August 31, 2006

遣る瀬無い人々

今の気持ちを表現すれば、遣る瀬無い、か。別に恋にやぶれて遣る瀬無いのではありませんが。

以前からいろいろ文句を付けたがる人々がいるのですが、まあ近寄らなければ、害もない。これが昨晩は一挙にむこうから押しかけてきた。こう言う共時性は勘弁してほしいもんです。

言って争うつもりもないのに押しかけてくる。まあ人の気持ちは不可解ですが、KAIの生き方としては、これはこれで共存してきたつもりです。しかしなんでまた押しかけてくるのといいたい。

と書いてとりあえず気を晴らしておこう^^; KAI

August 30, 2006

GOくんの転職

ヘッポコくんの更新がないのが心配ですが、GOくんが転職したのは丁度今から2ヶ月前。

今日GOくんにあったら、なんだかとっても面構えがよくなった。某O社の年俸数百万、IT企業の営業職をかなぐりすてて、KAIの行きつけの寿司勇の職人に転職したGOくん。最初のころはあぶなかしくって、心配していたけれど、もう大丈夫。

要は、できる人間は職業を選ばないってことですね。その時々の出会った仕事をこなして、どんな仕事でも一流になっていく。そう言うもんだと思います。もちろん最低限の生活ができる金は必要だけど、金にこだわる人間は、まず大成しない。

GOくんは板前見習ですから、前職に較べれば、年収は何分の一。それでもやりたいことをやりたいときに始める。奥さんや子どもがいて、ましてやマイホームのローンがあったりすると、こうはいかない。あとから後悔するよりやれるときにやる。そう言うもんです。 KAI

August 29, 2006

これは蒟蒻なんかじゃない

出された料理を一口食べて、思わず叫んでしまった。まったく別の食べ物ですよ、これは。おからこんにゃくと言う食材を使った料理を食べて、感動してしまいました。

おからこんにゃくとは、名前のとおり蒟蒻そのものですが、おからが練りこまれている蒟蒻です。これを味付けして片栗粉をつけて油であげて焼くと、これはまるで焼き肉そのもの。ご飯がこれだけで何杯もおかわりできます。

ホームページによればカロリーは、鶏肉の15分の1。食物繊維はトマトの5倍!で、超ヘルシーメニューです。しかも1袋367円(税込み)。給料前の1週間は、これとご飯だけで十分もちます^^;。

しかしです、名前が良くない。おからこんにゃく、では全然商品イメージが浮かんでこない。もちろん蒟蒻と言うヘルシー食材を訴えたいのはわかる。しかしそれにオカラをつけてもはてなんじゃいなってことになるだけ。ここはKAIが命名します。

ファームチキン

シーチキンのまねです^^;。が、これがいいんです。シーチキンから連想されるヘルシー感覚でかつチキン味もイメージできる。しかもファームから農場、畑でできることもわかる。いいでしょう?

更に提案です。これは絶対缶詰バージョンを開発すべきです。ってこれもシーチキンのまねですが^^;。 KAI

追記)ファームチキンでぐぐってみたらすでに使用中でした^^;いい名前が浮かぶまでこの件保留!

August 28, 2006

ネットが着実に社会を変えている

ネットが着実に社会を変えている。

 Tower Recordの倒産は日本でも報道されたようだが、NHKが夕方のニュースであたかも「Tower Recordの倒産はダウンロード型ビジネスモデルへのシフトだけが原因」であるかの誤解を与えるような報道していたのが少し気になったので、米国に暮らすブロガーとして一言。

(中略)

 実際のところ、Tower Recordのビジネスに一番の打撃を与えたのは、Walmartに代表されるディスカウントストアとAmazonに代表されるオンラインストアというのが、米国での最も一般的な見方だ。

 Walmart、Coscoなどのディスカウントストアは、食料品や日用品を買いに来た消費者に、発売したばかりの売れ筋のCDやDVDを山積みにして購買意欲を刺激し、「この曲、ラジオで良くかかっているな、買っておこう」「今は、こんな曲が流行っているのか、聴いて見よう」と他の買い物の『ついで』に購買させる作戦で大きく売り上げを伸ばして来たのだ。それにより、Tower Recordなどの「レコード店」はCD発売当初の一番おいしい部分を持っていかれることになってしまったのだ。

 すると後は「専門店」としての強みを出すために「品揃え」などで差別化してがんばるしかないのだが、こと「品揃え」に関しては、ロングテールの王者、Amazonの足元にも及ばないので、これがまた問題である。
AmazonとWalmartの狭間に消えたTower Record−− 中島聡・ネット時代のデジタルライフスタイル

まずこのニュースへの接し方。確かにKAIも、NHKの解説と同じ原因であるように間違って理解していました。この記事を読んで、目からウロコです。

このところ誰かのBlogを読むたびに、すとんと落ちるように納得いく話に毎日のように出会いますが、これは決して偶然ではないと思っています。かつての限られたニュースソースに較べれば、いま恐らく何百万倍もの情報を、日々私たちは受信しています。

この大量の情報を前に、大方の人は自らこれを取捨選択する努力を放棄し、相変わらずのオールドメディア依存を続けるか、mixiの中でコクーン化を決め込んでいます。しかしそうではなく、この大量の情報の海の中で、悪戦苦闘しながらも情報の取捨選択を繰り返し、その質的意味の理解に努める人々も、着実に増えているはずです。

KAIもその一人ですが、この1、2年で、この大量の情報の海の泳ぎ方が明確にわかってきました。

それは情報を知る前に人を知ることが大事だってことです。一昔前は人を知るために、その人の情報を知る必要がありました。これが今ではその人のBlogを読めば、ある意味簡単にその人となりを知ることができます。

あるニュースに接して、あの人はなんてBlogに書いているのだろう。あるいは自分の知らなかったニュースが、ある人のBlogで取り上げられていて、知る。すべてBlogを通して“その人を知っている”から得られる情報ばかりです。決して同意は不要です。この人はこう考えるけれど自分はこう考える。互いに考察の土台を提供し合うことで、その議論が深まり、より理解も深くなります。

このあたりのことはまた改めて整理する必要のあるテーマですが、もう一つのお話しがTower Recordの倒産自体の話です。

今から2年ほど前、タワーレコードやTSUTAYAをStingのDVDを求めて探し回りました。どこも売り切れで、よく考えたらamazonで一発で手に入ったのですが、結局これは米国だけでなく日本のタワーレコードにももろに言えることです。しかもWalmartの替わりに日本の大手コンビニが同様の展開を始めれば、これは決定的です。

つまりどの小売りも、今やネットを無視して商売ができなくなっていると言う事実です。いえネットを無視するどころか、ネットこそ中心に据えて、本気でこれに取り組まないとたちまち倒産の憂き目にあうってことです。

