May 30, 2008

思いっ切り個人情報

初めての子どもの名前は、「遥」。長女、「はるか」と読む。

生まれて初めての海外旅行を経験した31歳の年に、長女は生まれた。

アメリカ西海岸、歴史に残るウエストコーストコンピュータフェア(WCCF)への参加です。KAIにとってこの海外旅行ほど、これ以降の後半の人生に決定的な影響を与えた出来事は、ありません。

往復の飛行機の中、創業間もないマイクロソフト、WCCFの中のリサとイネイブル、夢と消えたデジタルリサーチ社、平屋社屋のアップル社、スタンフォード、UCLA、ボナベンチャーのジャックダニエル、そしてハワイの国際交流センターでの講義。10日間の人生初体験は、身体のはしからはしまで鳥肌の立つほどの、刺激的な体験だったのです。

当然のように、その年に生まれた娘に、この体験の思いを象徴する名前、「遥」と命名したのです。KAIにとって未来に繋がる遥か永遠の旅であったのです。

そして長男が、「量宇」。これを「かずたか」と読みます。

当時勤めていた会社が急成長し、社員が500人規模に。この1/3の社員を弱冠30そこらの男が統轄していたのでした。毎日が戦争の中で、人は器量が宇宙のような男になってほしいと思ったのです。しかしこの名前を、宇宙を量ると読んだ先輩がいた。なるほど、人の器量とはその量る対象の大きさこそ、意味があることに気づいた一瞬です。

次男の名前が、「有大」。これを最初長男にならって「ありひろ」と読ませようとしたらカミさんに強行に反対される。これがよかった。そのまま「ゆうだい」となる。

3人目にしてやっと、名前らしい名前を付けることができた。

大きく有る。

これからの人生、この父の思いを、真正面に受け止めてほしい。人生とは、すなわちジブンセイ自分で生きることです。ひたすら自分の生きる意味を見出すことです。

まだしばらくは支えることはできるけれど、それももうあまり期待できないかもしれない。

しかしつくづく人生とは、面白い。その面白さこそが、お前たちの名前に中に込められた意味です。父より長く生きれ。ただただそれを願います。 KAI

May 28, 2008

暗雲岡田ジャパンいまだ晴れず

なんども繰り返し指摘している通り、岡田ジャパンに得点力を望めないことは、昨晩も証明されました。

サッカーにおける得点力とは、他のスポーツである例えば野球の得点力と本質的に、その意味が大きく異なります。この得点の意味で一番似ているのが、スポーツとはちょっと違いますが、それは「囲碁」です。囲碁こそ「知のサッカー」であります。持ち時間と言う制限時間内で、いかに自分の陣地(得点)を相手より多く取るかが、勝敗を分けるゲームです。

囲碁におけるサッカーの得点は、局地戦での陣地の差分です。地をとりあって殺されたときに1点を失うのです。

岡田ジャパンが得点できないとは、この局地戦での殺し合いにおいて、相手を殺すことではなく殺されない戦術に終始することを意味します。プロの碁士が、普通の打ち方をしている限り局地戦で殺されることはまずありません。そうすると勝負は、昨晩のような引き分けしか残されていません。

この運を、神頼みではなく自らが支配しない限り、勝負の世界に勝ち残ることはできないと、言い続けているのです。

しかし実はやるべきことは、簡単です。

囲碁で言う局地戦で相手を殺す戦略、これがすなわち動的フォーメーションです。守るサッカーでは得点をあげられないとすれば、あとは攻撃するサッカーしかありません。得点を失うリスクを負うことが、得点を得るチャンスに繋がること、すべてこれに尽きることをしらしむことであります。

相手がすべての局地戦でことごとく殺し合いを仕掛けてこられて、やっと岡田ジャパンはこれに気づいても後の祭り。世界杯は、農耕民族ではなく騎馬民族との戦いであることに、いいかげん気付いてほしい。 KAI

