいまではすっかり、自分の身を守るためだけのマスク着用に変貌してしまった。

まさに、安心社会と信頼社会問題の典型です。

信頼社会では、感染したものがむやみに他人にうつすことはないと言う、感染者に対する信頼があるから、公の場でマスクをしない。安心社会では、この感染者に対する信頼はない。公の場が安心できないと自分を守るためのマスクをする。

一郎くんもしょっちゅうマスクをして公の場に出ているけれど、今回の代表選も、彼が公の場に信頼をおいていない象徴的出来事といっていいでしょう。

ま、しかし、これで政権交代は、決定的になくなった。

国民はバカではない。

社会保険庁の職員をはじめとした公務員の、国民を愚弄したサボタージュ。年金不信への鈍感。公金の何百兆円もの合法的横領。このまま自民党政権のままではとんでもないことになると思ってお灸をすえたのが、前回の参議院選挙。

しかし、すえたはずのこのお灸の火が、いつのまにか消えていた。煙だけ出ていても全然熱くならない。

民主自身が国民を信頼していないから、当然国民も民主を信頼しない。

こんなことなら、いやいやだけど、自民のほうが安心だ。

ま、こんなところです。

それでも未練たらしく民主を応援する人がいるんだろうけど、党員さえ信頼していない政党が、あなたを含めた国民を信頼した政策がはたしてできるんでしょうか。とてもできるとは思えませんが、できると思うあなたは、やはり・・・。 KAI

May 14, 2009

恥を知れ

どうもこの人たちには恥の文化ってものが存在しないようです。

 海賊対策のためアフリカ・ソマリア沖に展開中の海上自衛隊の護衛艦が、民間国際交流団体「ピースボート」の船旅の旅客船を護衛したことが13日、分かった。ピースボートは海賊対策での海自派遣に反対しており、主張とのギャップは議論を呼びそうだ。
(中略)
 ピースボートは市民団体による海自派遣反対の共同声明にも名を連ねている。事務局の担当者は「海上保安庁ではなく海自が派遣されているのは残念だが、主張とは別に参加者の安全が第一。(旅行会社が)護衛を依頼した判断を尊重する」と話している。
「反対…でも守って」 海自がピースボートを護衛 ソマリア沖


護衛して頂いてありがとうございますくらいなぜいえないんでしょうねえ。それを旅行会社が依頼したことだと責任転嫁するなど、なんとも姑息の極みであります。

そういえば数年前のイラク人質事件。この時解放された3人も同じでしたね。解放に尽力した日本政府に感謝するどころか、自衛隊派遣を非難までする始末には、ほとほとあきれました。

おまけにこれを読んで、これまた開いた口がふさがりません。

2004年4月、日本人2名
概要
フリージャーナリストと称する日本人2人がイラクの武装勢力に拉致された。この際の報道は前回ほど活発ではなく、ほどなく解放された。

人質となった被害者の一人は「人質である自分たちを助けるために政府は自衛隊を撤退させるべきだった」とし、後に「自衛隊を撤退させなかった事」に対し損害賠償を求める訴訟を起こした。また、解放後の日本政府負担による日本への帰国費用については支払いを拒否している。
イラク日本人人質事件、Wikipedia

この種の問題が起こっていつも感じるのが、この人たちはきまって人間としての最低限の礼節さえわきまえていないってことです。

そしてよくよく考えると、人間としての最低限の礼節をわきまえていないことこそ、この種の人たちの本質であることに気づきます。それは、礼節とは簡単に言ってしまえば「他人への感謝」ですから、考えや価値観を異にする人への感謝など、この人たちにはもとよりあり得ないし、「礼節」と言うエートスそのものが彼らの価値観と相反して逆に彼らに力を与えると言う皮肉な結果ともなっています。

日本社会は、恥の文化であり、「礼節」の文化の国です。

こういった国の共通の基盤をなす価値観と対抗することにより力を維持しようとする生き物こそ、吸血鬼すなわちバンパイアです。バンパイアなど仮想の生き物と思っていたけれど、なるほど蛭と言う寄生虫、国の価値観と言う血を吸って生きる蛭こそ、彼らの実相と考えると、すべての事象の合点がいくのでした。 KAI

May 13, 2009

動的安定性と言う方法とアイデア

伊東乾の常識の源流探訪がなかなか面白くなってきた。

伊東(以下――) 今月、つまり2009年5月21日に、いよいよ日本で「裁判員制度」が導入されます。そこで64年前の1945年から、第2次世界大戦後の「司法改革」に当たられ、GHQと折衝しながら現行の刑事訴訟法・・・いや、今や旧刑事訴訟法というべきかもしれませんが、世界的にも完備で名高い刑事法体系を自ら書き上げられた團藤先生に、2009年5月時点でのご所見や、私たち一般国民が意識しておくとよいことなどを、まとめてお伺いしておきたいと思いました。そもそも先生は裁判員制度にはご反対だったのですよね?

