October 31, 2006

これが市場経済ってもんよ中村くん

期待通り「予想内」の展開に、これでやっとモバイルの構造改革が進みます。

 決算説明会の質疑応答でソフトバンクモバイルの一連の施策について尋ねられた中村氏は、「10月23日の夜から言いたい放題言われ続けているが、『NTTドコモは1兆円、KDDIは5000億円儲けている』などと切りのいい数字を持ち出すのは、あまりにいい加減じゃないか。怒りを覚える」と口火を切った。
「あのプランに入る意味は全くない」――NTTドコモの中村社長がソフトバンクの予想外割を批判

いいね、いいね。相手を怒らせるぐらいが本物ってことですよ。既得権者はこの不当にあげている巨額の利益をつかれるのが一番イヤ。

ADSLの時も、ISDNとの干渉がああだこうだと難癖付けてそのまま高い高いINSの通信料金を押しつけ続けようとした「実績」のあるNTTですから、 ユーザーは諸手をあげて孫正義を応援します。

MNPシステムの不具合は「予想外」でしたが、公取の介入や電気通信事業法の公平料金問題も、かえってボーダフォンから引き継いだ料金体系と決別するいいチャンスです。

既得権者との闘いは、旧くは電電に始まり、銀行、道路、郵便局、サラ金、日教組、そして本丸の公務員とまだまだ続きます。

このサラ金も、いままでとんでもない不正利益(アコム 3575億円、アイフル 2281億円、プロミス 2144億円)を得ていたことが判明しましたが、これは「29.2%を20%に引き下げると貸し渋りが起きる」話が真っ赤なウソであったことを証明しています。

つまり、これだけの利益を上乗せできる上限金利を引き下げて困るのはサラ金側であって、かえって貸し渋りなんかやってる余裕がなくなるってことです。何しろ今までの1.5倍の貸付をしなければ、同じ利益を上げられないのですから。

しかしこの期に及んでサラ金がなぜ巨額の引当金を積んだか、ミエミエですが、これが消費者にはまったくの逆効果になることは、既得権者にはなぜか見えないようです。ほんとキトクケンシャとは不思議な生き物です。 KAI

October 30, 2006

鍛錬不全症候群(2)

生徒達がかわいそうってあんた

単位不足問題、生徒達がかわいそうって言うけど、他の生徒が必修科目を履修中、自分たちはしっかり受験勉強してきたんではないのかい。これを棚に上げるのはおかしな話。補習でハンディ付けて元に戻すのはむしろ当然のことです。

こんなことは人生よくあること。上司の間違いの尻ぬぐいをやらされるサラリーマンと一緒。これを学生時代に体験できたことに感謝すべきですよ、ったく。

むしろこう言うかわいそうなどと言う過保護こそ、鍛錬不全そのものです。間違っていたら粛々と修正すればすむこと。再発防止の策を講ずること。騒ぎすぎです。

しかしそれにしても、社会全体がこう言うユルユルだから、個々の家庭や一つの組織だけで鍛錬を維持するのは並大抵ではありません。

時代錯誤などと言って切り捨ててきたものが、実は子どもが成人して立つ、その両脚であったとは見事なまでのブラックジョークではありませんか。 KAI

October 29, 2006

鍛錬不全症候群

Blogネタがつきない毎日ですが、今ひとつ決定打に欠けるネタしかないのは、要はネタのレベルが落ちているせいであります。レベルの低いネタに付き合っていると、それだけで運気を失っていく自分を感じます。

このレベルが落ちているとは、精神の鍛錬のレベルです。

今の人たちは、いつからこの精神の鍛錬を忘れてしまったのでしょうか。

毎日メールボックスに山のように女エッチメールが来ますが、これが一向に止まないのは、それだけの需要があるってことです。しかし不可思議なのはこんな痰女を求める男の存在です。

礼節は、権力とは無縁です。

礼節は、権力とは無縁の、人を人たらしむる力を与えます。

これを身に付けるための鍛錬こそ、すべての行動に優先します。

朝起きて、経を読む。竹刀を振る。乾布マッサージをする。みな鍛錬です。

精神の鍛錬を忘れ、自堕落に生きる人々が、時代を仕切り始めて、この国はおかしくなっています。迎えのハイヤーで居眠りをするんじゃない!

