April 30, 2006

私の<アメリカ>

今朝は、ホテルアソシア静岡ターミナルでの、バイキングで朝食。昨日は、午前10時スタートで大学時代の硬式庭球部OBのテニス大会と夕方から懇親会、そのあと夜遅くまでのカラオケ(N嶋くん、お世話になりました、ありがとう)とあばれまくりの1日で、身体の節々と喉と頭がすべてイタイ。

頭が痛くても朝食だけは、欠かせません。食事をしながら日経新聞を読む。そこに興味深い記事を発見。ノンフィクション作家である後藤正治氏の「私の<アメリカ>」と題する一文です。氏が20年前、氏にとって初の海外取材で、米国スタンフォード大学メディカルセンター心臓外科医のノーマン・シャムウェイ氏にインタビューしたときの話です。

−−貴方の人生哲学を聞かせてくれませんか?
 最後に発した問いは、意表をついたのか、はにかんだ表情になったことを記憶する。
「特に立派な哲学は持ち合わせていないんだけどね。自分が他者にこうしてほしいと思うことを自分もしていきたいということですかな・・・・・・」

−−以降、アメリカ取材の機会は幾度かあった。アメリカ社会の断面をさまざまに見たように思う。病んだ金力万能の、唯我独尊のアメリカ。好意を抱いた人もそうでない人もいた。ただ、最初に受けた良きアメリカ像はずっと付着していて、いまも私のなかにある。
 それは、パイオニアの精神であり、フェアであり、オープンであろうとする精神である。アンフェアなことは社会にあまたある。彼らも都合の悪いことは隠す。ただ、そうであってはならぬという意思をもった人々もまた少なくなかった。

なんだかKAIが思う、“アメリカの精神”のエッセンスが、すべてこの一文の中に凝縮されていて、これ以上の説明は不要です。

これも、静岡と言う地にこなければ起こりえない“シンクロニシティ”そのものです。筆者が日経新聞を読むことは、このバイキングの朝食をいただかなければありえないし、しかし、こうしてこの文章に出会ってしまう不思議です。

昨日のテニスをしているときの天気予報では、雨。しかし結果は快適な快晴とまではいかないまでも絶好のテニス日和。角川春樹ばりのフォースの世界もやっぱりシンクロニシティでいっぱいです^^;。 KAI

April 27, 2006

日子(彦)と日女(姫)

まだ買って読み始めたとこですが、神社の系譜(光文社、宮元 健次、2006/04)が面白い。

 日本はその名の通り「日のもと」の国である。国旗を見ても白地に太陽を表す日の丸が描かれている。聖徳太子が隋の煬帝に宛てて「日出る処の天子」と名のったことは有名だが、古来日本は太陽の国と信じられてきたことがわかる。
 古代より男性の名に用いられてきた「彦」はもともと「日子」からきたものという。また、娘を意味する「姫」も「日女」からきたものといわれる。つまり、日本人は男も女も太陽の子であると考えられたふしがある。
 天皇の先祖が天照大神という太陽神であることからもわかる通り、日本人は太陽を神として崇拝してきた。(中略)
 古代人が、こうした太陽の動きを、神の宿る「神社」の配置に応用したのがいわゆる「自然暦」である。(まえがき、p.3-4)

この話は、鎌田東二の聖トポロジー―地霊の変容 意識と場所(河出書房新社、1990/03)にも出てきて、筆者にとって非常に興味深い研究テーマですが、どこから手をつけて良いのかさっぱり見えないテーマでもあります。

このテーマに繋がる話を。筆者が今住んでいるのは五反田ですが、この古くからの地名は「日野」です。これがなぜ日野と呼んでいたのか郷土史を調べればわかるのでしょうが、筆者は調べもしないで勝手に太陽神と結びつけています。

更に、いつも行くバーがある星条旗通りには「月」の名前を持つお店が数軒並んでいます。星条旗の「星」もそうですが、「月」は「日」の反対です。

この二つの話にも必ずなんらかの意味があると思っているのですが、ひょっとして「神社の系譜」にこれが書かれている予感がします。 KAI

April 26, 2006

腐っても鯛とビジネスモデル(3)