團藤 ええ、僕自身は今出ている裁判員の制度には反対なんです。でも、決まってしまったものは、それに即して実務を考えてゆかなきゃならないでしょう。
破壊と創成から考える「裁判員制度」常識の源流対論・團藤重光(その1)1/7ページ

いよいよ来週から始まるこの裁判員制度、いままでこの制度の負の側面ばかりが気になってKAIも今ひとつ同意できないでいたのですが、この対談を読んで、少しばかり気が楽になってきた。

二人の話のおかげで、一挙に視点が拡がった。

―― 「立法」まできちんと視野に入れる法律家はとても少ないですね。「あなた、それは立法論でしょ?」という台詞は、法解釈の世界では、解釈能力がないという悪口だと聞きました。

團藤 でも必要なら法も作らなければなりません。

―― 実際に昭和20年代に法を作られた團藤先生だからおっしゃれることだと思います。最近は社会科学が生物学や医学の知識を使うんですが、今のお話は「動的安定性」ダイナミック・インスタビリティーという、生命現象なんかを説明する議論とも重なっていると思いました。

團藤 ほう? それは。

―― 人間の命なんかもそうで、完全に硬直してしまったら死んでしまいます。細胞でも器官でも、常に「動中静あり」ということを体現しているわけです。

團藤 うん、面白い。
破壊と創成から考える「裁判員制度」常識の源流対論・團藤重光(その1)6/7ページ

法制度が、人間社会と言う生きた世界の規範となるためには、法制度自身が自ら変化していかなければならないと言うわけです。

その変化を吸収するための仕掛けこそ、裁判員制度に他ならないと。

なるほど、こう理解すれば、すべてが納得がいく。

ここに、生き物の仕掛けを変えていくための、とてつもないアイデアが隠されていました。

「公正で人間的な社会」を「永続的に、法律によって確実なものにする」ことは不可能である。
それを試みる過程で100%の確率で「不公正で非人間的な政策」が採用されるからである。
「公正で人間的な社会」はだから、そのつど、個人的創意によって、小石を積み上げるようにして構築される以外に実現される方法を知らない。
だから、とりあえず「自分がそこにいると気分のいい場」をまず手近に作る。
そこの出入りするメンバーの数を少しずつ増やしてゆく。
別の「気分のいい場所」で愉快にやっている「気分のいいやつら」とそのうちどこかで出会う。
そしたらていねいに挨拶をして、双方のメンバーたちが誰でも出入りできる「気分のいい場所」ネットワークのリストに加えて、少し拡げてゆく。
迂遠だけれど、それがもっとも確実な方法だと経験は私に教えている。
神戸女学院大学は私にとって「たいへん気分のいい職場」である。
ここが私の「隗」である。
だから、「10年後の日本社会」を望見するときに、今自分が立っているこの場所「のような場所」が日本全体に拡がることを希望することになるのは理の当然なのである。
まず隗より始めよ

これもシンクロニシティ。このアイデアをウチダ先生がうまい具合にまとめてくれています。

KAI自身も、自分の思いを実現するには、結局自分自身からこれを実現するしか、他に方法がないと気づいて10年。生き物であるアプリケーションを育てていくための環境を、自らの周りに、まず構築する。すべてがここから始まる。この意味が、いまやっと、理解できたのです。

どんな小さくてもいい。まず自分自身がその当事者となって、その中に入って、いかに「感じる」か。

これこそすべての原点です。

村上春樹が言うシステム、すなわち「制度」と戦う方法とは、「制度」自体を変えることではないと言う、すばらしいアイデアであるのです。

これを迷うことなく、やるしかない。やっと自信が湧いてきました。 KAI

May 12, 2009

イチローは悪くない

誰も悪くないのに、結果が出ないことは、よくあること。

 開幕からの好調がウソのように5月に入ってから失速し、例年どおり最下位へ向かうか、それともここで踏ん張れるか前半の正念場となっているマリナーズ。負け始めると必ず矢面に立たされるのがイチロー外野手(35)で、シアトルではまたぞろ不要説や打順3番繰り上げ説など周辺が騒がしくなっている。

 「イチローの打撃がまずいわけではない。何か足りないわけでもない。ただチームが彼に変化を求めているだけだ」とイチローのチームでの存在に改めて疑問を投げかけるのは、地元紙シアトルタイムズの元記者で、ベテランスポーツジャーナリストのボブ・シャーウイン氏。
(中略)
 今季マリナーズは開幕から6勝2敗で首位として好スタートを切ったが、胃潰瘍で出遅れたイチローが復帰してから10勝14敗と負け越している。例年だと5月には負けがこみ、球宴前に事実上のシーズンが終わる戦いを続けている。
いない方がマシ…チーム失速にイチロー“不要論”

故障者リストから復帰した途端、チームの負けがこみだすとは、マリナーズファンならずとも、イチローに一言いいたくなるのは致し方ありません。

KAIも数年前、シアトルのセイフィコ球場で、試合前から率先してトレーニングをするイチローを目の前で観たのをよく覚えています。しかし、なぜかこの試合で、先日のWBCで見せたようなイチローの存在感がまるで感じられなかったのが、いま思えば不思議でなりません。

そもそも、この「イチローの存在感」こそ、マリナーズの勝てない問題の表と裏の関係であるとKAIはかねてより考えているのですが、それは何か。

勝てるチームには必ずヒーローがいる。ヒーローとは、ヒーローであってスターではない。しかもヒーローは一人ではない。ヒーローは、たいていシーズン中に交替しながら、チームのムードメーカーになって勝ちを積み重ねて、優勝へ突き進んでいく。(毎試合のヒーローインタビューをイメージしていただければわかりやすい)

