January 30, 2006

恋わずらいと強迫神経症−「心配力」の研究(3)

ナショナルジオグラフィックスの最新号(2006/2)が面白い。(p.124)

 イタリアのピサ大学教授で精神医学を研究するドナッテラ・マラズィッティは、恋わずらいを生化学的な側面から研究している。自らの二度ほどの恋愛経験から、恋の恐るべきパワーを実感した彼女は、恋愛と強迫神経症に共通点があるのではないかと考えるようになった。
 彼女らの研究グループは、恋わずらいにかかっている被験者24人の血中セロトニン濃度を測定した。(中略)
 恋わずらいの人と強迫神経症の患者のセロトニン濃度を調べ、どちらにもかかっていない人と比較すると、前者はいずれも、血中セロトニン濃度が正常な人より40%も低くなっていた。わかりやすく説明すると、恋と強迫神経症は、化学的にはよく似た状態だということだ。
 恋に振り回されて悩んでいる人にとっても、そうした抗うつ薬は高い効果をもたらす。米ラトガーズ大学のフィッシャーによると、薬を服用することで、人が恋に落ちて愛し続ける能力が妨げられるという。胸が締めつけられるような恋の喜びや、そこからわき起こる性的な衝動が抑えられてしまえば、恋愛関係は維持できなくなるだろう。
 フィッシャーはこう語る。「私の知り合いに離婚寸前の夫婦がいました。奥さんは抗うつ薬を飲んでいたんですが、薬をやめたら、彼女にオルガスムスがよみがえりました。彼女はご主人に再び性的魅力を感じるようになり、今や二人は熱々の仲なんです」
 (「愛」を探求する 文=ローレン・スレーター 作家)

なんとなく逆のように思える結論です。つまり、うつを直す抗うつ剤の方が恋愛を助長するのではないかと。しかしよくよく考えてみると、これは“内なるもの”のスペース問題とみなすことで、きわめて合理的に説明できる現象であることに気づきます。

つまり、こう言うことです。まず自分と言う内なるものの中のスペースを半分に区切ります(○に縦の線を入れる)。左半分が本来の自分です。恋愛とは、この状態で右半分を空白(真空)にして、右半分のスペースに恋人を招き入れようとする心の作用です。そして恋人を十分に右半分に招き入れることができたときが恋の成就です。それに至るプロセスでは、相手を十分に招き入れることができず、右半分のスペースに隙間がある状態になりますが、これこそ恋わずらいの状態であると言えます。同時に、その隙間分だけ、自分と言う○が縮こまることになります。いわゆる胸がつぶれる思いです。

では強迫神経症はどうか。この場合の右半分に招き入れている恋人とは、人ではなく強迫観念です。こちらはすでに右半分を強迫観念が占有しています。ですから抗うつ剤で右半分の強迫観念を追い出す必要があり、○の真ん中の縦線を右側にどんどん寄せて、左半分の自分の面積を大きくしてやるわけです。最後は真ん中の縦線のない、自分だけのいる○になって、治癒されます。

上記引用の中の、離婚寸前の夫婦の事例では、右半分にいる強迫観念を追い出すつもりが、一緒に亭主も追い出していたと言う、笑えない笑い話だったのです。

しかし、この事例は示唆に富んでいます。私たちは、強迫神経症と言う病気までいかなくとも、なにがしら自分と言う内なるものの右半分を、心配事が占有しているように思います。そしてこの心配事を追い出すことに明け暮れているうちに、一緒に、恋愛と言う豊かな感情までも追い出してしまっているのではないでしょうか。

このあたりが「心配力」の解明のヒントになるような気がしています。 KAI

January 27, 2006

無能メディアに怒り−エートスバランスの危機

もし逮捕された京大生が、和姦だったら、どうなるのでしょうか。

本名までさらされ、大学は除籍、ことごとくの知人との永遠の離別。このすべてが修復不可能です。

どうか、無能メディアのみなさん、自分たちが仕出かす結果の責任を、取ってください。あなたがたが、検証機能と言う責任をまっとうしないために、決してオーバーな言い方ではなく、今や国家は、エートスのバランスの危機に至っています。

逮捕された3人プラス弁護士(つまり4人)対、検察国家権力(1億人)、勝負になりません。

これを救うのがメディアではなかったのですか(激怒)。 KAI

January 25, 2006

「心配力」の研究(2)

