幸之助と中内功との戦いは、東京オリンピックの年である1964年に始まり、幸之助が世を去った1989年から更に5年後の1994年、両社が和解して終結するまで、実に30年にも及ぶものでした。
価格は消費者が決定すべきだとする中内の考え方と、企業と消費者は共存共栄であるべきだとする幸之助の考え方。好対照に見える二つの思想だが、中内がいみじくも語っているように結局目指すものは同じで、国民が幸せで豊かに暮らせる社会であったはずだ。
(産経新聞、同行二人(どうぎょうににん)第25回、北康利、2008/2/26、p.19)
私たちのサービスについても、メーカー系のユーザーと流通系のユーザーとでは対照的な反応になることを、以前のエントリー組織の進化のレベルが働き方を決める(3)の中で書きましたが、これは正にこの二人の思想の違いから来るものでした。
しかし私たちのサービスは、消費者相手ではなく企業相手です。私たちのサービスが、ユーザーとの共存共栄でしかなりたたないのは、幸之助の考え方とまったく同じです。安く買いたたいて大量に販売する薄利多売の思想からは、モノを生産すると言う文化は育ちようがありません。
適正な利潤を得るために、あとなにかもうひとつ工夫がいる。今はとにかくそう言うことであります。 KAI
案の定と言うか予想通りと言うか、岡田ジャパンの優勝は叶わなかった。
岡田監督が理解すべきは、自身のサッカー理論の正しさではなく、プレイヤーである選手たちの、このサッカーと言うゲームに対する彼らの価値観、ただこの一点につきます。
オシムサッカーの凄さは、オシムの「哲学」とも呼ぶべき彼の価値観を、一人の例外もなく選手たちの価値観としたことであり、逆に言えば哲学を理解できない選手が代表に起用されることもあり得ません。
なぜ「哲学」を共有することが大事なのか。
それは勝負のレベルが上がれば上がるほど、戦いあう選手と選手の間は技のレベルの勝負をとっくに超えた、「哲学」レベルでの勝負になるからです。
「哲学」レベルの勝負とは、戦いのすべてのシチュエーションにおいて、一人一人すべての選手が「予知能力」を持って戦うことを意味しています。この予知能力を理解するには、過去のエントリー予知能力を読んでいただくと多少分かるかと思いますが、意味は違うけれどもう少し分かりやすい言葉で言うと、ゲームの主導権をとるとかゲームを支配するとかです。
哲学と予知能力とゲームの勝敗がどう繋がるのか、長くなるので割愛させていただきますが、気の研究にとってきわめて重要なテーマであります。
そして「哲学」レベルには遠く及ばないものの、「哲学的」週末テニス。
土曜、日曜ともおそろしく1ゲーム、1ゲームに時間がかかって、結果は土曜、6-1、6-3、3-3、日曜が7-5、1-6、4-3。1ゲーム、1ゲームに時間がかかるのは、デュース、デュースを繰り返すからですが、これはすなわち土俵際の踏ん張りと一緒で、踏ん張る側の俵となるのが「開き直り」です。あきらめて勝負を投げ出すのではなく、欲をいったん捨てたところでとたんに、自然なプレーが戻ってナイスショットが生まれる。
やっとリアルなゲームに明かりが見えてきた。 KAI
神様、お願いです。もう十分楽しんでいただいたでしょう?
神を楽しませたものが勝つ
勝負とはそういうものだ
神が喜ぶから
風が吹く!
神が興奮するから
落ちる!転がる!
跳ねる!飛ぶ!勝負とは、
神を存分に
楽しませたものが
最後は勝つ!
