April 27, 2008

伊達公子の現役復帰と週末テニス

伊達公子が現役復帰を果たした。37歳。

そもそも現役引退が、1996年9月24日、彼女の26歳の誕生日の4日前のことでした。当時、あまりにも早い引退と驚いたことをよく覚えています。

その彼女が帰ってきました。復帰後最初のトーナメントに、優勝を目指して予選からの出場です。10年以上のブランクのあといきなり優勝とは、そんな簡単なものではありませんが、彼女には優勝にとっていくつか有利な点があります。

まずなんといっても世界ランクNo.4までいった彼女の実力を支えていた、ライジングショット。このショットの特徴は、ボールのバウンド初っぱなを打ち返すことで、相手にとってはワンテンポ早くボールが返ってくるために、コーナーへ打ち返されると予測しない限り取れなくなってしまうことです。

そして重要なことが、テイクバックのタイミング。

テイクバックとは、ボールを打つためにラケットを後ろに引くことですが、遅いコートに慣れている大概の日本人プレーヤーは、このテイクバックのタイミングをボールのバウンドしたときに合わせる癖をつけてしまっているのです。遅いコートではそれでも十分間に合うのですが、芝のコートやスライスのボールにはどうしても振り遅れがちになります。

そうするとテイクバックの少ないスライスで打ち返すしかなく、これが力の無いボールになって簡単にポイントをとられるのです。

伊達のライジングショットはもちろん、テイクバックをボールのバウンドに合せていては間に合いません。バウンドする前にテイクバックして、逆に打ちに行くタイミングがボールのバウンドしたときになります。

ちなみに錦織のテイクバックのタイミングは、見事にバウンドです。先日のインドでのデ杯戦で格下相手に負けた理由も、恐らくここが芝のコートであったのではないかと思います。

今度出場するウインブルドンでの彼の進化を見るしかありませんが、なぜ今までのトーナメントで彼のテイクバックでも通用しているのか、理由は簡単です。それは彼のテイクバックが、いわゆるループスイングであるからです。ループスイングとは、テイクバックとショット開始が同じとなる、すなわちテイクバックしながらラケットを回してそのまま打球することです。

しかし、そうはいってもバウンドに合せる限り錦織が、シングルランキングになることはありえません。

思い出せば、すべてそうです。フェデラーしかり、オールラウンドプレイヤーみなすべて、ラケットが後からしっかり出てくるフォームは、共通しています。

閑話休題。伊達の話でした。

伊達のもう一つ有利な点。それは37歳と言う年齢です。

以前も同じことを書きましたが、KAIにこの経験と20代の肉体があれば、敵無しで戦うことができます。37歳と言う年齢は、もう十分試合を冷静に判断できるようになっています。残るのはまさに肉体のみ。はてさてどうなりますやら。

肝心の週末テニスは、結果のみ。土曜、6-3、6-4、0-5、日曜、6-1、0-6、2-6、2-6の負け越しでした。 KAI

April 26, 2008

コミック名言集

シンクロニシティ、期せずして金曜発売のこの二冊の愛読誌の中に、まったく同じ内容のセリフがありました。

一つがビッグコミックのこれ。

居酒屋「ごろり屋」親方 その通りだ。キロ500円と
決めたら、キロ500円なんだよ。
たとえ1000円の価値のある魚を
キロ510円で持ってきたとしても、
そりゃ高いんだよ。

そのうえで俺が考える
「旨さ」とお前さんの考える
「旨さ」も根本的に違うんだ。

俺はな、
小遣いの少ない
サラリーマンでも
金の無い学生でも
懐を気にせず
飲み食いできるって
ことも「旨さ」の
ひとつだと
思っている。

駅から近くて
便利だてのも
「旨さ」だ。

店員の
気配りも
「旨さ」だ。

気軽にくつろげて
気軽に騒げるのも
「旨さ」だ。

「ごろり屋」の「旨さ」ってのは
どれもこれも、おなじくれえ大切な
「旨さ」なんだよ。
魚の「旨さ」が他の「旨さ」より
大切ってことはねえんだ。

いつも客にこの「旨さ」を
味わってもらうためには
一度決めた仕入れ値は
一円たりとも動かせねえ。
今回だけはと認めちまうと
歯止めが利かなくなっち
まうからな。
(小学館、ビッグコミック、築地魚河岸三代目、2008/5/10、p.268-269)

そしてもう一つが、同じビッグコミックの異種、スペリオールです。

物語主人公伊橋悟 ボクも昔、
下働きの
ような仕事
ばかりで、
料理させて
もらえないって
クサってた
ことがあってさ。

「やきとり割烹 庵」従業員今宮啓介 へぇ〜

伊橋 うまく
言えない
けど

お客さんは
料理屋に
料理だけを
食べにくるん
じゃないんだ

今宮 どういう
ことです
か?

