怒涛の年末。まるで滝つぼ一直線のような週末28日の仕事を終えて、今年最後の週末テニス。このところ完全に自分のペースを見失っているのは間違いない。いつもの繰り返しやっていることが、なぜかすべて違和感を感じる。
そんな思いの中で、結果は土曜、2-6、6-2、4-3、日曜が2-6、7-6、6-1、2-2と気分はまさにカオス状態。二日間面子はいつものY木夫妻、O谷さん。
それにしても1年間楽しませていただきました。前も書きましたが、これがなければとても持たない1年でした。
特にリキが亡くなったのが大きかった。一気に気力と運気が去ってしまった。
しかしそんななかでの週末テニスに救われました。
来年もよろしくお願いします。 KAI
室戸台風の直撃で壊滅的被害にあった翌年、1935年11月「正価」販売(定価ではなく正当な価格と言う意味の「正価」)を徹底するために、戦後の「ナショナル・ショップ制度」のもととなる「連盟店制度」をスタートさせます。
同年12月、社名を「松下電器産業株式会社」と改め、会社を株式会社組織に変えます。
株式会社組織にすると同時に社内向け基本内規を制定したが、特筆すべきはその一五条であった。<松下電器が将来如何に大をなすとも常に一商人なりとの観念を忘れず、従業員またその店員たることを自覚して、質実謙譲を旨として業務に処すること>。まるで現在の松下電器に対する遺言のようにさえ思える一条である。「常に一商人なりとの観念を忘れず」という言葉に込められた思いは深く、かつ重い。
(産経新聞、同行二人(どうぎょうににん)第17回、北康利、2007/12/25、p.12)
「一商人」たれとは、会社で働くことの意味をものの見事に言い当てています。「社員」などと言う、一人一人が会社の構成員であることしか表さない言葉ではなく、「一商人」すなわち「商(あきない)」する人たれと言うのです。どんな技術者であろうが事務職であろうが関係なく、会社で働くとはすなわちみな商いである。商いとはつまり、まずいの一番にお客様があってそのお客様相手に商品なりサービスを提供し、そしてその対価を頂くことにつきるのです。
これを会社で働く一人一人すべての者が徹頭徹尾自覚することを、幸之助は求めているのです。
この2年後、1937年7月7日、盧溝橋事件が勃発し日中戦争が始まります。この戦時体制の下、松下電器は民需、軍需を支えていく中、従業員の中から何人も次々と徴兵され戦地へ送られていきます。そして還らぬ人となった従業員の為に、幸之助は1938年高野山に物故従業員供養塔を建て、慰霊法要を行います。
幸之助は、物故者の名前を一人ずつ読み上げ、最後に彼らに語りかけるようにして話し始めた。「松下が今日あるは、あなたがたの尽力によるものだ。しかるに、この松下電器の繁栄を見てもらえないとは・・・残念だ・・・」
人一倍社員を大切にしてきただけに、激しい感情が湧き上ってきて彼を押し流した。(そらまた大将泣きはるぞ)社員たちもおおかた予想はしていたが、果たして挨拶の途中ですすりあげ、絶句し、しまいには号泣し始めた。
一方で幸之助は、自分ひとりとなった松下家の再興を考えてか長女幸子に養子を迎えます。平田正治です。正治の祖父が明治の実力政治家平田東助であり、その嫡男が日本画家の平田栄二伯爵、その栄二伯爵の次男が正治です。
二人は1940年結婚式をあげ、以来幸之助は正治を後継者として厳しく鍛えます。病気がちの幸之助はなによりも正治にはやく後を継いでもらいたいと願ってのことでした。しかし正治は派遣された上海で運悪く結核にかかってしまいます。二年間の療養で完治はしますが、幸之助にとって引退どころではなくなりました。
まことに運命とは、人の意に沿わないでいて、人の思いの隙を突いてきます。これをのりこえてこそ、人はまた一つ強く生きることができるようになるのだと信じています。 KAI
忙しくて書きかけのエントリーがたまりにたまっていたのが、やっと追いついてきた。
と言うことで、なんともう冬至ですよの週末テニス。三連休だから随分気が楽。
