幸之助が電池式自転車ランプを売り出したのが1923年(大正十二年)6月末。その2ヶ月ちょっとたった9月1日、首都東京を関東大震災が襲います。
東京に駐在していた井植歳男は、自ら被災するなか得意先に見舞金を届けてまわっていたが、連絡が取れなくなって心配の極みの幸之助とむめのはそれを知るよしもない。震災から1週間後、歳男は東海道線が不通になったため北陸まわりで幸之助の元へ戻ってきた。
幸之助もむめのも涙を流し、手を取り合うようにして無事を喜んだが、落ち着いたところで、幸之助は井植に次のように言って頼んだ。「歳男、悪いけどもういっぺん東京へ戻ってくれへんか。みなさん大変や思うけど、集金せんわけにもいかんからな。せやけどこれまでの売り掛けは半分でええ、そんで松下の商品は値段据え置きや、そう言うたげてくれ」
売掛金を半分でいいというのも大変な温情だが、商品の値段据え置きというのはすごい。震災後の東京では物価が数倍に跳ね上がっている。それこそ商売のチャンスだと思う人間は大勢いたはずだ。それを震災前と同じとは・・・。
井植は一瞬耳を疑ったが、こんないい話をお客に伝えてあげられるとあって、足取りも軽くとんぼ返りで東京へと戻っていった。(中略)
井植から幸之助の申し出を聞いた東京の問屋たちは涙を流さんばかりに喜び、発注は山のように来た。これまでまったく取引のなかった店まで、噂を聞きつけて注文を出してきたのである。結果として、震災を契機に松下の名は高まり、東京にしっかりした地盤を築くことに成功した。
(産経新聞、同行二人(どうぎょうににん)第9回、北康利、2007/10/30、p.28)
9歳で丁稚奉公に出された幸之助は、商いが人の心を掴むことにつきることを、すでに身体で覚えていたと言うことです。
しかし上には上がいるものです。
それは山本武信と言う人物との出会いに始まります。幸之助はこの大震災の年から全国代理店制度を導入し、各都道府県内での独占販売権を条件に代理店を募集した。これに大阪府下の販売代理店として応募してきたのが山本です。
電池ランプをひと目見て、山本は代理店契約の締結を決意した。その思い切りのよさに感動した幸之助は、山本の石鹸工場を訪れ、その規模の大きさに圧倒され、商売の先達として慕うようになる。
山本は更に3年間の仕入れ代金45万円(今の約10億円)を手形で先に全額支払ってしまいます。これに感激した幸之助は、甘かった。山本は、大阪府内の小売店だけでなく問屋にまで一斉に商品を流し始めたのです。問屋は全国の小売に商品を流す。たちまち幸之助が考えた全国代理店制度の欠陥をつかれるかたちになってしまいます。これに幸之助は文句を言えない。なにせ45万円の威力があります。
結局この問題は、1924年10月対策のために開催した全国代理店会議でも解決せず、1925年5月幸之助は山本に電池ランプの商標権と全国販売権を譲渡して幸之助が山本の前に兜を脱ぐかたちで決着します。大人と子どもの戦いでした。
この失敗は、恐らくこれで幸之助が大きく成長する契機になったことは間違いありません。
人の心と言うものは、それを計算した瞬間、それを超えるものなのです。幸之助が身体で覚えた人の心を掴む方法も、このこざかしい計算に基づくものである限り山本のようにこれを平気でクリアする人間が現れる。
平気で人の恩を仇でかえす人間がいることを知ることです。
そしてそれを乗り越えるには、やっぱり人の心を掴むしかありません。しかしこれは計算によってではなく、計算ではない、計算を超える“何か”しかありません。
幸之助がこれを、この失敗で覚えたように、KAIも同時進行で、今これを覚えたことは間違いありません。 KAI
土曜、台風接近の雨につきテニス中止。この台風、朝の時点でまだ南海上にあって時速25キロだったものが途中から偏西風に乗って85キロと高速なみのスピードで房総沖を通過していった。
テニスは中止になったけれど、11時前にいつも通り雨の中をテニスコートに向かう。テニスコートの駐車場に車を停めて、周りを30分間ジョギング。そのあとアンジェロ、生ビール、サウナ、とテニスの時と変わらないメニューをこなして帰宅。洗濯を終えてハイタイドへ。
途中いつもなら歩ける距離が、強風で傘もさせずやむなくタクシーに乗る。お客さん、今日は商売にならないから早じまいしますよ、と運転手。台風が85キロで通過中であることを知らないようだ。いえいえもう8時過ぎには雨も止んで収まりますよ。かえって車が少ないから入れ喰いですよ、賭けてもいいですよ。でも出足をくじかれたからどうですかね。と会話して降りる。
未明に六本木通り、外苑西通りに客がタクシー待ちであふれかえっていたのは、予想通り。
明けて日曜、日本晴れ。
そして日曜テニス、いつものY木さんは前日から雨の中を長野の友人の別荘へ出かけて(無事つけたか心配^^;)欠席、O谷さん、M田さんも欠席で、T橋さん、えっちゃん、I坂くんと言う面子。
結果は6-0、1-6、6-1、3-2の3勝1敗。コンディション抜群ですので当然の結果です。