んなことないと言い張るあなたも、きっと5年後には、ネット企業への転職を本気で考えているはずです^^;。 KAI

August 26, 2006

イカ釣り漁

季節は確か夏、若狭湾のイカ釣り漁に、KAIが小学生の頃親父に連れられて行った。

夜半に舞鶴港を出て、3時間ほど船を走らせたところが漁場だった。そこで光々と明かりをつけながら夜明け前まで釣り糸をたらしてイカをつる。

釣り糸に等間隔にいくつもの釣り針がついていて、海中にたらしたそれを指でたぐりながらあたりをみて、ころあいを見て釣り糸を引き上げる。するとイカがいくつもかかっていると言う漁です。とても子供にできる漁ではありません。さんざん親父にしかられて、おもしろくもなんともない体験でしたが、夜中に船で出かけると言うアドベンチャーは、強烈に筆者の記憶に残っています。

今朝のNHKのニュースを見て、この時の光景がありありとよみがえってきました。NHKのニュースで、このイカ釣り漁を取り上げていたからです。

イカ釣り漁はなぜ夜中に行うのかと言うと、あの光々としたカンデラに照らされてイカが寄ってきたところを針にかけて釣るからだと、筆者だけでなく漁師自身が信じていたのですが、実はこれはまったくのウソであることがわかった。と言うNHKのニュースです。

イカは、実は光が苦手だそうです。夜中にカンデラで照らされると、あわてて光のないところに逃げる、そう船体の陰になる船底です。いみじくも光の網でイカを船底の下に追い込んで、それを針で引っ掛けていたのが、イカ釣り漁の仕掛けだったのです。

なるほど、若狭湾のイカ釣り漁の時も、いくら船の周りを見渡しても、寄ってくるのはくねくねしたうみへびばかり。どこにもイカの姿は見えませんでした。これで何が釣れるのと幼心なりに疑問に思ったのは、まさにその通りだったのです。

この話の示唆するところは、あまりにもおおきいです。

恐らく日本経済も、昨日も書いた一部の人たちには、いまだにこの漁師達と同じように見えているんだろうなと、確かに思いました。 KAI

August 25, 2006

笑顔で営業^^;

さすがに1日朝7時に出勤してデモ2件のあと夜9時まで会議だと、へとへとになる。会議の後速攻でハイタイドに寄って、マティーニ2杯で英気を取り戻す。

それにしても、空気が変わってきた。

お客さんと話していても、みなさん、表情が明るい。前日は沼津までデモにでかけて、本日は神戸と南青山のお客さん。みんな一様に元気。別にこれまでお会いしてきた人たちの表情が明るくないと申し上げているわけではありません。その明るさの度合いが、より明るくなってきていると感じるのです。

一般的に事業をスタートされようと言う方々の表情は、明日遠足に出かける前の小学生の表情と一緒です(小学生と一緒にしてゴメンナサイ^^;)。これを事業を継続されていて、私たちのサービスに興味を抱いていただく方々の表情には、2種類あります。事業がうまくいっている表情と、苦心されている表情の二つです。

どちらの表情の方々にとっても、私たちのサービスは、意味があります。しかしそのそれぞれの意味は大きく違います。事業がうまくいっている方々は、私たちのサービスに、売上の増大を期待します。苦心なさっている方々は、私たちのサービスに、原価低減を求めます。

人は、求めたものを得ることができますが、求めないものまでは得ることはできません。

そうすると当然のように、事業がうまくいっている方はますますうまくいくし、原価低減を果たした方は縮小均衡にむかいます。もちろん縮小ではない売上増大を図りますが、これを決して私たちのサービスに求めることはありません。それは彼らにとって私たちのサービスは、あくまで原価、費用であるからです。広告宣伝費が営業費用であるのと天と地ほど違うのです。

でも、これを説明して理解してもらうことは、KAIは諦めています。なぜなら、これは経営そのものであるからです。私たちは経営コンサルタントではありません。経営の考え方に口出すまでのノウハウを持ち合わせてはいませんし、またそれは私たち自身の経営の考え方に、合いません。

で、空気の話です。

一方で地方は全然違うと言う方々がいます。果たしてそうでしょうか。このところ日増しに地方の方からの問い合わせも増えています。

この違いは一体何か。それは吸っている空気の種類の違いではないかと、最近KAIは考え初めています。つまりネットの空気を吸っている人たちの表情が明るいってことです。ネットの空気に接していない人々は、まるで勘違いとしか思えないことを、相変わらずのオールドメディアを鵜呑みにして、唱えている様は、かつての高度成長後の停滞の空気と一緒です。

と言うことで、みなさん、ネットの空気を吸って明るく元気で営業しましょう^^; KAI

August 23, 2006

SWIFT

SWIFTと聞いて、これがなにかすぐ反応できる方は、筆者同様のご苦労を経験されているはずです。SWIFT(スウィフト)とはSociety for Worldwide Interbank Financial Telecommunicationの略で、海外の銀行間の送金ネットワークのことです。筆者の会社は、現在これを利用して毎月の海外送金を行っています。これがまともにできるようになるまでの、銀行との2ヶ月間にわたるやり取りの話だけで、1週間はここのネタにできますが、今回は別の話です。

KAIにとってこのSWIFTとの出会いは、20年以上前の1980年代前半、8ビットパソコンの利用の拡大とともに始まりました。当時このSWIFTは、この用語の定義する通り銀行自身が利用するネットワークであって、企業がこれを利用するためには、自社の汎用機で作ったMT(磁気テープ)を銀行に持ち込んで、銀行に送金を依頼する以外の方法はありませんでした。

これを日本で初めて、8ビットパソコンを企業に設置し、このパソコン経由電話回線経由のファームバンキング形式で海外送金を依頼できるシステムを企画し販売する銀行が、日本に現れました。たまたまKAIがそのシステム開発を担当することになり、当時の銀行担当者が、中国系アメリカ人のリンダでした。リンダは、日本の通勤ラッシュがいやで朝の6時前には大手町のオフィスに通勤すると言う女性で、当時のKAIにとって、彼女の米国企業流の仕事の進め方がとても新鮮でした。

このシステムの一番の問題は、送金の安全性の確保です。当時の8ビットパソコンと電話回線の通信技術で、いかに送金と言うきわめて高度なセキュリティが要求される業務を実現するかです。しかし、正直KAI側に、これを提案できるだけの技術力はありませんでした。もちろん8ビットアプリケーションとIBMのホスト側をそれぞれどう作り込めばいいか、これはまったく問題ありません。