伊橋 店主と
気が合う
とか、
接客がいい
とか、

店の
雰囲気が
いいとか・・・

トータルで
店は評価
される
だろ? 

今宮 なるほど
・・・・・・

トイレが
汚いと、
その店の
衛生とか、
店主の
人間性
疑っちゃう
し、
気分悪い
もんなぁ。

お客さん
あっての料理屋
だから
料理以外にも
気を遣え
と・・・?

伊橋 ピンポーン!!

掃除、
片付け、
料理人は、
一見料理と
関係ないことで、
物事のケジメや
順序を覚えて
いくんだよ。

掃除しながら、
鍋磨きながら。

それが
意味する
ことを
自分で考え、
咀嚼して
いく・・・

料理人と
しての
基本を
ね・・・

料理って、
料理本を
見れば
なんとか
作ることは
できるけど、
お客様に
喜ばれる料理は、
それだけじゃ
ダメなんだよ。

結局、それから先は
自分の才覚
なんだと思う
・・・・・
(小学館、ビッグコミックスペリオール、味いちもんめ、2008/5/9、p.319-321)

全編引用だらけのように見えますが、その通りです。スミマセン。 KAI

April 23, 2008

安心と信頼

結構古い本ですが、久しぶりにめちゃ面白い本に出会いました。

finalventの日記のコメントの中で紹介されていた安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方(中公新書、山岸俊男、1999/6/25)と言う本です。

さっそくアマゾンで注文したら幸い在庫ありで、翌日到着。4日かけて読破。中公新書でこれだけ時間がかかるのも、わけがあります。縦書きの文庫本ながら、中身は精緻な論理で構成された学術論文のダイジェスト版。

いいですねえ、こう言う本って。大好きデス。

安心と信頼と言う二つのキーワードを手がかりに、耐震偽装や食品偽装に始まる今の日本社会の安心崩壊を、見事に予言し、その解決のための手がかりとなる指針を示すきわめて秀逸な良書です。

社会的不確実性を排除した社会によって担保されてきた、安心。社会的不確実性を前提にした社会においてこの不確実性を乗り越えるための、信頼。関係性検知能力に依拠した安心社会ではなく、人間性検知能力に裏打ちされた信頼社会。

いみじくも2008年現在、ブログやフェイスブックの登場は、この人間性検知能力に直結していて、ブログやフェイスブックを通して、人間関係における社会的不確実性、すなわち互いの情報格差が最小化され、透明性の高い社会に向けた動きが加速されようとしているのです。

閉じた社会によって社会的不確実性を排除し維持してきた安心社会は、今やこのインターネットによる開かれた社会と言う競争世界にさらされることで、安心崩壊の危機に瀕しており、これを透明性の高い社会に再構築することで、社会の中に信頼を取り戻すことができるのだと、山岸俊男は言うのです。

すべて納得であります。 KAI

April 20, 2008

やっとこの次元の勝ち方がわかってきた

いつも通り予知能力のフォース全開で雨雲を払い除けての週末テニス。

2日間で1勝しかできなかったけれど、気持ちは清々しい。特に日曜は、4-6、3-6、5-7と3連敗ながら、最初から最後まで緊迫したゲーム展開で、やっている本人が言うのもなんだけれど最高に面白かった。(ちなみに土曜は4-6、1-6、6-2)

勝負には、時の流れと言うものがあって、どうあがいても勝てないことがある。こう言う時に勝ちにこだわっては、せっかくの休日の貴重な時間を楽しむことは出来ない。

これは勘違いされると困ってしまうのですが、結果が重要ではないと言っているのではありません。目一杯結果は、重要であります。重要ではあるけれど、結果はあくまで時の運。この結果にこだわっている間は、ものごとの本質が見えなくなると、申し上げたいわけです。