I坂くんとアンジェロへ向かう途中、目の前に富士山が。空気がきれいでくっきりよく見える。何か良いことあるよとI坂くん。そう願いたいとKAI。木曜日から続く一連の問題が解決しないでモヤモヤをかかえたまま、いつも通りのメニュー。自宅へ帰って夜8時頃一旦区切りをつけてハイタイドへ。遅い出勤です。
ここでどうにかマティーニ3杯でバイオリズムを取り戻す。 KAI
桜木の元同僚井野、
私・・・
もう教壇に
立ちたくない
転職ってね・・・・・・
簡単じゃ
ないんだよ実は
けっこう
難しい自分で転職活動を
している人の成功率は
これだけ転職が
話題になっていてもたったの
45%しかない(中略)
今の井野さんが
失敗しないためには
どうすればいいか縁があるとこに
ポンと入っちゃう仕事・・・・・・
職場
これってすべて
縁なんだよ誰かと知り合って
人の繋がり出来たら
そこにお世話に
なったほうがいい場合
たくさんあるのましてや井野さんには
桜木さんという
強い味方がいて
それを利用しない手は
ないよ転職において・・・・・・
人と人との繋がりに
勝るものないんだから
今の企業の実力からして公募ではどだい無理。だから紹介しかないとも言えますが、本質は別のところにあるようです。
公募の場合、転職希望者は転職先のことをよく知っている(と思う)から応募するし、逆に応募先の企業からすれば応募者の周辺情報は履歴経歴書以外何もない。だから多くの応募者の中で選考することによって応募者を知ろうとする。
ところが紹介の場合、状況は一変する。ほとんどの場合、紹介者が応募者も応募先も承知していて、紹介者の(両者の相性の)判断が介在しているため、選考するまでもなくかなりの確度で最初から相性のいい同士の出会いになる。
なんだか男女のお見合いと同じに思えてくるけれど、お見合いの本質も意外とここら辺にあるのかもしれません。
お見合いと言えばあと一人なんとかしないと・・・ KAI
いつもの産経新聞、きょうの言葉です。
進化を止めたとき それは老化の始まりである 加賀見俊夫
ディズニーリゾートを運営するオリエンタルランド会長の著書「海を超える想像力」から。「テーマパークはいきものである」とし、変化を恐れず常に挑戦する姿勢が発展を支えるという。
(産経新聞、きょうの言葉、2007/10/24、p.3)
分野は違うけれど同じことを、ITの世界でも元鉄道総研初代理事長尾関雅則が言ってます。
システムは、最初の使用開始から後でも、その機能に対する要求は質量ともに、絶えず、拡張変更を求められるのが、常です。裏返していえば、システムは周りの環境から影響を受けながら、絶えず成長してゆかなければならない、宿命をせおっているとも言えるのです。これは、まさにシステムの性格が、生物的である証左ではないでしょうか。
(システムは生物のように成長するもの)
人間の脳の創造物であるテーマパークシステムも、アプリケーションシステムも、すべて生き物である人間の相似形に過ぎません。
そう言う意味で、生き物の進化をコントロールするための概念が、自己組織化アプリケーションですが、残念ながらこれをエンジニアリング的な制御の世界に抽象化できてはいません。
いくつかのヒントはありますから、じれったい極みです。しかもこの問題とソフトウェアの人月問題となぜか密接に結びついています。
未来のアプリケーションとは、まるで人が存在するかの、そういったアプリケーションだからです。 KAI
今週は「同行二人」連載第8回ですが、先週の第7回の話から。
独立した年である1917年の12月、川北電気企業社へ碍盤(がいばん)千個を納入して、初めて百六十円と言うまとまった金を手にします。翌1918年3月大開(おおひらき)の二階建て借家に引っ越し、この三部屋ある一階の一部屋を工場にして、ソケットに代わる製品である「アタッチメントプラグ」、それに続く「二灯用差込みプラグ」を次々と生産していきます。
この「二灯用差込みプラグ」の、一手販売契約の見返りとして吉田商店から手にした三千円の保証金で、月産五千個の設備増強を行うのですが、半年もしない内にこの契約は解除されます。しかし幸之助は、三千円の保証金は分割返済にしてもらい、販路も吉田商店の手を借りず自ら拓くことによって、見事ピンチをチャンスとしてしまいます。期せずして三千円の設備資金と販路を手に入れてしまったのです。
まさに幸之助の強運、ここにあり。
そして第8回。
松下電器はその後も順調に業績を伸ばし続けた。もともと手狭だった工場は限界に達し、隣の空き家を借りてこちらも工場としたが、そんな応急措置では間に合わず、本格的な工場の建設を検討し始めた。
大正十一年(1922年)、創業の家から百メートルほど南になる西野田大開町八九六番地(当時)への移転を決めた。百坪ほどの貸地があり、そこに四十五坪ほどの工場と、二十五坪の事務所兼住居を建設することにしたのだ。後に第一次本店工場と呼ばれ、幸之助が生涯ここに本籍を置いていたほど懐かしい思い出の地となる。
1923年6月、試作を重ねた自転車用ランプが完成し販売を開始します。しかし、問屋はこれをなかなか扱ってくれません。月産二千個の予定で発注した部品と電池が次々と納品されるなかで、幸之助は進退窮まります。