このセキュリティは結局イギリスで開発されたと言うBB(ブラックボックス)と言う、名前負けしそうな^^;名前の製品を使って解決しました。BBとは簡単に言えば今のルーターで、当時の無手順だった電話回線のデータ伝送を、特殊な暗号化したプロトコルをつかって実現する技術でした。

この銀行の商品は、発売と同時に爆発的に売れ、わかりませんが当時の大蔵省から相当の圧力を受けたはずです。なにせ当時、外資系銀行→邦銀はオンラインどころかMT持込さえ認められず、なんとパンチカード持込みの時代であったのです。

あれから20有余年、時代はWeb2.0。銀行のホームページに行って、ひょいひょいひょいと相手方の銀行名を打ち込んで(ってこれがまたほんとに一苦労なんですが割愛)、金額入れて依頼実行すれば、送金完了。当時苦労して開発した仕掛けが、20年たつとこうなるんだと言う典型的な見本です。岩の間に水を通すがごとく、初期の技術開発は、岩の割れ目を縫うように進んでいきます。これがやがて大きな流れに合流して、最後は本流となって流れていきます。

今から20年後、30年後の姿を見通すためには、この何が技術の本流になるかをよく考える必要があります。暗号化などは個別問題ではなく共通問題であり、これは必ず標準化され、インフラ化されます。その上にあるアプリケーションにこそ技術力としての付加価値があり、この獲得に邁進してきた20年は、間違いではなかったと、今確信しています。

若いソフトウェアの技術者には、ぜひこの視点を忘れないでもらいたいと、切に思っています。 KAI

August 21, 2006

天使の羽

先日、日立の掃除機をビックカメラのネット通販で購入したのも、これに貢献しているのでしょうか。

 日本通信販売協会(石川博康会長、正会員444社)は、2005年度の売上高について調査を実施、05年度の通信販売業界全体の売上高が、推計で3兆3600億円となったと発表した。前年度の3兆400億円に比べて、3200億円の増加となっており、調査開始以来の最高額となった。また、対前年度の伸び率も10.5%を示し、91年度以降、15年振りとなる二桁増加を記録した。
日本通信販売協会、05年度の通信販売業界全体の売上高は前年度比10.5%増加

と言ってもこれは2005年の実績ですから、恐らく2006年は更に上向きになると思われます。その原因は・・・と言うのが本エントリーの目的ではなく、話題は冒頭の日立の掃除機。家庭用電化製品の中でも、この掃除機。エアコンやテレビなどに較べれば今ひとつ表舞台に立たない割に、家庭から決して消えてはなくならない電化製品の代表です。その掃除機も、ここ十年、ダイソンの掃除機くらいでとっくに進化を終えたものと言う認識でしたが、これがまったく違いました。

筆者の毎朝の欠かせない日課には、愛犬リキの散歩の他に、もう一つあります。それはリキと一緒に生活している、フローリングの居間の掃除機がけです。1年の内、唯一3月後半から6月前半までの毛抜けの少ない3ヶ月を除いて、とにもかくにも毎日掃除機をかけないと、ゴールデンの綿毛でフロアとソファーがとんでもないことになります。

これをここ何年も、三菱の強力パワーの掃除機をつかってやってきたのですが、この掃除機、パワーに比例して重い。その上ブラシの部分に毛が巻き付いてすべらない。もう限界と三菱に三行半をつけて日立に変えたのが、冒頭のお話しです。

で、この日立の掃除機の軽さが標題の「天使の羽」(KAI命名)。もちろんモーターのある本体部分ではなくブラシのついた枝の部分が、まさに羽のような軽さ。しかもブラシの部分が3Dに回転して、猫の手のごとくあらゆる隙間にブラシを挿入できる。

これなら毎日の掃除機がけも苦になりません。苦にならないどころか、これを購入して以来毎朝の掃除機がけが楽しみにさえなっています。掃除機をかけたあとのスッキリサッパリ感。これで毎朝、気持ちの良い一日のスタートが切れるとすれば、2万数千円のなんとお得なことか。 KAI

August 20, 2006

還暦の炎熱テニス

今日も懲りずに炎熱テニス。多少昨日より風があるだけすごしやすいけれど、それでも30数度の気温の中で、ほんとによくやります。

それも、4人の年代は40代が1人、50代が2人、60代が1人。そう一人はなんと60代です。先日クロアチア旅行で3週間不在だったY木さんは、今年春、還暦の大台に。

「Y木さん、70までは続けましょうね。」
「いやいや、もうむりですよ。最近はちょっとこんをつめて仕事をしてると心臓がぱくぱくするから、もうやばいんですよ。」

なんて会話が普通なくらい、週2日の炎熱テニスをひょうひょうとこなすY木さんは、宇宙人です。

そのY木さんの本日の成績、6-3、7-5、6-3の3連勝。還暦パワー炸裂の炎熱テニスでした。 KAI

August 19, 2006

灼熱テニスと礼節教育

炎熱テニスのつぎは、灼熱テニスです。朝9時スタートだから少しはましかと思ったのが、あまかった。

この2、3日、我慢できずにクーラーつけて寝たのが原因の鼻かぜで最悪の体調の中、こんな地獄のようななかでテニスをしたら、ほんと心臓がぱくぱくして、お終いになるんじゃないかと本気で心配しながらのテニスです。

なーんて殊勝なことは微塵も考えず、ここは一気にかぜをふきとばそうとのもくろみの元、しかし、さすがにこの暑さには勝てません。へろへろの3-6、6-4、1-2となったところで、11時。これにておしまい。

と、いつもどおりのテニスのはずが、今日は違いました。9時スタートと同時に、同好会とおぼしき20人以上の学生が、となりのコートで練習を始めたのです。

いやな予感が的中して、こちらのゲーム中に何度も、彼ら彼女らがこちらのコートに侵入してくる。

たまりかねたKAI。

誰がコーチなの?君?君ねえ、みんなに、ゲーム中は相手のコートに入っちゃダメって教えなくっちゃ。

こわもておじさんから、突然の猛抗議。20数人全員凍りついたのが、面白い^^;。

さすがに以降は誰も、まったく侵入がなくなったのはいいけれど、ちょっとそこのおねえさん。竹ざおで柿を採るのとちがんですよ、サイドラインから一生懸命入らまいとして中のボールをとろうとする姿には、笑った。