May 27, 2008

首なし人間は歩く「考える人」だった

早朝の散歩。ようやく日の出で明るくなり始めたかむろ坂を上がっていくと、坂の上の方から一人の背広姿の人間がこちらに向かっておりてくる。桜並木の青葉の陰が暗がりになってよく見えない。

何度も目をこするけれど、この人間どうみても首がない。

どきどきしながら、だんだんと近づいてくる。こんな時期のしかも早朝の怪談なんてと思いながら、目をこらす。

目の前まで近づいてやっとわかった。ちょうどロダンの「考える人」のように肘を脇腹にあてた左手で斜め横に直角に曲げた首を支えていたのでした。これを遠くから見るとほんとに首無しに見える。

これで一気に現実にかえる。

今のKAIの心象風景ではないかと思い、これを拭い去るようにぶるぶると顔を振った。

今、この首なしコミュニケーション不全に毎日悩まされている。首なしコミュニケーションの首とは、目の前のコミュニケーションの相手、そのものです。この相手を中心にしたコミュニケーションしか、かつて経験したことがなかったのです。

これがここにきて、この相手が突如不在、すなわち首なしになる。当然今までの約束が反故になる。

やりきれません。

しかし話は変わって目の前の岡田ジャパン。こいつら全員シケイ。なんでおまえら国歌を唄わないのか。確かに口をあわせる選手はいたけれど、誰一人声を上げて唄ったものはいなかった。岡田にしてしかり。何をかいわんやです。なぜ国家の資格で参加できていることが、理解できないのか。

平和ボケに天誅あらんことを。 KAI

May 25, 2008

またまたフォース全開の週末テニス

この出来事になんといえばいいのでしょうか。

金曜日までの天気予報では週末、土曜も日曜も降水確率90%の雨。にもかかわらず土曜10時から時折陽射しもある中でテニスをし、その後午後から大雨が続き、日曜の午前10時の時点で土砂降り。これはだめかと半分諦めかけた11時30分、雨は小降りになり、やがて12時にぴたりと降り止む。

これらはすべて予知能力と言うフォースのせいであるわけですが、このフォースをまるで天気を自分の都合で変える超能力の一種などと言うおおいなる誤解があるようですが、これはまったくもっておおいなる誤解です。

予知能力とは、お天道様も含めた未来の出来事と自分が一体化し、その流れの中に自らの思考、情動、運気の流れをまかせることであり、決して微塵だに自らこれを操作できるものではないのであります。

しからば何がフォースか。

それはこのお天道様と一体化することで、結果として、一体化した自らの中のお天道様の流れに変化が生ずることになるのです。これを単純な因果関係としてしまえばすなわち超能力ですが、まったくそうではありません。

人の思念は、ありとあらゆる自然事象と繋がっているのです。人はこの繋がりをすべて他人任せにしてしまいますが、実はまったくそうではないのです。自らがこの自然事象と時間を超越して繋がりにいくことが可能であって、ひとたび自然と繋がってしまうと自然は面白いように自分の思ったとおりになっていきます。(だって自然と一体化するから自然が思うことしか思えないんです)

こうなるとテニスにおいても、気のパワーが炸裂。

土曜、6-1、6-1、4-5と最後は時間切れで終わってしまって、間違いなく挽回して3連勝になるところでまことに惜しい。

日曜、1-6、0-6、6-0、1-3の一方的な結果。これはメンバーの手配ができず、コーチの清水くんにお願いしたからで、清水くん相手に2ゲームしか取れませんでした。しかし中身はめちゃくちゃ濃いい。

満足したあとのアンジェロの生ビールが、これまたうまい。元気だせよとビールいい。 KAI

May 24, 2008

世の中を編集し始めるインターネット

どこかの新聞社の部長が学生の前で、あいも変わらず新聞の価値は編集にあると豪語していた記事があったけれど、インターネットが生活の一部になっている学生にとってはそれはすでにまったく無意味な言葉です。

