January 31, 2009

ビッグ3を救うべきか、見捨てるべきか(4)

ビッグ3は、そろそろ最後のSOSを出すしか手がないまで追い込まれているはずですが、日本のメーカーもいよいよ厳しい。一説には、今年は台数ベースで6割まで落ち込むとのこと。台数ベースでこれですから、売上は半減すると見るべきでしょう。

それは、落ち込んだ今の販売台数こそ自然に売れる台数と考えることで理解できます。つまり今までが売れすぎていたのであって、やっといま正常に戻ったってことです。

そうすると、なぜいままで売れすぎていたのか、これから景気が回復した時昔のようにはなぜ売れないのか。
ビッグ3を救うべきか、見捨てるべきか(3)

台数ベースで考えると今回の事態は、極めてクリアです。車を必需品とする限り台数ベースで、多少減ることはあっても、これだけの減少を説明することはできません。

つまり車がなぜ売れていたのか、そもそも車の付加価値とは。

人が車を買う理由は、千差万別。しかし、車の付加価値に、この消費者側の多様性は無関係です。すなわち、「移動」と「所有」、ただこれだけです。「移動」については後述することにして、この「所有」。

「所有」するだけの価値のある車は、売れる。

とすれば今回の経済危機が原因で、価値のある車自体が減ったわけではありません。単に「所有」するだけの財力がなくなっただけと考えるのが、真っ当な考え方です。しかしこれだけの販売台数の落ち込みに見合う人々の財力が、世界中で一斉に劣化したとは、到底考えるわけにはいきません。要するに、落ち込みの原因としての「所有」は、極限られた要因といえるわけです。

たいする「移動」にこそ、今回の問題を読み解くなぞが隠されているのです。

そもそも「移動」とは何か。

実は「移動」には、二つの価値が隠されているのです。その一つが、他の移動手段に代替可能な「移動」です。これは電車バスやカーシェアリングの世界であり、車を必需品と考える人からすると、もとより車に対する付加価値を感じない人々です。彼らが原因で販売台数の減少は、有り得ません。残るもう一つの「移動」こそ、今回の大きな落ち込みの原因であります。それは「移動」のための「空間」の存在です。単なる移動としての車ではなく、リアルなスペースとしての車です。

人は、コミュニケーションのための場を、求め続けてきたのです。「移動」するコミュニケーションの場である「空間」としての車。これが「過大」に車が売れていたわけであります。ご想像通り、すなわちこれは見事にインターネット「空間」に置き換わりました。もはや車の「移動」すなわち「空間」は、デジタルによって充足される時代となったのです。

これにビッグスリーはおろかトヨタは気付いていません。

人はなんのために車で「移動」するのか。この原点にかえって考えてみれば、いまなすべきことはおのずと明白に見えるはずです。 KAI

January 30, 2009

人を助ける

いったいいつのころから、人を助けることの意味を軽んじるようになったのでしょうか。

金融一般に携わる者の「職分」とは、何か。

それは、「人を助けること」以外、ありえません。

いかなる仕組みを導入しようが、それはかまいません。それによって、「人を助ける」ことができるなら、その仕事の意味は、あります。今、この金融危機の当事者である者たちが、この原点に立ち返らない限り、あなたがたを誰も許すことはありません。
職分を知る


金融一般にかかわらず「職分」とは、そう言うことです。

そしてこれをもっとも理解した人が、ここにもいました。

 マイクロソフト社の創設者であり、ソフトウエア界における技術革新をリードしてきたビル・ゲイツ氏が、53歳という若さで経営の第一線を退き、「ビルとメリンダ(夫人の名前)ゲイツ財団」の活動に主軸を移した。(中略)
 2008年11月、五井平和賞(1999年に五井平和財団が創設)の授賞式と受賞記念講演のために来日したゲイツ氏は、財団の目的や活動について次のように語った。
(中略)
 ゲイツ氏の講演やその後のトークセッションを聞き強く感じたことは、一見相反するように見えるITビジネスと慈善事業を、明確なビジョンと希望を持ち、しかも楽しみながらやっているということである。その根底には「他を助けることは、人間の本性だからだ」という哲学がある。
(産経新聞、正論、ゲイツ氏の精神と日本の心、筑波大学名誉教授村上和雄、2009/1/28、p.13)