精神のレベルを高めるために鍛錬をするのではありません。人が人として生きるために鍛錬して、精神のレベルを高めることができるのです。

校長先生も教育長も市長も、長とつく方々にぜひとも考えていただきたい。いったい何が長いのかを。

それは人生を生きた長さの歳でもなければ、業務経歴の長さでもありません。校や教育や市に携わる時間の長さでもありません。

それはその各々の精神のレベルに長じているかどうか、この一点につきるのです。

これが理解できていないために、精神のレベルを上げると言う鍛錬を、疎かにする。

長の名のつく者は、率先して精神の鍛錬に励むべし。

長の徳育とはアンビバレントの極みですが、これも時代です^^; KAI

October 25, 2006

夫の受難、男の受難

いきなりですが「金田さんは関係ありません!!」にビックリ。

僕の離婚バトル〜仁義無き戦い〜を思わず全部読んでしまいました。(って拾い読みですが^^;)

妻の不貞、DV冤罪、・・・、あまりに面白すぎてって失礼、切実すぎて、涙が出てきました。(このアクセス数ですから、ずっと以前からBlog界隈では話題になっていたのでしょうが)

KAIが反応したのはDV冤罪です。

周防正行の最新作品『それでもボクはやってない』のテーマが痴漢冤罪。

このどちらの法律にも欠落している視点があります。それは被害者の女性がウソをつくと言うことです。

この両者の事例を、ぜひ法曹関係者、政治家には、真剣に考えていただきたい。

ウソをつくことの利益が最大化されている、この現実に。

ウソをついてもなんら罰せられない・・・。

・・・

・・・

・・・

しかし、この夫君にとってこれは、神が君をもうひとまわり大きくするために与えた試練なんだよ。

そう考えるとわかる気がします。法律の壁は越えがたいけど、法律にいかに対峙すべきかを学ぶことには大きな価値があります。

いやはやBlogは、深い。 KAI

October 24, 2006

寒い一日

暦通りと言えばそれまでですが、昨日23日が二十四節気の霜降(そうこう)。とたんに寒くなった。この霜降は文字通り霜降り、霜が降りる季節で、こよみのページにも、

◇朝夕は冷え込む頃。かぜをひかぬように

とあります。みなさん風邪をひきませんように^^;

しかし考えてみればこの二十四節気と人との関係は、とても不思議な関係です。

1年を24等分した二十四節気は、まさに1年時計。

午前0時(冬至)
午前1時(小寒)
午前2時(大寒)
午前3時(立春)
午前4時(雨水)
午前5時(啓蟄)

午前6時(春分)
午前7時(清明)
午前8時(穀雨)
午前9時(立夏)
午前10時(小満)
午前11時(芒種)

午後0時(夏至)
午後1時(小暑)
午後2時(大暑)
午後3時(立秋)
午後4時(処暑)
午後5時(白露)

午後6時(秋分)
午後7時(寒露)
午後8時(霜降)
午後9時(立冬)
午後10時(小雪)
午後11時(大雪)

四季を持つ私たちは、知らず知らずのうちにこの1年時計を身体に刻んで生きています。朝が来れば目覚め、食事をし、働き、また夜になれば眠るのと同じように、これを1年単位で繰り返して歳を重ねていく。つまり1日のリズムがあるのと同じように、1年のリズムがあって、その季節季節に合わせて身体も心も変化している。

リキの毛も計ったように季節とともに衣替えをし、まもなく20歳になるミドリガメの平次も部屋の中で飼っているにもかかわらず毎年冬になると冬眠に入って春に目覚める。この繰り返しです。