では、イチローにヒーローを期待できるかといえばそれはできない。彼は、スパースターであっても、ヒーローにはなれない。

なぜか。ヒーローはチームあってのヒーローであり、チームが求めないヒーローはありえないからです。残念ながらいまのマリナーズと言うチームは、スーパースターのイチローをヒーローとして受け入れるだけのキャパシティを持ち合わせてはいないのです。

ですから、イチローのヒーローとしての存在感が増せば増すほど、チームとしてのチームワークを失くしていく悪循環に陥っていると言うわけです。

これを解決する方法は2つ。イチローの移籍か、あるいは他のヒーローの入団かです。

前者をなぜイチローが選択してこなかったか。これも興味深いテーマですが、長くなるので後回しにして、後者の方法。まさに資金に乏しいマリナーズならではの悩みであったわけです。もちろんいままで引っ張ってきているけれど、イチローの存在に見合うものではなかった。ただこれだけのことです。

では誰がいいか。KAIはまるでMLBの選手には詳しくないのでなにもいえませんが、阪神の金本みたいな選手が、いまのマリナーズにはどうしても必要です。

金本の阪神移籍以前に阪神の監督をしていた野村克也は、著書で「金本の獲得でタイガースは大きく変わった」「今のプロ野球界で本当にチームリーダーと呼べる存在なのは金本だけ」と金本のことを高く評価している。
金本知憲、Wikipedia

イチローではない、新たなマリナーズのチームリーダーだけが、イチローをヒーローに変え、マリナーズを勝てるチームに変えていくことができると、KAIは思います。 KAI

May 10, 2009

利他の精神的週末テニス

連休中、NHKの番組「ジャック・アタリ緊急インタビュー」を観て感激したのを、すっかり忘れていました。

番組の内容は、A Futurist's blogさんが、うまいこと要約してくれています。

1.アメリカ支配の終焉 
  金融危機後、アメリカにとってかわる国は存在しないが、アメリカは、膨大な借金を抱え、内向きに自国の利益のみに関心をもつようになる

2.多極型秩序
 G8やG20のような形で、あたらしい秩序を作ろうとする試みがなされるが、失敗する

3.超帝国の時代
 市場そのものが帝国化する。グローバルな市場は、あらゆる分野に進出し、国家に優越する。

4.超紛争の時代
 市場の帝国化の結果、貧富の差は拡大し、地球規模の戦争が起きる。これが人類滅亡の危機ですね。

5.超民主主義の時代
 多くの人が、利他的精神(博愛精神)に、目覚め、あたらしい民主主義秩序をつくる。
(ジャック・アタリ緊急インタビュー(NHK))


この「超民主主義の時代」は、アタリ氏によれば、2050年ころの話とのことですので、まだずいぶん先の話ですが、いまのグローバリズムの弊害を是正するにはこの「利他的精神」以外にはないと言うのは、KAIの結論でもあります。

今人類共通に降りかかる災難と戦うためには、これに一国内はもとより世界中の人々が心を一つにして立ち向かう以外にはありません。「他を助けることは、人間の本性」と言う強烈なメッセージにこそ、その心を一つにする力があると、KAIは強く感じます。
人を助ける

そもそも経済とは何か、すなわち経世済民と言う原点に立ち返れば、こんな話、議論の余地もない、当たり前のことであるわけです。しかもこれは、経済に限っただけの話ではない。かのウチダ先生も、「愛神愛隣」を標榜されるわけです。

しかし、この「愛神愛隣」を含めて、世間で言う「利他的精神」と、KAIの言う「人を助ける」には、決定的な違いがあります。それは「助ける」と言う具体的な「行動」の議論とその「精神」の議論の違いであります。

「愛隣」も「利他」も、それに行動を伴ってこそ、意味を持ちます。そしてその「行動」は、自分と他者との間の相互作用であり、他者に働きかけた結果はそのまま自らに返ってきます。

この自らに返ってくるものは、いま人々が常識と考える労働の見返りとしてのマネーと言う形の報酬ではなく、もともとのわたしたちの社会で常識であったはずの、「愛隣」や「利他」と言う、より「精神的」なものです。

これはすなわち、わたしたちの価値観がマネーではなく「愛隣」や「利他」と言う精神にこそあると言う社会を意味し、もっと言えば、わたしたち自分自身は、社会から与えられる「精神的報酬」を糧に生きることができる社会でもあります。

具体的には、この「精神的報酬」とマネーとの折り合いのつけ方が重要で、インターネットのソーシャルサービスは間違いなくこの可能性を拡げるものと、KAIは信じています。

週末テニス、突然なんでこんなことを思い出したのかと言うと、5連休して2日働いて、またテニスができる贅沢。こうしている間にも連休中ずっと仕事をしている人もいるし、実際わたしたちの会社のサービスも連休中何人か出て仕事をしている。毎週毎週こうしてテニスができるのも、こうした周りの人たちに助けられているおかげなんだと、なぜか感傷的になってしまったのでした。

土曜、そんなことはおくびにも出さず(出せといわれても出ませんけど)、ぶいぶいいわせた結果、6-1、1-6、3-6、0-1(2-7)とネモトくんに完敗。どうもこの書き込みからかすべてこちらの手の内が読まれているふしがある^^;。