ものごとの本質とは、この場合、勝敗の結果を含めた一連の試合の流れの、自分自身にとっての意味と言うことです。

KAIにとって、今ただひたすらいいゲームをすることに徹して、しかし勝てない現実を受け入れるしかないと言う意味でもあります。

それでも、清々しく気持ち良く面白いと思うのは、これが着実に明日の勝ちに繋がっていることを、明確にこの肉肌に実感できるからであります。北島康介が日本新の記録達成にこだわり、そして今回これをやり遂げたように、この歳になってもKAIもなお、成長することにどん欲でありたいと思うのです。

これが、すこしずつ一段も二段も上から見えるようになってきて勝ち方も分かってくる。あとはこれをはやくやって確認したいと気だけが逸る。やっとここまで来たんだと。

初めての出来事に必死で戦ってきたけれど、運気の流れの中での高次元の戦い方がやっとわかってきたってことでもあります。 KAI

April 19, 2008

君はいま何に胸を張れるのか

産経新聞のきょうの言葉から。

不義而富且貴 於我如浮雲 孔子 
(不義にして富みかつ貴きは、 我において浮雲のごとし)

 中国の思想家、孔子の言行録「論語」の「述而編」から。不義とは、人の道にはずれた行いのこと。悪いことをしてお金持ちになったり、地位が上がったとしても、それは浮雲のような実のないことであるという意味。
(産経新聞、きょうの言葉、2008/4/17、p.3)

今の若い人たちに聞かせたい言葉ではない。次から次と不正を働く高級官僚や天下り役人たちにこれを言い聞かせなければならないとは、情けない世の中になったもんだ。

若い人たちにはぜひとも、人に喜んでもらえることを、人生の絶対の価値としていただきたい。たとえ目の前のたった一人の人のためであっても、全然かまわない。自分のためではなく、他人のために勉強をし、働き、仕事をする。

お金儲けに勤しんでも全然かまわない。それが自分のためではなく、人のためであるならば。

人のために勉強するって、わからないと思うかもしれない。それは君を学校に通わせてくれている両親のために勉強すると言うことだよ。ちょっと前まで、親の期待にこたえるために勉強するのではない、自分自身のために勉学はあるんだと、教師が盛んに言っていた時代があったけれど、実は世の中がこんな情けないことになった原因は、すべてここにあるとKAIは思っている。

なぜ両親のために勉学に励んではいけないのか。

なぜ親に喜んでもらいたいから良い仕事につきたいと思ってはいけないのか。

全然かまわない。

一生懸命君の進路指導をしてくれて、君の学力向上の手助けをしてくれている先生のために、受験をがんばる。当たり前のことじゃないか。自分を応援してくれている人たちのために、その期待に応えようとして、必死で努力して結果を出す。

もちろんこれでうまくいかないこともある。しかし誰も君の事を責める人は、いないよ。よく頑張ったとみな君の事を誇りに思うだけだよ。

お金儲けがへたくそな人も、おんなじ。

一生懸命、人のためにお金儲けしようとして努力する限り、今までうまくいってないことを嘆いてはいけない。人のためにお金儲けすることは、決して容易なことではない。難しいことに挑戦して努力することを、くりかえし、くりかえさない限り、お金儲けなんかできないもんだ。

これが自分のためと言う不義あるいは安易に手に入った結果、幸せになったと言う話をKAIは聞いたことがない。

あらためて問う、君はいま何に胸を張れるのか。

たった一つでも、たった一人のためでもかまわない。君が人のために、いま努力しているのなら、堂々と胸を張ってそのやっていることをKAIに教えて欲しい。 KAI

April 16, 2008

オーグメンティッドリアリティ(AR)

CNETの鈴木健の天命反転生活日記を読んで、標題の言葉を初めて知った。

オーグメント(augment)とは、増加、増大、拡大のこと。拡大化された現実世界(リアリティ)とでもいいましょうか、3D技術を駆使して、現実体験の中に周囲の環境の変化にリアルに反応する仮想の物体(オブジェクト)を付加することで、これがあたかも現実に存在するかのように振る舞うと言うものです。

この仮想の物体が、ある時は現実の家の中で一緒に生活するペットであったり、ある時は実際の川岸で垂れる釣り竿と釣れた魚であったり、はてまた竜安寺の石庭で敵と戦うダースベーダーであったりするわけです。