私たち人間も、このリキや平次と一緒です。ただ人間は「社会」と言う別の環境に生きていて、このもう一つの環境の影響を受けすぎているために、この身体や心の変化に自覚がない。

しかも、この1年時計の中の身体や心の変化は、日常に起きるそれと違ってもっと大きな変化、別の次元の変化です。

これを今朝の雨風の中の、リキの散歩で感じた。

いつものツバあり帽子がなぜか何度も風に飛ばされるのです。梅雨時の散歩ではこんなことはないのにと思いながら、気がついた。頭が小さくなっている。

いやそれは歳のせいとツッコミが入りそうですが、そうではありません。思えば冬の寒い時に帽子を深くかぶってもなんとなく頭がスースーするのに、梅雨時は全く逆です。深くかぶるときつくて暑い。風のない時は頭に乗せるようにかぶります。

ひょっとして頭だけでなく身体全体が小さくなっているのではないかと、思うわけです。そして心も。

心も季節とともに成長し大きくなり、秋になって実り、冬に熟成して、また春を迎えて大きくなる。この繰り返しのように思います。ただあまりにも雑音が多くて、私たちはこれに気づかないだけ。

朝のリキの散歩が、それを教えてくれた一日でした。 KAI

October 23, 2006

記号と意味、その意味の力を取り戻す社会とは

長岡京市の児童虐待死問題で、親以上に逮捕すべきは、この子の命を救うことができたにもかかわらず放置した児童相談所の担当者ではないのか。児童相談所は、事件の数日前民生委員の通報を受けたにもかかわらず単に電話で様子を確認しただけと、ただただあきれるばかりです。

社会的責任ある立場の人が、その責任を果たそうとしない。一体これはなぜなのか。

ウチダ先生経由「平川くん」が言っているように、

社会の規範意識や情操が希薄化しているから
学校のことは忘れて欲しい

なのか。もし「社会の規範意識や情操」の希薄化が原因とすれば、なぜこの希薄化なのか。

考えてみると、希薄化と言う以上、これはもともと豊潤であったとの錯覚があります。規範意識や情操など果たしてもとから豊潤に存在していたのでしょうか。実はこんなものもとからないのに、これをあるとして「責任」を演じてきたのが現実ではないのか。

社会の規範意識すなわち道徳の放棄こそ戦後民主主義の旗印であり、情操ではなく競争と言う原理こそ資本主義の根幹を成すものである以上、もとからこれが豊潤にあったなどとは、まやかし以外なにものでもありません。

このまやかしが「常識」として通用してきたのが「社会的責任ある」立場の人々だったのです。そしていまこの「常識」と言う非常識が、そこかしこでもぐら叩きのように露呈し始め、社会を苦しめている、そう言うことではないのか。

これはすなわち、記号と意味の関係問題とみなすと、その構造がよく透けて見えます。

記号は、それが記号として流通している間は、その記号の意味を改めて問われることはありません。その間の記号の意味が本来の意味を持っていなくても、これがなんら問題になることはないのです。

しかし、記号はひとたびその意味を問われると、まことにモロイ。虐待しかりいじめしかり社会的責任しかりです。そこらじゅうで責任者の平謝りの図の嵐は見ての通りです。

虐待とは死に直結する意味を持つにもかかわらず、児童相談所の職員の意識は、その死が持つ意味と対極です。単に“ギャクタイ”であって“虐待”ではないのです。

そして繰り返される記号の付け替えとあらたなる対策マニュアルと言う記号化。尊い命の代償に一時的に与えられたその意味も、記号のみが流通する社会の中で瞬く間に本来の意味の力を失っていきます。

記号がその意味を喪失するのは、その社会に対話がないからです。逆に対話こそ、記号にその意味の力を与える唯一の方法であります。

かつて私たちの社会にその対話があったとすれば、それは例えば松下村塾のようなごく限られた社会の中でであって、開かれた社会の中にこの対話を見出すことは筆者にはできません。