(小学館、スペリオール、マネーの拳、三田紀房、2008/2/21、p.113)
運勢とは、誠に深淵かつ不可思議であります。
特に今大殺界にいるKAIにとって、その毎日襲われる運勢の振幅の大きさに、ただただ唖然とするばかりであります。うまくいくと思った瞬間どんでん返し。毎日この繰り返しが、かれこれ1年近く続いている。
さすがにこうも度々どんでん返しを食らうと、心の準備だけはできているようになったけれど、そろそろ身体がもたなくなってきた。このところ理由は特にないんだけれど、早朝の散歩も中止しているせいかもしれない。
肩甲骨の後ろからズブっと太い針を差し込んでもらえば気持ちいいだろうなと、ふと思う。
必ず活路がある。そう信じてひたすら神を楽しませる、神を喜ばせることに、心血を注ぐことにします。 KAI
マイクロソフトのYahoo買収がうまくいくかどうかは別にして、マイクロソフトがYahooを「コンテンツの価値」ではなく「ソフトウェアの価値」として評価していることに、少々驚いたけれど、これこそ本来の姿であって、ゲイツの本領発揮といったところです。
しかしGates氏は、Yahooが前最高経営責任者(CEO)であるTerry Semel氏が敷いた路線をそのまま歩み続けていたなら、同社の魅力が損なわれる可能性もあったことを示唆した。
「Yahooが、単にメディア企業となる方向を目指し、ソフトウェア革新が自社にとって重要だという姿勢を表明しなかったなら、われわれとの間に接点はなかっただろう。なぜならわれわれは、画期的なソフトウェア開発を目指すものだからだ。これはJerry Yang氏の功績だが、Yahooは多くの非常に優秀なエンジニアを確保し、それぞれのエンジニアがきちんと自分の仕事をし、ソフトウェア革新を進めてきた。だからこそ両社の組み合わせがこれほどを力強いものだと考えられるのだ」とGates氏は語った。
(B・ゲイツ氏:「何よりも欲しいのは、画期的ソフトウェア開発に資するヤフーの人材」)
この議論は過去何度か繰り返しているので、ほんとめんどくさい。なぜこんな簡単なロジック、理解できないんでしょうか? KAI
東京オリンピックの年、1964年(昭和39年)、KAIも目の前を走る聖火ランナーに日の丸を振ったことを、はっきりとこの眼に覚えています。このころ幸之助が、会社経営の絶頂期にあったことを、今回のこの連載で初めて認識できました。KAIはまだ小学生だったのです。
「鳴かぬならそれもまたよしホトトギス」」
(産経新聞、同行二人(どうぎょうににん)第24回、北康利、2008/2/19、p.14)
これらの考え方を幸之助は、次世代の経営者に継承していくのでした。オリンピックの翌年のことです。
京都での講演で、このダム経営論を披露したところ、ある社長が手を挙げて質問した。
(中略)
もっともな質問である。
(中略)幸之助は涼しい顔でこう答えた。「余裕を持とうと、何よりもそう思わなければいけませんわな」。それを聞いた聴衆の顔に明らかな失望の色が広がった。
ただ、会場の中でおそらくただ一人、鳥肌の立つような感動に包まれていた男がいた。その六年前に、京都セラミックという会社を創業していた稲盛和夫である。
経営とは、何よりこの「思い」にあります。「思い」がなければ何事も始まらない。「思い」があるからどんな試練にも立ち向かえる。この「思い」を社員と共有できるから初めて一つになってことを成し遂げることができる。「思い」とはそう言うものなのです。
そしていよいよダイエー中内功との戦いが、始まります。 KAI
週末テニスの締めくくりが、岡田ジャパンの北朝鮮戦。
これを日曜テニスの後ハイタイドで観戦し、一挙に失望、落胆することになってしまった。やはり指揮官と言うものが、いかに重要か。いや指揮官がすべてであることに、つくづくこの試合を見て納得せざるを得ませんでした。