私たちのオフィスの入り口は、創業以来、ずっと招き猫が受付嬢です。

この招き猫と言うのは、左手で招くのか右手で招くかの違いで、二種類の招き猫があります(なんと両手招き猫もあるそうです^^;)。この二種類の意味は、左手は人を招き、右手が金を招くのだそうですが、当然私たちの受付嬢は左手の猫です。お金に足が生えている訳じゃない、お金は人が運んでくるモンだから、当然のことです。

現在のGyaOが考える広告モデルに決定的に欠けているのが、この当たり前の視点です。

今発売中の月刊ボス(経営塾、2006/6)に特集「GyaO1000万人の破壊力」が掲載されています。その中で取締役の高垣佳典氏が語っている内容です。(p.14-15)

 私たちがGyaOを設計する時にかなり議論しましたが、登録の段階で、男女(性別)、郵便番号(地域)、生年月(年齢)を入力していただいています。この属性の組み合わせでCMをセグメント配信する。ユーザーの登録によって配信するCMが異なる。そしてテレビはだいたい一五秒のCMが多いですが、詳しく説明したい場合、GyaOでは三〇秒でも四五秒でもかまいません。これらの機能で、広告宣伝費ではなく、販売促進費で出稿してもらえるよう提案しています。総宣伝広告費四兆円に対して、総販売促進費は一一兆円。実はこちらのほうが、マーケットが大きいんです。

一見まともな議論に見えますが、よく考えればとんでもない内容です。

まず登録者の属性情報によるCMのセグメント化です。これが使えるのはせいぜい化粧品など女性向け商品のCMか、地域ごとの不動産広告くらいで、これ以外は圧倒的に“コンテンツ”のカテゴリーによるセグメント化が常識です。つまりつり番組にはつり道具のCM、ゴルフ番組にはゴルフ道具のCM、これ常識あるね。

じゃあ、普通のテレビのCMとかわらんじゃないのと思うかもしれませんが、広告2.0は違います。スポンサーが、掲載する番組を料金に応じて自由に選べるようにすれば良いんです。あっ、この番組は絶対当社の顧客がターゲットになると思えば、かたっぱしからCM掲載できるのが、広告2.0です。もちろん消費者は、これに応えて、スポンサーの商品の購入に走ります。

もうひとつのおかしな内容。販促費と広告宣伝費を同じ土俵でくらべるもんじゃありません。販促費とは費用の中分類であり、広告宣伝費は販促費と言う費用の中の小分類です。当然「マーケットが大きい」のはアタリマエ。それを言うなら販促費の中で、広告宣伝費だけでなく、例えば販売手数料と言う勘定科目で処理できるんですよってことです。

ともあれ招き猫です。GyaOは、お金(スポンサー)ばっかし見てないで、人(登録ユーザー)にどうやればお金を運んできて(使って)もらえるか、それにはいま何が足りないのか、胸に手を当ててよーく考えてほしい。 KAI

April 23, 2006

腐っても鯛とビジネスモデル(2)

きのうの話の続きです。今回本気でGyaOには成功してもらいたいと、KAIは思っていますので、宇野さんにも理解できるように^^;もう少し丁寧に説明することにします。

GyaOは、この一番の肝心のお客様が誰かが理解できていないために、スポンサー向けの価格設定もいいかげんだし、そもそもライブドアのECサイトへの誘導などとは、まさにネガティブスパイラルのアラシです。

このGyaOのお客様とは、決して広告スポンサーではありません。すでに900万人にもなる登録ユーザーと言う一般消費者こそ、GyaOにとって大事な大事なお客様なのです。

この一般消費者が、集金代行会社である広告スポンサーにお金を支払い、これをGyaOが回収すると言うお金の流れができない限り、このビジネスモデルはうまく廻っていきません。このお金の流れをつくることができるのが、Web2.0企業であり、ものづくりレベルのソフトウェアの開発力がある会社です。これは何もすべて自社で開発しろと申し上げているわけではありませんので、念のため。

ビデオ映像をオンデマンドのストリーミングで流すなんて技術が、差別化できるのではなく、ここに消費者からのお金の流れ(ストリーム)を生みだす技術こそ、このGyaOと言うサービスの差別化要因であることに、早く気付くべきです。アドセンス、アドワーズ、いくらでもモデルはあるのに・・・。

つまり、本来一般消費者が、いかにすれば広告スポンサーにお金を支払うようにアイデアの限りをつくすべきところを、よりにもよって、広告スポンサーにはお金を流さないで、ECサイトに消費者を誘導するなどとは、まったくもってお前ら、ほんまに仕事わかっとるんけーと、喝!喝!喝!

