February 28, 2009

アプリケーション概念の拡張

今、アプリケーション概念の拡張と言う作業に取り組んでいる。

これは、アプリケーションと言うものについて、プログラムによって自在にコントロールできるソフトウェアとしてのアプリケーションの次元から人間系との関係の次元にまで拡張した自己組織化アプリケーションと言う概念を、更に一歩進めて社会系との関係にまで拡張する作業ですが、これがなかなかうまくいかなかった。

自己組織化アプリケーションの概念構築作業においては、ある程度ソフトウェアと言う確固たる法則性を基盤にすることができたけれど、今回はまるでその手がかりが見えなかった。

これが思わぬところにヒントがありました。

細かく見ると切りがないが、このような「同音、同綴、アナグラムを構成する文字」が2行ごとに「固め打ち」されているということから、私たちが想像できるのは、二行並韻はおそらく「聴覚映像と視覚映像のアモルファスなかたまり」として詩人に到来するということである。
詩人はそれを分節して、経時的に配列する。
その結果、あたかも先行する文字や音韻が後続する文字や音韻を「導き出している」かのように仮象する。
詩人は時間の流れの中で詩作しているのではなく、詩作することによって、詩人が時間を紡ぎ出しているのである。
韻とアナグラムは時間系の中に紛れ込んだ美的変数ではなく、韻とアナグラムを常数核にして、時間そのものが醸成されているのである。
私はそんなふうに考えている。
それは音楽の場合も同じである。
モーツァルトの楽曲はすべて「一気に」その脳裏に到来した。彼はただそれを楽譜に「転写」するだけだったと言われている(だから、彼の楽譜には1カ所も書き直しがない)。
けれども、楽譜に転写中のモーツァルトに向かって「途中はいいから、最終楽章の最終楽節だけ聴かせてくれ」と頼んでも、あるいは「次の楽節を最後の音から逆に演奏してくれ」と頼んでも、たぶん「それは無理だ」と言われただろう。
たしかに曲は終わりまで完成している。
モーツァルトはそれを「出力」しているだけである。
けれども、それを「出力」するためには、通時的な流れを形成しなければならない。
定められた順番通りに演奏しないと、次の楽章には進めない。
時間はそのようにして生成されるのである。
詩や音楽が人間にとっての時間を作り出すのである。
「人間的時間」とはそのことである。
人間的時間


ウチダ先生のブログからの引用ですが、こうして文章と言うかたちで目に見えるようにしていただくと、あらためて今自分のやっている作業の意味がよく見えてきた。

一つのアプリケーション(の一部の機能)を設計する作業は、私の場合、すべて頭の中で行います。

この作業を人に説明するときによく使うのが、無重力空間に立体ジグソーパズルのピースが浮いていて、ある時突然全てがうまく組み合わさって、パズルが完成する、そう言った感覚です。

ですので、一度に、何種類ものパズルを頭の中に浮かべておくのは大変で、実際には、今は一つしか浮かべていません。作業を行うときに集中して思い浮かべるのですが、ピースの数が多いパズルほど、頭の中で展開するまで時間がかかります。ですからこういった連休中が、一番考え事をするのには最適なのです。

ところが、そうはうまく行かないのです。

全てがうまく組み合わさるという感覚がないと、全く一歩も前に進みません。

仕方がないのでこうやってBlogを書いているという、言い訳ですが(笑)。

ジグソーパズルが組み合わさるという感覚も、単に空間的に、と言うよりは、時空間上で、それぞれが繋がって、データや論理という水の流れが全てうまく流れていくと言った方がより適切です。
アプリケーションを設計すると言うこと

ずいぶん昔に、すでに書いていたことです。これを人間系対人間系、すなわち社会系のレベルに適用すると言うこと。すなわち、人の流れをつくるために、人を動かす仕組み造りがポイントでした。つまりジグソーパズルの「ピース」とは、「人」以外の何者でもありません。

この言葉を読んで、宮大工棟梁西岡常一氏の言葉を思い出しました。

塔組みは木組み。木組みは木のくせ組み。木のくせ組むには、人を組め。人を組むには、人の心を組め。

五重塔を支える一本一本の木にはくせがある。何年も経てば反り返る木を見極めるのは人間にしかできない。そう言う木を組み上げる職人を育て上げることは、職人自体の心を組み上げることである、と言うことです。
本社と言う建屋こそ人の心を組むことができる

「人の心を組む」。これをこれからお客様となっていただく人やその協力者にまで拡げるだけ。やっとこの立体ジグソーパズルの完成が、見えてきました。 KAI

February 27, 2009

キー・バリュー型データストア

技術の基本は、まるで変わらない証左です。

 キー・バリュー型のデータを複数のサーバーに分散させる代表的な手法として「コンシステント・ハッシング」がある。この手法は大きく二つに分けられる。

 一つは、どのデータをどのサーバーに配置するか管理する「中央サーバー」が存在する「ゼロホップのコンシステント・ハッシング」。もう一つは、中央サーバーが存在しない「マルチホップのコンシステント・ハッシング」である。マルチホップのコンシステント・ハッシングは一般に「分散ハッシュテーブル」と呼ばれ、ピア・ツー・ピアの基盤技術として知られている。