随分昔のエントリーサーチエンジンは21世紀の文化の担い手の中で、新聞の持つ編集機能がインターネットに移行することを論じましたが、いまや時代はこの通りになってしまいました。

いまやポータルのヘッドラインでニュースを知り、ソーシャルブックマークやアクセスランキングで話題の記事にアクセスする方法が「普通」であって、朝刊夕刊にかかわらず新聞紙を開いた時に初めて見聞きするニュースなどと言うものは存在しない時代になってしまったのです。

こう言う時代で意味を持つのが、「ごくせんは不良を讃えるな」 和田秀樹さんがコラムで異論といった記事です。この記事の内容自体はごくありふれたもので、特に言及するようなものではありません。ポイントは、テレビ、日経ビジネス、2ちゃん、(メール?)取材、そしてこのインターネットの記事とメディアが横断的に取り上げられていることです。

編集とは、言ってみれば事象と事象を繋ぎ合わせること、ものごととものごとの関連づけです。

新聞は、紙面と言う限られたスペースの中に、(主にリアルな世界の)事象を表す見出しを配置し、その活字の大きさで事象の重み付けを行い、日々世の中の出来事を関連づけしてこれを読者に提供し続けていると言えます。

これがインターネットによって自動化されるとともに、先に例示した記事のような、記事自体の中で世の中の(メディアに跨る)事象と事象を関連づける記事が、今後重要な意味を持ち始めると、KAIは考えています。

これは考えてみれば当然と言えば当然の帰結で、インターネットがすべてのメディアを繋ぐメタメディアである以上、メタメディアとしての編集機能の重要性がますます拡大していくと言う訳です。(つづく) KAI

May 18, 2008

あっと言う間の、また週末テニス

あまりにも速い1週間は、実はこのインターネットが加速している。

時間のスケール、物差しは、実は自分が見聞き経験する事象の一つ一つがクロックとなって時を刻んでいるのであることは、すでに大昔のエントリー歳をとると、なぜ時間は速くなるのか?にある通りであえて引用しません。

問題は、これ(経験する事象)を実体験の中ではなく、今や私たちはインターネットの中での出来事が中心となる体験に比重を移しつつあることです。体験してもいない出来事の中で、仮想的に身体が急速なる時を刻んでいくのです。

この体験がなぜテレビではなくインターネットなのか。

その違いは、双方向すなわちインタラクティブにあります。

柱時計の振り子と同じように、行っては来るを繰り返すことが、精神の時を刻むのです。原始における会話こそ、時の流れのメートル原器であります。

一方の1日テレビ漬けは、時間の流れを止めます。現代の社会問題の元凶、大人になれない大人たち、親になれない親たちの存在を、このテレビが拡大再生産し続けていることに気づくことこそ、問題解決の糸口です。

そして肝心のテニスの結果。土曜、6-4、3-6、6-0の2勝1敗。日曜、6-1、0-6、6-7、1-4の1勝3敗。この3戦目のタイブレークを落としたのが痛かった。まだまだ細かいレベルの気のコントロールに難あり。 KAI

May 14, 2008

私塾の思い出

梅田さんの私塾のすすめは、まったく意識外にあったのですが、前回のエントリーを書いて、高校生のころ通っていた私塾を思い出した。KAIもまたこの私塾で人生多大なる影響を受けた一人であることに、思い至ったのであります。

彼の名前はオハラ先生。朝寝朝酒朝湯が大好きなオハラショウスケさんではなく、当時高等学校の校長職退任後、高専の教授でした。

先生の授業の合間に、先生の書いた関孝和の和算に関する論文を読んだり、週1回の授業は毎回が楽しみでした。

その経験の中で一番強烈であったのが、現役で大学受験を間近に控え、先生の最後の授業でした。突然ズボンのベルトを外せと言われ言われるままにズボンを下ろすと、先生は突然KAIのパンツの中に手をいれ玉袋を握るのでした。そして握りながら、これなら大丈夫、自信を持て、と言ったのでした。