機能単価モデルでは、直接消費者の消費行動とスポンサー企業の売上の間に、明示的な相関関係を見出すことは不可能です。しかし情報単価モデルと言う広告モデルでは、ソフトウェアの力を借りて容易にこれが可能になります。

2006年はそう言う時代の始まりなんだと、宇野さん、気付いてください。 KAI

April 22, 2006

腐っても鯛とビジネスモデル

KAIの懸念どおりです。GyaOの営業責任者はそろそろ首を洗っておいたほうがいいでしょう^^;。

「ギャオ」モデル、軌道に乗らず USEN中間決算

 USENが21日発表した平成18年8月期中間決算で、通信と放送の連携モデルとして注目されている無料動画配信サービス「GyaO(ギャオ)」の営業赤字が拡大していることが分かった。映画など番組コンテンツ(情報の内容)の調達費用がかさみ、広告獲得も遅れたからだ。
(SankeiWeb記事)

筆者の懸念をもう一度引用すると、

調べもしないで勝手な想像ですが、投資家向け説明が、視聴登録者数の拡大が一定線を越えれば、広告出稿が急増すると言うような楽観論に終始しているとすれば、これは到底うまくいくはずありません。

前々回、前回と論じてきたように、広告営業と言えども、放送と通信では、お客様も違えばビジネスモデルも違う、全く別の世界のものです。そしてGyaOのビジネスモデルは、通信としての広告モデル、すなわち情報単価モデルの世界です。ここではお客様は、広告スポンサーではない、一般消費者です。お金は一般消費者が出すことを、広告営業の責任者が理解しているかどうか、ここが一番のポイントです。つまり情報単価モデルにおいては、広告スポンサーは単なる集金代行業者です。
(GyaOは成功するのか)

宇野さんはいい男だから、KAIとしては少しでも彼の手助けをしたいと思うけれど、広告営業のヘッドを変えない限り、GyaOは生き返りません。つまり、これ以外なにをやっても無駄な努力だと申し上げるしか、KAIにはできません。

ひるがえって、一般読者には宝の山のような教訓があります。

それは、腐っても鯛ならぬ、腐ってもビジネスモデル、と言うことです。

みなさん、なんかビジネスモデルと言う言葉を勘違いと言うか、難しく考えていませんか?

ビジネスモデルとは、実に簡単なことです。お客様が誰で、このお客様から、年間いくらお金をいただくか、これだけです。キーワードは、お客様は誰かといくらのお金かと言う、たった二つのことさえコントロールできれば、ビジネスモデルのMBAは卒業です。

GyaOは、この一番の肝心のお客様が誰かが理解できていないために、スポンサー向けの価格設定もいいかげんだし、そもそもライブドアのECサイトへの誘導などとは、まさにネガティブスパイラルのアラシです。

だれか宇野さんに、これを伝えてくれませんか。 KAI

April 18, 2006

アプリケーション高度化の議論(2)

筆者はたびたび、ユーザーの業務知識が、そのユーザーが所属する業界一般のレベルにないと言う問題を指摘してきました。

この指摘は、別の意味でこれまた問題があります。それはこう言い切る根拠を示していないからですが(根拠となる事例は山のようにあります)、これとは別に業界一般の業務知識レベルとはいかなるものかを曖昧にしたまま議論を続けることにも問題があると言うことです。