 パフォーマンスの点だけを見れば、中央サーバーが存在する「ゼロホップ」のほうが優れている。中央サーバーの存在しない「マルチホップ」では、データの場所を探すために複数のサーバーに対して問い合わせる必要があるからだ。

 しかし、サーバー規模が拡大すると中央サーバーがボトルネックになる。そこで、首藤准教授は「ノンホップが適用可能なのは1000ノードまで。それ以上だとマルチホップが適している」と指摘する。ちなみに、Amazonのキー・バリュー型データストア「Amazon Dynamo」はゼロホップ、MicrosoftのWindows Azureはマルチホップのコンシステント・ハッシングである。
「キー・バリュー型データストア」開発者が大集合した夜


これは、DAM(ダイレクトアクセスメソッド)におけるハッシュ関数を、ハッシュテーブルで行うかいなかの問題と、まったく同じ構造の問題です。

まさに40年前の技術が、その実装方法を変えて蘇っただけのことです。

しかし、技術の本質とは、こう言うことです。

技術とは、ハードウェアを媒介として、その上で実現されるソフトウェアにこそ意味があります。コンピュータが、このソフトウェアをパッケージにするまでは、ハードウェアこそソフトウェアそのものでありました。

いまやこれが、ことごとく覆されてきた。工学部の学生にとって、物性とはソフトウェアのパラメタに過ぎなくなってしまったのです。

そして、まったく同じ意味で、ソフトウェアの分野には、恐ろしいまでのあらゆる分野のノウハウが集中します。いまやプログラム言語の時代は、とうの昔の話。今求められているのは、その対象とするアプリケーションの中にこそあります。

このあたりは、自己組織化アプリケーションの議論に思い切り入ってしまうのですが、今残念ながらこれにかかわる時間がない。明日書く話のことで、頭が一杯。 KAI

February 25, 2009

蛆の光と壁と卵

外国の賞に一喜一憂も大人気ないと、最初は思っていたアカデミー賞。しかし、映画「おくりびと」誕生の話を読んで、自らの狭量さにただただ恥じ入るばかりです。

 日本作品として初めてアカデミー賞外国語映画賞を受賞した「おくりびと」(滝田洋二郎監督)。作品が生まれたきっかけは16年前、「納棺夫日記」を自費出版した富山市の作家、青木新門(しんもん)さん(71)のもとに、主演の本木雅弘さんからかかった一本の電話だった。

 納棺夫日記は、大学中退後、居酒屋経営を経て納棺夫になった青木さんが自らの体験をつづった小説。今では文庫化(文春文庫)され計約20万部のベストセラーだが、93年に同市の地方出版社「桂書房」から出した当時、初版はわずか2500部だった。

 間もなく、本木さんから電話があった。「インド・ベナレスの旅行記に一文を引用させてほしい」。青木さんは申し出を快諾した。送られてきた本を開くと、ガンジス川の岸辺で送り火を手にする本木さんの写真があった。そこに死後何カ月も放置された独り暮らしの老人を納棺した時のことを描いた文章が添えられていた。

 「蛆(うじ)も生命(いのち)なのだ。そう思うと蛆たちが光って見えた」。本木さんの深い理解に心を打たれた。
アカデミー賞:外国語映画賞に「おくりびと」 命の光、オスカーに−−青木新門さん


この青木新門さんの文章がこれ。

 私には、ひょんなことから葬儀社に勤め、お棺に死体を納める湯棺・納棺の仕事を専業としていた季節がありました。社内では「納棺専従社員」と云われ、世間では「納棺夫」と云われていました。
 そんなある日、一人暮らしの老人が死んで、蛆に食い尽くされた死体を処理したことがありました。最初はどきっとしましたが、部屋中に這い出した蛆を箒ではき集めているうちに一匹一匹の蛆が鮮明に見えてきたのです。蛆が捕わわれまいと必死に逃げているのです。蛆も<いのち>なのだと気づきました。すると蛆たちが光って見えたのです。
 その家から外へ出ると目にするあらゆるものが光輝いて見えるのでした。
 それからは納棺をしていても、死者たちの顔が安らかで美しいと思うようになっていました。するといつの間にか、死体に対しての嫌悪感がなくなっていたのです。特に死後間もない死者は、柔和な美しい顔をしていて、なかには微光が漂っているような感じさえするのでした。そんな死者たちの微光に導かれるように仏教に出遇ったのでした。
 仏典に次のような仏語がありました。

 「 諸天、人民、蠕動の類、わが名を聞きて、みなことごとく勇躍せんもの、わが国に来生せん。しからずば作仏せじ」 ーここでのわが国とは浄土のこと

 蠕動とはウジ虫のことです。その蛆虫も浄土に生まれ変われるものとして神々や人間と同じように平等に扱われている!!
 親族からは「親族の恥」と罵倒され、世間からは「納棺夫」と白眼視されているうちに、自分を自分で卑下してウジ虫より劣ると隠れるように生きていた私は、蛆が光って見えるという不思議な体験とこの仏語に出遇って新しく生まれ変ることができたのでした。
 そして 仏教が説く「一切衆生悉有仏性」とはあらゆる生きとし生けるものに仏性、即ち<いのちの光>があって、それは仏の光であることを知って、うれしくなって著したのが「納棺夫日記」でした。
蛆の光