この閉ざされた社会を大きく変え始めたのが、インターネット社会のコミュニケーションです。大昔から少年の親殺しもあれば虐待もあった。社会的責任を全うしない者も数限りなくいた。しかしこれが表にならなかっただけ。

インターネット社会にはこれを変える力がある。インターネット社会の中の対話であるこのBlogには、そう言う意味があるとKAIは考えています。 KAI

October 20, 2006

ビジネスモデルの悲劇と勝利

GyaOは終わった。

 佐藤英志常務は「動画広告に対するユーザーの認識度がまだ低く、予定通りに広告が集まらなかった」と説明。短時間CMや登録者情報に基づく広告展開も試みる方針だが、19年8月期も赤字見通しだ。(産経新聞、2006/10/20、p.9)

『動画広告に対するユーザーの認識度がまだ低く』ってそれはあんたたちでしょうが。ユーザーをお客様だと思ってないから、本気でユーザーの求めるサービスができていないことが、いつまでたってもわからんやっちゃ。(腐っても鯛とビジネスモデル(2)参照)

『短時間CMや登録者情報に基づく広告展開も試みる方針』と言うのもダメってなんでわからんのだろう。(腐っても鯛とビジネスモデル(3)参照)

これに対してHP。「HPが3年ぶりにトップ」,2006年Q3のパソコン出荷台数。DELLを抜きかえした。

結局フィオリーナが、オペレーションはともかく、正しかったってことです。(こちらはCEOは大変CEOは大変(続き)を参照してください) KAI

October 19, 2006

北の核実験

もし北がテポドンの照準を東京にあわせたら、ひとたまりもありません。これが私たちのASPセンターのビルであるならば、瞬時にすべての資産を失い、サービスも停止します。関東大震災とかわりません。

これを避けるために、東京とは離れた場所でASPサービスを継続できるように準備しています。もちろん現在でも遠隔地へ、1日1回ペースではありませんが、バックアップはとっています。(ディスクの三重化とデイリーのバックアップは標準で行っています)

万一のことがあっても資産を守り抜き、サービスを継続する。これがすべての基本です。

しかし、これを本気で実施している企業は、恐らく極めて少数です。少数であっても現実になれば、これがいやおうなく、その責任が問われます。

こんな理不尽なことといって切り捨てられるのは、今までの世界の中で日本だけです。

9.11のWTCで学んだはずが、実はなんにも学んではいないのが、今の現実です。

善意を前提の性善説を、国民性のレベルで変えるには、どうも拉致だけでは足りないのがわが同胞のようです。

さあみなさん、ミサイルをぶち込まれて、どこまで耐えられますか。その可能性がゼロではない恐怖にKAIは、一瞬たりとも耐えることはできません。 KAI

October 18, 2006

リキの学習

本日は、先ほどやっとトラック2台分、大量のゴミ出しが終わって、来週のリフォームの準備が完了。

ハイタイドに行くべく、いつものスーツではない格好ででかけようとすると、リキが自分も出かけられると勘違い。

そうです。KAIの出かけるパターンは3つ。出勤、テニス、旅行。これしかありません。この3番目の旅行には、かならず留守中のためにリキを愉快な仲間のウッシーにあずける、と言うオプション付です。

つまり3番目のパターンと判断して、自分も一緒に出かけられると思ったのです。

キャゥキャゥキャゥー。

ごめんね、リキ。

しかし、考えてみればリキが勘違いするほどパターンが少ないKAI。反省すべきか悩むところです。 KAI

October 17, 2006

ルールのグローバル化とは

最高裁の元日立社員の発明対価判決は、私たち社会が、ルールが持つ構造的(と言うか構造化を必然に持つ)側面が表になって、これを受け入れる好機になるはずです。

ルールは、このルールの影響する範囲である「社会」と、ルールを強制するための「懲罰」と言うルールによってなりたっています。

日立と言う社会のルールではなく、日本の社会のルールを適用すると言う懲罰の判決です。しかし、これはご承知のように日本の社会のルールと言うより、「特定されない」ある外国のルール、すなわち「世界の趨勢」を受け入れた判決であることは間違いありません。