土曜テニス。午後から雨と言う天気予報に、天気が持つか心配したけれど、時折小雨がぱらつく程度で支障なし。
相変わらず年末進行中のO谷さんに替わって、今週はI坂くん。I坂くんは大学の硬式庭球部以来のテニス仲間。そのせいもあってかまことに心地よいテニスができる。結果も、6-1、6-3、5-7の最後に3連勝を逃したものの2勝1敗と好調。
テニスの後はお約束のアンジェロの生ビール。快楽快楽。
自宅に戻って洗濯してハイタイドに出かける頃には、雨が本格的に降り出した。
この雨、翌朝までしっかり降って昼前にやっと上がる。12時スタートの頃には快心の青空。なんとも気の利いた心憎いばかりのお天道様の配剤に、感謝感服。
しかし結果は、6-1、3-6、3-6の1勝2敗と今ひとつ。そのまま帰ろうとしたら、このあとのえっちゃんテニスの面子が足りないと言う。いつもは翌月曜の仕事を理由にそのまま帰るところですが、明日は三連休でお休み。そのうえいつもえっちゃんに無理言ってこちらのテニスに参加してもらっているから、断る理由がありません。
とはいえ朝5時にご飯食ったきりでお腹がぺこぺこ。とりあえずアンジェロでお腹を満たしてから戻ってきてテニス再開。お久しぶりのC恵ちゃんもいて、快楽テニス。こう言う気の置けない方々とのテニスは、癒し効果満点。
テニスが終わってサウナに入る。なんと80キロ台前半まで減量に成功。もちろんこのところ気苦労も多いからね。そして家に帰って洗濯が終わったのが夜8時。明日が休みでなければできない贅沢です。このあとハイタイドのカウンターで寝込んでしまって、気がつけば午前零時をとっくにまわっている。周りはカップルばかりの、そう言えばクリスマスイブ。一人モンはこれにて退散。 KAI
本日は、顧問をしている会社の社員研修会で、1時間半の講演。
集まった七十名余りの社員の人たちを相手に「ASPサービスのすべて」を語る。といってもそんな堅苦しい話ではなく、KAIのASPサービスにかける「思い」をざっくばらんにお話しする。
まず「コンピュータの歴史としてのASPサービス」。
コンピュータの歴史には、コンピュータの進化をささえるもっとも重要な4つの出来事があります。最初は、もちろん1946年のコンピュータの誕生です。あれから61年、還暦です。たった61年でこれだけの進化を遂げたのですから、ある意味これは凄いことであります。
その次の出来事がパソコンの誕生です。1975年、丁度61年の半分32年前の出来事です。3番目の出来事がLANの誕生です。これによって今まで単体で動いていたパソコン同士が互いに接続されます。そして4番目が、インターネットの誕生。このインターネットによってすべてのLANが結ばれ、世界中のすべてのパソコン同士が繋がるようになったことです。
この4つの出来事のどれ一つを欠いても、ASPサービスの誕生はあり得ません。それはASPサービスと言うものが、パソコン同士が常時接続されている環境における究極のアプリケーションの形態以外の何者でもないからです。
次に「ビジネスモデルとしてのASPサービス」について。
このテーマはすでにここに何度も書いてきたお話しの繰り返し。要はこれからのソフトウェアビジネスは、「人月単価モデル」を脱却して「機能単価モデル」にしかないことを得々と申し上げる。
最後に「ソフトウェアとしてのASPサービス」。
ASPサービスでサービスするアプリケーションは、「成長するアプリケーション」です。
ソフトウェアの技術者にとって、この「成長するアプリケーション」を設計し開発することは、従来のアプリケーションを開発しこれを改造することとは本質的に異なる概念であることを、理解する必要があります。その具体的な手法をご説明する。
このあたりで眠くなってきた人たちがいたので、最後に、みなさんは例えばグーグルで検索をかけるときソフトウェアを「使って」いると思っているかもしれませんが、当のグーグルからしてみれば検索ワードをみなさんを使って世界中から集めているんです。みなさんは実はグーグルに「使われて」いるんです。未来のアプリケーションは、こう言う具合に人に使われ、人が使われる、そう言う関係の社会なんですよ、と言うような話をして締め括る。