この三日間、気が重くて筆を進める気がしません。件の逮捕がきっかけだと思いますが、それでなぜそんな気分になるのか。無能メディアにも腹が立つし、無能政党にも腹が立つし、無能検察にも腹が立つし、無能東証にも腹が立つし、です。

ネット社会のエートス問題などと言い切ってしまう方は、それではカネボウは、旧UFJはって考えたことがあるのでしょうか。何にもかわりはないでしょう。

むしろそんなことより、ネット社会をネット社会たらしめている根幹、情報の客観性は、一体どこへいってしまったんでしょう。あまりに無責任な情報にあふれていて、無能メディアがわかったふうにそれを垂れ流すだけで、誰も客観的な検証をしません。おまけに検証手段を持たない者は、それを鵜呑みにするだけと、まことに情けない状況です。

とは言え、しかしBlogでは、(あえて引用しませんが)起訴可能性、公判維持可能性、あるいは検察権力の問題についての貴重な分析も随所に見られ、ネット社会全体を見れば、健全性が保たれているようにも見えます。

ネット社会も、「心配力」

そもそも情報の客観性あるいは信頼性を担保するのは、古来から、その情報の所有者であり、発信者です。信頼できる人あるいは組織から出た情報は、信頼できる、であったはずです。ところが今や、メディアをはじめとして、組織から発信される情報の信頼性が、著しく低下し始めているように見えます。

つまり、メディアが伝える情報の客観性とBlogなどネットからの情報の客観性を両者較べると、明らかに後者のほうが信頼できると言う事例が、日に日に増えていると言うことです。

だからと言って、Blogの情報を鵜呑みにしているわけではありません。コメントやトラックバックを追っていけば、どう考えてもこちらの方が正しいと言う結論になるのです。

実はこれは、ちょうど1年近く前のエントリー「情報」とは何か(3)で取り上げた、大澤真幸の言う“第三者の審級”が、メディアからネットへシフトし始めたことの、典型的な徴候です。

そして、この第三者の審級のチカラとしての存在こそ、筆者の言う「心配力」に他なりません。もう少しわかりやすく言うと、ネットで情報を得るときに「ほんまかいな?」と思う気持ちこそ、情報の客観性を担保する力の源泉として作用するのです。

このあたりを詰めているのですが、まだしばらくかかりそうです。 KAI

January 21, 2006

こう言う人生を送りたい

NHKの朝の番組の再放送。百歳バンザイ。昨年これを初めて見た日の翌日、周り中の人間に、100歳になってもドイツ語とラテン語で1500ページもの論文を書きためている、すごい人がいると言って回ったその話です。今朝たまたま、またその再々放送を見て、その人が誰であるか、メモすることができました。

彼の名は、柳生亮三、1905年生まれ、100歳です。広島大学名誉教授、現役バリバリの動物学者。一人暮らし。ゾウリムシと言う原生動物に魅せられて、人生の大半を研究生活にささげる男です。

100歳で現役。筆者の夢です。仕事を続けるから100歳でもバリバリの元気なんだと、思います。

彼の毎日は、川や沼への標本採集、顕微鏡での観察、論文執筆と、フィールドワーク、デスクワークがバランスよく配置されています。1500ページの論文も、もちろん研究成果を記したものですが、後学の徒への贈り物。

さらに一人暮らしで、料理も自分で調理します。油での揚げ物の手つきなんか、堂に入ったもの。

人が生きるとは、こう言うことなんだと思います。

理屈はいらない。ただ黙々と、できることを、やり続ける。与え続ける。死ぬまでずっと。

こう言う人生を送りたい。 KAI

January 20, 2006

小澤の不等式−不確定性原理再び

不確定性原理についての筆者の考えを、以前のエントリーに書きましたが、どうやら80年ぶりにこの不確定性原理の中身が、日本人の手で書き換えられようとしています。(ハイゼンベルクの顕微鏡 不確定性原理は超えられるか、日経BP社、石井 茂、2005/12、p.247)

同書によれば、その日本人、東北大教授の小澤正直が、新しい不等式を導く論文を専門誌に投稿し受理されたのが2003年1月。ハイゼンベルクが論文を書いて受理されたのが1927年3月23日、実に76年ぶりのことです。