ここで幸之助は、小売店に直接自転車ランプを二、三個持っていき、その内一個を無料見本として点灯しておくと言う奇策に出ます。
どの店でもランプは三十時間以上点灯してくれ、一ヵ月ほどすると目に見えて売れ行きが伸びてきた。最初に置かせてもらった四千個はすべて売れ、やがて小売屋から直接電話や郵便で注文が来るようになり、ついには一度取り扱いを断られた問屋からも注文が入ってきた。
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。大きな賭けに幸之助は勝利したのだ。
瞬く間に松下電気器具製作所の「砲弾型電池式自転車ランプ」は世に知られるようになり、生産が追いつかないほどの注文が集まった。販売が製品開発を支えているということを、彼は身にしみて学んだ。「製造と販売は一体であるべきだ」とする考え方は、こうした実体験に基づいている。
(産経新聞、同行二人(どうぎょうににん)第8回、北康利、2007/10/23、p.17)
幸之助の強運の秘密は、正にここにあります。 KAI
2年前から指摘している(タイブレークと言うルール)けれど、これが一向に改まる気配はない。
さすがにパリーグは、毎年リーグ優勝しながら日本シリーズに進めないソフトバンクの轍をふむまいと、リーグ優勝した日ハムがしっかり日本シリーズに進出。
一方ジャイアンツは、ドラゴンズにあえなく3連敗。予想通りです。走り続けている方が、止まって待つよりモーメントが大きいのは当たり前。
そして日本シリーズ。同じ条件で戦ってこなかった昨年までは、同じ理由でパリーグ有利は不動。やっと今年は面白くなりそうですが、それでも今年もファイターズが4-3で優勝は間違いありません。
その理由は簡単です。簡単に3連勝して進出したチームと5戦たたかってやっと出てこれたチームと、どちらに勢いがあるか、考えただけでわかります。
さてどうなりますやら。 KAI
いよいよ忙しくなってきた。今月末は決算につき、滝つぼめがけて突き進む筏がごとく、すべてがそこに流れ込んでいく。娘が、全然疲れが取れないとぼやきながら毎朝起きてくるけれど、こちらもなんだか似たようなもの。こんなところで親子で共振しては世話はない。
そんな中での週末テニス。テニスこそ疲労回復の特効薬です。
土曜日、快晴。申し分ないコンディションに調子が悪いはずはありません。コーチのネモトくん相手に6-2、1-6、6-4、0-3の2勝2敗と、善戦。
日曜日、快晴。またまた申し分なし。結果も6-0、2-6、6-2、5-2と、3勝1敗、絶好調。
そういえば今朝方、田舎の母親から、今年の新米と一緒に剥いた栗が届いた。栗ご飯を作れと言うわけです。誠に母親の愛とは、深くありがたい。すでに80にならんとして昨年から米作りはやめたものの、自分の田んぼで人が作ってくれた米を買って定期的に送ってくる。
これを毎朝2合炊いて、娘と朝ご飯を食べる。更に娘はそれを弁当にして持っていく。これで丁度2ヶ月でなくなる。年6回の定期便です。
これに春先は蕗を炊いたのが入っていて、ゴールデンウイーク前は茹でたタケノコ、梅雨時は山椒とじゃこの煮漬け、秋はさきほどの大きな丹波栗、冬場は唐辛子の甘煮漬けがついてくる。更に、玉ねぎ、ジャガイモ、キャベツに人参、その時々にある野菜も一緒に入ってくる。
未だにこの間タケノコと一緒に送ってきた玉ねぎが大量に残っていて、これをすべて腐らす前に消費するのはさすがに大変。しかし玄関を入ったところにつるしたこの玉ねぎを見るたびに、田舎の母の顔を思い出すのは、明らかに母の意図するところであるはずです。 KAI
夢が次々と実現していきます。
それにしても夢のベルエポック、いい言葉だなあ。時代の意味を、同時代に生きるものだけでなく時代を越えた世代に伝播していく、そう言う力が、この言葉にはあります。いや同時代に生きるものでも、全くの異空間に生きるものまでをも、その時代の意味の世界に引き込む力をこの言葉は持っています。
そう言う意味で、梅田望夫はITにおける矢作俊彦なのかもしれない。いや、きのうは“21世紀の司馬遼太郎と言うのだけは勘弁してほしい”と書いたけど、21世紀の司馬遼太郎になってぜひともITと言う時代の意味を活写してほしいと思う。
(夢のベルエポック(2))
2006年8月、丁度1年前のエントリーです。なんと梅田さんがこれに応えてくれました。
梅田 齋藤さんの今度のご本『日本を教育した人々』(ちくま新書、11月刊)の中の、福澤諭吉の章と「はじめに」のところを拝読させていただきました。その「はじめに」で齋藤さんは、みんなが不安になって方向性を見失っている今、日本人が基本としてどこに立ち戻るのか、それは「源氏物語でもないし、戦後でもなくて、明治だ」ということをお書きになっていますね。
僕も、ちょうど同じ11月に『ウェブ時代をゆく』(ちくま新書)を出すのですが、この本を書いていくうちに、期せずして、明治という時代の骨格を作った「自助」の精神を再建しないといけないな、というところに行き着きました。齋藤さんはどうして「明治」と今が似ているとお考えなのでしょうか?