練習中のボールが隣のコートに入るのは、致し方ない。それをほったらかしにするのが、まず、きみたちダメダメ。

ボールには意志がありませんから、勝手にどこでも侵入します。でもこれが人間なら、侵入していいかどうか、一目で判断できるでしょう。

ゲームのプレイの真っ最中と、その合間。この区別がどうしてつかないのでしょう。

マニュアル教育の、弊害みたり、枯れ尾花

マニュアル教育の対極が礼節教育です。○教組が戦後破壊した教育の原点です。

意味を教えるためには、なぜ強制が必要か、別に暴力など必要ありません。ただ単に躾けです。くりかえしその振舞いを、しつける、すなわちしかればいいだけです。

目の前のコーチに、これを期待することは、世のタクシードライバーに気持ちよく車に乗せてくれとお願いするくらいには、難しいことではないと思うのですが。 KAI

August 18, 2006

新しい行きつけの(予定の)お店

まるでお見合いです。人生、正式な見合いは一度だけあるけれど、そのときと同様、緊張しました。

行きつけのお店の相次ぐ閉店に書いたとおり、8月13日で渋谷のナカムラが閉店して、マスターに紹介してもらったお店に予約したのが、今日10時。

いつもどおり宮下公園下駐車場に車を入れ、いつものパルコの方向とは反対の青山通りに向かう坂道を登る。仁丹ビルの信号を左折してすぐのところにあるはずと、見ると格子のシャッターが閉まっている。時間は9時56分。

残暑の日差しを直接受けながら坂道をあがってきて、ここで一挙に汗がふきだす。涼める銀行の窓口でもないかと更に先まで歩いたのが、余計だった。汗が滝のようにとまらない。

ナカムラは朝10時開店で、9時50分ごろ早めについても中で待ってられてたけれどとぼやきながら、前の木陰でしばし待って10時丁度に、やっと中に。

お店の中を瞬時にチェックするが男性スタッフが数名と女性スタッフ1名、顔はまったく識別できず。壁の鏡に向かって、横一列に並んだ椅子に案内されて、入り口に一番近い右端のところにすわる。鏡の前にある洗髪台がないのが、KAIにとって初体験。

鏡越しのお見合いが始まりました。なかなかいい男(ここでハートマーク^^;)。一番年輩ながらまだ30代。好みの調髪と調髭方法を指示して、60分。

大成功のお見合いでした。

次回のデートの約束をして大満足に、駐車場に向かって坂道を下りながら受ける日差しが、短くしたばかりの頭皮になぜか心地いい。心の中でVサインを出してにやつくオヤジが変と、信号待ちする向かいの女性がにらみつけてきました。やっぱり変でした。 KAI

August 17, 2006

パソコンの未来

デルの歴史も意外と古かった。創業からすでに22年にもなる。

--パソコンが一部のマニアたちだけが持つニッチな装置から誰もが使う道具になると認識されたのはいつ頃でしょうか。

 私が大学を中退したのは、まさにそう考えたからこそです。それが、1984年のことです。そして、その年、起業しました。もっともっと多くの人たちがパソコンを使えるようになり、パソコン自体も使いやすくなるだろうということ、そして、わざわざ店舗に足を運ばなくてもパソコンが直販されるようになるだろうということさえ、既にその頃から確信していました。われわれは80年代初期の頃から既にそうした空気を感じていたのですが、もちろん、そんなことを考えているとは誰にも言えませんでした。このようにして私はこの業界に第一歩を踏み出したのです。
パソコン25年の歴史を振り返る--デル氏に聞く

このパソコンの、今から20年、25年後の姿がどうなっているかの質問に対して、

 パソコン業界は、成長および変化(の速度)という点でまだ初期段階にあると思います。高速ブロードバンド接続、光ファイバ、高速無線通信などの普及もまだまだこれからです。これらが実現すれば、さまざまな場所から、さまざまなアクセスメディアを介して、パソコンを利用できるようになります。もちろん、PCは既に、製造、娯楽、教育、医療などの分野で欠かせない存在になっています。
同上

と答えている。これにはKAIもまったく同感です。もちろんデスクトップとノートおよびモバイルが相互に有機的に接続しながら、各々独自の進化をとげているはずで、モニタに表示される内容も今とは想像を超える変化をとげていることは、間違いありません。

これをもう少し具体的に説明しましょう。それはパソコンの形態と、そのパソコンで実現される機能の両面からみていく必要があります。

まずパソコンの形態についてです。形態は、デスクトップとノート、それにモバイル(ケータイを含む)それぞれ別々の進化を遂げます。つまり、デスクトップはよりコンパクトに、モニタはより薄く大きくなります。ノートは、B5サイズのままより薄く軽くなります。そしてモバイル。サイズは女性が持ち歩く手帳サイズに収斂して、こちらもより薄く軽くなります。これらがあるところまで行けば、以降のそれぞれの形態の大きな変化は起こらなくなります。これは時計のサイズを考えれば同じことが言えるわけで、柱時計、置き時計、腕時計には、各々の最適なサイズと言うものがあるわけです。

次にパソコンの機能ですが、こちらはたった一つ(の様式)に収斂していくものとKAIは、考えています。たった一つ(の様式)とは、デスクトップ、ノート、モバイルそれぞれ見え方が違うだけで、すべて同じことができるようになるってことです。つまり、デスクトップでできることは、もちろんノートでもできるし、すべてモバイルでもできるようになります。

その逆にモバイルでできる、電話もワンセグも含めて、すべての機能が、デスクトップでもできるようになるってことでもあります。

違うのは単に見え方と操作の仕方だけです。

なんでこんなことになるかと言うと、すべての機能が“あちら側”に行くからです。“あちら側”にある機能を、進化したそれぞれの“パソコン”で利用するだけですから、できることに違いがなくなるのです。

ただここで注意しなければいけないのは、パソコンの形態の違いとともに、周辺機器とのインターフェイスも違ってきて、その結果、できる機能にも様々なバリエーションが生じますが、これはそれぞれの本質的な違いではないと言うことを、認識しておく必要があります。

もちろんゲーム端末のようにネットワークに接続されない特殊なパソコンは生き残るかもしれませんが、ひとたびネットワークに繋がれば、それをオンラインで利用するかオフラインで利用するかの選択のみで、その実現できる機能に違いはありません。

KAIは一応205X年まで生きるつもりですので、この時代の目撃者となってたっぷりとこれを検証できます。いまから大いに楽しみであります。 KAI

August 16, 2006

リーダーの役割

あらゆるリーダーの役割とは、その役割の説明ではなく、役割の粛々とした遂行です。この遂行こそが、すべてを説明していることに、自らがリーダーをなしたことがないものには、理解ができません。

これは、演劇の舞台に立つものと、それを観劇するものとの違いをイメージすれば、容易に理解ができるはずです。演劇の舞台において演ずるものとこれを観賞するものとの間に、いわゆる学習の概念はありません。あるのは真剣勝負と言う、舞台の本番のみです。

すなわち、リーダーの行動に対して、そのリーダーが、自らの精神性においてリーダーであるやいなやにかかわらず、その行動を批判することは、その行動の意味の説明の不在にあるのではなく、その不在を批判すると言う、行動の意味の無理解にこそあるのです。