ここに「思い」を書き綴るのもいいけれど、たまに生身の人相手に話をするのもいいもんだ。おかげでずいぶんスッキリした。 KAI
門真に本社を移した1933年、幸之助は日本で初めてとなる事業部制を導入します。1931年の880余名から2年で1600人と急拡大を続ける中での幸之助の経営判断です。
従業員数は約千六百人に達していた。さしもの幸之助も全従業員の把握は困難である。「経営者の感情の及ぶ、ほどほどの大きさの企業体」を理想としていた彼は、経営理念を文書にして「思い」を徹底する一方、事業部長を通じて従業員を把握することにしたのである。独立採算制が採られ、研究開発から製造、販売、宣伝にいたるまで、すべて事業部ごとに行うこととなった。
(産経新聞、同行二人(どうぎょうににん)第16回、北康利、2007/12/18、p.24)
しかし幸之助は事業部長にすべてを任せるわけではなかった。最終決断は自分にあるとし、「経理社員制度」と呼ぶ「横串」の制度を導入して、「縦串」である事業部の中に、事業部長の施策立案に拒否権を持つ幸之助直轄の経理社員を送り込んで、情報収集を図ります。
そして幸之助はこの経理社員を使って、こんなことまでやってしまいます。
側近にだけ漏らした彼の本音が、今になって少しずつ明らかになりつつある。例えば元松下電送会長の木野親之が幸之助から聞いたところでは、社長決裁を下ろした案件のうち、六割ほどは何かしら気に入らないところがあったという。しかし、全重役が判を押してきたわけだから、彼らの顔を立ててやる必要がある。
凄いのは、幸之助が木野に向かってそっと漏らした次の言葉だ。
「社長決裁に上がってくるような案件は、おしなべて決済から実行までに日数がある。その間に、うまく自分の思い通りになるよう持っていく。それが社長の仕事や。これができなければ経営者やないやないか」。きれいごとだけでは語れない経営の神髄がここにある。
いくら組織がでかくなろうとも、経営判断をした責任はすべて自分にある。そう思えばなおさらすべての判断に疑念を残さないようにもっていく。至極当然と言えば当然のことであります。
翌1934年9月21日、室戸台風が大阪を直撃します。本社一部損壊、乾電池工場全壊、配線器具工場全壊と壊滅的被害を受けます。肩を落とす配線器具工場の工場長後藤清一に向かって、幸之助が言います。
「後藤君なあ、こけたら立たなあかんねん」
時を超えて、幸之助が今のKAIを励ましてくれたのでした。 KAI
クラブ選手権をリアルタイムに観戦しながら、現代とはまことに贅沢な時代であると思う。
今現在、最高のプレイをタダで観ることができるのです。まるでスピードが違う。正確なボールコントロールで、ミスがない。
KAIがテニスに興味を持ったのは高校生のときです。硬式ボールで中京大出の体育の先生相手にストロークを挑んでまるで横綱が小学生を抱き上げるかのような無残な結果になったことはこれ以上書くまでもありませんが、これがKAIのなにくそ魂に火をつけました。
以来40年たって、一番役に立ったのは、トッププレイヤーのプレイを観ることに尽きます。
トッププレイヤーのプレイには、えもいえぬ流れるような美しさがある。
これを自分のマナコで見る。
この歳になってもこれは変わりません。バランスを崩したりリズムを取れなくなったときは、とにもかくにもトッププレイヤーの映像を見て流れるようなプレイをイメージすると覿面です。
これはテニスに限ったことではないような状況で、いつもの週末テニス。
土曜、O谷さんが年末進行につきピンチヒッターのネモトくん。
結果は6-0、4-6、3-6、1-5の1勝3敗の完敗。3敗はすべてコーチのネモトくん相手。4ゲーム、3ゲーム、1ゲームと順番に取れるゲーム数が少なくなっていくのは、ネモトくんの本気度のせいです。まあ彼を本気にさせたことだけでも満足としよう(負け惜しみだけどね)。