明けて、その心配のない(はずの)日曜。6-3、2-6、6-5と、危なかった第3セット、なんとか最後のゲームをものにできたおかげで、2勝1敗の勝ち越し。

勝ち越すのと負け越しでは、あとが随分違う。気分よく、昨日冷蔵庫の故障で臨時休業していたアンジェロへいって、乾杯。天気もいいし、言うことなし。

ま、こう言うときこそ、油断大敵。気を引き締めて! KAI

May 09, 2009

甘い!甘い!甘すぎる!(3)

いよいよ日本にも感染者があらわれた。

一部に、他国に較べて日本は騒ぎすぎと言う楽観論が広がり始めていただけに、KAI的にはほっとした。楽観論が悪いとはいわないけれど、それはものによりけり。

これも科学教育を軽視してきた教育行政の失敗そのものですが、新型ウィルスと言うバイオハザードに対して、今現在人類がまったくもってなんらの対抗手段を持っていないとの認識が、決定的に欠けているのです。

タミフルが効いているとすれば、それはたまたまの偶然であり、変異してこれが効かなくなる。さらに強毒性に変異する。これから起こることは、すべて人類が初めて経験することばかりであるのです。

基礎的な知識がないから、これを強調すれば、かえってパニックになる。かといっていわないと、楽観論がはびこる。

しかし今回はまったく違う。ふつう、よほど重い病気でない限り、病気になって病院へ行けば、医者はなんらかの治療してくれるものと信じている、そこのあなた。これがいま、とんでもないことになっているのです。当然病院へ行けば、隔離と言う形で病室に閉じ込められます。治療薬がないので、自然になおるまでほって置くしかありません。そして悪化して死を迎える。偶然なおるかもしれないけれど、これはあくまで偶然であり、成り行きに過ぎません。

人類とウィルスとの戦いの歴史とは、そう言うことです。

え?タイトルと話の内容が違うって?

いえいえ、このタイトルのためのお話なのですが、横道にそれついでにもう一つ。国家公務員の試験問題です。これはよく指摘されることで、こういった試験問題は、最初からすべて答えのある問題です。今回の新型ウィルス問題は、これと180度違って、まったくの答えのない問題であるのです。

こういった問題の解き方、対処の仕方は、国家公務員試験の問題の解き方の中にはありません。

実は、創業、起業問題やイノベーション問題と言うのは、最初から答えのない新型ウィルス問題とまったく同じ種類の問題なのです。もちろん過去のウィルスとの戦いの中から得られた知見はありますが、こうすればうまくいくなどと言う正解など、何一つありません。

ですから過去の得られた知見の集大成であるMBAも、所詮公務員試験問題と一緒です。

では、正解と言う答えのない問題の解き方、対処の仕方とは。

これを感覚的に理解するためにKAIが日ごろから言っているのが、これです。

事業を始めてその製品やサービスを開発すると言うことは、赤子を産み落とすことと同然のこと。この赤子をどうして見殺しにできるのか。まったくもってKAIには、信じられない。

産み落とした赤子がほっておいてもすくすく成長することなどあり得ないように、あらゆる事業は、その製品やサービスの開発を終えたときこそ、真の意味の事業のスタートであるのです。
甘い!甘い!甘すぎる!

そう赤ん坊と言う生き物なのです。

決して切った張ったのできない生き物であり、最後は売り飛ばせばいいなどと言うのは、まさに論外と言うしかありません。

この赤ん坊を育てることは、新米のママとパパにとって、初めての経験であり、毎日が試行錯誤の連続です。そしてこれは二人にとってものすごい体力のいることであり、肉体的にも精神的にも体力のある若い間にしかできない「事業」そのものといえます。

赤ん坊の育て方に正解は、一切ありません。

ただ愛情を持って、ひたすら根気良くやるしかありません。

そしてここで勘違いしてはいけないのが、この赤ん坊とは、実はママパパであるあなた自身でもあるのです。

これを説明する中枢の考え方が、「身体感覚」であり、最近のKAIの言葉で言えば「無意識」の世界の話になります。

CEOは大変(続き)
CEOは大変(続々)
CEOは大変(続々々)


「身体感覚」の具体的な運用方法は、すでにこれらのエントリーで説明していますので、ぜひ読んでみてください。必ずすべてが繋がってくるはずです。 KAI

May 08, 2009

甘い!甘い!甘すぎる!(2)

今回のエジケンの文章は、良い悪いは別にして、後進の起業家に与える影響が非常に大きいと思われるので、もう少し丁寧にフォローしておこうと思う。つまりしったかぶりのMBAライクな理論面の考察ではなく、実践的な意味での戦略的起業論として、今回の経験を昇華できなければ、まるでエジケンは無駄死にで終わるだけだと思うのです。

まず簡単にあきらめないこと

起業に関して言えば、これが最初にして最後。すなわち、これがすべてです。前回のエントリーに書いたとおり、松下幸之助を始めとした今世に名をなすあらゆる起業家にきけば、間違いなくすべて同じ答えです。

売上をあげなくていい商売などこの世にはない

この意味を中途半端に理解して、起業の意味を勘違いしている、自称起業家が多すぎます。ビジネスモデルとは、あくまでPQがすべてです。P、すなわち売単価と、Q、すなわち売単位数量、この掛け算以外にはありません。