そもそもこの業界一般の業務知識レベルなる、一般化された概念が存在するのかどうかも疑わしいのですが、筆者はこれについては明確に“ある”と断言できます。

それは、日々の受注や出荷と言ったルーチン業務だけでなく、CRMやマーケティング業務を含んで、その業界の、いずれかの企業で必ず行われている基本的な仕事のやり方は、すべて一般化できるものであると言うことです。当然これらは、企業毎にさまざまなバリエーションを持ちますが、ソフトウェア的にはすべて分類可能なものであり、決して例外となるものではありません。

実は、この「ソフトウェア的」と言うのがミソで、これは従来からの一般化の手法を「ハードウェア的」と呼ぶことと対比した言い方です。ハードウェア的には、例外としてしか分類できない仕事のやり方が、ソフトウェア的には、例外ではなく一般化された仕事のやり方の基本パターンに分類できるのです。

これを、B2Cのビジネスモデルにおいて欠かせない、カードと言う支払方法を例に説明します。この市場に最近ネットプロテクションズ(NP)と言う会社が「NP後払い」と言う決済システムで参入して健闘しています。

このNPの決済システムとは、一見、コンビニ振込み、郵便振替、銀行振込みの代行会社のようなサービスに見えます。現に受託システムでは、新種の集金代行会社と位置づけて、システム対応を行っているところが大半です。つまりハードウェア的分類では、従来から言えば例外的な支払方法であり、結果的にカスタマイズ作業が必要となるわけです。

しかし、私たちのKAIモデルに基づくソフトウェア的分類では、カードと言う支払方法の中の信販会社にNPと言うブランドのカードが追加されただけで、システム的な変更は一切発生しません。

なぜそうなるか、簡単に理由は説明できます。それは、KAIモデルによって業界全体の業務知識がすべてカバーされ、モデル化されているために、例えば支払方法であればすでに8種類と言う基本パターンに分類されており、この中にどんな決済システムを持ち込んでも必ずこの8種類のいずれかに分類されてしまうと言うわけです。

この8種類の基本パターンは、実はB2Bにも適用できます。つまり卸販売の一見複雑な掛け販売も、必ずこの基本パターンの一つに分類され、結果的に共通のアルゴリズムを持つロジックで処理できてしまうのです。

なぜ8種類なのかとか、こんな簡単なことになぜユーザーの理解が及ばないのかとかいったことは、こんどじっくりひざ突き合わせて、お話しましょう。(明日のパネルディスカッションで少し話す予定) KAI

April 16, 2006

アプリケーション高度化の議論

以前、使い捨てアプリは開発者の怠慢と言う題で、「データは長持ちさせたいがアプリケーションは使い捨て」と言う考えが間違いであることを指摘しましたが、とうのエジケンさんもあらためて感じる、開発の進め方の難しさの中で、アプリ開発がいかに大変な作業かを、正直に^^;ぼやいております。

こんな苦労して開発したアプリを使い捨てだなんて、絶対に許せない気持ちが、やっと理解して頂けたでしょう。

そうなんです、“ただの”インターフェイス設計でさえ、こんなに大変なんです。それが残りの100万ステップになったら一体全体どうなることやら、想像すらできない世界です。

しかし、今必要とされているのは、この100万ステップと言う“高度化”されたアプリケーション以外何者でもありません。これを自分たちだけで構築するもよし、Web2.0のマッシュアップで“あちら側”の人間の力を借りるもよし、いずれにせよ、いまソフトセクターと言う“こちら側”にいる人間が最も自覚すべきことは、ソフトセクターのアセットがアプリケーションの高度化以外にはないと言うことです。

特に業務系アプリケーションの高度化の場合、ユーザー企業自身の業務に対する理解が、その企業の理解のレベルにとどまり、業界全体をカバーする業務知識が、実は“こちら側”であるソフトセクターにこそ蓄積されつつある事実に着目する必要があります。

一企業の業務担当者は、途中入社の他社での豊富な業務経験を持ち合わせた人間以外、担当業務の全体像の理解にまでは至っていないのが大半です。これがERPのように企業のリソース全般にわたるアプリケーションの場合、もはや一企業の業務担当者ではカバーし尽くせません。ここに、これにかわるソフトセクターの存在理由があって、かつ、これからのソフトセクターに求められている具体的な役割を見出すことができると言うわけです。 KAI