ジーコサッカーを見るたびに欲求不満を募らせていたKAIにとって、オシムサッカーは彼の風貌に似合わずまるで清涼剤のような清々しさにあふれていました。しかし、目の前のサッカーは、紛れもなく岡田サッカー。致し方ありません。
いたるところで簡単にパスを奪われる。先制点に至っては1対4を簡単に突破されて決められてしまった。岡田サッカー本領発揮!って違うって^^;。しかしよく引き分けに持ち込めた。完全に負け試合だったし、これじゃ世杯出場がまた厳しくなってしまったよ。トホホ。
週末テニスもパッとしない。パッとしないけど、気がよく見えるから、たとえ負けても気持ちがいい。
結果は、土曜が6-0、0-6、2-6、3-3の1勝2敗1分、日曜、6-0、1-6、4-6、6-2で2勝2敗。見ての通りこのところ勝っても負けてもラブゲームや1ゲームが多い。理由は簡単、負ける方が軟気になるからです。
岡田ジャパンも、そ。守備をかためるのもいいけれど、点を入れなきゃ試合は勝てません。それが守備からカウンターアタックで点を取ると言うのは、アタック前提の守備があるからであって、その守備が攻撃に繋がるまえにカットされたり突破されれば負けるのは当たり前です。彼はもちろん横浜F・マリノスでJ1優勝を勝ち取っていますが、もともとこのチームはディフェンスのチーム。最初から相性がよくて壺にはまっただけとは言い過ぎ。
いずれにせよ、攻撃あっての守備、硬気あっての軟気であるわけです。これがオシムサッカーは攻撃と守備が掛け算になるのに対して、岡田サッカーは足し算で終わるから、そこで先に得点を許してしまえば岡田ジャパンに勝ち目はない。
翌朝すばらしい朗報が飛び込んできた。デルレービーチ国際選手権で弱冠18歳の錦織(にしこり)圭のツアー優勝です。決勝、ジェームズ・ブレーク(28歳、米国)相手に3-6、6-1、6-4と逆転での優勝。
この試合も第2セットを6-1で取ったのが大きい。相手は第1セットをとって一気に軟気になった。そこを彼が硬気で攻めた。第1セットも恐らく相手サーブからのスタートで1ブレイクだけと言う僅差で落としたはず。十分硬気を維持していた。実際にこう答えている。
「第2セットから自信が戻ってきた。最終セットで優勝を意識した」
(王子様錦織が世界をつかんだ/テニス)
シングルスの場合、ダブルスと違って一人のプレイヤーの中に硬気と軟気が内在します。これをオシムサッカー同様、掛け算しないと試合に勝てません。これが第2セットにおける相手の軟気を上回って一気にファイナルセットを制しての勝利です。
これが彼に見えているとすれば、彼はこれで一気に花を開いて、必ず四大大会まで登り詰めることは間違いありません。ふっふ楽しみがまた一つ増えました。 KAI
フォーサイト誌3月号、シリコンバレーからの手紙が、また面白い。
このコラムの筆者である梅田望夫とRubyの開発者松本行弘が対談した話です。松本が、Rubyを始めとしたオープンソースプロジェクトが成立する本質を言い当てて、これに梅田が目から何枚も鱗を落としながら、こう書きます。
なるほどリーダー(引用者注:松本行弘)はそうなのかもしれない。リーダーは達成目標を持ち、その実現に向けての強い意志を有するからだ。
「でもその周囲に集まってきて、プロジェクトに貢献する人々の動機はいったい何か」
私はまつもとに問うた。まつもとからは、私が一度も考えたことのない答えが返ってきた。
「ほとんどの人は、適切な大きさと複雑さを持ったいい問題を探しているんですよ」
(中略)
「新聞にクロスワードパズルが載っているでしょう。あれですよ。見つけると解きたくなる人がいる」
(新潮社、フォーサイト、シリコンバレーからの手紙、梅田望夫、2008/2/16、p.50)
それは次々とアプリケーションのユーザーから提示される『適切な大きさと複雑さを持ったいい問題』を解くことに私たちが没頭しているうちに今に至るからであり、既存の問題の解がそのまま『適切な大きさと複雑さを持ったいい問題』へと自己組織化するからです。