GoogleやYouTubeをして、最初は売上のことなど考えなくてもいいなんて、大きな勘違いも甚だしい。「1999年6月7日 - KPCB、セコイア・キャピタルから2,500万ドルの資金を調達。」(Google、Wikipedia)と、Googleは25億円の資金を調達していますが、いったい誰が、具体的なPQ(売上)の見込みのない会社に出資すると言うのでしょうか。

「ユーザーを増やしてバイアウト」が悪いと言っているのではありません。YouTubeやGyaoのようにいくらユーザーを増やしても、それ単体で売上の上がるビジネスモデルでなければ、これは単にPではなく、Q(ユーザー数)をバイアウトするしか道がなかったにすぎません。これだけのQがあっても、Qに対応するPが見込めなければ致し方ありません。

しかし実際は、YouTubeもGyaoも、最初に彼らの考えたビジネスモデルは、Qはスポンサーであり決してユーザー数ではなかったのです。そのうえでのバイアウトであり、決定的な戦略上の失敗と言わざるを得ません。

ただYouTubeの売却には、次に上げるもう一つの戦略上の問題があります。

生き延びなければ意味がない

死んでしまっては、もともこもありません。すべてお仕舞いなのです。

生き延びるためには、売上が上がるまでは、Googleのように先を見通したエンジェルが不可欠です。いずれにせよキャッシュフローにおける残高マイナスが、そのビジネスモデルの死を意味します。

起業家は、本来これを本能として備えているものです。

お金が尽きれば、その場から即刻退場です。エジケン同様、YouTubeも維持費を維持できない事態に直面します。

そこで泥縄だろうがなんだろうが考えるのが、生き延びるためにいかにして経費を抑えて売上を上げるか、これだけです。ビジネスモデルもへったくれもありません。かっこうなんて関係ない。いまある資産をいかにすればお金、キャッシュにかえることができるのか。必死に、まさに文字通り死を賭して、考えるのです。

ここに、福の神が、いるのです。

では、今回のエジケンにとって、なにができたか。

R行軍記さんが、サヨナラLingrの中で、これを具体的に詳しく書いていますのでぜひ読んでみてください。

これに付け加えるなら、Rejawが、まったく余分であった。Lingr自体の売上が少しでもあがっていたなら、現状を打開する意味でRejawを新たに開発する意味はあった。しかし、結果はLingrの失敗を繰り返しただけであったことは、誰の目から見ても明らかなこと。

しかし、なぜ、そうしたのか。

その理由は、簡単です。

「生き延びる」と言う発想の、決定的な欠如です。

技術開発に一度でも携わったことのある人間なら、当然がごとく、身にしみてわかっていることがあります。それは、技術とは積み重ね以外のなにものでもない、と言うこと。

新規プロジェクトが、たとえ既存技術の応用であろうと、それを完成させる努力がどれほどのものになるか、まともな技術者であれば当然判断できます。そしてそれがすべてコストであることも。

生き延びるためには、売上が上がらなければ、このコストをかけないことしかありません。更にコストをかけることは、ギャンブルで負け続けた男が、有り金を最後のレースにつぎ込むのと、なんらかわりありません。

エジケンには、なにがなんでも成功してほしかったし、成功にたどりつけなかったとしても、成功への道をずっと歩み続けてほしかった。もちろんインフォテリアとの関係が、今回のすべてであったことも想像に難くない。

つぎの、KAIの言う真の創業のための戦略的シミュレーションであったとしたら、これはこれで凄いことですが、あらためて松下幸之助の創業の話を思い出すまでもなく、VCだろうが顧客、ユーザーだろうが社員だろうが、すべての人たちをその起業家の夢に巻き込むしか、成功への道はない。

これをしっかりともう一度かみしめて、エジケンの再起を願わずにはいられません。 KAI

May 06, 2009

なんでこんなに高い税金(2)

先日の、なんでこんなに高い税金に、はいらいとさんからコメントを頂きました。ちょうど官僚機構の構造的な欠陥を理解するのに絶好の教材になりますので、引用させて頂きます。

> KAI様
郵政事業は、郵便、貯金、簡易保険のいずれも人件費を含むすべての経費を自前の収入でまかなう自立採算で運営されてました、なので税金は使われていません。
揚げ足取りのようですみません・・・・


残念ながら、郵政時代の郵便料金や郵便小包料金、あるいは保険料、利息すべてが税金に準ずるお金であり、これを経費として使っていることの認識が、決定的に欠けています。

これは以前のエントリー竹中平蔵のきつーい一発で引用した竹中平蔵氏の文章で「明確」に挙証されています。

 まず実績をみておこう。日本郵政が民営化されてからまだ1年半ではあるが、西川(善文社長)体制は短い期間にかなりの実績を挙げている。第1は収益力の向上である。公社時代の国庫納付金に比べると、民営化された後の納税額はおおむね3倍になる計算だ。
【竹中平蔵 ポリシー・ウオッチ】政権の正統性を問う(1/4ページ)

 郵便需要の構造的な減少の中、郵政を公社のままで続ければ極めて深刻な赤字体質となることが予想されていた。民営化による業務多様化の本番はこれからであるが、出だしの収益力向上は朗報だ。第2に収益向上の結果として、郵便局の閉鎖が一気に減少した。国営であれば郵便局は減らないという「迷信」に反し、公社の4年間、年平均約50局の郵便局が閉鎖された。しかし民営化後の閉鎖はわずか1局のみ。簡易局の一時閉鎖も減少しはじめた。