April 13, 2006

今日のひとこと(5)

どんなトラブルがあっても、人を信じぬくことが、オレの生き方

April 12, 2006

Software as a Service 対 ASP

まずは以下のWikipediaにあるSoftware as a Service (SaaS)の記述を読んでみてください。

ASP versus SaaS
The reason for moving away from the term ASP or Application service provider is that the ASP generation was merely traditional client-server applications with HTML front ends added as an afterthought. These applications were hosted by third-parties who ordinarily did not have application expertise, but were managed servers. Because the applications were not written as net-native applications, performance was poor and application updates were no better than self managed applications. By comparison, current net-native SaaS applications are updated regularly, many daily.

要は、SaaSを無理矢理差別化したいがために、ASPの意味をおとしめる定義を捏造しているだけの話です。

そのSaaSを日本でサービスしているのは「SalesforceとNetSuiteのみ」とおっしゃる、ネットスイート日本法人社長東貴彦氏ですが、こんなこともおっしゃってます。

 NetSuiteインターナショナル版は、すでに日本語が利用可能となっているが、日本版はインターナショナル版を元に、日本語処理の高速化や日本特有の機能強化などを行う。日本語のふりがなに対応するといった基礎的な部分はもちろんだが、大幅な機能のロードマップとしては、2006年夏に業種別テンプレートや携帯電話との連携、配送連携、決済連携などを予定している。また、2007年夏には日本専用の帳票・報告書や税務処理、会計処理機能などを提供する予定だ。

つまり、まだまともに動くものがありませんとのことです。ERPと言いながら「テンプレートの提供」や「日本専用の帳票・報告書の提供」などカスタマイズ前提では、使い物にならないどころか、SaaSそのものがビジネスの体をなしていません。

本来のエンタープライズ向けASPサービスとは、ERPシステムが“あちら側”にあって、企業側が場所を選ばず、どのパソコンからでもブラウザだけでアクセスして利用できるサービスをいいます。あちら側でアプリケーションがどう動くかは、それこそ差別化要因たる実現ノウハウそのものであって、企業側には関係ないことです。

ユーザーである企業にとって重要なことは、何ができるか、ただその一点です。そしてERPとは、すべてできる、です。テンプレートやカスタマイズなどとふぬけたことを言っている場合ではないのです。

その前提条件が満たされた上で、ユーザー企業側の自社開発のWebベースシステム向けAPIを公開するのでなければ、これこそ(本来の上位の意味の)ASPサービスとはとても言えないと言うことです。(続く) KAI

April 11, 2006

ASPサービスと言うビジネスモデルの本質を読み解く(8)

あっと言う間に発表まで、あと1週間に。この2、3週間、ある意味、このビジネスモデルを取り巻く状況がよく見えてきました。これは、経営的に大いにプラスになる話です。

よく言われるのが、日本のビジネスシーンはアメリカの十年後追いであると言うことですが、ことこのビジネスモデルにおいては、そのギャップは1年もありません。それは日米、結果的に全く異なる進化変遷の過程を経ながら、ここに至って、偶然的に同一のビジネスシーンと言う状況を迎えているように、筆者は強く感じるからです。

つまり、国内市場において、米国からの進出企業は、マーケティングにおけるASPサービスの差別化であり、私たちを含む国内企業は、プロダクトアウトとしてのASPサービスの差別化であると言う、動機の違いだけです。この違いがあるけれど、状況は必然的に同一のトレンドを迎えていると言わざるを得ないと言うわけです。

さて、米国系企業もあわせてこの主戦場を、いかに戦うか。その戦略がやっと見えてきました。

もちろん、その戦略をナイーブにここに明かすわけにはいきません(笑)。

しかし、その戦略いかんにかかわらず、目の前にユーザー企業がいます。ぜひCNETを初めとしたIT系メディアの方々にお願いしたいのは、マーケティングに踊らされた情報ではなく、真にユーザーが必要とする情報、きみらが本当に意味を理解した情報を、ユーザーであるきみらの読者に届けてほしいのです。