この再帰性を持った機能の追加を行わない限り、アプリケーションは必ず肥大化します。
開発当初は、この仕掛けをパッケージ開発の中で実現しようとしましたが、はっきりいってまったくうまくいきませんでした。私たちのこの「思い」は空回りするばかりで、「半製品」とまで揶揄されたこともありました。
この状況が、ブラウザのみで利用できる製品を開発して、ASPサービスに切り替えた瞬間から、一気に好転します。
今では次々と舞い込むユーザーが提示する問題と、その解決と言う好循環が成立し、この中で次々と起こる外的環境の変化に、まるで生き物の免疫機構のように、自らの組織の中にその変化を取り込む仕掛け仕組みを自然に組み込むことが可能になっているのです。
KAIが30年以上前に、ソフトウェア開発の世界で夢想したことが、今やっと実現しつつあります。 KAI
いまなぜ、将門の首塚なのかしらないけれど、この記事にはなにか感じるものがあった。
将門を祀った神社は江戸を守るために遷座したが、塚までは、さすがに動かすことはできない。幸いなことに、江戸時代、あたりに屋敷地を与えられた大名はみな、塚を築山と見立てて大切に保存した。だからこそ泰平の世が長く続いたのか、はたまた泰平の世だから塚を大切にできたのか、それは受け取り方しだいだろう。
関東大震災後、塚は崩され、発掘までなされた。その後の日本は大東亜戦争へと突き進み、壊滅的な敗戦を迎える。「畏れ」を失った人間と国家にどんな運命が待ち受けているか、将門は無言でわれわれに教えてくれているような気がしてならない。 (桑原聡)
(産経新聞、聖地巡礼将門首塚(下)、畏敬の念持つ大切さ、2008/2/14、p.19)
幸之助の起業と同時並行的に起こった関東大震災から、その後の大戦へ至る話をしていたせいかもしれませんが、しかし考えてみれば、今の世の中、一番欠けているのがこの「畏れ」の気持ちです。そして、この畏れの欠如とそれによりもたらされる祟りこそ、現代社会の伏流を支配する根本原理である気がします。
9.11と言う祟りも、米国と言うグローバリズム主導社会の中枢にある、異文化、異教への畏れの欠如であり、ロシアのチェルノブイリ事故も、自然への畏れを失った現代科学がもたらした祟りそのものです。
どちらもいまだ終結することはなく、例えば後者の石棺といわれる密閉したはずの原子炉から、多量の放射性物質が拡散しており、当然のようにロシア政府はこれを隠蔽し続けています。
さらに偶有性国家「中国」による世界中に拡がる毒物汚染、環境汚染は、人民に対する畏れを持たない中国共産党と言う独裁者が、人類にもたらした祟りそのものと言えます。
国内問題もしかり。年金問題や後を絶たない偽装問題、これらも役所を中心とした「既得権者」による国民、消費者に対する畏れの欠如がもたらす祟りそのものです。
なるほどこれらすべてが、資本主義、共産主義にかかわらず現代社会と言うものが、自然や人類祖先といった、到底人の力の及ぶことが不可能であるものへの無条件の「畏怖」を忘れ去ってしまった、いえ、積極的に排除してきた帰結であるとしか考えることができません。
しかしチェルノブイリ事故でも分かるとおり、「祟り」によりもたらされる厄災は甚大にして取り返しのつかないものばかりです。
そのために人は、昔から「畏れ」を社に祀ることで形にして、人々が「畏れ」を忘れることのないように智恵を働かせてきたのです。にもかかわらず、「社」は、すでに当の昔に家の中からは消え、地域社会ばかりか、靖国に代表されるように国家からもさえ排除されようとしているのです。
今一度、現代社会が「畏れ」と言う人類存続の根本原理を取り戻すために、より大きな智恵を働かせる必要があると言うことです。これはKAIにとっても、最も重要なテーマであります。 KAI
今週の火曜日は新聞休刊日につき、前日の建国記念日の掲載。