かように、世界中にある「社会」とその中のルールは、お互いが干渉し合い、時間軸上の変態形質そのものであるといえます。

しかし実際は構造的であり、その構造性と変態性の二重構造の中にルールはあります。

条約と日本国憲法しかり。条例と家族の中のルールもしかり。ルール間に主従関係は存在しません。

家訓と日本国憲法、家訓が絶対であっていいのです。

しかし、社訓はそうではない。修正を余儀なくされる時代になったってことです。

いままでは、「社会」毎で別々の運用が許された、そう言う時代であったものが、今や互いのルールを無視できないわけです。

もちろんこれを実現したのがインターネット「社会」。

今後は、このインターネットの「村社会」毎のルールの二重構造問題へと、時代は流れていきます。 KAI

October 16, 2006

富士通コンピュータの父「池田敏雄」の遺言

こう言う記事を書かないから、若い技術者がよってこないのですよ > 日経BP

富士通のIBM互換ビジネスに質問され、池田は答えました。

顧客のビジネスや研究開発を実現・支援するアプリケーションは知的財産(知財)です。それを速く、安く動かせるようにするのが技術者の使命。そして、IBMメインフレームの上で動く知財が世の中で最も多く種類も豊富なのです。IBMと競合することで、顧客の選択肢が増えます(日本メーカーが米国に完敗した真因

自らが生み出したわが子。この一番の理解者こそ父であり母である池田です。

いったい今、どれだけの人々が、アプリケーションが知財であるとの認識にあるのでしょうか。

池田こそ、この真の理解者であり、伝道師です。

しかしKAIは嬉しくなりました。彼、池田がこう言っていたと言うのが。この言葉はKAIにとって、真の宝石であり、真の応援団です。

そうかだから、今自分がここにいるんだ。これがわかって勇気が湧いてきた。 KAI

October 15, 2006

家族が増える

週末のテニスに連勝して、なんとかこのところの荒れた気持ちに整理がついた。

そんな中、この12月から訳あって、我が家に新しい家族が増えることになりました。新しい家族とは、ある姉弟と犬2匹です。

我が家は山手通り沿いの、3階建の超古一軒家。なにせ昭和30年代の築40数年の家です。そろそろ建て替えないといけないのですが、先立つものが・・・^^;。とりあえず今月2階、3階をリフォームして時間稼ぎを始めた矢先の、シンクロニシティ。ボロイけど2階の2部屋が丁度空いています。

姉弟の家庭の事情で行き場がなくなって、親友である我が娘に相談した結果です。

これで一番喜ぶのが、リキ。2匹もいきなり友達が増えるのですから、もう狂喜乱舞(ほんとに乱舞するから大変!)。

次に喜ぶのが娘。小学生の弟くんと娘は良い遊び友達^^;。この間も二人で豊島園に一日遊びに行ったくらいです。

そして筆者。とにもかくにも家族が増えることはいいことです。こちらも訳あって京都と東京で家族が離れて暮らしています。やっぱり家族は一緒に暮らすのが一番。

と言うことで今年は、久しぶりににぎやかな年末になりそうです。 KAI

October 14, 2006

耐えることとみつけたり

勝負事とは耐えることとみつけたり。いかに耐えるか、これがすべての勝機を決します。

まったく興味のないゴルフでも、勝因を不調時に耐えてスコアを落とさなかったことと、インタビューに答えるツアープロをよく見かける通りです。

これがもっとよくわかるのが麻雀。最近CATVで見てあらためてこれを思った。

他人が麻雀をしているのを背後から観るのと違って、テレビ観戦は、全員の手の流れが一目瞭然です。

するとその場でトップになる人が、この全員の手の流れの中で、いかに勝機をつかんでいくか手に取るようにわかります。結局、耐えて耐えて最後まで勝負を捨てない人が、トップになります。