それこそジャーナリストとしての本懐ではありませんか。(ひょっとしてジャーナリストと言う志はとうの昔にどこかに置き忘れているとか・・・) KAI

April 09, 2006

量子が変える情報の宇宙

量子が変える情報の宇宙(日経BP社、ハンス・クリスチャン・フォン=バイヤー、2006/03)。KAIはこういった本に出会うと、心底から心が打ち震えます。

エレガントな宇宙(草思社、ブライアン グリーン、2001/12)に出会ったときも、1週間、むさぼり読みました。真に理解した人間の書く文章にはチカラがあります。しかも研究の最先端を担う人間が書く文章は、たとえそれが翻訳であろうと、一言一句に意味とその意味のパワーがあります。KAIは、この書籍で、ひもの世界^^;が、すべてみえました。

で、情報の宇宙です。

物理学を記述する言語は数学であり、数学は数字を扱う学問であるため、あらゆる物理法則を構成する上で不可欠なのは、特性に数量を当てはめる、定量化という行為である。このため、新たな用語はほとんどの場合、「操作的定義」、すなわち定量化の手順を用いて導入されるが、その際には、その定量化の対象が何ものかを真に理解する必要はないのである。例えば温度がまさにそれで、1600年ごろに、物理学や化学において温度が中心的役割を持ちはじめたとき、それは温度計によって定量化した数量、すなわち目盛りの数値以上の何ものでもなかった。経験が蓄積され、異なる種類の温度計が示す値の比較が行われ、そしてさまざまな実験によって熱の性質に関する知識が増えることで、一九世紀中ごろについに、温度は分子の平均速度の尺度であることが明らかになった。「温度」という単語の操作的定義から、その真の意味の理解に至るまでには、二五〇年という年月がかかったのである。(p.42)

えらい長い引用ですが、KAIの今の思いのすべてが、ここに記されています。

リアルの世界で、今のアナザーランド・サポートを3年以内にIPOしてビジネスとして一人前に育て上げることに心血を注ぐことが、今のKAIにとって最重要課題です。しかし、それ以上に、このビジネスを何のためにやるのか、これこそ半世紀以上生きてきた筆者にとって、あと半世紀生きる^^;と言う、大きな目標達成のための、欠かせない重要なテーマです。

心が情報によってすべて解き明かされる世界は、実は、筆者は望んではいません。しかし、着実にその世界に近づきつつあると言うことを、この本を読んで実感しました。 KAI

April 07, 2006

評価と金は後から付いてくる

評価と金は後から付いてくるとは、常日頃、親や先輩から言いきかせられる言葉です。にもかかわらず、評価されないことをぐちったり、給料の安さを嘆いたりするのは人の常。

しかし、人は、その一生の中のある時突然、この言葉の本当の意味に気づきます。評価も金も、自ら真に欲するものではなかったことに、気づきます。人が真に欲するものは、人様々ですが、決して評価も金も、人の真に欲するものの中にないことに、気づきます。

もし評価と金を得ることができたとして、ではその先にあるのは一体なんでしょう。評価と金は魅力的です。強力で巨大に魅力的です。その陰に隠れて見えなかった、あなたの真に欲するもの。それが何もなければ、ただむなしいだけ。

そして、ここに自ら真に欲するものがなにかやっと気づいた人がいます。

落選の理由が「文章は巧いけれど、やはり難しい」だったそうで、それなら、もう一歩譲歩して、優しく柔らかくするのかと思いきや・・・オレは、はたと思い至った。

そうだ、オレは、大切な何かを忘れかけていた。

オレは、もともと、トップダウン式に偉い人々に引き上げてもらって出世するタイプではないのだ。

オレはボトムアップ式の草の根の読者の支持だけで、これまで生きてこられた。

だから、ブルーバックスの物理書のコアの読者がオレに(かつて?)期待していたような、もうバリバリの物理書に回帰する決意を固めた。
薫日記 やはり反骨で

以前のエントリー間主観性−「心配力」の研究(4)で取り上げた99.9%は仮説( 光文社新書、竹内薫、2006/02)の著者のBlogにある文章です。

草の根の読者の支持だけで、これまで生きてこられたと言う、この薫氏の言葉には、重要なメッセージが込められています。

それは、人が真に欲するものとは、それを本人が自覚するか否かに関係なく、実はその人の目の前にいる人が欲しているものであって、それをいま目の前にいるその人に与えることができることが、人の真の喜びであり、真の快楽なんだと言う、そう言うことです。