(齋藤孝 × 梅田望夫対談『大人の作法』)
梅田Blogで紹介されていて行ってみたら、なんと次回作の題名が『ウェブ時代をゆく』。司馬遼太郎の『街道をゆく』ではありませんか。
素晴らしい。早速予約。楽しみです。 KAI
以前iPhoneについてこんなことを書きました。
iPhoneの真の目的は、何か。
それは、モバイルマックを創ること。
そして、それに気付かせないために社名からコンピューターを外し、モバイルマックからコンピューターの「ニオイ」を、きわめて巧妙に消し去ったのです。
そしてそして、このモバイルマック(MM)の目的は何か。
これはきわめて明確です。
このMMさえ持っていれば、すべてのM(モバイル)が実現するってことです。
(ジョブズのクサビ)
そして、こんな速報があがっています。
たった今アップルのホームページで発表されたばかりの資料。Steve Jobsが自ら書いたニュースリリースだ。ざっと訳してみる
iPhone向けのサードパーティ・アプリケーション
思い切って言ってしまおう。サードパーティによるiPhoe向けのネーティブなアプリケーションが欲しいんだ。2月には開発者の手にSDKを渡すつもりだ。iPhoneのまわりに活気に満ちたサードパーティ開発者のコミュニティを作り、何百もの新しいアプリケーションをユーザーに届けることにエキサイトしている。iPhoneが持つ革新的なマルチタッチ・インターフェイス、パワフルなハードウェア、そして(他の携帯電話よりも)遥かに進んだソフトウェア・アーキテクチャで、開発者にとって最高のモバイル・プラットフォームを提供できると確信している。
(Apple 、iPhone用のSDKを来年二月にリリース:待望のiPhone向けのネイティブ・アプリの開発が可能に)
これがモバイルマックの始動であることは、間違いありません。
いよいよコンピュータの最終戦争が始まります。
こんな凄い現場に立ち会うことを許してくれた神に、KAIは真に感謝します。
これからの10年が、21世紀のコンピューターのカタチを決める、まさに世紀の戦いの時代です。これに参戦するしか、君、ないのではありませんか。 KAI
むふむふ。
なかなか面白い展開です。
私・・・
もう教壇に
立ちたくない放っといて
欲しいんじゃ
なかったのか
・・・・・・
(中略)教えてよ
どうしたら
私の相場上がるのかだったら
ひとつだけ
ヒントをやろう
30歳過ぎたら
利息で暮らせ
(中略)
必要なのは
しっかりとした
元金だ・・・・・・
ふむふむ。なるほどだから簡単に転職するな、と言うわけですね。確かに転職回数が多ければ多いだけこの元本が目減りするのは明らかです。
しかし、まだこの連載2回目を読む限りにおいて、KAIが考える仕事の意味と、サラリーマンの仕事の意味にはあまりにも大きな乖離を感じざるを得ません。
要は、こんな自分のことばかり考えているやつは、とっとと辞めちまえ!
ってことです。自分のことしか考えられないヤツは、最悪です。
ま、そんなヤツは、自分で会社やってほしいいんですが、どうでしょう。 KAI
ここに二つの写真がある。
一つが「アタッチメントプラグ」で、もう一つが「二灯用差込みプラグ」。
こんなもんがと今の感覚からすれば思いますが、これをKAIは、あまりの懐かしさで胸が熱くなるのを禁じえません。戦後のまもないころまでこんな器具にあふれていました。
思えば松下電器はこの「電気」の発展とともに成長し、ソニーは「電子」とともに。そして本田は「原動機(エンジン)」とともに、企業を永続的な成長へと導きました。
しかし、彼らの成功要因はそれだけではありません。
実は、すべて消費者と言うエンドユーザーの声を反映した製品を作り続けることで、創業後に次々襲う経営危機を、まさにピンチの後のチャンスにして、彼らは成長を遂げてきたのでした。
つまりは、エンドユーザーの声を聞いて仕事をする。
これが、成功の法則です。 KAI
追記(10/22)
>つまりは、エンドユーザーの声を聞いて仕事をする。
舌足らずな記述でした。言いたかったのは、消費者(エンドユーザー)相手の製品を作り続けるってことです。消費者の方を向いたビジネスモデルを構築しない限り企業の永続的成長はありません。
中国の危ない食品―中国食品安全現状調査(草思社、周勍、2007/9/29)の著者周勍(しゅうけい)さんのインタビュー記事が面白い。
周さんは、一党独裁が招いた「透支社会」が、食品汚染の温床となっていると指摘する。「透支」というのは、一党独裁の統治下で、人々が右左、善悪、正邪の判断を党に握られ、人間としての個(根)を失ってしまった状態を指す周さんの造語である。
(中略)
「一党独裁のもとでは、村長は郷長をだまし都合のよい報告だけをし、郷長は県長をだまし都合のよい報告だけをする、という連鎖があるからです。さらに、役人と業者・企業が結託した既得権益集団が形成されているのです」
(産経新聞、一党独裁の果て・・・・食品汚染大国 著者・周勍さん語る、2007/10/14、p.2)
更に周さんは例の段ボール肉まん事件について、こう言う。