つまり耐えるとは勝つためのチャンスを掴む、唯一の方法であると言うことです。これはある意味「待てば海路の日和あり」と同じように思えますが、この耐えるには決して「待つ」の持つ受身の意味はありません。

むしろ耐えるとは攻撃です。向かい風であっても前進するヨットと同じです。向かい風で後退したり現状維持は、即敗退です。

カスタマイズの悪魔と闘う意味は、こう言うことです。 KAI

October 13, 2006

あなたは哲学をもっていますか

エジケンの哲学です。

あなたの設計哲学は何ですか。

 第1に単純さです。われわれの判断基準は、どうすれば複雑にしないで済むかということで、これは機能の追加よりも優先されます。

 第2に、ユーザーにカスタマイズさせないことです。ユーザーにカスタマイズ機能を提供するということは、妥協したということだと考えています。われわれはすべての可能性の中から最良のものを選び、それを使います。

 第3に、ユーザーのイライラを最小限にすることです。事前に説明を必要としない作りにすること、必要になった場面で説明を行うこと。1つでもクリックを少なくすること。コンセプトの数は最小限に抑えること。
超軽快なウェブチャットLingr

この2番目の哲学、これこそソフトウェアとはを哲学する、最も重要な哲学です。

すべてのソフトウェア技術者に気づいてほしいのは、この哲学なのです。

いったい今、目の前に、ソバがあって、具があって、これを選ばせる蕎麦屋があるでしょうか。

トッピングなど、まやかしの極みです。

カスタマイズとは、責任放棄、技術放棄以外何者でもないことを、世のすべてのソフトウェアエンジニアには、なんとしても気づいてほしいと思います。 KAI

October 12, 2006

遣る瀬無い人々・その3

どうも遣る瀬無い人々を相手にしていると、さっぱりBlogが進みません。

ツールとシステムの違いが理解できないユーザーは、当然いる、と言うよりこれが普通です。

しかしこれをオドシを使って要求するユーザー。たちが悪い。

流通系はほんとにものを大事にしません。買い叩き、見下し、えらぶる。売るのがエライってね。

これじゃお互いの信頼関係なんか築けませんね。

自分たちが考える世界は、井戸の中の蛙。蛙は所詮蛙。井戸の水面に映る自分の顔をよく見てごらん。

1週間、これから脱却するために、もだえ苦しんでやっと、遣る瀬無い人々と対決しようと決心しました。

やはりこれは闘いです。

敵か味方か、これだけです。 KAI

October 09, 2006

奇跡は起こしてみなければ誰も信じない

青山劇場で公演中の「奇跡の人」を観た。

久しぶりに生で観る演劇は、やはり何とも言えない気の迫力があります。

以前この白黒の映画をテレビで観た記憶はありますが、ストーリーは全く覚えていません。やっと今日しっかりストーリーが頭に入った感じです。

ところでアニーこと家庭教師のサリバン先生について、Wikipediaのアン・サリヴァンの項に、こんなことが書いてあります。

奇跡の人という呼び名があるが、これは三重苦の障害を乗り越えたヘレン・ケラーのことではなく、それを可能にしたアン・サリヴァンのことをさすものである。

確かにこの公演を観て思ったのは、三重苦のヘレンより、彼女に言葉を教えたアニーの苦闘です。

このアニーの苦闘の末やっと人間らしい作法を身につけたかに見えたヘレン。しかし母ケイトの元に戻れば元の木阿弥。母親の強すぎる愛が、ヘレンの三重苦の克服を阻むのです。

アニーやヘレンの前に立ちふさがるのが母の愛とは、なんとも皮肉ですが、しかしこれは今も普遍的にある現実です。

母性の前では何事も無力です。それが理屈ではない分、言葉と言うコミュニケーションは通用しません。ましてや言葉と言うコミュニケーション能力を持たない者、あるいはそれが著しく劣る者にとって、いまある母親の愛という母性がすべてです。