東京オリンピック開催を目前に控えた1964年(昭和39年)の7月、「熱海会談」は行われます。参加した代理店170社の大半が赤字経営に陥る中で、幸之助は販売店の社長たちと激しく議論を闘わします。
先ほどまで怒号と罵声が飛び交っていた会場はしんと静まり返り、やがてそこかしこから低い嗚咽の声が聞こえはじめた。彼の真心が、湖面に立ったさざなみのように静かに出席者の心へと伝わり、あれほど激しく対立していた気持ちが一つになった。
不思議なことに代理店側も、今となってはその静謐(せいひつ)な心癒される場所に連れていってくれた松下幸之助という稀有な経営者に、ただ感謝の心だけが残っていた。
(産経新聞、同行二人(どうぎょうににん)第23回、北康利、2008/2/11、p.19)
こうした危機を乗り越えるたびに、代理店・販売店をすべて含んだ松下ファミリーとも呼ぶべき松下全体の結束が、より強固なものになっていくのでした。
会社組織にとって、その発足直後から組織を揺るがす危機が、幾度となく訪れるものです。組織と言うものは、この危機を乗り越えることによって、より強靱な組織へと鍛え上げられていきます。逆に言えば、より強い組織は、この危機との格闘でしか創りあげることができないと言えます。
そして組織とは、人です。
人、一人一人がこの組織の危機に直面して、状況を把握し、決断し、行動する。この中で一人一人が鍛えられ、より強靱な精神力と、より普遍的な営業力、技術力を身につけていくことができるのです。
ともすれば誰も歩いたことのない道を歩む時は、誰しも挫けそうになります。組織は、それを助けます。一人では諦めてしまうことも、組織と言うチームワークの力が、挫けかけた一人一人に、大きな力を与えます。
今、このチームワークの力に勇気を得て、KAIもまた一歩歩み始めます。 KAI
玄米に関して、ネットでいろいろ調べてみたら、多くの人が玄米は研がなくてもいいと書いている。
いままで一生懸命研いでいたので、今朝は試しに研がないで炊いてみた。
マズイ。全然美味しくない。なんだか麦ごはんみたいな味がして、モミ殻の芯が残ったようなつるつるした舌ざわりがとても気持ち悪い。
玄米は、絶対に丁寧に研ぐべし。 KAI
先日から、田舎の母親に言ってお米を玄米のまま送ってもらうことにした。
朝、この送ってもらった玄米を何も考えずに炊飯器にセットして炊き始めたはいいけれど、散歩から帰ってきてもまだ炊き終わらない。スイッチを押してから1時間半、ようやく保温に切り替わる。朝4時半から炊き始めたからよかったけれど、完全に遅刻するところだった。
食してみる。まあまあだけど、少しぱさぱさする。
翌日炊飯器のメニューに玄米モードがあることに気付く。セットして炊いてみた。なんと今度は炊きあがるまでに、2時間。
しかしお味は格段に美味い。
しばらくこれでいくしかない。なにせ母親に送ってもらったのが冷蔵庫に入りきらないくらいあるんだもの。(ちなみにお米は冷蔵庫で保管するに限ります。夏場は特に穀象虫もなにもかも一発で退治できます)
そしてある日寝坊した。1時前までハイタイドにいたんだから仕方がない。少し残してあった白米を炊いてその場は凌いだけれど、これはなんとかならないものか。寿司勇の大将に話したら、前の晩から水に浸しておいてタイマーにしておけばいいんですよ、と教わる。
タイマーなんて高度なワザは、使ったことがない。ビデオデッキも再生専用で録画はおろか録画予約なんてことはおよそ考えたこともない。しかしここは背に腹はかえられない。
この三連休でこれにチャレンジすることにした。失敗しても時間はたっぷりある。炊飯器のご飯粒で汚れまくってよく見えないメニューパネルをこすりながら格闘すること10分間。ようやく朝の3時のセットに成功。
翌朝3時半起床。新聞、パソコン、一通りチェックしたあと、何気なく炊飯器に目をやると、あれ?いつの間にか保温になっている。そうか水に浸してあったから短い時間で炊けるんだ。なんかヘンだけど、これまたうまく炊けているからと納得する。