あえて全文引用しましたが、言珠にあふれたこの文章から、1行とて外すことはできません。

そしてこの文章を読んでいるうちに、これもまたシンクロニシティ、不思議なことに、つい先日読んだウチダ先生の文章を思い出した。

「私が小説を書く目的はただ一つです。それはひとつひとつの命をすくい上げ、それに光を当てることです。物語の目的は警鐘を鳴らすことです、『システム』にサーチライトを向けることです。『システム』が私たちのいのちを蜘蛛の巣に絡め取り、それを枯渇させるのを防ぐために。」

I truly believe it is the novelist’s job to keep trying to clarify the uniqueness of each individual soul by writing stories—stories of life and death, stories of love, stories that make people cry and quake with fear and shake with laughter.
This is why we go on, day after day, concocting fictions with utter seriousness.

「小説家の仕事とは、ひとりひとりの命のかけがえのなさを物語を書くことを通じて明らかにしようとすることだと私は確信しています。生と死の物語、愛の物語、人々を涙ぐませ、ときには恐怖で震え上がらせ、また爆笑させるような物語を書くことによって。
そのために私たちは毎日完全な真剣さをもって作り話をでっち上げているのです。」

そして、唐突に村上春樹は彼がこれまで小説でもエッセイでも、ほとんど言及したことのなかった父親について語り始める。

My father passed away last year at the age of ninety.
He was a retired teacher and a part-time Buddhist priest.
When he was in graduate school in Kyoto, he was drafted into the army and sent to fight in China.
As a child born after the war, I used to see him every morning before breakfast offering up long, deeply-felt prayers at the small Buddhist altar in our house.
One time I asked him why he did this, and he told me he was praying for the people who had died in the battlefield.
He was praying for all the people who died, he said, both ally and enemy alike.
Staring at his back as he knelt at the altar, I seemed to feel the shadow of death hovering around him.

「私の父は昨年、90歳で死にました。父は引退した教師で、パートタイムの僧侶でした。京都の大学院生だったときに父は徴兵されて、中国の戦場に送られました。戦後生まれの子どもである私は、父が朝食前に家の小さな仏壇の前で、長く、深い思いを込めて読経する姿をよく見ました。
ある時、私は父になぜ祈るのかを尋ねました。戦場で死んだ人々のために祈っているのだと父は私に教えました。
父は、すべての死者のために、敵であろうと味方であろうと変わりなく祈っていました。
父が仏壇のに座して祈っている姿を見ているときに、私は父のまわりに死の影が漂っているのを感じたように思います。」

My father died, and with him he took his memories, memories that I can never know. But the presence of death that lurked about him remains in my own memory. It is one of the few things I carry on from him, and one of the most important.

「父は死に、父は自分とともにその記憶を、私が決して知ることのできない記憶を持ち去りました。しかし、父のまわりにわだかまっていた死の存在は私の記憶にとどまっています。これは私が父について話すことのできるわずかな、そしてもっとも重要なことの一つです。」
壁と卵(つづき)


例の村上春樹のスピーチのお話です。

ここにも『ひとつひとつの命をすくい上げ、それに光を当てること』、『父のまわりにわだかまっていた死の存在』と「蛆の光」と共通のテーマで語られていたのでした。

仏典の言葉、蛆の光、映画「おくりびと」、村上春樹。これらを強く貫く「命の光」。そしてこの「命の光」の恐ろしいまでのチカラ。また一つKAIにとってきわめて重要な研究テーマが、見えてきました。 KAI

February 22, 2009

しなやかな週末テニス

先週の週末テニスについて、こう書いた。

しかしいずれにせよ勝負に勝つためにつまりは、状況に応じたフットワーク、テイクバック、スイング、この一連の機敏な動きに尽きると言うこと。
はやくてはやくて週末テニス


このフットワーク、テイクバック、スイングに欠かせないのが、しなやかさとリズム。しなやかさとは、ラケットを鞭のように振ることとその時腕だけではなく身体全体も軸足を中心にしなるように腕を支えます。そしてこのしなやかさを生むのが、リズム。

リズムは、自分のリズムだけで戦うことはできない。常に相手の作るリズムとの戦い。

さらにこのリズムのスタートが、サービス。サービスに始まるリズムを制することこそ、ゲームを支配するための重要なポイントになる。例えば、強烈なサービスを打つ相手がいたとしても、そのファーストサービスをうまくリターンできたときは当然トップスピードのリターンとなって、いわゆる切り替えしができます。

つまり相手のリズムも、自分のリズムにしてしまえばこちらのもの。自分のリズムの中でしなやかさを保つってことです。これが相手のリズムにあわせさせられた瞬間、しなやかには打てなくなる。いわゆる手打ち。すなわち負け。

と言うことを考えながらの、週末テニス。

土曜、6-2、3-6、1-6、1-1と相変わらずネモトくんから1勝できないけれど、最後引き分けは大きい。

日曜、6-2、4-6、1-4。最後はT橋さんの太腿痙攣で途中リタイアと、いまひとつ未消化なまま。来週の課題として、今週はこれにてお仕舞い。 KAI

February 21, 2009

人を助ける(2)