今人類共通に降りかかる災難と戦うためには、これに一国内はもとより世界中の人々が心を一つにして立ち向かう以外にはありません。「他を助けることは、人間の本性」と言う強烈なメッセージにこそ、その心を一つにする力があると、KAIは強く感じます。

 世界で困っている人、恵まれない人に自分でできる範囲で手をさしのべようではないか。他の人々に役立つ喜びは、人間の本性に含まれており、心躍る経験である。
(同)

いまこそ視点を大局に置けと言うことです。 KAI

January 25, 2009

有り難きかな週末テニス

とうとうついに今週は、4人揃えられないかもしれない。諦めかけたときに電話したS沢さんから、参加OKのご返事をいただく。なんともありがたいことです。

頼みの綱のネモトくん。電話したら、全豪オープン見物で、真夏のオーストラリアとな。「もうメチャクチャ暑いですよー」。「はいはい、こちらはとても寒いですよー」。もう一人の綱のイトウくん。予定が入っているので他の人をあたってくださいと。この前ちょっとつめたくあたったのがいけなかったかも^^;。

こうしてことごとく断られて、もうダメと思ったその時、「いいですよ〜」と言うニコニコ顔のS沢さんの顔が浮かんでくるから、不思議としかいいようがない。

そして肩の調子も、完全とは行かないまでも戻ってきた。

土曜。雪がちらつく中で、メンバーはいつものY木さん、T橋さんに、有り難き奇跡のS沢さん。こう言う人の運気の流れが良い時は、肩の調子と関係なく、ゲームの流れも俄然良くなる。結果も、6-1、6-2、6-4、0-1の久しぶりの3連勝。

日曜も、この調子を維持。山に出かけた(はずの)Y木さんに替わってイサカくん。天気もうってかわって春の陽気で、身体もよく動く。結果は、7-6、6-1、0-6、1-1と2勝ゲット。第1セットのタイブレークを制したのが大きかった。まだまだ思うようには身体が動かないながら、丁寧さを心がけたのがよかった。

久しぶりに一人で行ったアンジェロの生ビールが、美味い!。まことに有り難きかな週末テニス。 KAI

January 23, 2009

レトリックとしての自虐と悲観

オバマの大統領就任演説は、その内容よりも何よりもこれに対する周囲の反応が面白い。とりわけウチダ先生の、大統領就任演説を読んでが、これまた面白い。

ここで論じられている「ウチダ仮説」は一見それなりに納得のいくもののようですが、残念ながらなぜ「この語法を採用する以外に手だてがない」のか、その理由が説明されていません。

こうやって現に私自身が日本の特殊性を論じるときすでに「アメリカではこうである。それに引き換えわが国は・・・」というワーディングを使ってしまっているではないか。
私たちはこのワーディング以外では日本について語ることができないのである。
少なくとも日本人読者を「頷かせる」ためには、この語法を採用する以外に手だてがないのである。

これと同様の問題が、件の日本の過去に対する「自虐史観」と、日本の将来に対する「悲観論」です。前者は、日本の過去を貶め、後者は、日本の未来を貶める。そもそも、こんな「自虐史観」も「悲観論」も、ほんの一部の日本人とメディアが扇動しているだけのこと。同様に、日本人が「水平的」と言う「ウチダ仮説」も、これもまたメディア主導の自虐的レトリックの一つに過ぎません。

このレトリックにかかれば、米国に対する日本も、過去の日本も、未来の日本も、彼らにとってはたちまちすべてが、自分たちの主張の正当性の根拠と化します。しかもウチダ先生も書くように、日本人読者はこのレトリックに馴染みやすい(つまり簡単に引っ掛かる)。

これがなぜかと言うと、日本語独特の叙述的思考方法にあると、KAIは考えています。

語順の制約を受けない日本語には、過去も未来もその区別はありません。すべては絵巻物の世界として、今の中に空間的に配置されます。この意味では確かに日本人は「水平的」です。対する漢文や英文の世界では、語順と言う時間的配置こそ、その意味の根幹を成す。まさに思考のレトリックとしての、言語のその特性があるのです。

と言うことで、ことの本質がこの「レトリック」にあると考えると、すべてが納得できます。レトリックとしての自虐史観であり悲観論であり、オバマの演説に引き換えだと言うことです。しかもこのレトリックは、これは随分話が飛躍しますが、日本語の謙譲語と同じ構造になっています。