あまりの突然の出来事で、言葉もありません。このあとこの出来事を誰に言うこともできないまま、受験に臨むことになります。

そして受験当日、試験中にもかかわらず、あの出来事が頭から離れなかったのです。そして受験直前の旺文社模試30万人中100番前後であった得意中の得意であった数学の解答に、致命的なミスをおかし、受験に失敗することになるのでした。

オハラグリップが原因であることを言い立てるために、このエントリーを書いているわけではありません。世間知らずの高校生が、これから世間と言う大海の荒波の中の船出にあたって、オハラグリップは間違いなく碇こそここにありを教えてくれたのでした。以来、根性をすえて事に当たるときは、かならずオハラグリップをリアルにシミュレーションするのでした(わかりにくい書き方ですまない^^;)。

あの時のオハラ先生は、ガンの手術を間近に控えていて、ひょっとすると今生の別れになるやもとの思いがあったのでしょう。幸い良性のガンで命には別条無かったとのことでしたが、この先生の手術のこと、あの出来事と、先生には師弟の関係を超えた、人の命のかかわるところで接していただいたとの思いがあります。

二十歳までに、こう言う人と人との関わり方を経験できたことは、KAIにとってとてつもなく大きな財産になったと思います。

人を信頼する、される関係とは、こう言う人の命のレベルの問題であることを、あらためて思い出したのでした。 KAI

May 11, 2008

週末テニスのあとは、東京在住の同郷人会に出席

今週末は、回復した予知能力のフォースパワーが全開。

土日の終日50%以上の降雨確率を、見事はねのけてしまった。まるでものともしないのには、わがことながら感嘆至極であります。

土曜、朝からシトシト冷たい雨が降りしきる中、ゲーム開始午前10時前には小降りになって、ゲームを始めた瞬間から雨が止む。オムニコートだからそのままテニスができる。そしてゲーム終了12時5分前から強く雨が降り始める。なんだかなあ。あまりにもできすぎ。

肝心のテニスは本日も、6-2、4-6、2-6の1勝2敗ながら、中身はベストテニスで最高にすがすがしい。

日曜も天気予報は雨。降水確率、午前中90%、午後50%。

朝から予報通り土曜からの雨が降り止まない。これは駄目かとあきらめかけた11時半、一旦小雨になって、コートの水はけをする。これが終わったと思ったらその直後にかなり強い雨脚で黒い雲が通り過ぎて、せっかくの水はけが台無しになる。なんとお天道様の意地悪といいながら気を取り直して、小雨になった中再び水はけをする。

なんと、ここで一気に天気が回復を始めて、予定通り12時からゲーム開始。恐ろしいまでのフォースにただただ言葉もありません。

そして、このところの充実テニスの流れに、変わりなし。結果は3-6、7-6、2-3の1勝2敗ながらも、7-6とタイブレークを制したのが大きかった。

テニスのゲームから得るものは、あまりにも大きい。ひとつひとつの戦略と戦術(運気と硬気と軟気)の関係、その中の予知能力と言うフォースの使い方。なるほどこうすればものごとの勝ち負けを支配できるのか、手に取るように見えてくる。

人生も、まったく同じだと思うけれど、わかるのとできるのにはまだまだ開きがあります。

今日は、このあと3時半からの東京在住の同郷人会に出なければならないので、いつものアンジェロとサウナはパス。シャワーだけあびスーツに着替えて高速をとばし、やっと時間ギリギリに会場の御茶ノ水のホテルの駐車場に到着。

そもそも、なぜ同郷人会か。

先週の出来事。今年傘寿になる田舎の母親が、田舎の駅のホームのベンチに腰掛けていた。ひょっと隣に腰掛けた紳士の顔を見ると、市長さん。

市長と言っても、母親からすれば亡くなった元教師である夫の教え子。しかもその夫の葬儀で教え子である市長に弔辞を読んでもらった関係である。無視するわけにはいかない。話をするうちに、葬儀の喪主であったKAIが東京在住であることを知った市長さん。KAIに来週日曜の同郷人会に出るようとのお達しが、母親を通してあったと言うわけです。