目の前の人の求めるものと自ら真に欲するものとが、互いにシンクロし共鳴しはじめるときに、人は、ある不思議なしかし強大なパワーを得ることができます。これが、創造性のパワーと言うやつですが、この話はテーマをわけて書くことにします。 KAI

April 06, 2006

ユーザーエクスペリエンスとは世界観のこと

Satoshiさんの言うユーザーエクスペリエンスに相当する日本語は、少々意味が広くなりますが“世界観”が良いと思う。

世界観の違う者どうしが共存できないように、自分とは異なる世界観を持つ道具を、自在に使いこなすことは至難であり、また苦痛です。また、自分とは異なる世界観に基づく環境に、ながくとどまることはできません。

逆に、自分が想像する以上の世界観を持つ道具に出会うと、その道具に愛着以上のものを感じてしまうのは、筆者だけではないはず。ディズニーランドと言う世界観の環境から、膨大なリピーターがうみだされていることは、周知の事実です。

ユーザーインターフェイスと言うものは、その“接触面”だけを見ていては、本質を見誤ります。ユーザーインターフェイスの本質とは、その見えているユーザーインターフェイスと言う“部分”をすべて含んだ、その背後にあるもっと大きな“世界観”の世界であるわけです。

この話題は、今まさに議論しているASPサービスと言うビジネスモデルの本質を読み解くと言うテーマと直接関係していますので、詳細はそちらであらためて議論することにします。 KAI

April 05, 2006

清明の散歩とツツジのつぼみ

今日は二十四節句のひとつ清明なんだってと、黙々と歩くリキに話しかけてたら、なにやらツツジの生垣が目に騒がしい。近づいてよく見ると生垣の表一面、赤みがかったツツジのつぼみだらけ。

う〜ん、季節は初夏に向かって一直線。

このリキは当然理解していない清明と言うのは、二十四節句の中でもあまり聞かない名前です。清明の清は清々しい、ならば明にも明々しいって言うのがあるのかどうか、ググってみたらありました。「街頭も明々しい光を燈していた」「太陽が明々しい憂鬱の色をしたまま」「この明々しい照明のお店」。

つまり清明とは、清々しい空気と明々しい太陽のセットのことだと言うわけです。すなわち、空気と太陽、この二つはまさに生命の源です。おまけにいえば、セイメイ(清明)とセイメイ(生命)がツツジのつぼみとなって繋がっていると言うわけです。

と言うわけで、今朝の散歩はなんだか得した気分で、るん、るん、るん。 KAI

April 04, 2006

人が仕事するって何なのか(2)

エイプリルフールのこのエントリーは、期せずして、今希望に胸を膨らませる若い新入社員へのメッセージです。一昔前の入社式の社長訓示です。って難しくて誰も聴いてない^^;。

筆者が働き始めた動機は、不純です。その働き始める前年、大学院への進学に失敗して、親からの送金も断られ、仕方なくやった某A新聞の配達所の住込み生活。

しかし、これが筆者を強く、逞しく、大きくしました。朝3時過ぎからの200軒の新聞配達は、本当の意味で働くことの意味を、身体で覚えさせられました。

大学院に進学できなくなった筆者は、統計力学の1単位をわざと落とし、留年しました。ただこれは筆者にとってまたとない機会です。この1年、自分の好きな科目を受講できるのです、しかも、試験はなし!