ただ違うのが自分自身が謙るのではなく、微妙に自分の所属しない、日本の過去や未来、はたまた現在の自分以外の日本を謙らせる。自分はしっかり安全圏におく。まことに姑息なレトリックであります。 KAI

January 18, 2009

辛抱辛抱ただ辛抱の週末テニス

エアーサロンパスのお陰か、やっとキリリとした痛み自体は消えてきた。消えたのは良いが、まるで腕に力が入らないので、ただ当てるだけのボールが、相手の餌食になって悲惨な結果に。

こう言う時の結果の記憶がかなり曖昧になるのが、いやはやなんと申しましょうか。と言い訳しながら土曜、確か1-6、2-6、6-4、0-2だったはず^^;。第3セットで1勝したものの、これも0-4とリードされてからやっとこさの逆転勝利。

日曜も、6-2、1-6、2-6、3-1と2勝2敗ながら似た展開に。とにかくサービスがキープできない。フォアからのサービスはまだしも、バックサイドはサービスリターンが鋭角に返ってくると、バックハンドでへなへなボールしか打てない。これをことごとくポーチされる。

こんな時は、ただ辛抱するしかない。原因は目一杯見えているんだけれど、手の打ちようがない。

しかしつくづく、平常時当たり前と思っている「力」の意味を、思い知らされる。そうなんだよね、勝つためには力(パワー)がないとダメなんだよねと。いままでただ当てているだけのようなフォアのスライスでさえ、パワーがあってはじめて威力を発揮する。

そしてこのパワーが単に腕力だけの問題ではないことは、明らか。パワーが回復するまで、いましばらくの、辛抱、辛抱。 KAI

January 15, 2009

ビッグ3を救うべきか、見捨てるべきか(3)

早朝の散歩がとびとびになっているせいか、ひとつひとつの問題の考えがまるでまとまらない。

News - 車買えない?それとも買いたくない?を眺めながら、思うところがあってこれを書きかけたが、うまく言葉にならない。このままほっておいても良いのだけれど、レイアウトだけメモしておきます。

要は、若い人たちが車を買えないのか、買わないのかの議論は別にして、今の新車販売台数の落ち込みは、これは明らかに景気悪化すなわち雇用不安によるものです。ビッグスリーはもちろんのこと世界中の自動車メーカー共通の問題です。

とすればあとどれだけかかるかまったく不透明ながらこの先の景気回復、雇用不安解消により、はたして新車販売台数は回復するのかどうかと言うと、そうはならない。雇用不安は、落ち込みの原因にはなっても、雇用不安解消が回復の決め手にはならないと言うことです。

それは、落ち込んだ今の販売台数こそ自然に売れる台数と考えることで理解できます。つまり今までが売れすぎていたのであって、やっといま正常に戻ったってことです。

そうすると、なぜいままで売れすぎていたのか、これから景気が回復した時昔のようにはなぜ売れないのか。これを説明するのが「大気」です。つまり・・・。(つづく^^;) KAI

January 12, 2009

ノーベル賞ラッシュはこれもまたシンクロニシティ(2)

NHKの年末年始の特集番組「もっと知りたいノーベル賞」の再放送を視た。そしてこの番組の中で、以前ここでノーベル賞ラッシュはこれもまたシンクロニシティに書いたことが、より具体的な言葉で益川敏英氏の口から出てきたのには、少々驚いたし素直に感動してしまった。

坂田先生には、物理的なものの考え方、物とは何かを教えて頂いた。南部先生からは、物理学の作法と言うものを学んだ。

不正確な記憶ですが、趣旨はだいたいこういった内容の発言だったと思います。

しかしかように人は繋がっていくもんだと、つくづく思う。目先のレベルでの繋がりではなく、もっと深いところで繋がっていく。この繋がりこそ人の真の智恵であり文化となって進化していくんだと、深く納得。 KAI

January 11, 2009

エアサロンパス、なぜこれを忘れていたのか週末テニス

実は年末、寝違えていまだこれが直らない。

先週の週末テニスは、日曜だけ。これをごまかしながらそのうち直るだろうと、甘く見ていたのが大間違いだった。今週の週末テニスで、やればやるだけ右肩が痛くなる。テニスの後これにみかねてY木さんから貴重なアドバイスが。

エアーサロンパスは効かないの?