もし、自らリーダーとして行動する意味を理解したなら(できないけど)、その意味に対して批判するべきであり、すると、その意味において、損得や有益性などと言う次元ではなく、そのリーダーの志の次元にあるのであって、そのリーダーをかかえる集団にとって、そのリーダーを得たことに、すなおに神に感謝すべきなのです。

これはすなわち、目先の損得で、その集団を破滅に追い込んだ、かつてのリーダーではない、志のあるリーダーの、その志こそ批判の対象にすべきであって、その批判に利があれば、人はこれを支持します。

しかしそのようなことは決してありません。なぜならその観劇したところで人は、その舞台の流れを、自然に観賞しているからです。しかも、批判する人と集団の滑稽さをも。

その違いが、己がリーダーをなしたかどうかにあると、KAIは主張します。 KAI

August 15, 2006

物理学の未来

面白い。実に面白い。生命の法則が、物理の法則の単なる応用などではなく、生命法則こそ物理法則の基本の中の最も基本の法則であったとは、と言うことでしょうか。

物理学の未来(日経BP社、ロバート・B・ラフリン、2006/7/27)を読み始めたら止まりません。

私は持論として、我々は自然界における確実な因果関係をもとに、自分自身に関して何かを知ることができ、その因果関係の信頼性は、ミクロな規則ではなく組織化の原理に拠っていると考えていた。言い換えれば、我々が関心を持つ自然法則は、集団的自己組織化によって現れるのであって、その際にその構成部分を理解して利用するための知識は必要ないということだ。(はしがき、p.12-13)

著者ラフリンの主張のポイントはすべて、この一文に凝縮されています。彼は1950年生まれ、スタンフォード大学の理論物理学者です。1998年にノーベル物理学賞を受賞しますが、一貫して還元主義の限界を主張し、KAIも感動して読んだグリーンの『エレガントな宇宙』で展開されるひも理論に関する議論に対しても、“美しくはあるがどんな実験結果も予測できないような世界モデルを作ることが、いかに無意味であるか”と批判的です。

 私の主張を正当化するには、いくつかの衝撃的な考え方について率直に議論しなければならない。その考え方とは、「真空は「物質」である」、「相対論は基本的でないかもしれない」、「計算可能性は集団的性質を持つ」、「理論的知識には認識論的な限界がある」、「同様の限界が実験による証明にも存在する」、そして「現代物理学の重要部分は神話的性質を帯びている」というものだ。(はしがき、p.18)

この6つのテーマは、そのまま、いままでKAIが抱いてきた物理学に対する疑問であり、それが本書でひとつひとつベールを脱ごうとしています。ワクワクドキドキしながら頁を繰る楽しみは、たまりません。 KAI

August 14, 2006

ご心配をおかけしております

先月の愛犬リキの病気と言うエントリーにryuさんがコメントしていただいた。こうした過去エントリーへのコメントがあっても、最新のページに表示していないので、一般の方は気づきません。かといって最新コメント一覧を設けるのも、いまひとつしっくりこなくて、どうしたもんか悩みどころです。

ともあれryuさん、コメントありがとうございます。その後会う人会う人に、リキは大丈夫ですかと訊ねられ、リキはほんとしあわせもんです。おかげさまで痩せてはいますが、毛につやがあって毛並みもよく、鼻も適度に湿っていて、体調はよさそうです。と京都で離れて暮らすカミさんが家にお盆休みに帰ってきて、申しております。

そのカミさんと娘と三人で、久しぶりに西麻布の遊玄亭に焼き肉を食いに行った。こちらもお盆休みとあって予約で満席。そこは長年贔屓の客、少し待っていつもの席に案内してもらう。なんだか今年の八月は肉肉肉の三連チャンですが、魚肉派のKAIに、何か異変が^^;なんてことはありません。炎熱テニスの影響で、3週間毎日のほっかほっか亭のうな重大盛り(なんとこれが600円の安さ)だけでは足りなくてのことと推察しています(って自分のことじゃん^^;)。

で三人で話した話は、こんなところに公開するような内容ではありませんので、差し控えさせていただきますが、まあ高級ワインを2本もあけて(娘は麦茶)、ありったけのお肉を注文して、2時間たっぷりと家族の絆を確認したのであります。その後三人で嵐へ。主はインドへ行って1ヶ月の不在とのこと。あいかわらずながら、留守を預かる男の子の感じがよくて、うまくいきそうな予感を後に、ハイタイドへ。ここでカミさんと娘は、久しぶりのユーイチ君のホットバタードラムを味わう。KAIはホットペッパードカクテル(って勝手に名前を付ける^^;)で、ホットで合わせる。

やっぱりこうして話をすることは、家族には必要です。ホットバタードラムのあったかさが二人のお腹に染み渡ったところで、本日は退散。 KAI

August 13, 2006

夢のベルエポック(2)

それにしても夢のベルエポック、いい言葉だなあ。時代の意味を、同時代に生きるものだけでなく時代を越えた世代に伝播していく、そう言う力が、この言葉にはあります。いや同時代に生きるものでも、全くの異空間に生きるものまでをも、その時代の意味の世界に引き込む力をこの言葉は持っています。

そう言う意味で、梅田望夫はITにおける矢作俊彦なのかもしれない。いや、きのうは“21世紀の司馬遼太郎と言うのだけは勘弁してほしい”と書いたけど、21世紀の司馬遼太郎になってぜひともITと言う時代の意味を活写してほしいと思う。

梅田望夫のウェブ進化論には、賛否両論があります。特に現場の技術者のBlogに否定的な意見が多いのも事実です。しかし彼らは完全に、この書籍の意味を理解していないし、誤解しています。

それは彼らが梅田の持つ“夢のベルエポック”を理解できないし、たとえ理解できたとしてもこれをそのまま受け入れることができないからです。技術者に必要なことは“夢”ではなく“現実”と言うわけです。

すべてが“コード”で進行する世界こそITです。怖ろしいまでの“コード”の世界。この世界では、これを、この意味を正確にかつ楽観的希望的に解釈できる“小説家”を抜きにして、この時代と言うものを語ることはできません。梅田コードの世界。ハイタイドのマティーニが、これを強く訴えています。

ともあれ1日遅れの、誕生日おめでとう > ウッシーとUMIのベルエポック KAI

August 12, 2006

夢のベルエポック

ウチダ先生の快調な飛ばしが小気味いい。前にも書いたことだけどKAIはまったく小説を読まないので、矢作俊彦なる作家がどう言う人でどう言う作品を書いているか皆目見当がつかないのに、これだけで手に取るようにわかる。