これで、物理と言う他学科の学生の受講を快く受け入れてくれた、生物学と馬場先生の位相幾何学を受講しました。この週一の2講座を受講しながらの新聞配達生活は、まことに快適でした。

しかしこう言った快楽生活を許さないのも、天の神様です。

結局2回目の大学院への挑戦も、見事粉砕され、その結果が出た日の、翌朝配達した新聞の求人欄に載っていた会社に、面接希望の電話をしたのが、社会人生活の一歩手前の始まりです。

言ってしまえば、かように不純であるけれど、しかし筆者はこれが楽しくて仕方ありませんでした。目の前が国会議事堂、いままで夢の世界です。ここで自分がやりたいことができる、シアワセ!(こちらです

かくして今の自分があります。

筆者の息子も順調に行けば(って早速単位を落として1回生をもう1回^^;)、4年後に同じ運命に出会います。人が仕事をする、働くことに、なんら優劣はありません。やりたいことをやりたいようにやる、ただこれだけが、今あなたの、正解です。迷いは無用です。 KAI

April 03, 2006

お花見のオッファー

お花見のオッファーを二つ(新宿御苑と上野公園)も受けてしまった。しかし結果的にどちらも午後1時スタート。週末のこの時間と言えば、いつものテニスの後の、これまたいつもの、アンジェロでランチの時間。このアンジェロは、イタリア料理のこじんまりしたお店で、もう20年以上KAIが通っていると言えば、これ以上何も言わなくてもこのお店の料理の味は察しがつくはず。

このアンジェロでお花見論の一席をば。

「ここ最近、お花見ってあまり言わないんじゃないですか」
「ノンノンノン、それは会社のお花見ですよ」
「え?会社って?」
「今は確かに会社でお花見は減ってます、でも、若い人の盛り上がり、マスター、彼らが一番好きなの、お花見って知ってます?」
「え?そんなん知らんかった?」

ついでに言えば、社員旅行や慰安旅行と言った会社の旅行にも、若い人は行かなくなった。しかし、会社でない旅行は、筆者の周りの若い人を見るかぎり、きわめて盛んです。お花見にしろ、旅行にしろ、この遊びの相手がいったい誰かと言うと、それは友達です。いわゆる「遊び友達」って言うやつ。

この遊び友達を遊び友達たらしめているのが、コミュニケーションです。しかもそれは言葉によるコミュニケーションではなく、遊びという行為によるコミュニケーションです。だからお花見であり、旅だと言うわけです。このアウトドアが重要で、もちろんインドアもOKですが、あくまでプレイ(遊び)が不可欠です。

思えば、この遊びと言うコミュニケーションの時間を、何するわけではなくただひたすら延々と友達と共有してきたのが、筆者の人生と言う日々だったような気がします。

そして今、愉快な仲間たちや星条旗な仲間たちやテニスな仲間たちと、遊び友達で一杯の、わが人生。これをしあわせといわずして、何をかしあわせといわん哉。 KAI

April 01, 2006

人が仕事するって何なのか

人が仕事をする意味は、その行為自身か、行為の評価か、行為の結果か、それらの複合的意味を持ちます。この複合的であることがそもそも重要であって、これらはそれぞれ単独に切り離すことができないと言うことを、一番初めに理解する必要があります。

私を麻雀と合気道ばかりやっているお気楽大学教授だと思っている人はゼウスの雷撃に打たれるであろう。
ウチダ先生のBlog

とは至言です。流氷の、見える部分だけを見ていてはタイタニックがごとき大きな過ちを犯します。

企業の位置づけと言うセット(集合)が、従業員の家族の生活まで含めセットの時代はいざしらず、個人のセットのほうが企業のセットより大きくなってしまった現在、企業と言うセットにおける仕事の評価は、何の価値も持ちません。

ここで意味を持つのは、企業と言う絶対軸を捨てた、つまり世間こそ本来の自分の味方であることに気付いた、仕事と個人のセットの関係に気付いた、いまそこにいるきみら、きみらがこの事実つまりリアリティを根拠に、行動するかどうかです。わかりにくくて申し訳ない((C)ウチダ)。

人はなぜ仕事をするのか。それはその仕事が楽しいからであります。

これ以上の(もちろんこれ以下の)理由は、ありません。

ここに究極の真理があります。これ以外はすべてハウであると言う、真理です。

ここまで書いて、マティーニ3杯。とりあえず公開。 KAI