そうですよY木さん、これがあるじゃないですか。なんで思いつかなかったんだろうと、不思議でしょうがない。と言うことでサウナの後の帰り道、道沿いにあっていつも混んでて気になっていたドラッグストアに入る。ありました。これですよこれ。1000円のミドルサイズを調達。

さっそく家に帰って、スプレー。と思いきや、右肩背中の急所にうまく当たらない。しかしそれでも、キモチイイー!

ところが、これでお仕舞いとならないのが、今回のお話。

洗濯も終わって、さあ、音を消したテレビを観ながらパソコン、パソコンと、テーブルの前に座ってキーボードに触れた瞬間、キリリッと肩の芯に痛みが走る。あれれ、あれれ。どうやっても、痛い。いろいろ試してやっとたどり着いたのが、ボブスレースタイル。これだと肩の芯は痛くはないけれど、今度は首が疲れる。おまけに、焼酎ロックもそのままでは呑めないので、いちいち起き上がらなくてはいけない。

なんとも不自由で、生産的でないけれど、これしか手がない。トホホ。

しかし、対症療法とはこのこと。

別にエアーサロンパスにいちゃもんをつける気はさらさらありませんが、恐らく炎症を起こしている根本の、肩の芯には効かない。まあこんなもんです。芯の傷みを庇って拡がっていた周りの炎症が緩和されただけでもよしとして、ひたすら癒えるまで待つしかない。

こう言う解決方法もたまにはありと諦めて、と言うことでの週末テニス。結果は、土曜、6-4、2-6、1-6、3-2。こんな体調でネモトくん相手に2勝2敗は上出来。日曜、6-4、2-6、4-6、0-3。さすがにネバリをきかせるのがつらくなってきたけれど、こちらはまだ、諦めない。 KAI

January 09, 2009

竹中嫌いの本質

元旦夜のNHKスペシャル「激論2009/世界はどこへそして日本は」に始まる一連の議論が、非常に面白い。もちろんKAIもずっと視てたのですが、カフェ・ヒラカワ店主軽薄の 「内向き」礼賛。 に描かれているとはまったく正反対の印象でした。しかしKAIも自分自身相当な色メガネをかけているつもり(笑)ですが、どうすればこう言う見方ができるのか不思議でしょうがなかった。

それが、池田信夫blogの格差の正体を読んで、この問題の本質が、以前からKAIの言う「既得権との戦い」にあることが、よく見えてきた。

その是非(受け入れるかどうか)は置いておいて、金融、製造、商業いずれにおいてもグローバリゼイションと言う市場経済の流れは不可避であり、国家としてこれに対応するのは当たり前過ぎる話であり、今更時計の針を戻そうなどと言う議論はまったくもって無意味、無益であり、逆に害毒でさえあります。

既得権者との闘いは、旧くは電電に始まり、銀行、道路、郵便局、サラ金、日教組、そして本丸の公務員とまだまだ続きます。
これが市場経済ってもんよ中村くん

ですから、内向きか、外向きか、右肩上がりか、右肩下がりかなんて議論はまったくもって本質でも何でもなくて、ことの本質は既存メディアも含めたこれら既得権者といかに戦っていくかであります。

そのポイントは三つ。

一つは、既得権者は、文字通り、「権力」を持っていることです。この「権力」と素手で戦うことが出来ないのは明らかです。すなわち「権力」には「権力」をであり、その「権力」とは、「政治」以外にはありません。そしてこの「政治」を左右する世論に強い影響を与えているのが、これもまた既得権者であるメディアと言う「権力」です。

そして二つ目のポイント。その言説の張本人が、実は間違いなくこのいずれかの既得権者のうちの一人であるか、関係者であることです。つまり彼らの言説は、この既得権によるバイアスを否定できないと言う隠蔽できない事実です。

最後三つ目のポイント。なぜ戦うのか。なぜ戦う必要があるのか。それは「人を助ける」ために戦う必要があるのです。自分のためであれば、単にそれを受け入れなければそれはそれだけのこと。他人にとやかく口を挟むのは、それこそ「お門違い」も甚だしい。

かような三つのポイントから、「激論2009」周辺の議論を眺めると、ほとんどが既存の既得権の代弁者であることがよくわかります。そうでないのは、池田信夫と竹中平蔵くらいなもんです。もちろん池田氏には同意できても、竹中氏はどうしてと疑問に思われる方が大半であることはわかっています。ですからKAIが、この文章を書く必要があるのですが。