日曜。天気はいいけれど風が強い中で、6-4、7-6、1-3と2勝1敗。この第2試合のタイブレークを取ったのが大きかった。
今日はほんとはテニスどころじゃなかった。
朝から、仕事が休みの娘がお腹が痛いと言っていて、テニスに出かける頃になって訊くと我慢できないと言う。いまから病院に連れて行くにも救急病院を探している暇はない。119番に電話して6分後に救急車が来る。娘が救急車の中に入って、救急隊員がお父さんもどうぞと言う。いやちょっと用がありまして終われば駆けつけますといって断る。
これをきいた実の妹からは人非人とののしられ、心配した姉夫婦が搬送先の昭和医大に駆けつけてくれたから助かったけど、テニス仲間には心配かけてしまいました。
テニスが終わって、楽しみのアンジェロの生ビールをぐっと我慢して病院へ駆けつけたら、娘が姉夫婦に付き添われてけろっとして病院から出てきた。娘と一緒に姉夫婦を、ついこのあいだ結婚式をあげたともちゃんちまで送る。娘がお腹がすいたと言うのでお寿司を二人分買って自宅に戻る。お父さんもお腹すいたよと一緒にぺろっと平らげる。
期せずして、なんだか娘とはずいぶん久しぶりの、水入らずの休みになった。 KAI
ソフトウェアの付加価値が、そのコード量の閾値と直結していることは、今までここに何度も書いてきた。
にもかかわらずここ何年か、コードをちょこちょこっと1週間くらい書けば、新サービスをリリースできるかのような風潮があって、新米エンジニアがこれをまともに信じてしまうのではないかと苦々しく思ってきたが、少し風向きが変わってきたかも。
ニコニコ動画の開発においてその開発者の戀塚氏がメディアで、2、3日で書き上げたなどと言うもんだから、まるでメディアは勘違いしてしまって、アイデアこそ新サービスの付加価値でソフトウェアは簡単にできるもんだと信じ込んでしまった。
しかしCNETの永井美智子記者はエライ。
「ニコニコ動画に学ぶ、人気サービス開発の極意」を読むと、新サービスの裏側の技術的背景が詳細にレポートされていて、このサービスが決してアイデアだけでできたものではないことを序実に活写しています。
これもシンクロニシティ。
エンジニアが思いついたアイデアを形にして発表し、それがたまたまヒットする――という流れで大きくなったネットサービスは多い。「はてなダイアリー」もその1つ。だが、特にテキストサービスでは、「個人が一発アイデア勝負できる時代」は終わりつつあるという。
「休みの日に思いついたものを1日で開発し、リリースしたら流行する、という流れは枯れていく感じがする。iPhoneやWii――これはハードだが――のように、組織立ってきちんとモノづくりをしてきた会社が作ったものが評価される時代。他よりも明らかにいいものをきちんと作り、共感を得ていく、というのが必要になってくると思う」
はてはな昨年から今年にかけ、既存サービスをブラッシュアップしてきた。はてなダイアリーもユーザーインタフェースを改善。ネット初心者に使ってもらい、問題点を洗い出すテストも初めて行った。「全然使い方が分からないと言われてショックを受けたし、恥ずかしかった」
個人の力でサービスを作り、未完成の状態で公開。ネットの先進ユーザーと共同で形作っていく――はてなが先導してきた「Web2.0的」なものを、はてな自身が否定し始めている。より組織だった体制で、初心者にも使いやすい、質の高い物づくりを志向。サービスの将来を見すえながら、地味でも少しずつ改善していく。まるで「普通のメーカー」のように。
(お題に沿って一言どうぞ――“はてな俳句”はTwitter風 (2/2))
そう言うことです。地道にコードを積み上げていくこと、その積み上げることのできる仕掛けを開発すること、その仕掛けの上でコードを書き続けること。
これ以外には、エクセレントなアプリケーションを開発する方法はありません。
ソフトウェアとは文化です。
文化とは、その積み重ね以外の何者でもありません。