矢作俊彦はそのようにして自分が生まれてから今日までのすべての時間が「人類史上空前にして絶後の夢のベルエポック」だったという「壮大な嘘」に同時代人を加担させてしまったのである。
私もこの嘘に嬉々として加担した人間のひとりである。
その模造記憶の証人として、私は矢作俊彦の神話的世界について、「私もまた彼とともに『あの黄金の時代』に立ち会っていたのだ」と証言してみせ、そのことから多くの愉悦を汲み出してきた。
このプロジェクトを通じて、おそらく矢作俊彦は日本人に「誇り」を取り戻させようとしていたのではないかと思う。
私がいまここにいて、この場所の空気を吸っているということ、それ自体がすでに聖別された特権的経験なのだという確信は、人間を安心させ、勇気づけ、倫理的にすることができる。
その点で、幕末から日露戦争までの歳月こそ「日本史上まれに見るベルエポック」だという巨大な物語のうちに日本人読者を巻き込んで、国民的矜持を立て直させようとした司馬遼太郎の企図は矢作俊彦に通じるものがある。
姉ちゃん、次にいい男をみつけたら・・・

しかも司馬遼太郎の坂の上の雲と言う作品の意味まで、すとんと落ちるようにわかってしまった。

この坂の上の雲は、小説は読まないと言いながら、親父の書棚から何冊かを勝手に持ち出して、実は目を通す程度には読んでいたのでした。しかし何回目を通しても、最初の数ページと後のページ、2巻、3巻との間を行ったり来たりするだけで全然前に進まなかったのです。

この読書法は、あらゆるKAIが目を通す読み物に共通で、以前にも感じる脳(2)と言うエントリーで、

まだ30%ですが、こう言った本の場合、筆者は前半部分で読書時間の大半を使います。それは著者がどういったプロトコルで読者に語りかけているか、それを理解することが中心だからです。このプロトコルが理解できるとあとは、極端な話、ある意味、読んでも読まなくても同じです。つまりプロトコルと内容は一体不可分だと言うことです。

と、こう書いたとおり、小説でさえ同じように著者のプロトコルを、KAIは探索し始める習性があります。結局この司馬遼太郎と言う作家のプロトコルが理解できないままに、30有余年。

なんとこれがウチダ先生の、このたったの「日本史上まれに見るベルエポック」のワンフレーズで、すべて理解でき、納得したのです。

今、KAIは、IT業界の中で「夢のベルエポック」の中にいると確信しています。しかし現実の世間の認識は、まるで正反対です。誰もこれに立ち向かう者もいません。IT寵児が書く見積もりにも人月しか出てきません。誰もわかっちゃいない。

本田宗一郎や井深大による国民的矜持を、このITに求めるのが、21世紀の司馬遼太郎と言うのだけは勘弁してほしい。

ともあれ誕生日おめでとう > 夢のベルエポック KAI

August 10, 2006

2045年の情報社会

久しぶりにCNETに面白い記事が載っている。桜坂洋・鈴木健・東浩紀の3氏によるプロジェクト・ギートステイトの紹介記事です。

--お二人は40年後の情報社会はどうなっているとお考えですか。

東:僕自身の考えというより、「ギートステイト」の中でこうなっている、という設定の説明になります。そこではこう考えています。まずはユビキタス化が進み、環境は情報技術で覆われている。またニート、あるいはその後継者的なライフスタイルも勢力を拡大している。その結果、労働につての考え方はかなり大きく変わっている。なんとなく家でゴロゴロしたり、遊んだりしていても、小銭が入るような技術が開発されている。それが基本ですね。

 情報社会のイメージとして、大きく2つのものがあります。1つは、情報技術に「エンパワー」された運動家とか起業家がどんどん活躍するような、たいへんアクティブな社会です。もう1つは--日本のネットワーカーの多くはこちらではないかと思いますが--むしろ情報技術のおかげで、自宅にひきこもってだらだらしていても、友だちもできるしコミュニケーションにも事欠かないのでそこそこ充実しているといった、「まったり」した社会ですね。ニートはコンビニとネットがなければ成立しないわけです。従来の情報社会系の議論や未来予測は前者ばかりを注目しがちなのですが、僕はむしろ後者の行方を考えてみたいと思っています。つまりは、2ちゃんねらーやニートの未来を軸に、2045年を考えたいわけです。それはこのプロジェクトのオリジナルかもしれませんね。
批評家とエンジニアが予測する2045年の世界--プロジェクト「ギートステイト」(2/3)

この「ユビキタス化が進み、環境は情報技術で覆われている」と言う認識は、ユビキタスの定義が現状のユビキタスコンピューティングのままであるなら、KAIが考える2045年の社会と、大きくずれています。

KAIの考える2045年の情報社会は、決してユビキタス社会にはなってはいません。それは、2006年の今、どこかさびれた温泉宿に行って、さてこの温泉が2045年にどうなっているか、露天風呂にでもつかりながら思念されれば、答えは自ずと出てきます。決して2045年になってもユビキタスの小指の端にもかかっていないと言うことが。

そうではなく、2045年の情報社会の性格を決定づけるのは、今現在において次々と建設されている高層ビル群と同じように、2045年になって次から次へと開発される高度化されたアプリケーション群の存在です。高度化されたアプリケーションとは、今まで単体で動いていたシステムが、ネットワークで有機的に繋がり、ことごとくのアプリケーションの機能が自動化されていくことを言います。

これは交通網の発達をアナロジーにして考えるとより理解しやすくなります。東海道新幹線が建設され、東京大阪間の距離が飛躍的に近くなって、すでに42年。この42年前の新幹線開業当時、一体誰が、42年後である今の全国の新幹線網や高速道路網、毎日何千便の航空路網を予測できたでしょうか。この交通網のおかげで、全国ほんのわずかな地域を除いて、どこでも数時間以内にはたどり着けるようになってしまいました。

これが、鉄道、道路、航空路という別々のシステムが互いに有機的に繋がることで実現されていることに気づく必要があります。

アプリケーションシステムも全く同様です。一つ一つのアプリケーションの機能がそれぞれ有機的に繋がることで飛躍的に、そのアプリケーションの利用環境が変わります。しかも交通網と違ってアプリケーションは多様です。この多様性においては交通網のアナロジーは無力であり、適切ではありません。このあまりにも多様な人間の意志の世界こそ、すべてのアプリケーションが対象とする世界です。人の意志が、この網の目のように張り巡らされて高度化アプリケーションと言う世界で、縦横無尽に行き来するようになる社会こそ、2045年の情報社会の実相です。