昔の映画で猿の惑星と言うのがありましたが、この中で未来の人間がイメージだけで存在するシーンがあったかと思いますが、まさにあれです。

これが、2008年バージョンでは、ヘッド・マウント・ディスプレイ(HMD)技術を応用した色メガネを通した映像として実現しようと言うことですが、将来は必ず猿の惑星の中のシーンと同じように裸眼でも見えるようになるはずです。これは人間の視神経に直接働きかけて視覚をコントロールする技術が、間違いなく近い将来実現すると考えるからです。

実現方法はいずれにせよ、バーで飲むときに、隣で話し相手のイメージ女性を派遣するサービスなんてものが近い将来必ず現れます。彼女が隣でいくらカクテルを飲んでも、料金は一人前ですから、このビジネス、成功間違いなしです^^。 KAI

April 15, 2008

新KAIブログ誕生

事業とは、狂気以外の何者でもない。誰がなんと言おうと、これをKAIはやり遂げる。決意した矢先、新KAIブログがオープンしました。

We need courage when we start something new. I think it’s just like when opening a door. We don't know what is waiting for us behind the door. Here I am – I have been walking and opening unconfirmed and unknown doors. By opening "KAI" blog, you have opened the door to me. Thank you! Together we will be opening more as-yet-unopened doors.
開―KAI [Miki’s progressive calligraphy]

これは世界通販のパイオニアアーティスト、大竹美喜さんのブログです。"KAI"blogの命名もそうですが、こうして未知なる世界への挑戦こそ、ベンチャーでありパイオニアです。未来はミキとも読みます。彼女のブログをご覧いただければ一目瞭然ですが、未知なるもの、すなわち未来への挑戦こそ、アーティストとしての矜持であることは間違いありません。

まだまだ時間がかかるのは百も承知。しかし、だからこそ狂気以外にこれを突破する方法は、ありません。 KAI

April 13, 2008

天気の一つも変えられないようでは

天気の一つも変えられないようでは、一人前の仕事はできません。

アンジェロマスターの科白です。

と言うことで、日曜の天気を変えてみました。天気予報では一日曇り空と言うのに午前中、ずっと雨。12時スタートにもかかわらず、30分前になっても降り止まない。と思いきや15分前に急に小雨のち霧雨。12時、水はけしたコートでテニス開始。

なんとまあ都合よく止んでくれました。

試合は混戦に継ぐ混戦。最初の試合、なんと1時間10分もかかって7-5で制す。1ゲーム1ゲームが決まらないから、1ゲームの決着がつくまで15分もかかる。これだけで5ゲーム分です。

最初、相手のサーブ。これをキープされて0-1。こちらのサービスもブレイクされて0-2。相手のサービスをやっとブレイクと思いきや、ここでKAIのサービスをブレイクされて1-3。次サービスキープされて1-4でチェンジコート。ここでやっとペースが戻ってきた。3連続ゲットで、4-4のイーブンに。と簡単に言ってしまっては元も子もない。15分かかってこの相手のサービスをブレイクしたのが、今回の勝因。

更に相手のサービスをブレイクして5-4で王手。

しかしここでブレイクバックされてまたしても5-5のイーブンに。そう、決まらないのです。とはいえ三度目のブレイクで6-5の王手。最後の出番、KAIのサービスです。案の定ここでもデュースを繰り返す。そして最後はボレーエースで決着。

すでに1時半。第2試合を始めるも、もはやエネルギー切れ。スコアも3-5で時間切れ。

すっかり天気も曇り空ながら回復。

土曜テニスも午前中までしっかり天気がもって、予知能力のフォースも回復してきたみたい。こちらの結果は3-6、6-0、3-6の1勝2敗と今一歩ながら、大きな手応えを感じる。 KAI

April 12, 2008

チベット問題に見る朝日の前科

今朝の産経新聞の、このコラムには驚いた。

 中国が国際社会から非難され、信頼を失うのは自業自得だと思うが、朝日は見過ごせないらしい。
 たしかに福田総理が中国にハッキリ言わないのは事実だが、では朝日はどうなのか。
 たとえば1987年10月4日、「チベットの不幸な流血事件」という社説。<国外にあるダライ・ラマとそのグループを含むチベット関係者は、中国の一部としてのチベットの現実に冷静な目を向けてほしい。およそ二百万人のチベット族の平和な生活のためにも、無謀な挑発が行われるようなことがあってはなるまい>
 89年、ダライ・ラマ14世がノーベル平和賞に選ばれた際には授与反対の論陣を張った。<平和のための賞が結果として、チベットの緊張を高めるおそれさえある。(中略)「平和賞」の名が泣こう>
 まさに中国の代弁者。朝日に福田総理を批判する資格などない。
(産経新聞、週刊誌ウォッチング、花田紀凱(かずよし)、2008/4/12、p.15)