「私はあの報道は事実だと思っています。逮捕された記者は、以前にも偽羊肉事件をスクープしたことのある立派な人物ですよ。あれが事実と認定されれば、大きな社会不安となり、北京市政府や党委員会の人事にも重大な影響を与えることになりますからね。政府はこの事件を奇貨としてメディアの規制強化に踏み切りました」
しかしそれにしてもです、こう言う理不尽によってたつ社会に生きるとは一体どう言うことであるのか。しばし考え込んでしまいます。 KAI
この2日間、1年で1度か2度くらいしかないと思しき最高のテニス日和。気温、暑からず寒からず、太陽、眩しからず暗からず、風、微風。
こんなベストコンディションでは、まったくもって言い訳無用。
結果は、土曜、6-2、1-6、6-3、2-0の3勝1敗。日曜が、6-2、4-6、6-4で2勝1敗。もちろんミスはするけれど、ほぼ完璧のプレーができて、こんな気持ちの良いテニスは久しぶりです。
1日2時間のうち、15分のウォーミングアップとゲームの合間の休憩時間を除いた正味90分がゲームの時間です。1ゲーム平均所要時間3分とすると30ゲームできる計算になり、1セットが10ゲームで丁度3セットになります。4人が毎回ペアを替えてゲームすると丁度この3セットで一巡することになります。
この結果が2勝1敗と言うことは、他の二人も2勝1敗となって、残る一人が0勝3敗であることを意味しています。もし1勝2敗なら他の二人も1勝2敗、一人だけ3勝0敗となります。
ここで自分が何勝するか、もちろんあとの生ビールのうまさに大いに影響を与えますが、問題は勝ち負けではありません。
気の置けない人たちとのテニスは、変な例えですが、まるで4人が一緒にダンスを踊るようなもので、1ポイント、1ポイントがサービス、リターン、ラリー、ボレー、スマッシュとリズミカルに進行していき、ゲームオーバーで最高のクライマックスを迎えます。
これが、あのテニスボールのコッーンと言う効果音と脳髄で共鳴して、4人はやがて恍惚となるのでしたってそんなことないか。ましかし、そうなってもおかしくないくらい気持ち良くなるのはホント。ここにはトーナメントで戦う競技テニスとは本質的に違う、何かが間違いなくあります。
と言うことでテニスの後のアンジェロで生ビール、ぐびぐびぐび、ぐびぐびぐび。美味杉。これじゃあテニスはやめられねえ〜^^;。 KAI
リキが亡くなって3ヶ月たった。最近の散歩で、大きな変化があります。それは1回の散歩で出会う人との、おはようございますの挨拶が日増しに増えていったことで、今では10人近い人と声を出して挨拶するようになりました。
リキと散歩していたときは、お互いすれ違っても目で挨拶するものの、声で挨拶する人はいませんでした。
ところが、今の目に見えないリキと一緒の散歩で、出会う人みなさんが、ワンちゃんどうしちゃったの?と訊いてくる。そうすると実はこうでああでと話が始まって、以来会えば声を出して挨拶するようになった結果が、これです。
これはKAIの散歩にとって、重大な影響があります。瞑想が、人と会うたびに中断されるのです。そこで考えた。夜明け前に散歩を終わらせる。さすがに暗いうちは、ほとんど知った人とワンちゃんに会わなくてすむ。
しかし今朝は土曜日、日の出の5時45分ごろ散歩開始。ところがなぜか今朝は誰にも会わない。会わないことが気になって、これまた逆効果ではありますが、それでも45分間何も考えないで、あれこれ考えることができる散歩は欠かせません。
今朝は散歩前のご飯を炊いていません。
昨晩もらった虎屋の赤飯があるからです。開店7周年のお祝いの品ですが、これが美味しい。もち米であるせいか、お土産サイズの3分の2を容器の蓋にとって、焼いたシャケと一緒に食べるとこれだけでけっこう食べ応えがある。
突然、休みのはずの娘が起きてきた。
どうしたのときくと、休日出勤して在庫の整理をすると言う。おとといからやっと正社員で採用されて、張り切っているようです。で、その娘が目ざとく赤飯をみつけて喜んでいる。結局3分の1ながら、結構あるボリュームをすべて平らげて会社に出て行った。
こちらはソファーで一眠りしてから土曜テニス。幸せな休日です。 KAI
ビッグコミック、オリジナル、スピリッツ、スペリオール、モーニング。KAIが毎朝発売日にセブンイレブンで買うマンガ本です。ビッグコミックは毎月の10日と25日、オリジナルが5日と20日、スピリッツが毎週月曜日、スペリオールが第2、第4金曜日。すべて小学館の雑誌です。モーニングだけが講談社で、毎週木曜日発売。締めて月14冊。
しかし、これだけ買っても読むのは、例えばスピリッツなら「気まコン」だけだったりして、実際に1冊読み終えるのに長くても10分はかかりません。
今日発売のモーニングも、ついこの間までは「専務島耕作」、「はるかセブンティーン」、「ドラゴン桜」であったのが、はるかもドラゴンも終わり島耕作だけになってしまって買うのをやめようかと思った矢先、今日からドラゴン桜外伝「エンゼルバンク」と言う、三田紀房の新連載が始まって、これがめちゃ面白い。
龍山高校の奇跡をうんだ桜木は、その後他の同様な悩みを持つ高校の再建請負人として活躍しながら、ビジネス塾を主宰していた。
上手に「転職」をするために大切なことを知りたくないか!?