言葉は力だと、つくづく思う。

建築家・安藤忠雄さんの言葉です。

 「それがスタートですからね。いまでも、手にいっぱい傷があったりして、懸命に働いていることが伝わってくる人を私は信じています」
 未曽有の経済危機は、日本のものづくりの現場にも深刻なダメージを及ぼしているが、「悪くなって当たり前ですよ」と安藤はいう。まじめに打ち込むことが評価されない。利己的で功利的で…どうも地に足がついていない。「いま当たり前になっているそんな意識を正さなければ未来はない」と言い切る。
 「ものづくりは、お金づくりではないんです」
 仕事の大小は関係ない。予算の制約など難関はあっても、乗り越えることはできる。「条件が悪いから仕事を辞めるというなら、私はとっくに引退してますよ」
 振り返れば、あの時代には、自分のことだけではなく、人々のために何かをしなければという意識があったようにも感じる。
 「仕事を通じて社会に何ができるかを考え続けなければいけないと思うんです。この考えは40年間変わりません」
(産経新聞、人、瞬間(ひととき)あの時代 建築家 安藤忠雄さん(67)、原風景は職人の働く姿、藤原由梨、2009/2/19、p.13)


仕事を通じて社会に何ができるかを考え続けなければいけないと思うんです。

なんとも素晴らしい言葉です。そしてこれを40年続けてきた。40年と一言でいいますが、40年とは、普通に就職して普通に定年を迎えるまでの、人生人が働いている全歳月です。

この全歳月を通して、社会に何が出来るかと、考え続ける。

人がなにものかを成し遂げるとは、この強い思いがあってのこと。故にいかなる困難も乗り越えることが出来る。そう、仕事を与えてくれた社会(天地人)の恵みに報いるために。

そしてこれを言葉として持てる者にのみ、成功の女神は微笑むんだと言うこと。真に納得のいく話ではありませんか。 KAI

February 18, 2009

果たしてパラダイム転換となるやいなや

いままで寺島実郎と言う人は、テレビのコメンテーターとして目撃するだけでまともに話をきいてこなかったけれど、意外にまともなことをいっていると彼のことを(ちょっと)見直した。

 寺島 実はこれが後になって考えれば、あの時バカにしていたけれども、大変大きな潮の変わり目だったんだなということに気がつかざるを得ないんじゃないかなと僕は思うわけよ。なぜって1つはEV、つまり電気自動車と小型分散発電のリンケージです。

 ―― ああ、そうそう。僕も今ちょうど、それを考えていました。
 
 寺島 要するにアメリカという国の20世紀、T型フォードを生み出して、大量生産、大量消費のメカニズムをリードしてきたアメリカが、やはり行き着くところまで行って行き詰まって、内燃機関で自動車を走らせるという仕組みから、やはりEV、電気自動車の方向に流れが切り替わっていかざるを得ない。その電気自動車に電気を供給する仕組みとして、大規模集中から、小型分散をネットワークでつなぐという、つまりシステムの基本的コンセプトが変わろうとしているのかもしれない。そういう考え方でとらえるならば、これはあながち、絵空事でないと。
オバマ「グリーン政策」は「IT革命」を超えるか?常識の源流対論・寺島実郎 その1 4/5ページ


寺島 今、若干かかわっているプロジェクトに「プラグイン・ハイブリッド」というのがあります。要するに車自体が発電機で、走っているうちに蓄電して、その蓄電したやつのコンセントを電源として利用するって話。

プラグイン・ハイブリッドは始まっている

 寺島 アメリカのようにめちゃくちゃ広い国、送電線をものすごいコストを掛けて引かなきゃいけないようなところにとって、例えば別荘地なんかに週末に行って、電気なんか引いてなくても、ぱこっと車からコンセントをつなげば、逆に48時間ぐらい電力を供給できるというもの。

 ―― なるほどね。それで「プラグイン」。

 寺島 うん、つまり小型の発電機を持って運転して動き回っているような状況になって、それが分散系のいわゆる電力供給を支え、分散系の情報システムを支えていくという、そういう時代をイメージしないと。一昔前のアメリカをイメージしていたのでは、とらえきれなくなるのではないのかという感じがするんだよね。

 ―― 重厚長大はリスクも大きいしね。自分自身、変な話ですが、車のシガーライターからパソコンを充電しながら、あちこちで原稿書いたり音符打ったりしていますから、出先で。

 寺島 あなたなんかはライフスタイルの中にそれがもう、身についているようでしょ。
オバマ「グリーン政策」は「IT革命」を超えるか?常識の源流対論・寺島実郎 その1 5/5ページ


長文の引用になりましたが、この「プラグイン・ハイブリッド」、KAIもこの対談主伊東乾氏と同様、車に100Vの電源コンセントを増設して毎日これを利用しています。ただこれは「プラグイン・ハイブリッド」と違って車の内蔵バッテリー直結。エンジンを掛けたまま使わないとバッテリーがあがる心配があったのですが、昨年秋車検で新品のバッテリーに交換して以来、エンジン掛けないでそのまま利用しています。

何に利用しているかといえば、KAIの場合、社外での打ち合わせにすべて自家用のエルグランドで移動していて、打ち合わせと打ち合わせの前後合間、車の中からインターネットに接続し仕事をしているのです。もちろんすべての仕事がブラウザの中で出来るようにしてあるからできることですが、このメリットは計りしれません。