この文化としてのアプリケーションこそ、真の人を幸せにするソフトウェアなのです。 KAI
私たちの会社を創業して、今日で18年がたった。
創業当時から数年間、この12月12日を創業記念日として休日にしていたけれど、創業メンバーが全員去るとともにこれはなくなった。
以来この日は、バーのカウンターで一人でお祝いすることに決めている。
今日は何年ぶりと言うか久しぶりに、となりに人がいて、一緒にお祝いすることができた。
18年よくここまでもったもんだと、思う。
一番の危機は、創業メンバー全員を新しいメンバーに入れ替えることになった創業6年目の1995年1月です。これを機会に現在の技術陣の要である三人が次々と入社し、彼らが今の私たちのサービスを支える製品の完成に、寝食を忘れて貢献してくれたのでした。
以来なんども危機を向かえながら、これを見事乗り越えて今日に至りますが、さすがに今回は厳しい。
厳しいけれど、この私たちの中に、「商売」すなわち「営業」の遺伝子を注入するために神が与えた試練だと思うしか、他に考えようのない出来事の連続です。これを乗り越えて、必ず私たちは復活を果たすことを約束します。 KAI
この時代の「電気」と、今の「インターネット」は恐らく同じ意味、同じ価値を共有しているのではないか。この連載を読むとつくづくこの二つの時代が二重写しに見えてきます。
松下電器の成功物語を語る上で欠かすことのできないのが、「ナショナル・ランプ」ともう一つ「ラジオ」です。
松下電器創業まもない1920年、世界で初めてのラジオ放送がアメリカで始まります。それから遅れること5年、1925年3月22日NHKの前身である東京放送局がわが国で最初のラジオ放送を開始します。同時に早川電機工業(今のシャープ)が国産第一号となるラジオ受信機を発売します。
松下電器はこのラジオ受信機の製造に1931年に参入し、製品を完成させます。
全幅の信頼を得て腹をくくった中尾は、研究部の部員十数名とともに三カ月間寝食を忘れて研究に没頭し、ついに従来の欠陥を克服した改良型ラジオ受信機の開発に成功する。
ちょうどこのとき(昭和六年)、日本放送協会東京中央放送局がラジオ受信機の懸賞募集していたので、完成したばかりの試作品を応募してみることにした。全国から一一八の業者が応募してきたが、松下電器製作所の出品した「三球式ラジオ」は見事一等に選ばれたのである。中尾の努力が報われた瞬間だった。
一等当選を果たしたラジオは「当選号」と命名されて発売される。幸之助はアイロンの時のような安売りをしなかった。何と今度は、一流メーカーの製品より高い価格で売り出したのだ。
消費者の気持ちは自分と同じはずだ。少々高くてもいいから故障せず、聴きたい番組をちゃんと聴けるラジオを欲しているのだ。いいものなら高くても売れるはずだ、という勝算が彼にはあった。代理店の猛反対を押し切っての賭けであったが、見事に功を奏する。松下電器は新規参入からわずか三年で、市場占有率四〇%という国内最大のラジオ受信機メーカーへと成長していくのである。
(産経新聞、同行二人(どうぎょうににん)第15回、北康利、2007/12/11、p.17)
このラジオ参入成功の翌年が、松下電器創業記念日となる1932年、昭和7年です。この記念日と同じ5月現在の本社のある門真に三千五百坪の土地を購入し、急増する従業員を体系的に教育する目的で店員養成所を建設します。更に二万坪まで買い増して、翌1933年、ここへ本社工場を移転してしまいます。
この新しく建設した養成所で幹部に対して幸之助は言います。
幸之助は幹部研修で、自分が身につけた経営のノウハウを繰り返し教えた。「愛嬌を持て」、「人間的魅力を身につけろ」といったことだが、何だそんなことと言うなかれ。それこそがお客に好かれる秘訣なのだと、商人としての基本をたたきこんだ。
こう諭しもした。「部下の良さ、偉さがちゃんとわかるか? 自分の部下が百人いるなら、自分の偉さは百一番目やと心から思える人間が真のリーダーや」。この言葉の持つ意味は深い。お客に対してはもちろんのこと、部下に対しても謙虚であるべきだというのが彼の教えだった。