いやはや朝日の前科は、ここにもありましたか。結局、朝日新聞には、ジャーナリズムを名乗る資格はありません。笑えるよ。ダライラマに活動を自重せよとは、笑止千万。ジャーナリストの隅にも置けない。ジャーナリズム世界から即刻追放です。

今は朝日とっていないし、ホームページを見るのも気分が悪くなるから確認してないけれど、今回も酷い報道に終始しているんでしょう。どの面さらして、ジャーナリズムと言う仕事に携わっているのか。

何も正義面しろといってるのではない。ジャーナリズムとは何か考えれば一発でわかること。これがいつまでも中国と言うバイアスがかかり続ける限り、朝日に明日はない。 KAI

April 07, 2008

週末テニスに学ぶ勝負心得

勝負に勝つためには、我慢すること。これに尽きます。

ですからKAIは公式のトーナメントに、かれこれ30年近く出ていません。理由は簡単。我慢するテニスは面白くもなんともないからです。であるからこその週末テニス。極楽度ここに極まれり。勝敗ではなく、いかに気持ちいいテニスができるか、この一点にこだわったテニスこそ、至上の悦びとなるのです。その上で、勝つ。これこそが勝負の神様に喜んでもらえると信じて、30年。

しかし、現実はやはり勝つためには我慢が肝要であることに、変わりありません。

最近時間がなくてテレビ観戦の暇がない麻雀にしても、勝つ打ち手は必ず当たり牌を押さえます。たとえその牌をきれば聴牌となる場合でも、簡単には出しません。これに対して我慢できない打ち手は当たり牌をきって、相手を調子づかせることに安易に貢献してしまうのです。

この我慢する打ち手、我慢できない打ち手との違いとは何か。

それは、我慢のタイムスパンの違いです。重要なことは、目先の利益ではなく最終の利益であると分かることです。最終の利益を獲得する為には、我慢するタイムスパンを長くとる必要があります。

高校野球がこの好例です。送りバントを繰り返して点を重ねないと勝ち上がっていくことはできません。プロ野球と違って負ければ、そこでお仕舞いです。逆にプロ野球は、今日負けても明日もゲームがあるからタイムスパンは短いように見えますが、実際の我慢のタイムスパンは、シーズン優勝です。

シーズンを通して圧勝できるなどと言う恵まれたチームは別ですが、限られた戦力をいかにシーズンを通して配分するか、監督は我慢を強いられます。選手の我慢のタイムスパンは、まったく逆です。投手であれば1球1球の中に我慢と言う抑制のきいた配球が必要であり、打者も選球において同じです。野手もまたその1球1球ごとの状況に応じて、守備位置を変えることのできないものは、プロとは言えません。イチローのレーザービームは、この動物的とも言える打球が来る前に移動した守備位置により生み出されるのであって、彼の強肩のなせる業と考えるのはお門違いもいいところです。

そして肝心の経営も、しかり。

期ごとの業績こそ、シーズン優勝です。

シーズン優勝するためには、ゲームに勝って勝率1位になることですが、経営におけるゲームとは受注競争です。この勝率、すなわち受注率をいかにあげていくかは、選手(営業マン)の我慢にかかっているのです。そもそも営業とは、端から買ってくれるお客様だけなら、営業はいりません。買うつもりのないお客様の気持ちをいかに買う気にさせるか。ひたすら我慢です。

しかし、これができない。理解できないのです。

営業マンは、何を我慢する必要があるのか、これさえできれば9回表まで持つのです。それは、お客様の言うことをひたすら聞くという、我慢です。あとは9回裏、一言『すべてできます』で、お仕舞いです。

この我慢ができない営業マンは、小さなことでできます、できますと言って勝とうとする。これではゲームは勝てない。なぜなら、お客様は敵ではなく、味方だからです。もっといえば敵は競合会社です。このお客様を味方につけることこそ、敵である競合会社に勝つことができる唯一の方法であるにもかかわらず、小さなことで味方であるお客様に「勝とう」とする。