従って、東氏が言う“情報技術に「エンパワー」された運動家とか起業家がどんどん活躍するような、たいへんアクティブな社会”も“自宅にひきこもってだらだらしていても、友だちもできるしコミュニケーションにも事欠かないのでそこそこ充実しているといった、「まったり」した社会”も、いずれもピントがはずれていて、運動家や起業家が情報技術にエンパワーされてアクティブになるのではなく、彼らのアクティブな意志が先にあって、この意志が情報技術(高度化アプリケーション)によってエンパワーされるのであり、逆にひきこもりのアクティブでない意志のもとではいつまでもまったりすることのない社会こそ2045年の社会であると、KAIは考えています。

鈴木:最近、「Web 2.0と新しいフォード主義」という論文を発表したのですが、人間と機械の関係は一体どういうふうに変わっていくのかということに、非常に注目しています。

 たとえばAmazon Mechanical Turkは、人間の方が得意だと思われる単純作業(マイクロ・ワーク)を開発者がプログラム上に記述すると、電子市場でマッチングが行われ、作業を仕上げたユーザーには少額の報酬が支払われるシステムです。

 ギートステイトでは、この発想を広げた「ゲームプレイ・ワーキング」という概念が登場します。表面上はゲームをプレイしているのですが、それが人間でしかできないリアルな仕事につながっているというものです。この時代には、ゲームをすると、Google AdSenseのようにお金が落ちてくるシステムがかなり普及しています。このようなシステムは、AI(人工知能)が機械で人間を作ろうとしたり、IA(知能増幅器)で機械が人間を増幅するという、ここ50年の主要な潮流と異なり、人間が機械を増幅するという新しいアプローチだといえます。そういう新しい機械と人間の関係を描きたいと考えています。
批評家とエンジニアが予測する2045年の世界--プロジェクト「ギートステイト」(3/3)

この概念が、実はアプリケーションの本質が何であるかを示す重要な概念であるのですが、すでに本Blogの内なるものと外なるもの(2)と言うエントリーで考察済みの内容です。

つまり、40年後への流れは、よりアプリケーションの本質へと近づく流れであり、これはすでに今、YAHOO!サービスを支えるバックヤードで働く人員が、まさに人海戦術であることを考えれば、すでに今の今から、決して人がアプリケーションを操っているのではなく、アプリケーションが人を操っているんだと言うことは、明らかな事実です。

しかしそれでも、そのアプリケーションを成長させていくのは人であり、いわゆる自己組織化アプリケーションの誕生であるわけです。かくして人の意志はアプリケーションの一部となって機能し、アプリケーションは人の意志として機能を始めるのです。

そう言う情報社会を具体的に描くのが、いわゆる“ユーザーエクスペリエンス”の世界であるわけですが、これは決して“ユーザーインターフェイス”といった表面的な問題ではなく、アプリケーションと人間の関係の本質を具体化する重要な試みの一端ととらえる必要があります。

こう言う話題だとどんどん話が拡がってとまりません^^; KAI

August 09, 2006

立秋の台風とリキの散歩

秋は台風と言うとおり、きのう立秋を迎えたとたんの台風の襲来。こんな豪雨でもリキの散歩はかかせません。

いつもは4時半ごろ家を出るのですが、さすがにまだ真っ暗で、朝刊を読みながらしばらく静観。少し明るくなった5時すぎに出発。

リキの散歩コースには、三つのメニューがあって、一番長いフルコース(車で実測してませんが歩測で3.6キロ)、二番目がハーフコース(同じく1.8キロ)、三番目がショートコース(0.8キロ)です。リキが4歳になるまではずっとフルコースだったのですが、4歳になってハーフコースに。これがここ1年はなぜかショートコースのみ。

胸のコブのせいもあるのですが、理由はKAIの朝の時間が取れなくなったからです。フルコース時代の会社の出勤時間は8時半。ハーフコースの時は8時前。今会社に7時には出ているので、どうしてもショートコースにならざるを得ません。

実はこれを先週から思い立ってハーフコースに戻したのです。会社に出る時間は同じく7時なのですが、散歩に出かける時間を5時半から1時間早めて4時半に変更することで実現しました。

しかし今日はさすがにショートコースです。

雨のときの出で立ちは、KAIがつばありの帽子をかぶって傘をさす以外普段と同じ。いつもどおりの場所で最初の、大量のオシッコ。なにせ1日分のたまっていたものを一挙に放出します。

しばらく歩いて歩道沿いのツツジの生垣に、顔をこすりつけるように匂いをかぐ。雨のときはこれで毛がびしょびしょになってしまう。ほどなくウンチング体制。この場所も、後始末しやすい東急目黒線の高架下の近くになるように調整するのは、6年間の散歩の智恵。雨に濡れないようにリキを高架下につないで、後始末をする。

もう雨の日は、これで十分です。ぐずるリキをせかしながら、足早に家に。玄関の軒下で、雑巾でびしょぬれの顔を赤ん坊のようにふいてやり、はねあがった泥でよごれた腹の毛をふいて、最後に足を洗っておしまい。玄関に入る前に、リキがぶるぶると水気をはらって、玄関のステップにしいたバスタオルの上で絞った雑巾で足を拭いて、一緒に3階まで階段を駆け上がります。

雨の日も風の日も、これを6年間、365日続けてきて、リキはまるで我が子です。

この6年間がKAIが会社を起こして一番苦しんだ時期であり、そして黎明が見えた時期です。その我が子を、散歩のあとクーラーの前でおもわず抱きしめると、いつもいやそうに逃げるリキは、可愛くありません。

この毎日が止むことがないよう、神に祈るばかりです。 KAI

August 07, 2006

週末の豚しゃぶとアンジェロのコーヒー豆

先週はしゃぶしゃぶづくし。週初めが牛で、週末は豚。

その週末の豚、夏ばてには豚しゃぶが一番、とはどこかで聞いたように思って、ぐぐって探したのが豚しゃぶ専門店のKIRIKO。ここに予約の電話を入れる。予約通り7時半に六本木交差点近くのお店に入ってビックリ。客が誰もいない完全貸し切り状態。あんなに交差点にいた沢山の人通りはいずこに流れていったのやら。みなさん夏は豚ですよ、豚^^;。

と言うことで、コースをお願いして、焼酎で乾杯。レバー、ハツ、ガツの刺身と串焼きのあと、本命の豚しゃぶ。ヒレとロース、まずはロースをしゃぶしゃぶしゃぶと。口に入れる。うっまーーーい。いやとろけますよこの豚は。続いてヒレ。しゃぶしゃぶしゃぶと。こっちはジューシー、やわらかーーーい。ぱくぱくぱく。追加のお肉もぱくぱくぱく。あっと言う間にたいらげてしまった後のデザートに、くずきりを注文する。これですよ、これ。くずきりがいいんですよ。豚しゃぶのあとの、くずきりの、歯、ざ、わ、り。し、あ、わ、せ。