小澤の不等式は、次のように記述されます。(p.249)

ε(Q)η(P)+ε(Q)σ(P)+σ(Q)η(P)≧h/4π

ここでε(Q)は位置Qの測定にともなう誤差、η(P)はそれによって生じる運動量の擾乱(じょうらん、disturbance)、σは位置あるいは運動量の標準偏差です。

この小澤の不等式は、従来のハイゼンベルクの不等式である、

ε(Q)η(P)≧h/4π

これと較べると、ε(Q)σ(P)とσ(Q)η(P)の項が追加されています。この項の存在の発見の意味は、物理学的にきわめて大きいです。

物理学を物理学と言う学問たらしめている根拠は、実験、観測であり、測定以外何者でもありません。であるにもかかわらず、この測定について、測定とはなんぞやと言う理解が間違っていないか、はたして物理学史上正しく検証されてきたのか、はなはだ疑問です。

相対性理論について、未だに博士号を持つ物理学者から、相対性理論の矛盾を解く(日本放送出版協会、原田 稔、2004/09)と言ったいわゆる「異論」が出てくるのは、この測定の概念が正しく検証されてこなかったことが原因であると、筆者は考えています。

この測定について、小澤の概念は明解です。系を測定対象系と探針系に分け、探針系は検出器を持ちます。測定とは、測定対象系と探針系の相互作用であり、この相互作用には作用開始と終了が存在し、探針系が示す観測可能量を検出器が読みとるのは、この相互作用の終了直後の探針系の状態であると言うことです。

これに対して、今までの測定の概念は、測定の終了をこの相互作用の終了とせず検出器で読みとるまでとしたのです。この違いが、小澤の不等式の、追加されたε(Q)σ(P)とσ(Q)η(P)の項としてあらわれると、筆者は解釈しています。

しかし、この小澤の測定概念の違いこそ、今後の物理学の発展に、革命的な転回をもたらすのではないかと、筆者は期待してやみません。簡単に言うと同時性がやっと物理学的(実験的)に定義されたのです。量子状態と観測状態は一意ではない、まことにもって真実です。 KAI

January 19, 2006

愛するリキへ

おまえが我が家の一員になって、5年。おまえがどれだけ、オレに愛をあたえてくれたか。今朝も、いつものように散歩行って、おまえと、たった一日一回の会話をする。それがおまえとの、たった一日、一回の会話。

どうか神様、リキが、このまま、なにごともなく、ともに生きられるように。おねがいします。 KAI

January 17, 2006

誰があなたのことを心配しているのか−−「心配力」の研究

もしあなたがまだ若い成人前の若者であれば、間違いなく、あなたの両親、それも母親は、あなたが考える100万倍(推定^^;)、あなたのことを心配しています。夫婦であれば、相方の健康状態を気遣うであろうし、万一一方が倒れれば、そばにいる相方が病院につれて行き看病します。しかし、男も女も、相方のいない二十歳を越えた独身者はどうすればいいのでしょうか。

そんなことを考えていたら、行きつけのお寿司屋さんの大将が、酔っぱらって階段からころげて怪我した話を聞きました。もちろんまわりは心配しますが、なぜか、これが大将の日常茶飯事と聞いて、これまたビックリ。こちらまで心配になります。大将、大丈夫?

真偽は別にして、よくどうしようもない男に女は惚れるんだなんて言われますが、男も女も心配かけるやつほどひかれるのには、訳があります。それは“内なるもの”の中には「心配力」と言う引力が働いていて、心配をする、心配をかける関係こそ“内なるもの”を内なるものに保つチカラとなっているからです。

これがもし、心配しなくていい、安心する関係になったとたん、“内なるもの”は瞬間的に“外なるもの”に切り替わります。亭主元気で留守が良い、なんて言った瞬間、しっかり亭主は外で浮気をしています。つまり恋人同士でも夫婦でも、互いに“適度な心配”のある関係こそ“正常”な関係でいられるってことです。

マネーの虎も「心配力」

マネーの公理 スイスの銀行家に学ぶ儲けのルール(日経BP社、マックス・ギュンター、2005/12)と言う本からの引用です(p.17)。

第一の公理 リスクについて
心配は病気ではなく健康の証である。
もし心配なことがないなら、
十分なリスクをとっていないということだ。

給与所得者が財産を殖やす唯一の方法は、リスクをとることである。給与所得者であるあなたがもし、自分の余裕資金をリスクと言う心配のない、安心安全な預け先(定期預金とか国債とか)に入れていたら、一生かかっても財産を築くことはできません。