たった1個の電源コンセントですが、これがあるだけで、ほとんどすべての仕事が場所を選ばずできてしまう。電話も携帯のバッテリーの充電ができるので、長時間の電話打ち合わせもまったく心配ない。こうなるとオフィスに出る意味さえなくなる。

だからといってオフィスが不要になると言うことではありません。ことの本質は、仕事がオフィスに縛られなくなることを意味しているのです。

立地調査のために1日棒に振ることもなくなります。目的地で車の中で1日仕事をしながら、自分の目で直に現地の様子を確認できる。おまけに企画書をオフィスで書くよりよほどイマジネーションが膨らみます。

もちろん向き不向きはあるにせよ、今までとはまったく異なるワークスタイル、ライフスタイルになると言うことです。そしてこれこそ、ビッグ3を救うべきか、見捨てるべきか(4)の中に書いた車の「移動」としての新しい付加価値に他なりません。 KAI

February 15, 2009

はやくてはやくて週末テニス

いろいろな意味ではやくてはやくて。

仕事が進まない割りに1週間がはやくて困るけれど、あっと言う間に週末テニスになるのはとてもうれしい。

土曜、1週間前からていねいに、ていねいにと心がけようとするのを見透かすように、久しぶりのネモトくんのボールがはやくて、深い。じっくりボールを見ようとしても、どうしても目がついていかずにミスを重ねる。

結果は、0-6、6-2、0-6と3セットやってネモトくんからは1ゲームも取れない。このままでは終われないと思って奮起。4セット目は3-3まで挽回。しかし最後のゲームを取られて3-4の全敗。トホホ。

しかしそれにしても、はやさすなわちスピード。

スピードと正確さはトレードオフ。先日のナダルとフェデラーの全豪オープン決勝でさえ、サービス、ストローク、すべてを終始トップスピードで戦いながら、最後フェデラーは、正確さを欠いたサービスが致命傷となって準優勝にとどまった。

トップアスリートですらこれですからとは言い訳ですが、正確にスピードボールを打つのはとても大変。ヘッドスピードといってラケットの頭のスピードが勝負。以前にもここに書きましたが、このスピードを維持するために一番重要なのが、テイクバックとスイング。ラケットをムチのように振りぬくスイングとこれを支える早目のテイクバック。

期待の日本人プレイヤー錦織は、ボールのバウンドにあわせると言う遅いテイクバックをループスイングでごまかしていますが、これはウィンブルドンの芝のコートでは通用しません。対戦相手も順番にこれがわかってきて、先日のモーガンキーガン選手権(米国メンフィス)の初戦敗退も、この錦織攻略法が知れ渡った結果に過ぎません。

人のことはさておき、マイウィークエンドゴールドテニス。ダブルハンド(両手打ち)のKAIは、このダブルハンドでヘッドスピードを上げるのはとても難しい。ましてや相手のスピードボールから最後まで目を離さないで打とうとすると、どうしてもタイミングが遅れてしまう。

これを克服する唯一の方法は、フットワーク以外にはありません。つまり早め早めに身体の位置を、スピードボールでも同じスピードボールで打ち返せるだけの体勢まで持っていくことです。と口で言うのは簡単ですが、早朝の散歩をさぼりがちのこのごろ、すぐ足がとまって動けない。

しかしいずれにせよ勝負に勝つためにつまりは、状況に応じたフットワーク、テイクバック、スイング、この一連の機敏な動きに尽きると言うこと。

日曜の結果も、6-4、5-7、0-5と、これがわかってはいるんだけどね、今ひとつ成果に結びつかない。まだまだ思考が足りないようです。 KAI

February 14, 2009

他人の不幸は蜜の味

まさに言葉通りであることが、実験的に証明されたとのこと。

 次に「妬ましい」人物を襲った「会社の経営危機」や「自動車のトラブル」などの不幸を示したところ、報酬を受け取ったときの心地よさにかかわる「線条体」が強く反応。この反応は、平凡な友人の不幸では見られなかった。また、妬みの感情が強いほど、不幸が訪れたときの反応が活発だった。
 放医研の高橋英彦主任研究員は「線条体はおいしいものを食べたときにも働くことが知られる。他人の不幸は文字通り“みつの味”のようだ」と話している。
他人の不幸 科学的にも蜜の味だった


こうした心の働きと身体部位の反応との連関は、KAI自身昔から感じてきたことです。

また勇気をくれる本に出会いました。ものづくり魂(サンマーク出版、井深大、2005)です。ホンダ、ソニー本にはいささか筆者も「でつくし感」があって、本屋の平積みにあってもほとんど手に取らないのに、今日はなぜか見た瞬間、便意が^^;;。

この現象を解説しますとなぜか筆者の場合(カミさんの場合ビデオでそうなるとの証言あり)読みたい本に出会うともよおすのですが、毎朝愛犬リキの行動と同じでこの現象に納得しています。リキと毎日5年間海外出張中以外の早朝大陸横断鉄道くらい散歩してきたのですが、必ず、リキはおいしそうなにおいのところでよだれを垂らしながらおもいっきりデッカイうんちをします(リキはゴールデンですので人間並み^^;)。
ものづくり魂と負のエントロピー