彼がマスメディアに登場し始めた当初より、彼の言動を目撃してきたKAIにとって、今に至る世の中の流れを明確に見通していたのは、当時から竹中平蔵以外にはいませんでした。この彼が、その意味でグローバリゼイションの権化のようにいわれるのは、当然といえば当然のことです。

そしてこのグローバリゼイションの一番の抵抗勢力こそ、かの「既得権者」たちに他なりません。

もうここまでいえばおわかりでしょう。竹中嫌いの本質とは、既得権者あるいは彼らの代弁者たちによる嫌悪以外にはないと言うことであります。 KAI

January 05, 2009

今を生き延びるための週末テニス

このブログをリニューアルしようと昨年から準備をしてきたのですが、どうも新しいバージョンの調子がおかしい。いちいち設定に行くたびに砂時計が出て使い物にならない。レイアウトも思ったようにならないし、当面現行のまま続けることにしました。

それはさておき、いろいろな問題の答えが多少見えてきました。

すでにここで何度か言及している中のいくつかに、実はその答えはあったのですが、そのいくつかバラバラにあったことが、ここにきて見事に一つに繋がってきたと言うことです。

ヒントは、前回のそして今年も砧公園で人生を考えるに書いたとおり、砧公園〜山海亭〜温泉サウナであり、この週末テニスです。年に1回のことか、1週間ごとのことか関係なく、これを何十年に亘って続けることであり、もちろんこのことも重要ですが、ことの本質は、この継続の「意志」であり継続の「仕掛け」です。

ここまで書いて、続きがうまく言葉にならない時に、グッドタイミングの文章にあった。

 テレビに出てきた外国人労働者の一人が、首切りの二日前に生まれた子供を抱きながら、とろけそうな喜びを見せ、「この子のためなら何でもして働く。安い労働でもする」と言っていた光景に胸を打たれた。世界中のどこでも、職がなければ、安い労賃でも辛い仕事でも、とりあえず納得して働くのだ。日本社会程度の常識があれば、景気がよくなれば落ち込んだ分を必ず補正するだろう。今はとりあえず生き延びればいいとすべきなのだ。
(産経新聞、曽野綾子の透明な歳月の光、感謝でいっぱいの新年を迎えた/困難な時期に考える「人生とは」、2009/1/5、p.20)

まさに継続とは、生き延びることです。この生き延びる「意志」と「仕掛け」こそ、今かかえる数々の問題の答えに他なりません。

例えば、砧公園〜山海亭〜温泉サウナにおける生き延びる「意志」と「仕掛け」とは。「意志」はすでに書いたとおり「初詣」、「参拝」以外にはありません。では「仕掛け」は。生き延びる「仕掛け」には、それがずっとそこに「ある」ことが最も重要なことです。砧公園も、お店も、温泉サウナも、ずっと何十年もそこにあること。

では週末テニスは。「意志」は確認するまでもありませんが、「救い」であり「喜び」です。「仕掛け」は、「コートの予約」と「メンバーの予約」です(予約する週末テニス)。そしてなぜ週末テニスが生き延びることなのか。表向きの言い方はなんであれ、これなしでは毎日の仕事も生活もなりたたない。まさに今と言う時間を生き延びるための「救い」であり「喜び」であると言うことです。

一転、イスラエル/ハマス問題における報復の連鎖(元旦にクリご飯)は。こちらも丁度のタイミングでWOWOWでやっていた正月映画、キングダム/見えざる敵の中に、大きなヒントが隠されていた。この映画を観るのは、すでに3回目だけどやっと内容が正しく理解できた(たぶん)。それはFBI側もテロ側も、仲間を殺されて、互いに互いの「皆殺し」と言う報復を誓うことです。

しかし考えてみればわかるように文字通りの「皆」殺しなど、現代社会では到底不可能なことです。すなわち自分たちが生き延びるために、相手が生き延びることを受け入れるしかないと言うことです。これは共生とは正反対の意味の共生であり、つまり敵である相手との利害を相克した共存です。