ちなみに
30代半ばになって
転職考えてる人
やめたほうがいいですよ転職するなら
大学出てから10年まで
それも1回まで
ギリギリ2回3回以上は
ダメですでもね・・・
やっちゃうんですよ
みんな知らないからそれでこんな
結果になるこのグラフ
一体自分は
いくら稼ぐか・・・もっとも年収の
高いのが
転職0回の人
つまりひとつの企業で
終身雇用を貫いた人
次が転職1回の人2回の人は
少し下がって・・・3回以上の人は
どんどん
下がっていく人生金じゃない
なんて言ってる人
いますけど金額の差を
実際に見ても
そんなこと
言ってられますかね
自分の替りがいればいくらでも買い叩かれるし、逆に自分しかできなければ言い値で売れると言うのです。
これと転職の回数がどう繋がっていくのかは次回以降の楽しみにして、そもそもこの「自分しかできない」とか「替えがきく」こととはどう言うことなのか、その本質は世の中意外と理解されていません。
人が企業で働く以上、組織の一員として働くことになります。つまり組織の中の一部に組み込まれることになります。「替えがきく」とはこの組み込まれた一部の仕事が取替え可能な仕事であることを意味しているのは原理的に明らかなことです。
こんな仕事はいわゆる単純作業であって、機械の部品のように簡単に取り外したり取り付けたりできる、イコール単純作業と言う主張が世の中まかり通っていますが、果たしてこれは本当でしょうか。
ある病院の内科医が一人足りなくなって補充する。これも「替えがきく」ことの一つ。プロ野球の三塁手が控えの選手と交替する。いくらでも単純作業ではない「替えがきく」仕事はあります。
実は、「人の価値」は確かに「相場」すなわち「市場」で決まることは間違いないのですが、単なる労働力の需要と供給の関係ではないのです。それは「ビジネスモデル」と言う需要であり「ワークモデル」と言う供給の関係であり、需要側の「ビジネスモデル」に対する供給側の「ワークモデル」の適合度合いこそ「相場」を決めているのです。
内科医や三塁手は、そういった意味で彼らの「ワークモデル」は最初から「ビジネスモデル」にあわせて訓練されてきたものであって、当然「替えがきく」と同時に高額な「相場」が保証されているのです。
そもそも世の中、組織で働く以上「自分しかできない」などと言う仕事は、存在しません。これを言うのは「相場」を引き下げるための経営側の方便であることに気づく必要があります。
はてさて次回の「エンゼルバンク」はいかなる展開になりますやら。火曜に加えて木曜も楽しみに。 KAI
毎週火曜日が楽しみです。「同行二人」連載第6回。
幸之助は、大正6年(1917年)6月15日独立を決意し、5日後の20日依願退職する。このとき幸之助22歳、16歳で入社した大阪電燈には6年間の在籍でした。
大阪電燈を辞めて独立した当時、幸之助夫婦は、防水布を製造していた吉村安次郎所有の借家に移っていた。二畳と四畳半二間だけの平屋である。
(中略)
作業場が必要だというので、四畳半の半分の床を落として土間にした。こうなると夜寝るのも容易ではない。
幸之助がこの世を去ったとき、松下電器産業の売り上げは四兆円を超え、従業員数は二十万人、販売拠点は全世界百六十カ国に及んでいたが、猪飼野(引用者注:いかいの、大阪市東成区玉津)のこの二畳少々という猫の額のような土間こそが、松下電器最初の「工場」であり、幸之助伝説の出発点だった。
家庭のある、森田も、かつての同僚で一緒について来た林伊三郎も、これ以上は限界と他に職を求めて去っていきます。残ったのは、妻むめのの14歳の弟、後の松下電器の大番頭、幸之助の右腕となる井植歳男だけ。
そんななか独立以来むめのは、まったく収入がないと言う貧困のどん底でやりくりして幸之助を支えてきた。銭湯に入る二銭の金さえなくなると幸之助に夜更けまで用事を頼んであと行水で済ませるようにしむけたかと思えば、米櫃の米が底をつくと、亡父の位牌に供えた米と餅をお粥にして、今日は寒いから餅粥にしましたと言って幸之助に食べさせる、涙ぐましい努力で切り抜けていくのでした。
しかしそろそろ限界という時に神風がふきます。
当時の代表的電気機器メーカーであった川北電気企業社から、年末の12月、扇風機のスイッチの部品の注文が入り、息を吹き返します。
彼は運を信じて逆境でもくじけず、成功したときには「運が良かった」と謙虚に思い、失敗したときには「不幸だった」と運のせいにはせず、「努力が足りなかった」と反省した。そのことが後の成功につながったのだ。
松下幸之助は「ものの見方」にこだわる人だった。彼の言葉が警句的で示唆に富んでいるのは、常識と違う自分なりの「ものの見方」を身につけていたからだ。普通の人が常識だと信じている裏にこそ、成功の鍵がそっと隠されているのである。
ちなみに川北電気はその後、日本電気精器大阪製造所と名を改め、戦後は松下グループの傘下に入っている。
(産経新聞、同行二人(どうぎょうににん)第6回、北康利、2007/10/9、p.26)
このBlogに、こうしてこの連載の筆者北康利氏の文章を写していると、自分も幸之助の創業に立ち会っている錯覚を覚えます。そしてなぜか元気になる。