財産と言うマネーをあなたの“内なるもの”に招き入れ、そしてそれを殖やすには、リスクのある(心配かける)マネーを相手にしなさい、そうすればあなたが心配すればするだけマネーはあなたによって来ると言うわけです。スバラシイ公理です。

ネット社会も「心配力」

これは凄いアイデアを思いついたのですが、逆にこれを書き始めて、この2、3日サッパリ筆がすすまなくなりました。と言うことで一旦あきらめて、続きは近日公開(予定^^;)。 KAI

January 13, 2006

放送と通信とビジネスモデル(4)

GyaOは成功するのか

USENが展開するGyaO(ギャオ)は、果たしてうまくいくのでしょうか。SankeiWebの記事【GyaOの実験】(上)第四のメディア動画配信 無料化で黒字視野を読みながら、いろいろ考え込んでしまいました。

時を同じくしてCNETのコラム株価の真相にも、USENの株価動向に関心が集まる理由にGyaOについてこんなことが書いてあります。

昨年4月からスタートしたGyaOの視聴登録者は11月末で457万人(現在では500万人を突破)に拡大している。ただ、広告出稿がまだ軌道に乗らないことから、売上高は3億円程度に止まっている。部門別で赤字額で大きかったのは、映像・コンテンツ事業で18億円の赤字。このうち17億円は事業の立ち上げに伴うGyaOに関する初期投資に関連したものだ。主要なコストはコンテンツ取得費用約10億円、テレビCMを中心とした広告宣伝費約8億円となっている。しかし、同社ではGyaOの年間赤字想定額を20億円程度としており、初期投資はほとんど終了したことになる。

初年度半年の売上が3億円程度では、話になりません。筆者もGyaOのサービスモデルは気に入っていて、なんとしても成功してほしいと思っていますが、一体何が問題なのでしょうか。

調べもしないで勝手な想像ですが、投資家向け説明が、視聴登録者数の拡大が一定線を越えれば、広告出稿が急増すると言うような楽観論に終始しているとすれば、これは到底うまくいくはずありません。

前々回前回と論じてきたように、広告営業と言えども、放送と通信では、お客様も違えばビジネスモデルも違う、全く別の世界のものです。そしてGyaOのビジネスモデルは、通信としての広告モデル、すなわち情報単価モデルの世界です。ここではお客様は、広告スポンサーではない、一般消費者です。お金は一般消費者が出すことを、広告営業の責任者が理解しているかどうか、ここが一番のポイントです。つまり情報単価モデルにおいては、広告スポンサーは単なる集金代行業者です。(これがまだピンとこない人はもう一度前々回を読んでみてください)

細かい説明は端折って結論を先に書くと、通信における広告とは一般消費者の購買に結びつくコマーシャル以外通用しないと言うことです。テレビコマーシャルのような広告では、まったく一般消費者のお金に結びつきません。つまり、Googleのアドワーズ広告と同じ構造であって、このアドワーズの広告スポンサー相手に営業していると考えれば、話は簡単です。

すべて、具体的なレスポンスを前提にした広告です。これはテレビコマーシャルと対極をなす広告です。

懸念は、まさに、ここにあります。GyaOの営業責任者は、大手広告代理店出身者でないことを祈るばかりです。 KAI

January 12, 2006

ある12年前の実験と日本語の起源

筆者には3人の子供がいるのですが、長子である長女は、特殊能力を持っています(持っていたと言ったほうが正確ですが)。

紙片に試験者であるカミさんが書いた文字あるいは記号を、見えないように小さく折りたたんだそれを手にしながら、被験者である娘が、そこに書かれていると思う、その文字あるいは記号を書き留めると言う実験です。

この紙片と書き留めた“答え”の紙を、今でも後生大事にかばんの中に持ち歩いていますが、まさに、驚愕の結果です。10回以上行ったのですが、このことごとくが、ほぼ一致しているのです。

その時までこの手の番組を何度も見てきました。プロレスの世界と同じと無視してきたのが、このとき以来、一変しました。娘に聞けば、非常にエネルギーがいって疲れる中で、暗闇に自然と見えてきたそうです。筆者もためしにやってみましたが、さっぱり見えません。