これがはたして、連綿2500年続く、怨嗟、報復の連鎖への答えとなるのかは、わかりません。ただ彼らにとって「皆殺し」に救いを求めるより、自らの民族そのものが生き延びること自体を「意志」とするほうが、はるかに納得のいくものです。そしてその方法、「仕掛け」も、自爆テロなどと言う破滅型の手段ではなく、「話し合い」以外には考えられません。このための「オバマ」(坂本龍馬とオバマの使命と暗殺)と考えると、すべてがここで一本に繋がります。

そして、KAIもまた生き延びるための、今年最初の週末テニス。

メンバーは、新春らしく、ネモトくん、Y木さん、O谷さん。

結果は、ちょっとネモトくんのダブルフォールトが多すぎたことが幸いして、6-2、4-6、1-6、1-0と、昨年来続く彼の連勝にやっとストップをかけることができての、2勝2敗。

益々の精進が、しびれるように快感の週末テニスに、今年初めてのアンジェロで、乾杯! KAI

January 03, 2009

そして今年も砧公園で人生を考える

大晦日、元旦と、朝から晩まで家の中にいると、さすがに身体が文句を言い始める。そう思って1年前のエントリーを読むと、丁度1年前の2日、砧公園に思いつきで初めて入った話が載っていた。

と言うことで2日、3日、昨年とまったく同じパターンで、砧公園〜山海亭〜温泉サウナコースを満喫する。1年前同様、温泉から見える富士も絶景。

あーあ、なんとこれは初詣と一緒。初詣のほんとうの意味を、今初めて理解する。

三が日の砧公園はたった2回目とはいえ、年の初めのお決まりの行事の中に、まるでその前と後では気分が違う。

清々しいとは、こう言う気分である。
古木と温泉で復活

そう、なんとも「清々しい」のです。

そしてこの「清々しい」気分の中で、気になって仕方がないことを考える。

年末の週末テニスが教える勝つための拘り。報復の連鎖の中の報復と言う拘り。拘りに見る正邪正反対の側面。この拘りを捨てることではなく、拘りを超えるもう一段上の悟りの境地こそ、その答えがあるはずと思うけれど、まだその先が見えない。

しかしすでに正月は3日。時間にゆとりがあるわけではない。明日は今年初めての週末テニス。何かを期待することにして、ひとまず今日はこれにてお仕舞い。 KAI

January 01, 2009

元旦にクリご飯

新年おめでとうございます。

と言うことで、朝ごはん。大晦日、すなわち昨晩年越しそばをくってさあ寝ようかと冷凍庫を覗いたら冷凍ご飯の残りが一つ、新年早々これではねと思い直したのが、クリご飯。

昨年秋、傘寿の母親が渋皮まできれいにとって送ってきてくれたクリが冷凍庫の奥にとってあった。これでクリご飯を炊くことにして、冷凍庫から出しておいたのがすっかり常温になって、少々黒ずんではいるけれど程よい加減に。

もちろんこのクリご飯、いままで何度か挑戦してきて、いまだ上手く炊けたためしがないけれど、なぜか今回は啓示があった。

クリに添えてあった母のメモ書き通り、クリを軽く湯がく。いつもは20分で出来上がりの早炊きモードですが、さすがに炊き込みご飯はそれではまずい。白米炊飯モードは53分。時間がかかるが、元旦の朝、時間は死ぬほどある。

そして早朝から観始めたWOWOWの300<スリーハンドレッド>が、これまたいろいろと考えさせられて、映画が終わる頃に炊き上がると言う絶妙のタイミング。

午前5時、少々早いけれど、新年最初の朝ごはん。

クリご飯、イワシ干し焼き、納豆、生卵、わかめ汁、唐がらし白しょうゆ漬け。

いままでこんな美味いクリご飯、喰った記憶が無いと言うくらい、美味い。クリの甘味がゴハンの味とこんなに馴染んでいる。おまけにゴハンも、炊き込み風の味が出ていてこれまた、美味い。思わずお替りしてしまった。

しかしさっきの300<スリーハンドレッド>。この紀元前480年の出来事、そして年末に起きたイスラエルとハマスの戦いと、連綿2500年に亘って続く報復の連鎖。なぜこの連鎖は、止むことがないのか。

唯一の国家、連合による抑止力も、国家不在のテロの前ではこれもまた無力化される現実。平和主義者の非戦の主張もまた同様であることに変わりありません。

新年早々、なぜか心にとまってしかたがない。今ここにこの答えが見えているわけではないけれど、今ここに目の前にあるなにかがヒントになりそうな気がして仕方がない。 KAI