これが我慢できないのです。

ひたすら受注と言うゲームに勝つまでは、我慢すべし。

そして我慢の週末テニス。土曜6-3、3-6、0-4、日曜6-2、0-6、2-4の両日ともの1勝2敗の結果に、我慢のテニスが現れています。もちろんこれが極楽テニスでもあるのですが。 KAI

April 04, 2008

笑いの研究の中に本質があった

人はなぜ笑うのか。

ぐぐっていたらまたまた永井俊哉ドットコムにたどり着いてしまった。

私たち人間は、しばしば、たわいもない冗談を言っては、口を横に広げ、腹筋を収縮させながら「あっはっはっはっ」と断続的な呼気を発する。この奇妙な動作は、生物としてのヒトが生きていくうえで何の役にも立っていないように見えるのだが、一体なぜ、何のために私たちは笑うのだろうか。
人はなぜ笑うのか

最近笑えなくなってしまった原因を探るために、逆になぜ人は笑うのか、これを考え中にこのページを読んでわかったこと。人は快によって笑うこと、快とは落差であり、微小な快を得ることによる微笑み、そのネガティブな快である不快を無化するための苦笑い、想定との落差が生む破顔一笑。

子犬同様、若いころは箸が転んでも笑うと言うくらい、ありとあらゆることが楽しくてしょうがない。この理由は、若いころと言うのは、身の回りで起こるありとあらゆる出来事は、すべて初体験であり、周り中が想定との落差と言う快に満ち溢れているからです。これが歳をとればとるほど初体験が減り、結果笑いも少なくなるわけです。

逆に歳をとっても、毎日が再発見と言う形での初体験を繰り返す人たちもまた、若者同様笑いが絶えることはありません。

笑いといえば思い出すのが、2年ちょっと前に書いたネズミを笑かすと犬もよろこぶのか?です。

デジタル処理された音と、この生の音との違いは、このヒトには聴こえない倍音です。ヒトが聴く音には無意識下で聴く音域が存在していることは、有名な話です。つまり犬だけではなくヒトも、この50キロヘルツの音に無意識に反応しているはずだと言うことです。

もし、ヒトの笑いの中に、この倍音としての50キロヘルツの音があるとすれば、実はこれが笑いの効用の本質ではないかと言う、そう言う気がしてきました。個体間の遺伝子同士のコミュニケーションツールが、50キロヘルツの音であり、笑いと言うことです。

このコミュニケーションとしての笑いの効用を考えると、笑いとは個体間における快の伝達手段ともいえます。

笑うことの意味をこのように考えてみると、冒頭の笑えない症候群の本質が見えてきます。それは、笑えないのは伝えたい快の不在ではなく、これとまったく逆の伝えたい快の存在証明以外のなにものでもないと言うことです。つまり無意識のうちに、笑えないことを自らに訴えることで「快」の存在を顕在化させようとしているのです。

まことに人の心とは、奥深いの一言に尽きます。 KAI

April 01, 2008

松下幸之助の言葉(32)

いよいよ連載最終回。

幸之助が昭和の時代とともに生きたことを象徴するかのように、昭和天皇崩御からわずか3ヶ月余り、1989年4月27日10時6分、幸之助は大阪守口市松下記念病院でその生涯を閉じます。享年94歳でした。

大正と言う時代は、大正15年(1926年)その年も押し迫った12月25日に終わり、昭和へと続いていきます。従って昭和元年は1週間しかありません。ちなみに昭和の終わりが64年1月7日で、昭和と言う時代は初めも終わりも1週間しかないと言う面白い符合の時代でありました。
松下幸之助の言葉(12)

以前にこう書いたように昭和と言う時代は、不思議な符合の時代でした。この昭和と言う時代の道を、幸之助は起点から終点までただひたすらてくてくと、そうてくてくと歩き続けたのです。

今回のこの連載を読んでの感想は、人生とはまことに淡々としたものであることです。

もちろんその道程で波乱万丈紆余曲折あるにせよ、ただひたすら人生と言う道をてくてくと歩み続けることしか、人の生きる道はないことを痛感したのでした。

一時は最悪の選択さえ考えましたが、神が見放すことはありませんでした。

いまほど人の善意を感ずるときは、ありません。てくてく歩く人生の中の、いま大きな曲がり角、岐路に立っています。この善意を信じて、ひたすらてくてく歩むしかありません。 KAI