 極めつきは、民間基準で「実質関連会社」を精査し、利権の巣窟(そうくつ)のような219社の関連会社をあぶり出したことだ。これまで国民に明らかにされてこなかったこうしたファミリー会社に、実に2000人もが天下っていた。日本の郵便料金はアメリカの約2倍の水準だが、こうした国民負担によって、ファミリー会社の権益が維持されてきた。民営化された郵政は、そうした膿を出させたのである。
【竹中平蔵 ポリシー・ウオッチ】政権の正統性を問う(2/4ページ)


わたしたちは何十年もの間、郵政ファミリーの人間を喰わせるためにアメリカの倍の郵便料金と言う税金を負担してきたのです。

この郵便料金、先日のベスト電器の逮捕劇を見ても、不正な郵便料金で得た資金がベスト電器の上場原資になっていたくらい、ものすごい金額になるのです。1社でこれですから、日本の社会全体からすればとんでもない金額が焼け太りした郵政ファミリー全体に流れていたと言うことです。

更に始末が悪いのは、こうして郵政解体と言う荒療治をしないかぎり、いつになっても料金値下げのインセンティブが働かないことです。おまけに官僚機構にこれを言うと、福祉などのサービスレベルとのトレードオフに問題をすり替える。

ですから何度もいいますが、これを突けるのはジャーナリズムしかないにもかかわらず、ほとんど取り上げない。いったいなんでなんでしょうね。 KAI

May 05, 2009

IMEとはてなにみる思考の崩壊

5連休も残すところあと1日。

今日は、こどもの日であると同時に、二十四節気の立夏。1年時計で言えば午前9時。12時の夏至(6月21日)まであっという間。

そういえば朝の散歩も、ずいぶん日が高くなってきた。残念ながら今朝は玄関を出るなりほんの雨粒と、そろそろぽつぽつきそうな曇天。さすがに休日と言うこともあって、いつもの犬の散歩の人と誰も会わない。おかげで思い切り瞑想の世界に入る。

例年GWは、会社に出て、この瞑想の絶好の機会になる。昨日も1日会社にいたけれど、今日は自宅で考え事をすることにした。会社に出ると、連休明けに提出しなければならない資金繰り表をつくることになって、瞑想できないからです。

と言うことで、脈絡なく、IMEとはてなにおける前頭葉が美しくない件の考察について。

まるでKAIの思考過程とそぐわないのが、IMEの日本語変換。この作法が、シアトルのマイクロソフト本社を訪ねたときも、その間の飛行機の中の液晶パネルの中でも、クイズ形式でつねに出てくる。そうおもってはてなダイアリーを眺めると、はてなの違和感の本質が、ここにあったことに気づく。

ATOKとIMEの決定的な違いは、日本語変換に、「意味」のルールを内在化できているかいないかであり、ATOKはこれができて、IMEはまったくこれができていないことです。

IMEやはてなが行っているのは、既出のキーワードを最新頻度と言う重み付けするだけで、あとは三択、四択、五択問題と言う、原始生物粘菌の知性にも劣るルールしか採用できていません。

例えばはてなにおけるキーワードのリンクも、まるでスターと連動するわけではなく、スターのような重み付けは、キーワードとの動的なリンクがあって始めて、そのアプリケーションとしての意味を持つのです。これを近藤さんは、いえ、LUNARRの高須賀さんも、理解できていません。

ぜひともお二人には、ジャストシステムの浮川さんを訪ねてほしい。

ATOKでできていることは、そんな複雑なことではありません。単なる前後のキーワードの連関をそのリンクに反映させているだけです。

実は、「KAIの思考過程」とは、これ以外にはないのであります。

少し前にアプリケーション概念の拡張の中で取り上げたウチダ先生の、

細かく見ると切りがないが、このような「同音、同綴、アナグラムを構成する文字」が2行ごとに「固め打ち」されているということから、私たちが想像できるのは、二行並韻はおそらく「聴覚映像と視覚映像のアモルファスなかたまり」として詩人に到来するということである。
詩人はそれを分節して、経時的に配列する。
その結果、あたかも先行する文字や音韻が後続する文字や音韻を「導き出している」かのように仮象する。
詩人は時間の流れの中で詩作しているのではなく、詩作することによって、詩人が時間を紡ぎ出しているのである。
韻とアナグラムは時間系の中に紛れ込んだ美的変数ではなく、韻とアナグラムを常数核にして、時間そのものが醸成されているのである。
私はそんなふうに考えている。

この言葉の中に、そのすべてのヒントが隠されている。

変換候補は、すでにそのキーワードを打ち込む前から用意されていなければならない。

この唯一つの真実が、近藤さんや、高須賀さんが、理解できていないし、浮川さんはできている。それはなぜか。思索と言う行為に自省的であるか、そうでないか。これだけです。

そろそろ、ちんぐで、酔いがまわってきた。

至福とは、この世界以外には、ありません。 KAI

May 03, 2009

こら!出たり入ったりするんじゃない!週末テニス

せっかくのGW、父と楽しみに来たスポーツクラブで怒鳴りつけられるとは、世話はない。

テニスが終わって気持ち良くサウナで汗を流していると、小学生と思しき坊主が、サウナの扉を開けて中をのぞく。そのまま扉を閉めたかと思うと、また開けて入ってきた。1分もしないうちに出て行ったかと思うと、しばらくしてまた入ってきて、また出て行った。また扉を開けて、怒鳴られた。