便意の解説^^;はこのエントリーを見ていただくとして、蜜の味も、なかなか奥深い研究テーマであります。

そもそもそれが蜜の味かは別にして、他人の不幸を幸せに感じること自体は、人にいわないだけで聖人君主以外の誰にでもあることです。だからといって誰もが人の不幸せを願っているかといえば、まったくそんなことはあり得ないでしょう。

しかしそれが蜜の味となると、話は別。蜜の味の誘惑は、強力です。この蜜の味の誘惑こそ、妬ましさすなわち「嫉妬」と言う誘惑の本質であります。そしてこの「嫉妬」こそが、女だけではなく男の、人間世界と言うものを動かしている、根本のエネルギーであると、KAIは強く信じています。嫉妬の世界史(新潮社、山内昌之、2004/11)と言う本の中にも、「始末におえない男の嫉妬」と、嫉妬が歴史を変えてきた話が、実に面白く語られています。

そしてかの松下幸之助も、これをよく理解していました。

幸之助がいかに人心収攬術に長けていたかは、まさにこの「嫉妬」の取り扱い方に表れている。
 『福沢心訓』を例に挙げるまでもなく、嫉妬とは人間の一番醜い感情である。ところが幸之助は、嫉妬心というものを人間の本能だと割り切り、「狐色にほどよく妬く」ことこそ大切なのだと説いた。「狐色に妬くと、かえって人間の情は高まり、人間生活は非常に和らいでくる」というのだ(昭和二十八年「PHPのことば」)。
 「狐色に妬く」とは、何ともすごい言葉である。谷沢永一は『松下幸之助の智恵』の中でこの言葉を紹介しながら、<最大級の名言>だと賛辞を贈っている。嫉妬心はうまく使えば向上心のもとになるという、人生の達人の「智恵」がそこにある。
(産経新聞、同行二人(どうぎょうににん)第13回、北康利、2007/11/27、p.26)


松下幸之助の言葉(15)からの引用。所詮人は、本能の動物。これを律してこそ、人なり。先人の「智恵」は、偉大です。 KAI

February 13, 2009

天地人その2(2)

なかなか趣深い展開になってきました。小泉さんの参戦で、一番あわてたのが、麻生さんの取り巻きです。

麻生さんの取り巻きの判断は、こうでした。

世の中の流れは、かんぽの宿売却問題で、郵政民営化に逆風が吹いている、ここは麻生はもとから郵政民営化には一歩距離を置いていたと一言表明すべしと。ところがあにはからんや、これが大問題に。(これで取り巻きのお頭のレベルが知れるってもんですが致し方ありません^^;)

さらにさらに、郵政民営化に逆風が吹いていると大いなる勘違いをしている彼らは、逆風最中まさか小泉さんが参戦するとは夢にも思わない。まことにアホとしか言いようがありません。

あわてて否定してもこのエビデンスは、あまりにも大きい。まさに致命傷です。

さて小泉さんの参戦は、いかなる展開になりますやら。

小泉竹中嫌い、いわゆる既得権者の代弁者達のバイアスまみれの予想、すなわち自民の分裂が、この事態で一挙に収束すると、KAIは考えます。さすがに麻生さんの取り巻きも、小泉さんの力に肝を冷やしたはず。そのうえ郵政民営化の流れにぶれはないことも、肝に銘じたはず。

とすれば、麻生さんの取り巻きにとって、麻生さんを生き返らせる方法は、一つ。

景気対策なんて、いまの経済危機を乗り越えるには、ちっちゃい、ちっちゃい。もちろん景気対策は必要ですが、いま必要なのは、経済が元気になることです。つまり経済を元気にすることこそ、麻生さんを復活させることができるのです。別にビッグスリーをはじめとした会社を元気にしろとはいってない。冷静に考えれば簡単にわかることですが、この不況下、増収増益の会社はいくらでもあります。こういった企業をただもっともっと支援すればいいだけだと、言うことです。

これを、経済活性化キャンペーン(中身は政府による10兆円規模の資本金投下)で、やればいいのです。(まあまったく期待はできませんが)

いずれにせよ、一旦自民は、一つにまとまるしかなくなったと言うのが、小泉さんの参戦の意味です。はてさて、いかなることになりますやら。実に面白い。 KAI

February 08, 2009

油断禁物、週末テニス

この感覚、なんと表現すればいいのでしょう。

やっと肩の調子が戻ってきたのに、まるでリズムが思うようにならない。おそらく筋力が落ちているせいだと思うけれど、これだけでいつものイメージとは程遠い動きの結果は、散々。

土曜、イトウくん相手に、6-0、2-6、4-6、2-0ととりあえずの2勝2敗はまだしも、日曜、4-6、1-6、0-6、5-5の3連敗と1分。


まことに勝負事の難しさを実感せざるを得ない。しかし同時に、ここでもまた勝つための貴重なヒントが見えてきた。それは、油断大敵。別に油断していたわけではないけれど、体調が戻って、いつもどおりのテニスができると思ったのが、大間違い。