彼は、右端が幸せで左端が不幸と言う人生の天秤の中にあって、ほとんどいつも左端にいて、それでも自分はまだ運が良かったと思って努力する。この姿勢に、思わずKAIは頭を下げてしまいます。そして決して諦めまいと、思います。 KAI
お気楽テニスなんかやってる場合じゃないんだけれど、テニスで気分転換しなけりゃやってられない心境。
1週空けての3連続最後の3連休の初日は、一体何日ぶりかと言う秋晴れ。こう言う時のテニスは、天気とシンクロして気分まで気持ちがいい。結果は6-2、3-6、1-6、1-3の1勝3敗ながら、コーチのネモトくん相手だからしょうがない。
アンジェロの生ビールも久しぶりに2杯ペースで、ふめぇ〜え。
いつも通りのサウナで1.4キロ減量も、早めの帰宅。グッドタイミングでWOWOWで映画が始まったところ。ユージュアル・サスペクツ。
これは間違いなく面白い。ジグソーパズルの断片の様な場面が、少しずつ少しずつ組み合わさって、ラストで一挙に繋がって大きな絵になる感じ。ただ途中で弁護士が出てきたあたりから、もしかしたらと思ったとおりの結末は、KAIのサスペンス見過ぎの影響。
そしてハイタイドでマティーニ3杯飲んで、腹をくくる。
明けて日曜テニス。またまた気持ちいい天気で、やっとマイペースでテニスができて、結果も6-0、0-6、4-6、4-2の2勝2敗。
アンジェロ生ビール、サウナ、給油、といつも通りの「作業」をこなして帰宅。洗濯しながら観る今日のWOWOWはファイヤーウォール。これを観るのは2回目だけど、なぜかしらないけれど見入ってしまった。恐らくラストの愛犬の場面を観たかったに違いないと、一人納得しながらハイタイドへ。
マティーニ3杯で、もう一度腹をくくるが、はてさてどうしたもんか。依然視界は不良。
連休最終日。3時に目を覚ました以降、平日モードにて進行。5時過ぎに散歩に出て6時朝食。このまま7時過ぎにオフィス、の予定が、なぜか身体が言うことをきかない。仕事をする気にならないのである。
仕方がないのでコーヒーを飲みながらWOWOWの番組表を見る。ふむふむ面白そうなのが目白押しにある。これはテレビ桟敷を決め込むしかない。
1本目、ア・フュー・グッドメン。このトム・クルーズが最高に良い。へっぴり腰のソフトボールのノックがこれまたいい。海兵隊員サンティアゴの殺人罪で起訴されたドーソン兵長(ウォルフガング・ボディソン)、その彼の弁護を任命されたハーバード出身で法廷経験のないキャフィー中尉(トム・クルーズ)。
被告たちは無罪となるが、軍に対する背信により除隊処分となってしまう。ドーソンはキャフィーに、この裁判を通じて、自分が守るべきものは軍の規律ではなく弱者であるサンティアゴだったことを悟ったと語り、2人は互いに尊敬をこめた敬礼を交し合うのだった。
この最後の敬礼のシーンで、KAIはいたく感動。しばらく動けませんでした。
2本目、陪審員。これまた法廷が舞台。これは以前に一度観たことがありますが、あらすじをすっかり忘れてしまっていて、初めて観たのと一緒。グアテマラの村での最後のシーンで、やっと結末を思い出す。
3本目は、ドラマシリーズTHIEFシーフ。一挙3本立て。午後の1時から5時半まで一気に観てしまった。
アンドレ・ブラウアー演じる泥棒(THIEF)ニック・アトウォーター、その彼の白人の女房ワンダ(ティナ・メイヤー)そして彼女の連れ子タミー(メイ・ホイットマン)、この3人家族の愛憎劇を絡ませながら、ニックとその一味は銀行強盗、飛行機の中の4000万ドル強奪を仕掛けていく。
ラストシーンはニックが、タミーを全寮制の学校へ送っていくシーンで終わるが、このあとニックが捕まるのか逃げおおせるのか明らかにしないまま終わる。続編ありありです。
しかし9時間、ぶっ通しで観たら、頭がからっぽになった。このあとハイタイドでマティーニ3杯を飲む。頭がからっぽになって、やっと解決策が見えてきた。
なんとも長く苦しい3連休であった。 KAI
恐らくKAIの人生にとって、過去最大の岐路なんだと、そう思うしかない。
すばらしいキャピタリストに出会って半年近く。
しかし、やはり彼以外は悪すぎる。
もはや我慢の限界。
さてどうするか、
です。 KAI
「同行二人」連載5回目。今回のテーマは、幸之助の結婚と独立起業です。
明治37年(1904年)11月23日、あと4日で10歳になると言う日に、丁稚奉公に出され働き始めた幸之助は、16歳のときそれまで世話になった五代自転車商会を出て大阪電燈株式会社(今の関西電力)に就職します。
そして20歳で19歳の井植むめのと見合い結婚をし、22歳の時独立します。
この時、幸之助の手元には、退職金と預金をあわせて九十五円強の金しかなかった。型押しの機械一台買っても百円は要る。百円というのは今日の貨幣価値に換算して百万円強だが、その金がないのだ。これで独立とは、彼の上司でなくても心配したに違いなかった。
まだ最近のベンチャー企業のほうが、この時の幸之助よりよほど真剣に「起業」というものを考えている。
少なくとも彼らは自分の持つ技術の市場価値と将来性、実用化年限、必要資金とその調達先、競合他社が現れた場合のリスクシナリオなど、調査と備えをしっかりして起業している。それでも想定外のことが起こり、本当にうまくいく企業は千に三つなのだ。