受付で会費を払う時に名簿を覗き見すると、100名以上の同郷人が参集の模様。こんなに沢山の同郷の人間が、ここ東京にいるのか。なんだか知らないけれど、あらためてこの事実に嬉しくなる。

前半の講演会が終了して、後半の懇親会からの参加。

わざわざ朝一番で田舎から駆けつけた市議会の議長さんの音頭で乾杯。肝心の市長さんを見つけてご挨拶。ITの会社ですかそうですかぜひ田舎に本社を移転してください、と強く勧誘され、半分本気でそのつもりですと固く握手して返答。

突然大学の講師である美人の先輩から声をかけられる。先生の息子さんですよね、先生に雰囲気がそっくり、私塾に通っていたころ先生にそこの月謝を訊ねられて答えたら翌週から先生の息子さんが現れて私塾の先生からお礼を言われたことがあるんです、なんて話も飛び出して、なんともいえないあたたかい気持ちになる。

親父も、私塾の先生も、すでに鬼籍の人。こう言うかたちで人の心の中に生きていることに、心の中で手を合せて神に感謝する。

市長が田舎から持参したと言うオードブルと一緒に並べられた柏餅を頬張りながら、田舎の味を堪能したひと時でした。 KAI

May 06, 2008

タケノコの刺身と焼きサバ、あなどりがたしそのパワーの秘密

こどもの日、朝からだらだらと子供向けの外国製アニメをワウワウで観ている最中に、田舎の母親から定期便が届いた。

そこにゆがいたタケノコを真空ラップしたものが入っていて、これをさっそく大皿にだして、そのまま刺身でいただく。美味。これだけでたちまち身体中に元気が回復してくるのがわかる。

なにも味付けがしてないただゆがいただけのタケノコに、舌鼓をうつ。至福とはこのことであります。

朝、すでに5時半には朝食を済ませていたから、これで一気に空腹に火がつく。たったいま冷凍庫にしまったばかりの定期便の焼きサバを取り出して、これを電子レンジでチンしていただく。

なんとも不思議なものであります。

ついさっき食べたタケノコと、目の前の焼きサバが、身体の中に、意志をもって入ってくる。

するとみるみるパワーがみなぎり始める。

食とは、それを口に入れるまでは自分の意識のコントロール下にあっても、一度口に入れた瞬間からその結末は、まるですべて無意識に支配される世界であることを、認めざるを得ません。

ところがこれが、内臓臓腑と言う意識外の内部に取り込まれたはずの食物の、なぜかこの意志を、明確に感ずることができる。まるで食べた食物と血液の流れが、自らの意志に従うがごとくに、きわめてリアルにエネルギーの流れを感じる。

なぜか不思議な全能感におそわれて、しばし恍惚する。

翌日は連休最終日、雨でできなかった土曜テニスの振替戦をやる。

メンバーは、コーチのネモトくん、タカハシさんといつもの八木さん。

ひたすらベストテニスを心がけてやる。スコアは、6-0、3-6、3-6、3-4とすべてネモトくんに完敗するも、ゲームの中身は充実していて、満足至極。

そのあとサウナで体重を量ったら、なんと先週末から2日で2キロもオーバー。こどもの日のタケノコパワー恐るべし。 KAI

May 04, 2008

伊達公子の現役復帰と週末テニス(2)

やはりこの年齢で、シングルス、ダブルスを予選から決勝まで戦い抜くと言うのには、無理がありました。

まことに惜しい。惜しいけれど、決勝戦で敗れたもののよくぞここまで勝ち抜いてきた。見事としかいいようがない。

伊達にとって、前回書いたように不安は心技体の体のみでした。その肉体がシングルス決勝で力尽きた。しかしそのあとのダブルスでは優勝して、彼女がいまもって現役で立派に通用することを、世間に強く示すことにものの見事に成功したのです。