大卒の新人には特に厳しかった。「頭のいい人は会社を潰し、国まで亡ぼすから、頭のいい人は松下には入れへんのや」とも語った。字義通りの意味ではない。「オレは頭がいい」などと思ってしまっては、そこで成長は止まる。他人の意見を素直にきかなければ、商売の基本が身につかない。そんな頭でっかちな人間はいらない、という意味であった。
次々と改良によって優れた製品を生み出すことのできる強靭な企業体質は、この幸之助の不断の教育によって生み出されていったことは間違いありません。今を生きる私たちにとってまことに示唆深い真実であります。 KAI
リキが亡くなって、もう5ヶ月もたった。リキが亡くなると同時に一気に運勢が落ちてしまった。
そりゃそうだ。KAIにとってリキは、2000年から7年間ずっと守り神でいてくれたんだから。それをものすごいエネルギーで、自分だけで守ろうとしてきたけれど、うまくいかなかった。神の守る力とはそう言うもんだと実感せざるを得ません。
しかしここにきて、やっとエネルギーが収斂してきた。考えられるありとあらゆる可能性の中から、それを取捨選択する。1週間かかったけれど、闘い方も見えてきた。
そんなこんなで6-1、2-6、3-6、1-5の1勝3敗と散々の土曜テニスの後の、イタリアンレストラン、アンジェロ。次から次へ客が入ってくる。
シンクロニシティ。ウチダ先生がイタリア料理の本質を喝破する。
どうしてイタリア料理が美味しいのか。
それは大航海時代に世界中の食材がジェノヴァ、ベネチア、ナポリなどのイタリアの貿易港に集まってきたからである。
世界中から到来する奇々怪々なる食材をかたっぱしから調理してしまったということによってイタリア料理はそのレシピを豊かなものにしていったのである。
食文化を高めるというのは、食材や料理法の伝統を墨守することではない。
もし地中海世界のヨーロッパ人たちが彼らの「伝統的な食文化」を後生大事に守っていたら、私たちの食膳にはジャガイモもトマトも唐辛子も胡椒も載っていないのである。
しかし、イタリア料理はある段階でそのダイナミックな進化のプロセスを止めてしまった。
もう十分に美味しいもののレシピを満たしたから、これはこれで「上がり」になってもよろしいであろう。(イタリアンはどうして美味しいの?)
この止めてしまった進化を、このアンジェロが引き継いでいる。
それから後、外部から到来する食材をかたっぱしから調理し、あらゆる調理法を試すという「食文化のアヴァンギャルド」を担っているのは自慢するわけではないが、わが豊葦原瑞穂の国である。
食文化とは「守る」ものではない。
それは創り出すものである。
とウチダ先生が書いたとおりです。
そうなんだよね。創造なんだから攻めなきゃ。ついつい守りに入ろうとしていて、今守りに入ってどうするんだよと、自分。強い気持ちを持たなきゃ。
日曜テニス。案の定最初のゲーム、劣勢になってやっと守りに入っている自分に気づく。土曜テニスでも4セット目の0-2と追い込まれてやっと目覚めて1ゲーム奪取したけれど、時すでに遅し。今日はなんとかここで立ち直って、3-6、2-6、6-2、4-1と2勝2敗のイーブンまで戻す。
14時、テニスを終えてそのままアンジェロへ。
満席ではないにしろかろうじて、退席直後のテーブルにすわることができた。
しかし考えてみれば不思議なものです。こんな世間の関係者以外の誰も知らないアンジェロが、実は創造性の一端を担って日夜奮闘している(ほんと年中無休、気ままに有休)。
いままでそれこそ20年通ってきたアンジェロの秘密に気づかされて、またひとつ創造のエネルギーを収斂させたKAIであります。 KAI
1932年、運命の出来事は、天理教・教祖中山みきの没後五十年、立教百年を記念した「昭和普請」の現場に幸之助が立ち会うことから始まります。
幸之助がU氏と呼ぶ天理教信者に誘われて行った、この現場の風景を目の当たりにして、幸之助は衝撃を受けます。