父親も一緒にいたのでしょうが、いいかげん注意一つしない。怒鳴り声にビックリしたのか、しばらくたってサウナから出て見たら、子供も親もいなくなっていた。この親子の不幸は、親が子にマナーを躾けないことではない。子の行為の先にある他人のちょっとした心の痛みに思いが至らない、この父親の鈍感さにある。

そして憲法記念日。毎年憲法記念日恒例のウチダ先生の持論が炸裂。敗戦後日本国民が一人として戦渦にまみえることのなかったのはこの憲法があってのこと。「戦争ができる権利」を求める改憲論者には、自ら戦場の「消耗品」となる覚悟と可能性なくして「戦争ができる権利」を唱える資格はない、とおっしゃる。

この論理を進めていけば、同じ憲法問題である死刑の存廃論議においてさえ誰も死刑の存続を主張できなくなってしまう。

要するに、蓋然性の極めて低い当事者能力を持つものしかその権利を主張できないとする論理は、例えば今の自衛隊員のような「戦争ができる権利のない」兵士の家族や、死刑囚によって殺害された被害者の家族が当然持つ、「当事者の権利」回復への思いを、安易に切り捨てる論理といわざるを得ません。

これは、先日KAIが感動した小川彩佳の感受性問題そのものであります。

「感受性」とは、何か。いま目の前にいる人間の心に反応することを、感受性とは呼ばない。目の前にいる人の先にいる、もう一人の人間の心に反応できることを、感受性と言うのです。小川彩佳は、目の前にいる元被告の思いにではなく、目の前にはいない元被告の家族の思いに胸を詰まらせたのです。

サウナの話も、憲法の話も、この「感受性」に著しく欠けていると言うわけ。

目の前にいる人間の心に反応できない者は、単なる鈍感バカ。目の前にいる人間の先にいる、もう一人の人の心にまで反応できる「感受性」こそ、人と人との関係を潤い豊かにする、もっとも重要な人間としての能力なんです。

ま、そんなこんなで、連休真っ盛りの週末テニス。

まだまだ休みが続くと思うと、気持ちにゆとりがあって、いつもと全然違う。

土曜テニスも、そのおかげか。6-3、0-6、6-5と、時間切れ寸前に最後のゲームをとって、ネモトくんから貴重な1勝をあげる。終盤は必ずエネルギー切れを起こすのに、タケノコパワーと連休効果が効いて最後までもった。

翌日曜もエネルギーのいるテニスになった。6-3、6-7(7-9)、1-5と1勝2敗。この第2セットがもつれにもつれた。一旦2-5までリードされたところで、開き直った。4ゲーム連取して6-5まで挽回。ここでKAIのサービスながら、なぜかキープできずタイブレークに突入。そして7-6と、あと1ポイントで勝ちと言うところで、またしてもKAIのサービス。そしてまたしてもなぜかサービス2ポイントすべて落として、7-8の絶体絶命。しかしもはやここまでと、力尽きた。

それにしてもひろいにひろいまくったもんだ。調子がいいから相手がどこに打つか手に取るように見える。にもかかわらず決定的場面でサービスをキープできない。理由は簡単でついつい守りに入ってしまう。突破するには攻めるしかないのに。まだまだ修行が足りません。

あとは反省しながら乾杯するしかないとアンジェロで生ビール。ぐびぐび、ごっくん、ぐびぐび、ごっくん。ぷっふぁしあわせ^^;。 KAI

May 02, 2009

甘い!甘い!甘すぎる!

エジケンの書いたLingrとRejawサービス終了のお知らせに対する、トラックバックを一通り読んだ。渡辺聡・情報化社会の航海図のクラウド時代の事業プランニング事始めも読んだ。

ほんとに、まったくもってわかっちゃいない。甘い!甘い!あまりにも甘すぎる!

事業を一旦始めた以上、なぜその事業継続に全身全霊を尽くさないのか。もちろんエジケンが、ここには書けないような塗炭の苦しみを乗り越えた上での結論であることも分かっている。しかしそれでもなお、なぜ事業継続を、こんな「簡単」に放棄するのか。これにみなものわかりがよすぎる。事業の根本とは、ここが一番重要であるにもかかわらず、これが誰もわかっちゃいない。

こんなことでは、イノベーションどころか、最低のビジネスである「人月」ビジネスでさえ立ち上げることはできない。

事業を始めてその製品やサービスを開発すると言うことは、赤子を産み落とすことと同然のこと。この赤子をどうして見殺しにできるのか。まったくもってKAIには、信じられない。

産み落とした赤子がほっておいてもすくすく成長することなどあり得ないように、あらゆる事業は、その製品やサービスの開発を終えたときこそ、真の意味の事業のスタートであるのです。

ましてやエジケンにとって創業も同然。

あれこれ言葉を並べるより、以前取り上げた松下幸之助の創業の話をもう一度ここに書きます。この文章の中に、KAIにとって創業以来一度として忘れることのない思いがあります。決して諦めまいと。 KAI

松下幸之助の言葉(8)