そもそもウィークエンドプレーヤーにとって、ベストコンディションでゲームができるなんて、あり得ない。にもかかわらず理想のテニスができると勘違いしてしまう。

そうではなく、思ったことの半分できて上出来を前提にゲームを組み立てていく。これが大事なんだよね。逆に思ったことができなくてミスを重ねると、プレーがどんどん受身になる。ストロークさえテイクバックが遅れてしまう。これじゃいけないんだよね。

いや、これはビジネスでも、まったく同じ。

ミスしちゃだめなんだけど、受注に失敗することはあるけれど、それを前提にゲーム(営業)を組み立てていく。そうするとミスがあっても、すでに別の手が打てている。先手が取れるってこと。

この感覚を、取り戻すことが一番大事。

3連敗のおかげで、またリセットして、やるからね! KAI

February 07, 2009

天地人その2

こりゃダメだわ。

麻生さんの郵政問題発言。この時期にこう言うタイミングでこんな言葉が出てくるのは、麻生さん自身の資質の問題と言うより、天下国家を担うリーダーとしての麻生さんを支える取り巻きに問題があるとしか思えません。

ちょうど前回、尊徳の「天地人」の話をしましたが、NHKの大河ドラマも「天地人」で同じです。

「天地人」という題名の由来は?
「北越軍談付録 謙信公語類」に出てくる、「輝虎(謙信)公の曰く。天の時、地の利に叶い、人の和ともに整いたる大将というは、和漢両朝上古にだも聞こえず。いわんや、末代なお有るべしとも覚えず。もっとも、この三事整うにおいては、弓矢も起こるべからず、敵対する者もなし」から採られています。「北越軍談」は、江戸時代にまとめられた越後上杉氏に関する軍記物です。

分かりやすく現代語に訳すと…
「あるとき謙信公がおっしゃた。天の巡り合せが良く、地勢の有利さに恵まれ、家臣・領民がよくまとまっている、この3つがともに揃っている大将(指導者・リーダー)というものは、日本の歴史、中国の歴史、神話に近い大昔にまでさかのぼってみても、存在したという話は聞いたことがない。それどころか、未来の世の中にでさえ登場するとは思えない。もっとも、この三事(天の時・地の利・人の和)が揃っているのであれば、戦争が起こったりはしないし、その大将に敵対するような人物も現れないだろう。」
つまり、「天地人」の三拍子が揃った大将こそが、理想とすべき大将なのだ。ということでしょうか。

もともとの「天地人」
これは、中国に古来から伝わる「物事を成就させるためには『天の時、地の利、人の和』の3つの要素が大切である。」という教えからきた言葉のようです。
もちろん、謙信はこの中国の教えをふまえたうえで、先の発言をしているわけです。戦国武将として、当時一流の教養を身につけていたことがうかがい知れます。
「天地人」直江兼続やまがた情報局


どうも麻生さんの取り巻き連中の頭の中には、政局しかないようですが、いまなぜ麻生さんが総理になったのか、その「天の時」の意味を理解しないことには、何事も始まりません。にもかかわらず、今の苦境の原因を小泉竹中の構造改革路線にあるとする民主党(既得権者)のこじつけを本気にするなどと言う、彼らはまるで「天の時」の意味がわかっていないとしか言いようがありません。

恐らく取り巻き連中は麻生さんに、今は小泉竹中との距離感が必要であるとアドバイスしてるに違いありませんが、事態はまったく逆です。

昔も今も、ずっと世の中を支配しているのは、世間の人々の「閉塞感」です。

これを、小泉竹中は、銀行や郵政と言う既得権者によるものとして明確化し、国民の間にある「閉塞感」を取り除くことに成功しました。後を継いだ安倍政権の失敗は、年金問題と言う残る「閉塞感」を軽視したことにつきます。福田政権もしかり。厚生労働省に始まる公務員改革と言う既得権者との戦いの中で国民が感じる「閉塞感」を無視あるいは軽視し続けてきた末の麻生政権への交替でした。しかし麻生さんの取り巻きには、やはり依然としてこれが見えない。その結果の渡辺喜美の反乱であり離党であったのです。

ここでなぜ麻生さん本人ではなく取り巻きを問題とするのか。それは、福田さん同様もともと麻生さんにはこの大局観があって総理になったのではないと言うことです。ただ福田さんには安倍内閣の鈍感さと言う目の前の「閉塞感」があった。しかしこれは麻生さんにはない。

つまりは、いま自民党が麻生政権を維持して戦って行くには、この郵政も含めた既得権者によりもたらされる「閉塞感」の解消以外にはないと言うことです。これこそ麻生総理の「天の時」の意味であり、麻生さんを支える取り巻きがこれを明確に意識しなければ、遅かれ早かれ麻生さんに替わる「顔」を立てるしかなくなるのは目に見えているのです。

そしてその人は、小泉さんしか、もう残されていません。

果たして小泉さんの再登壇は、あるやいなや。

これは十分考えられることですが、もちろんそのための条件が必要です。その一つは、麻生政権による既得権者への迎合であり、これに反発する自民の一部による内閣不信任決議での造反、解散総選挙です。このとき造反議員も一緒になって自民党総裁として戦えるのは小泉さんしかいないと言うことです。