そして昨晩、もう少し遅く炊き始めてもいいかと思って4時半にセット。今朝起きて、やっと気がついた。この4時半って炊きあがる時間だったんだ。なんと、炊飯器の予約時間とはスタート時間ではなく、炊飯完了時間だったことに生まれて初めて気がついた。
当たり前と言えば当たり前のことだけど、いままでタイマーとはすべてスタートの時間と言う思いこみがあったから、これは少々新鮮な驚きです。
斯くして、これでKAIの玄米ごはん生活も無事始められます。 KAI
まことにお天道様の配剤は、心憎いばかりです。
土曜テニスの後半にちらつきだした雪が、夜半に本格的に降って、日曜テニスのコートは午前中凍結して使えない。しかしこちらは12時からだから、溶けた雪と氷で洗浄されたピカピカのコートで、極楽テニス。
空気も冷たく、澄んでいるせいか、ボールがよく見える。結局、ボール相手のスポーツは「目」。つくづくこれを感じる。
昔学生時代、草野球のチームに所属していた。面白いようにホームランを量産して、毎週ホームラン賞のコーヒー券がたまりにたまって、半年間喫茶店のコーヒー代を払わずにすみました。
それから30年、老眼鏡のお世話になるようになって、立場は選手から監督に。
しかし、以来ノックだけでなく代打で出ても、ボールが芯に当たらなくなってしまった。ボールの縫い目どころか、ボール自体がよく見えない。見えないからボールが思ったように当たらない。
これは致命的です。これがわかって、草野球から引退を決める。ホント。
しかし、テニスは別。丸いバットと違って、テニスラケットはフラットで、しかも20数センチもの幅があります。多少の誤差と言う範疇であります。
それでも、「目」はきわめて重要です。最後までボールから目を離さない。調子がおかしいなと思ったら、すぐこれで調整しなおす。覿面に戻ります。
そんななかで、結果は6-4、7-6、1-2の、2勝1敗。
ボールが見えると言うことはすなわち、ミスをしないと言うことです。
ほとんど同じ相手と、毎週毎週、十年以上もの長きに渡って、ゲームを繰り返して、一体何が面白いのかと訝しがるかと思いますが、であるからこそ、技術を超越した、ある意味「かけひき」がゲームの勝敗を決します。
リターンのポーチを警戒しすぎてサイドアウトする、ポーチに出た後ろを華麗にパッシング。みなかけひきです。ここでミスをしたほうがゲームを落とすことになるのは火を見るより明らかです。
今日の2戦目も、これ。5-0まで一方的に相手のミス。6ゲーム目、相手方のサーブ。デュースを10回近く繰り返すうちに相手のミスが減って、こちらのミスが目立ち始める。結局これをキープされて、流れは一気に相手方に。あれよあれよと言う間に5-6となって、相手のサービス。これをキープされれば万事休す。
しかしここからが、いつもと違う。
気を理解すれば、いま何をなすべきかが瞬時にわかる。うまく仕掛けて相手のミスを誘うことに成功。6-6のタイブレークに持ち込んで、これでやっとペースを取り戻す。7-3と硬気にタイブレークを制しての貴重な勝利。いやいいゲームだった。丸1時間のゲームは期せずして死闘となった。
このあとのアンジェロの生ビール、ハイタイドのマティーニのなんと美味いことか。
いよいよ明日が連休最後の日。これまた朝一番からオフィスに出て、レポートを書き上げなければ。このところこれも天の配剤か。重要なレポートを作成しなければいけないときは、決まって三連休が来る。
ちなみに土曜テニスは、2-6、5-7、6-1と平凡な結果に終わる。 KAI
今朝のNHKの番組「課外授業」は宇宙物理学者の池内了(いけうちさとる)が先生。
この番組は小学校の卒業生である先輩が課外授業と称して、後輩の小学生相手に、先輩の得意分野を教材に授業を行うと言うもので、毎週土曜テニスに向かう車の中で視るのが楽しみな番組であるわけです。