毎週火曜日が楽しみです。「同行二人」連載第6回。

幸之助は、大正6年(1917年)6月15日独立を決意し、5日後の20日依願退職する。このとき幸之助22歳、16歳で入社した大阪電燈には6年間の在籍でした。

 大阪電燈を辞めて独立した当時、幸之助夫婦は、防水布を製造していた吉村安次郎所有の借家に移っていた。二畳と四畳半二間だけの平屋である。
(中略)
 作業場が必要だというので、四畳半の半分の床を落として土間にした。こうなると夜寝るのも容易ではない。
 幸之助がこの世を去ったとき、松下電器産業の売り上げは四兆円を超え、従業員数は二十万人、販売拠点は全世界百六十カ国に及んでいたが、猪飼野(引用者注:いかいの、大阪市東成区玉津)のこの二畳少々という猫の額のような土間こそが、松下電器最初の「工場」であり、幸之助伝説の出発点だった。


ここで、独立前から思い描いていた改良型ソケットの開発を始め、苦労の末10月になってやっと完成する。これを、独立する時一緒にやりたいといって参加したビリヤード仲間の森田延次郎が営業マンとして大阪中を売り歩いたが、売れたのはたった百個。わずか十円(今の十万円)の売り上げであった。

家庭のある、森田も、かつての同僚で一緒について来た林伊三郎も、これ以上は限界と他に職を求めて去っていきます。残ったのは、妻むめのの14歳の弟、後の松下電器の大番頭、幸之助の右腕となる井植歳男だけ。

そんななか独立以来むめのは、まったく収入がないと言う貧困のどん底でやりくりして幸之助を支えてきた。銭湯に入る二銭の金さえなくなると幸之助に夜更けまで用事を頼んであと行水で済ませるようにしむけたかと思えば、米櫃の米が底をつくと、亡父の位牌に供えた米と餅をお粥にして、今日は寒いから餅粥にしましたと言って幸之助に食べさせる、涙ぐましい努力で切り抜けていくのでした。

しかしそろそろ限界という時に神風がふきます。

当時の代表的電気機器メーカーであった川北電気企業社から、年末の12月、扇風機のスイッチの部品の注文が入り、息を吹き返します。

 彼は運を信じて逆境でもくじけず、成功したときには「運が良かった」と謙虚に思い、失敗したときには「不幸だった」と運のせいにはせず、「努力が足りなかった」と反省した。そのことが後の成功につながったのだ。
 松下幸之助は「ものの見方」にこだわる人だった。彼の言葉が警句的で示唆に富んでいるのは、常識と違う自分なりの「ものの見方」を身につけていたからだ。普通の人が常識だと信じている裏にこそ、成功の鍵がそっと隠されているのである。
 ちなみに川北電気はその後、日本電気精器大阪製造所と名を改め、戦後は松下グループの傘下に入っている。
(産経新聞、同行二人(どうぎょうににん)第6回、北康利、2007/10/9、p.26)


ソケットで大失敗しても、それを失敗と思わず成功に結びつけるまで努力し続ける。幸之助の辞書には失敗の文字がありませんでした。

このBlogに、こうしてこの連載の筆者北康利氏の文章を写していると、自分も幸之助の創業に立ち会っている錯覚を覚えます。そしてなぜか元気になる。

彼は、右端が幸せで左端が不幸と言う人生の天秤の中にあって、ほとんどいつも左端にいて、それでも自分はまだ運が良かったと思って努力する。この姿勢に、思わずKAIは頭を下げてしまいます。そして決して諦めまいと、思います。 KAI

May 01, 2009

なんでこんなに高い税金

今日から5月、わたしたちの会社の下半期が始まる。昨日は月末。毎月この月末の支払いをしていていつも無性に腹が立ってくる。所得税、住民税に始まって労働保険だの健康保険、社会保険と会社負担分も入れると、総支給額の実に30%を優に超えてしまう。いったいぜんたいわたしたちはなんでこんなに払わなければいけないんだ。

このお金の大半が、官僚機構に流れるけれど、この官僚機構、いつまでたっても焼け太るばかりで、一体誰が官僚機構の効率化にまじめに取り組むと言うのか。これだけの経済危機と言うのに一向に官僚機構の減量化には話が及ばない。及ばないどころか、更なる増税の話ばかりで、ほとんど眩暈がしてきて気を失いそうになる。

企業であれば市場の淘汰を受け、非効率なことを続けることは、許されない。

郵政民営化とは、まさにこの意味で、100年に一度できるかどうかの大改革であったけれど、これに続く改革は皆無といってもいいくらいの燦々たる状況に、ただただ絶望するしかない。

もう一つ大きな問題がある。官僚機構の効率化を言う時、必ず役人がやるのが「すり替え」。効率化と称して公共サービスの質を落とすことを平気でやる。効率化とはすなわち役人(みなしを含む)の絶対数の削減であって、その仕事の量の削減ではない。にもかかわらず、役人は減らさず仕事量(予算)を削減するから老人はもとより医療機関や民間サービス会社へそのしわ寄せが行く。本末転倒もいいところである。

こんなことを続けていれば、シロアリに土台を食いつぶされて家屋が朽ちはてるがごとく、日本の社会制度は、早晩、役人と言うシロアリに食いつぶされていくのは目に見えている。

ジャーナリズムは、しきりに日本に未来がないと煽るけれど、この現実を見過ごしている責任の大半は、ジャーナリズム自身にあることの自覚が、まるでない。

まことに、平和なり、国家ニッポン。 KAI