なんでこんな話を思い出したかと言うと、日本書紀と日本語のユダヤ起源(徳間書店、ヨセフ・アイデルバーグ、2005)の中の、ヘブル文字とカタカナ/ひらがなの類似(p.86)、と言う章に、かつて娘が書いた同じ“記号”を発見したからです。

類似性について、本書を実際に手に取っていただければ、筆者の驚愕と同じ体験をされるはずです。

今のところ、この専門的な考察には、筆者は興味がありません。優秀な大学院生によって検証してくれればことたります。そうではなく、このユダヤと日本の関係と言う世界の、まったく意外な伏線の存在に、民族のシンクロニシティと言う、運命の必然性を見出し、ただ感服するしかないな、と思うのです。

人が生きることの意味は、この“運命の必然性”、つまり共時性につきる、このことを確信したしだいです。(なんだか毎日共時性って言ってるような^^;) KAI

January 11, 2006

ウーウェン氏の料理(48)

こんにゃくのあえもの

正月にピッタリの、ウェン流おせち料理です。北京の酒菜の、p.72。

筆者は正月、煮染めと言えば一番にこんにゃくを思い出すくらい、こんにゃく料理に目がありません。このこんにゃくが中国の家庭料理でも一般的な素材であることを、今回初めて知りました。

作り方。こんにゃくを薄切りにしてゆで、冷水で冷ましてから、水気を切る。刺身用の赤貝をさっとゆで、冷水にとって、水気を切り、赤い部分と白い部分に切り分け、切れ目を入れる。こんにゃくと赤貝をあわせて、わさび、しょうゆ、酒で調味、最後にごま油を加えて混ぜ合わせて、器に盛る。これに、フライパンでから煎りした唐辛子を香りが立ったところで、ふりかける。

最後に加えたごま油だけで、もうしっかり、こんにゃくと赤貝と言う二つの素材のうまみが、まるで炒めあわせたかのように絡み合って、これだけで晩酌が何杯もすすんでしまいます。(晩酌と言っても筆者の場合、マティーニのおかわりですが)

しかし、この料理は、いままでのウェンさんの料理の流れと、口の中に残る後味がどこかちょっと違っている。そうです、わさび、しょうゆと言う和風味です。中国人のウェンさんが、来日して16年、日本料理の中に見出した、新しい味のジャンルです。同じことが、前回のユーイチ君です。ユーイチ君は、ウェンさんの北京料理を数十回つくってみてやっと、自分の味と言うジャンルにたどり着きました。

二人の体験の間には十年以上の年月の開きがあっても、こう言うことが、まさに共時性、シンクロニシティです。正月早々にふさわしい料理であり、出来事でした。 KAI

January 09, 2006

ユーイチ君の料理(9)

酒蒸しチャーシューのサラダ仕立て

今までにない不思議な味の料理でした。まずはユーイチ君直筆のレシピから。

たこいとで結んだ豚肩ロースを表面に焼き色がつくまで焼く。酒をたっぷりいれ、粒胡椒、ニンニクを入れてフタをして弱火で1時間蒸し煮にする。

ソース→バルサミコ酢、ポートワイン、醤油、オリーブオイル、コショウ、スリゴマ、わさびを混ぜ合わせる。

スライスしたチャーシューを器に盛り、ソースをかけて、上に皮を湯むきしたトマト、水にさらしたオニオンスライス、ルッコラ、バジルを盛り付けて仕上げにオリーブオイルを回しかけたら完成。

この料理は、今までのウェン流テクニックとは、明らかに違う料理です。

そうです、ユーイチ君の料理と言うジャンルにおける、ドクリツ、タビダチです。

人が修行するプロセスは、怖ろしいほど共通しています。人はまず他の人の結果を体験します。その結果があまりにも強烈であり、自分の中にまったく、そのための手段を持ちあわせていないことを、自覚します。この自覚と、及ばないと言う覚悟ができて初めて、人は、修行を始めます。

つまり、学ぶことの、自覚です。

以降は、まことに簡単です。ただ、チカラあるものが生き延び、チカラなきものが退場するだけです。

さて、このユーイチ君の料理が通用するかどうか。とりあえずKAIは、すべてOKですが、YUMを始めとした一般ピープルに、いかにすれば訴求できるか、これこそ修行です。ガンバレ > ユーイチ君。 KAI

January 08, 2006

ネズミを笑かすと犬もよろこぶのか?