池内了は大学の先生だから、先輩といっても、教師ですから、端から教えるのが仕事。
たちまち子どもたちの心をつかんでしまいます。そして車を運転中のKAIも。
いや、泡宇宙論、見事です。(宇宙はどこまでわかっているか)
ブラックホールが量子現象の裏返しそのものであることを考えると、宇宙全体の姿が泡構造であると言うのは、まったく納得のいく話です。
同書によれば、クェーサーの実体とは巨大質量のブラックホールと言うことですが、そもそもひも理論によれば、ブラックホールとは、ひものトポロジー空間を裏返しにした空間であって、ちょうど風船の内と外を逆転したような世界です。
これを理解するのに良い例があります。むかし夜店の風船売りのおじさんが、ふくらました風船の口を、中に押し込んでひっくり返してあれよあれよと言う間に、りんごができあがり、と言うのを見たことがあります。あれです。
ブラックホールと言う裏返した風船は、実際にはりんごではなく、りんごの皮^^;を見ている状態になります。物理理論も何もかも裏返しになって結局同じことをあらわすことになるのが、トポロジーのすごさです。トポロジーでは、大きさも関係ありません。トポロジーとは形の性質を問題にして形の大きさは関係ないと言うことです。ですから簡単に宇宙の大きさとプランクの大きさが同じレベルで議論できるわけです。
(クェーサーの謎)
そもそも、宇宙とは何か。
それは、人間と言う生命体にとって、生命を維持する羊水そのものであります。つまり、人間と言う生命の存在抜きにしては、宇宙を理解することはできません。
わかりにくいものいいで申し訳ない(@ウチダ先生)。
もう少し分かりやすく言えば、例えば地球とは何か、これを記述する言語を、もしわれわれが持ち合わせているとすれば、それは、「ボール」としか表現できないことと同じです。
泡にしろ紐にしろプレーンにしろ、実はみな、これは「しわ」なわけです。「しわ」とは、ベッドのシーツのしわと一緒で、人間が「しわ」として知覚できる何かです。
ですから宇宙とは何か、それは巨大な泡の表面の形をした「しわ」と言うわけです。
先の引用の例で言えば、夜店の風船を裏返すと、りんごではなく泡状のブドウの房が出来上がるのです。
量子現象とこの泡宇宙との間を渡す「橋」を架ければ、これはもう算数レベルで物理が理解できるはずです。100年後の小学校の「課外授業」が楽しみです。 KAI
松下電器の歴史は、まさに日本の家電の歴史舞台そのものです。
その舞台にやっと東京通信工業(現ソニー)が登場します。
以前ここにラジオ放送の始まりに触れました(松下幸之助の言葉(17))。この1925年3月22日の放送開始から遅れること30年、1955年8月、東京通信工業はトランジスタラジオの開発に成功します。
今までの真空管に変わるトランジスタは、この7年前、1948年ベル研で発明されます。これを当時誰も考えなかったラジオに応用したのが、東京通信工業だったのです。
そしてこの歴史舞台に新たに登場するのが、今も続く「家電の王様」、テレビです。
1939年7月13日の実験放送に始まる日本のテレビ放送は、1953年2月1日本放送を開始します。この放送を受信できるテレビ受像機を、松下は実験放送当初から開発に成功していたのです。本放送開始とともに、一気に日本中にテレビがいきわたり始めます。そして本放送開始後5年、1958年テレビ受信契約数は100万世帯を超えます。
一気に日本と言うスポンジが、家電と言う水を吸収するかのような勢いで、松下は急激に成長を遂げていくのでした。
このころ幸之助は、「松下電器は一体どこまで伸びていくんですかね?」と、あまりの成長ぶりになかばあきれ顔で質問されることがしばしばあったが、彼は「それは私や会社が決定するべきことではなく、社会に決めていただくことだと思います」と答えるのを常としていた。彼は「一般大衆」という顔の見えない人々を意識し、それを尊重し、敬意を払い続けた。