<物欲を満たせるわけでもないのに、信者たちはあんなに一生懸命奉仕活動をしとる。「給料をもらえる」とか「偉くなれる」といった「欲」やない、本当の意味の「生きがい」が彼らの支えなんやろうな・・・>
じっと考え続けた彼の脳裏に、やがてある夏の日の記憶がよみがえってきた。事業を始めて間もないころ、大阪の天王寺界隈を通りかかったときのことだった。(中略)
そこへ荷車を引いたひとりの男が通りかかった。彼はある家の前で立ち止まると、そこにある水道の蛇口をひねり、うまそうに水を飲み始めたのだ。行きかう人々は誰ひとりその男に、「他人の家の水、勝手に飲んだらあかんやないか!」などと言うこともなく、無関心に通り過ぎていく。(あれは水が無茶苦茶安いからやろな・・・)そう思ったとき、脳天から稲妻が走った。この時彼は、松下電器の目指すべき社会的使命を悟ったのだ。
(産経新聞、同行二人(どうぎょうににん)第14回、北康利、2007/12/4、p.23)
<生産者の使命は貴重なる生活物資を水道の水のごとく無尽蔵たらしめることである。いかに貴重なるものでも量を多くして、無代に等しい価格をもって提供することにある。かくしてこそ、貧は除かれていく。生活の煩悶も極度に縮小されていく。物質を中心とした楽園に、宗教の力による精神的安心が加わって人生は完成する>
幸之助は、これを大阪中之島近くの中央電気倶楽部講堂に集めた全店員(168名)に向かって発表します。1932年(昭和7年)5月5日午前10時、松下電器の歴史に残る「第一回創業記念式典」です。
以後、昭和7年5月5日が松下電器の創業記念日となります。
幸之助が独立したのが1917年。その翌年3月7日大開の二階建て借家に引っ越すと同時に社名を「松下電気器具製作所」と定めた、その1918年を実際の創業とすれば、それから14年後の話であります。
翻って、私たちのサービスの、社会的使命とは何か。
それはソフトウェアの価値を、もっともリーゾナブルな価格で、遍く多くの人々に享受せしめることです。そしてその価値を生み出すプログラマ自身がこの仕事に生きがいを得ることのできる環境を、私たちのサービスによってそれを生みだすことであります。
これをOSSとは異なる方法で実現すると言うのが、KAIの考える平成の「水道哲学」です。 KAI
開き直ってしまえばいいのだけれど、自分の頭で考えに考えた結果ではないだけに、どうしても悔しさが残ってしまって今ひとつすっきりしない。
なぜこの展開を予測できなかったのだろうと、思えば思うだけ情けなくなる。
そんな中でのいつもの週末テニス。
土曜、いつもの場所でいつもの時間にいつものメンバーで、天気も冬の雲の合間の陽射しの中のテニスが、まことに心地よい。一球一球ボールを打つたびに、もやもやが吹き飛んでいく。
結果も6-4、6-2、1-6の2勝1敗と、まずまず。
そして日曜、姪っ子のともちゃんの結婚式があるからいつもの12時からのテニスはお休み。
新横浜駅前の結婚式会場に、娘と一緒に車で行く。9時20分、自宅を出て30分ちょっとで到着。
ともちゃんは美人(ほんと)三姉妹の真ん中。上のよっちゃんも一昨年だったか結婚して、残るは一番下のさっちゃんだけ。しかしこの2回の姉夫婦の娘たちの結婚式披露宴に出て、つくづく思った。娘だけの父親は誠に寂しいものだな、と。
そんなこんなことを考えているうち、花嫁のブーケトスが、娘の両手と胸の間にすっぽりと落ちてきた。
おいおい恋愛の女神様、まだ早いって。
一気にここで運勢を回復して、披露宴が終わったその足で、娘と一緒にいつものスポーツクラブに。
ここで娘が温泉でくつろいでいる間に、KAIはえっちゃんテニスに合流する。3時から5時まで汗を流すことができて、やっといつものペースに戻ることができた。
あとで娘から聞いた話が面白い。担当のコボリくんが娘に、ぜひ彼氏と一緒に温泉に入りに来てください、もちろんお父さんには内緒です、だって。何をかいわんや^^。 KAI