しかしこれをアニーはいかにして克服して「奇跡」を起こしたのか。

それはアニー自身が母となって、ケイトの母の愛を上回る愛を、ヘレンに与えたからに違いありません。ヘレンは、彼女の全身を包むアニーの愛を、頭からぶっかけられた井戸水でようやく感じたのです。そしてヘレンは、アニーのこの愛がwaterと言う言葉だと教えていることに、やっと気づくのです。

このアニーの愛は、端から見ている者には理解できません。ましてや母親には皆目理解できません。この理解できない母親にこそ、最も理解してほしいにもかかわらず、です。

ですからこれは奇跡です。奇跡はこれを起こしてみなければ、誰も奇跡を信じることはありません。ケイトも目の前の奇跡によって初めて目覚めるのです。アニーの奇跡の愛と言う存在に。まことに示唆深い結論です。 KAI

October 08, 2006

くり三題

毎週、日曜の朝6時15分になって聞こえてくる平川地一丁目の「夢見るジャンプ」は、おおいに食欲をそそる曲です。と言うのも、この曲がNHKのたべもの新世紀と言う番組のテーマ曲で、この番組がおおいに食欲をそそる番組だからです。

今朝のテーマは「くり」。ああ美味しそうだなと、くりご飯が無性に食べたくなる。(クリの木の幹を残してほとんどの太い枝を剪定することによって、クリの木の15年程度の樹齢を20年、30年にのばす話は興味深い話でした)

タイミングを合わせたように、母親が送ってくれた実家の丹波栗が、朝の9時に届く。昨日夕方5時過ぎに実家にヤマトが集荷しに来たもので、なんとも早い仕事に感心至極。

そして、さっそくこれをくりご飯にして、夕方からのハイタイドでの娘の誕生パーティに持ち込む。昼間、いつものテニスの後、更に2時間の助っ人テニスもこなして、へとへとになりながらハイタイドにたどりつく。そこに来てくれた愉快な仲間達と一緒に、くりご飯をいただく。

今朝から待ちに待ったくりご飯、あまくやわらかく、なんともくりくりして美味しいくりご飯でありました。 KAI

October 07, 2006

満天の名月

家族4人と食事をして寿司勇の階段を昇ると、そこに中秋の名月があった。

それはまるで天体望遠鏡で見る、満天の月でありました。

こよみ上の中秋の名月である昨晩は、風と雨の大嵐。

うってかわっての今日はまさに満天の満月。こんな満月を見たのは、恐らく人生初めてかもしれない。

やはり丁度1年前に見たシアトル湾の月も、人生忘れがたい月でしたが、満月は心を映す大鏡です。その人生の節々に立ち向かう心のうちを映すがごとく、今の気持ちに満月はあふれています。

人生とは真に永い道のりです。来月成人になる長男と、その3歳年上の長女の二人並んで歩く後姿を見ながら、心地好い夢酔いの中のKAIでありました。 KAI

October 06, 2006

新会社のビジネスモデル

今度、愉快な仲間も引き込んで、新たに会社を立ち上げようと目論んでいます。

新しい会社の資本金も決まり、役員と社員の顔ぶれも決まり、住所も決まり、ましたが、肝心の定款ができていません。つまり何をやるのか、これがまだ決まっていないのです。別にこれは悪い意味で書いているのではなく、まったく逆の意味、つまり、やりたいことが山のようにあって、今回の新会社の設立を機に、一挙にこれを具現化したいからです。

筆者の夢は、ソフトウェア技術者を幸せにすることと、そのソフトウェア技術を使ってそのソフトウェアのユーザーを幸せにすることです。

しかしこの夢と、実際のビジネスを結びつけることは、容易ではありませんでした。実に20年近くを要してしまいました。今やっとこれを目前にして、あらたなるビジネスと言う夢への意欲がふつふつとわいてきます。もちろんこれは、今の夢を実現させるために不可欠と考えて行っていることで、決して浮ついたものでないことは誤解を生まないために一言言っておきます。

この、今、新たにやりたいこととは。

それはB2Cの世界に、スタンダードなソフトウェア作法を普及させることです。

え?