自分の行っている経営判断は、この目に見えない一般大衆を相手に、いわば「声なき約束」「見えざる契約」をしているのに等しいのだと周囲に語り、この「見えざる契約」を果たしえた集団こそがあ時代を先取りでき、「見えざる政治」によっておのずと社会に対して指導力を行使していけるのだと説いた。
これが有名な、松下幸之助の「魁のリーダーシップ論」である。
(産経新聞、同行二人(どうぎょうににん)第22回、北康利、2008/2/5、p.21)
現在のインターネットの、ユーザーに聞くしかない世界を、すでに彼は半世紀前にわかっていたのでした。
以降1960年、池田首相の所得倍増計画実現と機を同じくして、幸之助は社長の座を娘婿の正治に譲ります。
1964年には、景気後退のあおりの中で有名な「熱海会議」を開催し、販売の引き締めをはかるのでした。
こうして歴史を俯瞰すると、企業と言うものは、つくづく運に左右されていることがわかる。
だから、今はこの運の力にかけるしかない。そう言うことであります。 KAI
雪でテニスが出来なかったのは、記録を調べてみると、2年前の1月21日(土)の1回切り。
しかしいつも通り11時過ぎにテニスウェアに着替えて家を出る。テニスコートに着くとコートは一面真っ白。駐車場も1台もとまっていないから、轍のない雪の中を進む。キモチイイ。
車を置いて、そのまま砧公園にむかう。
さすがに、人影はまばらで、雪の中をイヌと一緒に散歩する人、小山でソリ遊びに興じる親子くらいなもの。その中をジョギング。解けた雪の水たまりを走るから、靴の中がびしょびしょになる。かまわず走る内に外界の風景が降りしきる雪の中に消えていく。
しばらく何も考えないまま走り続けたら、いつの間にか1周して元の入り口に戻っていた。不思議な時間だった。
そのまま車に戻って、濡れたウェアのままアンジェロへ。
雪だというのにひっきりなしに客が入ってくる。雪を見ながら飲む生ビールが、これまた美味い。
そう言えば昨日のテニスも、面白いように気が見えてきた。
コーチのネモトくんが入っての、6-2、7-6、0-6の2勝1敗と善戦。この2試合目の7-6、ネモトくん相手にタイブレークを取れたのも気のせい(って意味が違うけどね)。
そして最後のラブゲーム。このところラブゲームが増えてきたけれど、これも気のせい。軟気同士では勝てないことが分かっているので、こちらが硬気になるしかない。たちまち一人相撲になってミスを連発する。かくして1ゲームも取れないでお仕舞い。
本来は、勝ちをねらうんだったら、相棒を硬気にさせるしかない。こちらが軟気で硬気に合わせるだけでいい。しかしこれが逆だと、気を理解しない軟気と、こちらの硬気の間が合わさることはなく、間合いが開くばかりとなってまるでゲームにならない。
とすれば方法はひとつ。こちらが相手以上に軟気になって相棒を硬気に変えていく術を、いかに獲得していくかにつきると言うこと。
ふっふ。来週やってみよう。 KAI
今日は毒入りギョーザの話ではありません。
今朝のNHKのニュースをみていたら、今屋久島が大変なことになっている。
屋久島の自然環境全体が、偏西風に乗った中国大陸からの高濃度の酸性雨に汚染されている実態が、千葉大学の教授の調査で明らかになったとのこと。
調査したその日の偏西風がどこを通ってきたものか、詳細にわかっていて丁度北京上空を経由してきたものに間違いありません。と言うことは屋久島だけではなく南九州一帯の自然も同様って事です。
困ったもんだ。
毒入りギョーザは一過性の事件ですむけれど、こちらは国際的な公害問題。対策しない限り解決することはあり得ません。
これを解決する方法は一つ。中国政府に直接外交的に交渉するより何より、世界遺産である屋久島の自然を守れ、の一大キャンペーンを仕掛けるしかありません。
といっても言い出しっぺが何をされるかわからないのも負の「偶有性」^^;。
NHK以外のメディアも静かだし・・・ KAI