幸之助が大阪電燈を辞めたのは二十二歳。大学を卒業したくらいの年齢だ。最近はこれくらいで会社を興している人間はいくらでもいる。
もちろん情報量の多い現代と手探りで人生を歩んでいかざるを得なかった当時を比べるのが酷なのはわかっている。それでも現代の若き起業家たちと比べて、幸之助の幼さ、稚拙さはいやが上にも目立つ。彼は決して早熟の天才ではなく、努力で成長していく典型的な大器晩成型だったのだ。
22歳で独立といっても、9歳で丁稚奉公に出た幸之助にとって、働き始めて13年後の起業ですから、決して早い独立ではありません。KAIも24歳で働き始めて、37歳で独立。やはり13年後です。
この13年後には何か意味があるように思います。
それは、独立するための精神的な成熟に要する期間ともいえるもので、通常数年もあれば一通りの仕事のやり方を覚えて一人前の仕事ができるようになります。しかしそれでは独立に至る「何か」が足りません。その「何か」とは何か。それは、働くことの意味を知ることです。そしてその働くことの意味とは、仕事を通して人に喜んでもらうことを覚えることです。これを残りの数年間で覚えて、そして起業に至るわけです。
働き始めて一人前に仕事が出来るようになってくると、毎日の仕事が面白くて仕方ありません。しかしこの時期の仕事の喜びは、自分自身の喜びであって、他人の喜びでも何でもありません。もちろんこの段階で独立する人はいくらでもいます。しかし大抵は一度挫折して躓きます。その理由が自分の喜びだけでは起業の条件を満たしてはいないからだと、KAIはいつも考えています。
つまり他人の喜びのために働くことが出来る人間のみが、独立して会社を創業できるのです。
会社とは、その文字通り社会に働きかけて、その見返りの利益を得るものであることを考えると、社会と言う他人の喜びのために働くことができるかどうか、これが独立の条件であることは、自明です。
しかもこれは、上記引用にあるような、
自分の持つ技術の市場価値と将来性、実用化年限、必要資金とその調達先、競合他社が現れた場合のリスクシナリオなど、調査と備え
実は『幸之助の幼さ、稚拙さ』こそが、幸之助の成功の真の要因であった。これがKAIの結論であります。 KAI
今朝の散歩は最悪だった。
一方通行の見通しの悪い路地で、ネコが車にひかれて頭がつぶれて死んでいた。すぐそば、といっても数十メーター離れた一軒家の軒先で母猫とおぼしき猫が、にゃーにゃーと早朝に似合わない声をあげている。KAIはネコ語を解せないけれど、あの声はまちがいなく、どこにいるの、どこにいるの、と繰り返し子どもの所在を確認する母親の声であった。
車を運転して云十年になりますが、幸いKAI自身はネコをひいた経験はありません。しかし今まで目撃した交通事故で、轢かれているのはイヌではなく圧倒的にネコです。
KAIはこれを「ネコの交通事故」と名づけて、人が危ないと思ったときそのまま突き進むことがいかなる結果を生むか戒めとして、過去いろいろな場所でしゃべってきました。
ネコは危ないと思った時、立ち止まったり引き返したりせず、そのままやり過ごそうとします。つまり車と衝突しそうになって突進するからひかれるのです。この点イヌは違います。イヌは尻餅つくように後ずさりするから衝突することはまれです。
なぜネコは突進するのか。
それはネコにとって突進することが、ネコが考える唯一の今の危機を脱出する方法だからです。ネコにとってその場にとどまるよりも、突進して場を変える方が安全と考えているからです。これはどう言う意味かと言うと、その場にとどまるとは問題解決の前提条件を変えないと言うことであり、場を変えるとは問題の前提条件を一挙にリセットすることを意味しています。
つまり危ないと思ったとき、同じ前提条件のままでは、そのまま負けを意味します。この状況で勝機を得るには、瞬間的に場を変える以外にはないと思う。この結果の突進であり、ネコの交通事故であるわけです。
このネコの交通事故、先日危機一髪に書いたような子どもの飛び出しとは、全然違う種類のものです。子どもは危ないと思って飛び出しているわけではありませんが、このネコはまったく逆に危ないと思って飛び出します。
人もネコと同じ行動をする人がいて、この判断は一瞬です。考えて行動するわけではなく、これはいわば「クセ」です。飛び出すといっても人が車に突進すると言うような物理的な意味ではなく、危ない、やばい、どうすればいいかわからないといった精神的危機的状況に遭遇して、いかなる行動をするかです。
ネコの交通事故型クセの持ち主は、例えばパソコンが動かなくなるとキーを見境なく押し始めて挙句の果てにマシンを叩きはじめます。結果的にますます解決が困難になるのは目に見えています。
本来立ち止まって引き返すべき場面で、そのまま突き進んで土壷にはまっていく。
しかし、これは「クセ」です。「クセ」ですからこれを直す方法はただ一つ、痛い目、すなわち「交通事故」にあうことです。
つまり、ネコの脳髄がつぶれてはみ出している場面を思い出していただければ、十分ではないでしょうか。 KAI