と思うでしょうが本気です。


車社会こそ、このソフトウェアの今までを説明しこれからを予言できるメタフォの世界はありません。これは続きます。 KAI

October 05, 2006

遣る瀬無い人々・その2

「今日はオレの誕生日だぜ、プレゼント用意してあるよな」
って言われてプレゼント差し出すバカはいません。

でもこう言うヤツ大杉^^;

私たちのサービスの意味を理解してくださいよ、お願いですから。

と言わないと気が済まない^^; KAI

October 03, 2006

それを解決するにはソフトウェアのサービス化しかない(2)

それを解決するにはソフトウェアのサービス化しかないと書いたけれど、この話のポイントはすでに2年前のエントリーソフトセクターとは(その7)の中で議論しています。

しかし、これも既に議論してきた通り、ソフトセクターの流れはこの業界全体の業務ノウハウの獲得と実装と言う次元に移っており、これは1ユーザー企業にできるものではないのです。もちろん相も変わらず多大なるコストを負担する自社開発、自社メンテナンスを選択する企業は残りますが、これは4800に含まれない機能の業務ノウハウを持つユーザー企業に限られてくると思います。

物流サービスが物流専門会社による全国ネットワークに集約されていったように、ネット社会では、ユーザー企業=業務ノウハウと言う図式ではなく、ネット社会の専門企業=業務ノウハウと言う構造に収斂していくというのがKAIの推論です。

つまりサービスを提供するソフトセクター側にこそ、業務ノウハウと言うアセットがあって、この業務ノウハウを実装できないサービスは、ソフトセクターとしても生き残っていくことは不可能だと言うことです。

今自らSaaS(Software as a Service)とサービスを名のっている製品に、果たしてどれだけのアセットとなる業務ノウハウが実装されているか、はなはだ疑問符だらけです。

そして、一方のユーザー企業はと言うと、自らのアセットがもちろんこの業務ノウハウにあるのはわかっていても、それがソフトウェアオブジェクト側と人間オブジェクト側の両方にあることを理解していません。

ソフトウェアオブジェクトの差別化と称して自社開発に走る理由は、ここにあります。差別化は、必要十分のソフトウェアオブジェクトを前提にすれば、人間オブジェクト側の差別化しかあり得ないのです。

名人が名人である要件は、名人が使用するその道具にはない、と言うことは、誰が考えても明らかなことです。 KAI

October 02, 2006

リキ的好奇心

筆者が家に帰ってくるときは、ほぼ毎日なにがしらのものの入った紙袋をカバンと一緒にさげていて、それをテーブルの横に置きます。するとリキが、

「ねえねえ何これ?」

とばかり鼻を摺り寄せ、中身を確認しによってきます。

リキの餌も、ほぼ毎日同じメニューで、

「あーあ、また同じ・・・」

って表情がありありで、こいつかわいくねえ、でいつもはお仕舞いです。

これがたまに、娘が作ったカボチャの炊いたのが食べ切れなくて捨てるのももったいないと思って、リキの餌にまぜる、そのそぶりをしたとたん、今までソファーで不貞寝していたリキがいつの間にか筆者の後ろで、鼻を大きくして、いる。

ヨシ、の声とともにこれを一気に食べつくす様は壮観です。

かようにリキは、何か新しいものに極度に好奇心を示します。

実はこれは、いま手元にないので正確な引用はできませんが、以前取り上げた動物感覚−アニマル・マインドを読み解く(日本放送出版協会、テンプル・グランディン /キャサリン・ジョンソン、2006/05)の中で記述される、牛たちの行動と酷似しているのです。

そもそも動物とは、本来的にこの好奇心を持っているのは間違いありません。

人も、その動物です。

この好奇心を、いかに刺激するか。ポイントはここにあります。 KAI