日曜は土曜に続いての、炎熱テニス。朝からいろいろあって水分の摂りすぎ。おまけに休憩中のお〜いお茶濃い味の飲み過ぎで、最悪の体調に。6-4で最初のセットは取ったものの、5-6でむかえたKAIのサービスゲーム。もはや体力の限界。サービスミスでゲームオーバー。残り時間がまだ15分もあるけどここで無念のリタイア。こんなん初めて。それでもそのあと、アンジェロの生ビール駆けつけ3杯で、復活を果たす。

そのアンジェロのコーヒーは、以前からおいしいと評判のコーヒーで、この豆を販売してると初めて知った。さっそく会社用に300グラムを3袋ゲットする。これを会社に持っていって賞味。食後にお店で出てくるコーヒーほどではないにしろ、美味い。(お店のは水出しコーヒー)

コーヒー豆の輸入をやっていたマスターのコーヒーは、なるほど世界一。といっても世界に一つしかないブレンドって意味ですが^^;。マスターにいわせると、コーヒー豆の品質管理が結構大変で、このため大手のコーヒーチェーンの豆は、大量に手に入る品質の安定した一部のブランドしか扱えない。その点アンジェロのように量をこなす必要のないお店は、その年の品質の良い豆を自由に選べて、かつ価格も安いとのこと。

ここでひとつ懸念が。残念ながらみんなはマイルド志向、いわゆるおこちゃま(失礼^^;)。この苦みのきいたアンジェロのコーヒーをはたして気に入ってくれるかどうか。 KAI

August 04, 2006

昔の彼女の思い出

学生時代、女友達の家に、招かれて遊びに行った。今でも彼女の誕生日が8月3日とKJと言う名前まで覚えているくらいだから、ひょっとしたら自分の相方になったかもしれない女性だったけど、いまでは彼女は大学のある隣町に暮らすいいお母さんになっています(って想像だけど^^;)。

その彼女の、社宅の家に招き入れられたのが彼女の個室。お父さんが夜勤帰りで寝ているからごめんなさい、と彼女は言う。

筆者は、京丹波の田舎育ち。しかも親父は田舎教師で宿直以外、夜勤の意味が理解できていませんでした。

「夜働くと言うのは、僕は絶対いやだなあ」

そのセリフをはいた時の彼女の表情は覚えていません。

しかし、自分が働き出して夜勤どころか24時間の勤務が普通になった何年かたって、なぜかこの場面を思い出すのです。

なんて彼女の心に傷をつけてしまったのだろうと。

かように、無知とは怖ろしいものです。

ですから人の無知も許そうと、思う。 KAI

August 03, 2006

社員教育

お姉ちゃんは、一番お父さんに似ている、と長男が言う。

似ている娘が、一番その父親のことがわかっていない、と今思う。

これと社員教育とどう繋がるのか。

先月のエントリーに書いたように、これから数年間次々と社員を採用して、その一人一人を一人前の技術者、営業マンに育て上げるための社員教育を、どのように進めていくのか。火急にして喫緊の課題です。

筆者は、教育とは“思い”であると常々考えています。

思いの伝わらない教育は教育ではないし、教育する側に思いがなければ教育になりません。

しかし思いはおいそれとは伝わりません。なんでこの思いが伝わらないのか。ある者は言う、言い方だと。それは、絶対に、ち、が、う。

思いは言葉ではない。人の思いは言葉では絶対にない。なぜ一生懸命の、この姿が、その両目と両耳に、映って聞こえないのか。

と嘆いてたら、急転直下、一方は思いが伝わり、一方は思いに跳ね飛ばされたようです。

人は自らの幸せを、自らの手で、選択するのだと、今回は、強く確信しました。(え?nao意味わかんない^^;) KAI

August 02, 2006

マンホールの蓋はなぜ丸いのか

それは決して蓋が坑に落ちないようにするためです。その上蓋がずれないように、鋳物で重くして、枠にはめてしまえば、誤ってマンホールに人が落ちたり、車がはまったりする事故もなくなります。日本全国には数え切れない数のマンホールがあるでしょうが、工事中の事故以外に、この蓋が外れて人が亡くなったなどと言うニュースは、聞いたことありません。

埼玉の市営プールの事故と同様の事故を、過去幾度となく聞くにもかかわらず、一向になくならないのは、このマンホールの蓋と同様の智恵が欠けているからではないかと、強く思います。

すなわち、プールの排水口の構造を、マンホールの蓋の仕掛けとまったく同じにすることを法律で義務づけると言うことです。もちろん蓋は水が流れるように格子状にしますが、蓋を水平にするために排水口を引っ込み溝の構造にし、溝自体にも柵を設けて二重に人が吸い込まれないようプロテクトします。

学校のプールは文部科学省で市営プールは国土交通省などと言う所管争いの間に、一体幾人の幼い命を犠牲にすればいいのでしょうか。

まったく話は別ですが、最近都内を車で移動するのがきわめてスムーズになりました。理由は道路脇に車が停まっていないからです。法律の威力をまざまざと見る思いをしたのは、決してKAIだけではないはずです。 KAI

August 01, 2006

社会のモラルはオレより低いぜよ

NHKが行った、モラル意識調査の結果が面白い。(自分と他人 モラル評価に大差

(前略)最近の日本人のモラルについてどう感じているかたずねたところ、「高い」「どちらかといえば高い」があわせて18%、「低い」「どちらかといえば低い」があわせて77%でした。(中略)その一方で、自分自身のモラルについて聞いたところ、「高い」「どちらかといえば高い」が67%を占め、日本人全体のモラルと自分自身のモラルに対する評価に大きな開きがあることがわかりました。(後略)

これを精神科医の和田秀樹が解説している内容が、更に面白い。

「和を重んじたかつての日本ではけんそんが美徳とされてきたが、競争を重視する経済や社会の変化によって、他人は見下す一方で自分の行動は正当化して考える傾向が強まっており、これが全体のモラルをさらに低下させる背景にもなっている」

なんでも小泉憎しなんですなあ。もういいかげんにしたら。この調査結果がセンサス統計のような時系列に抽出された傾向値ならまだしも、こんなRDD(ランダムデジットダイヤリング)を1回や2回やったくらいで最近の傾向であると結論づける厚顔さもさることながら、これが競争社会のせいにするなんざ、その無恥には恐れ入りますです、ハイ。(え?これも他人を見下す傾向ってか^^;)

そもそもこんな話、いにしえの平安の時代から、今時の若者の“堕落”を嘆く年寄りと一緒の話です。かつては同じ若者も所詮は他人の目から見れば“堕落”に見えるもの。

それより、こんなニュースが天下のNHKでどうどうと流れるところが、今時のジャーナリズムのモラルの低下を、如実に示しているのではありませんか。え?NHKさん? KAI