シングルスのみに集中するべきであったのではと言う意見もあります。しかしこれは逆で、長い間実戦から遠のいていた彼女にとってダブルスは実戦における貴重な技の調整ができる時間となります。それにダブルスはシングルスと違って体力をそれほど消耗しません。

しかしそもそも今なぜ伊達の現役復帰なのか。

もちろん彼女の言う通り、日本女子テニス界の不振があります。彼女を目の当たりの範として、彼女を再び引退においやる選手が出てくるまでガンバルと言うことです。

しかし理由はそれだけではないと、KAIは思います。

それは、37歳にして初めて、心技体の「心」にひらめくものを感じて、どうしてもそれを実戦で確かめたいと言う思いが急速に大きくなった、その結果の現役復帰ではなかったかと思うのです。

その証拠に、確かなデータがないのですがほとんどの試合をフルセットで戦っていることがあります。すべての試合の中の様々な状況の中で、こうすれば勝てると言うことが閃いた彼女は、これをことごとく確かめながら勝ち上がってきたのだと、そう言うことであります。

硬気と軟気、予知能力、はてまた運気の世界の必勝セオリーを会得することに、成功したのでしょう。

こう言う人物が突如現れることこそ、運命です。

彼女の指導を受けて、やがて世界4大タイトルのグランドスラムを達成する日本女子選手が、10年後に必ず現れる。KAIは今、そう確信します。

一方の週末テニス。久々に前日の予定外の事件のせいで予知能力のフォースに支障を来たし、土曜は雨。日曜はなんとか盛り返したものの、2-6、7-5、2-6、1-5の1勝3敗と、まだまだ修行が足りません。 KAI

May 03, 2008

モノゴトの仕組みのチカラ

モノゴトの仕組み仕掛けが見えると言うこととは、こう言うことであります。

今朝の産経新聞の東京大学大学院教授伊藤元重氏の「日本の未来を考える」シリーズの中の論文は、非常に興味深い内容です。

お読みいただければ納得していただけると思いますが、資産課税を利用した、農業問題と高齢者医療費問題の解決の道筋を見事に示しています。

世の中の仕組みにおいて、金利や課税は、電気の流れに例えるとオームの法則の抵抗(R)に相当します。二つの抵抗を用意して、抵抗の値に差をつけることによって、二つの端子の間に電位(V)を生みます。電位は電流(I)を生み、意図する方向に電気の流れを制御することができます。

農業問題においてはこれが、農地と言う資産の有効活用を促す方向に働くことと簡単に理解できますが、高齢者の医療費問題は、少しばかり整理する必要があります。

高齢者は、社会にとって医療費始め社会保障費と言う課目の消費の主役です。高齢化社会にあっては、この費用が増えることはあっても減ることはありえません。

これを相続税と言う形の資産への課税でまかなうと言うのが伊藤氏のアイデアです。もしこれが本当に実現したら、何も言うことなしです。

しかしこれは当然相続税に別枠を設ける必要があり、その分の増税を伴います。今話題の一般財源としてではなく、高齢者医療費目的の特定財源となって、医療費の増加にあわせて消費税率と同じように税率を順次上げていく必要があります。つまり税率と医療費の増加が直結することになり、これはすなわち税率による医療費のコントロールを可能にすることを意味しています。

このことの意味はきわめて重要です。

どう言うことかといえば、医療費改革にせよ増税にせよ、国民の協力がなければ一歩も前に進みません。しかし国民がいくら協力したいと思っても、社会保険や道路財源のあきれた使い道が次々と明らかになるたびに、透明性の高い監視システム抜きでは、納得のいく協力は出来ません。

これが別枠相続税率と言う形で、国民に明確な指標として示されることで、国民による常時監視が可能になるのです。

福田さん、ぜひとも現状劣勢挽回の切り札として、これを取り上げてみてはいかがでしょうか。 KAI