はてさて、いかなる展開になりますやら。実に面白い状況であります。 KAI

February 06, 2009

いまさら二宮尊徳と言うなかれ−天地人の恵み

天の恵み、地の恵み、人の恵み

戦後、道徳教育否定の弊害ここに極まれり。規範喪失社会にあってKAI自身、二宮尊徳と言う人物についてよく理解していなかったことは、なんとも恥じ入るばかりです。

 尊徳17歳の貴重な体験が家々で植え余った捨て苗をもらい、空き地に植え丹念に育て一俵の米を収穫したことである。尊徳はこう思った。世間的には最も恵まれぬと思われるわが身の上にも、天と地と人の恵みがあり一俵のお米が得られた。いかなる人間も太陽に象徴される天の恵み、地と人の恵みによって生かされていることへの深い感動と悦びに満ちた体験であった。
 尊徳はこの恵みを徳と呼び、人は天地人の徳によって生かされているのだから、徳に報いることが人間の道の根本であると知ったのである。
(産経新聞、元気のでる歴史人物講座、二宮尊徳17歳の貴重な体験、日本政策研究センター主任研究員岡田幹彦、2009/2/4、p.26)


1804年尊徳17歳。相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山(かやま))に百姓利右衛門の長男として生まれた尊徳は、すでに14歳で父利右衛門を、2年後には母よしを病気で失い、ついには二人の弟とも別れ、伯父二宮万兵衛の家に預けられていたときです。

「いかなる人間も太陽に象徴される天の恵み、地と人の恵みによって生かされている」こと。これを、人が若いうちに知ることは、きわめて重要なことです。それは、このことを知っているのと知らないでいるのとでは、その人のその後の人生を大きく左右するからです。

9歳で丁稚奉公に出され両親とも死別し尊徳と似た境遇にあった松下幸之助も、これをもっとも良く理解していました。

先日から産経新聞に作家の北康利氏が、松下幸之助と歩む旅「同行二人」と題する連載を書いています。

 丁稚時代の経験から、幸之助は多くのことを学んだ。
 そば近くで仕えた岩井虔(いわいけん現PHP研究所参与)が、ある時、幸之助に「商人の道」を尋ねたところ、大事なことは三つあると教えられたそうだ。一つは「商売の意義がわかっていること」、次に「お客様の心が読めること」、そして「相手より頭が下がっていること」。
 幸之助のお辞儀は、ただ頭を下げるという類のものではない。それこそ顔が膝小僧につくほど深々と頭を下げるのだ。
 それだけではない。お客が帰る際には相手の姿が見えなくなるまで見送る。そして見えなくなる寸前、最後にもう一度心をこめて深々と礼をした。それはお客に対してだけではない。記者などに取材を受けた際も同様だったという。
(中略)
 また商売の厳しさについてはこう教えられたという。「幸吉っとん、これだけはよう覚えとけ。商人が一人前になるには、小便が赤くなる、つまり小便に血が混じるようなことがいっぺんやにへんないと一人前にはなれんのや」
 苦労せずしてもうけることができるほど商いの道は甘くないことを、こうして彼は叩きこまれた。
(産経新聞、同行二人(どうぎょうににん)第3回、北康利、2007/9/18、p.23)


松下幸之助の言葉(6)

この幸之助が説く「商人の道」は、そのまま尊徳の「天地人の徳」に通ずるものです。すなわち、「商売の意義」が「天の恵み」、「お客様の心」が「地の恵み」、「頭を下げる」が「人の恵み」です。商人にとって、天とは商売の道理であり、地とはお客様であり、人とは従業員をはじめ商売を支えてくれるすべての人々のことです。天地人、それぞれの恵みを得て初めて商売は成り立つ。それぞれの恵みに報いることこそ、商売の王道なり。肝に銘じます。 KAI

February 01, 2009

そしてまた幸せの週末テニス

人が生きるとは、この繰り返しに尽きる。繰り返すことに、生きる価値を見出せる人が、本来の大本の生きる幸せと言うものにあずかれるのではないかと、ふと思う。

そしてそれを天気が破るのも、これもまた、一つの繰り返しであります。なんておもわず呟きたくなるような久しぶりの週末の雨。やろうと思えば出来なくもない小雨。前夜からの暴風雨ですっかりお休みモードでいたネモトくんの言うことをきいて、中止に。

それではと砧公園一周のジョギング。適度な距離と、すっかり葉を落とした古木の林の中のコースは、十分テニスの替わりになる。結構汗もかくし、なにより気持ちが清々しくなるのが、テニスの後と同じように心地よい。

その後の開店間もないアンジェロで、一人生ビール。

幸せだなぁ〜

ここでも思わず呟いてしまう。

日曜テニス。一転快晴なれど風つよし。肩の調子も多少違和感が残るもののほぼ復活して、言うことなし。結果も、6-0、6-4、3-6、0-2の2勝2敗だけれど、中身は3連勝、4連勝の勢いでした。

その後はいつも通りのお決まりのコース。アンジェロ、サウナ、ガソリンスタンド、ハイタイドといきたいところですが、休みの日のハイタイドはしばらくご無沙汰。お家でちんぐを飲みながら全豪オープン男子決勝を観る。

予想通りナダルとフェデラー。そして期待通りの戦い。実に面白い。こうして二人が全力を出し切って戦う様を見るのは、美をもさえ感じて、これもまた幸福感に満たされる。ほんと幸せの週末テニスでした。 KAI