やっぱり村上和雄は、いいなあ。日経ビジネス最新号(2006.1.9)にこんな記事(p.1)が。

 きっかけは、2004年の秋にダライ・ラマの元で開かれた科学者と宗教家の対話の席でした。俳優のリチャード・ギア氏などもいたその場で、ある研究者から「ネズミが笑うって知っていますか」と聞かれました。名前をつけてあげて、おなかをくすぐったりすると、50キロヘルツの音を出す。どうやらそれが「笑い」らしい、というのです。ようやく、6匹のうち1匹を笑わせることができるところまできました。

村上和雄が、パスツール研究所と競って、何万頭もの牛の脳髄を使ってレニンの遺伝子解析に勝利を収めた、そのかつてのレニンの遺伝子を、ネズミに入れた結果、ネズミを笑かすことに成功したようです。(モルモットとして笑うのもなんだかなあですが^^;)

こうして、一つ一つ、人の心の仕組みが解き明かされていくことは、筆者にとって40年来のユメが、かなえられます。

ところで、この文章の中の50キロヘルツの音を出す。どうやらそれが「笑い」らしいと言う記述が気になって、50キロヘルツをキーワードにしてググってみました。残念ながら50キロヘルツの音が笑いであるとの説明は見つけられませんでしたが、思わぬ収穫が。

和田雄志さんという方(どうやら未来工学研究所のセンター長の方のようです)の謡の声の正体-犬と謡に関する考察-と言う文章を発見。

次は花筐、シテの私がかなり高い調子で謡い始めた。そうすると、くだんのワンちゃん再び登場、そして、謡っている私の周りを興味深そうにクン々々とかぎまわるではないか?

私の謡は、犬にも評価されるほど素晴らしかったのだろうか? どうも違うようだ。いくら飼い主が謡好きとはいえ、まさかね。

一般的に人間の耳に聞こえる音の周波数は20ヘルツから20キロヘルツの範囲。人が声として出せる範囲は、64ヘルツから1024ヘルツまでの4オクターブ。もっとも、普通の人は2オクターブがせいぜいとか。

一方、犬は50キロヘルツまで音として感知できる。犬笛というのがあるが、あれは人間には聞こえないくらい高い周波数で犬を呼ぶ。

それでは、私は犬が感知できる高い声を出していたのだろうか?しかし、どう考えてもそんな高い声は出していなかった、ような気がする。甲グリを謡う場面でもなかった。犬に好かれるようなフェロモンを出していたとも思いたくない。

ネズミの笑い声は犬には聞こえると言うことでしょうか。

和田さんは論を進めて、

観世能楽堂の正面席で、能の地謡を聞いていた時である。低い地謡の声に混じって、ときどき、子供または若い女性がハイトーンで謡っている声のようなものが、どこからともなく聞こえてくるではないか。この経験は、一度だけではない。

(中略)

先日、新聞の書評欄を見ていたら、変わった書名が目に入ってきた。「日本人の鳴き声」という本だ。鳴き声? 鳥の鳴きまねをする日本人の話だろうか。副題には、「声というメディアの快感」とある。

このところ、謡と犬の関係、能楽堂で聞こえる不思議な高音が気になっていたので、早速、近くの図書館から借りてきた。

著者は、中野純という人で一橋大学社会学部を出たあと、音楽プロデュースなどを手がけている。

(中略)

著者は指摘する。「日本の伝統声楽はすべてホーミーである。」すなわち倍音が豊かに含まれているという。

お経、謡曲、平曲、義太夫、長唄、浪花節など、すべては倍音唱法で歌われている。つまり、ひとつの声に、複数の倍音が豊かに含まれているのである。

冒頭のワンちゃんが私の謡に惹かれて来たのも、実は、私の謡の倍音に感応したのでした。能楽堂の地謡のときに聞こえた不思議な声も、地謡と能舞台構造が生み出した倍音だったようです。

デジタル処理された音と、この生の音との違いは、このヒトには聴こえない倍音です。ヒトが聴く音には無意識下で聴く音域が存在していることは、有名な話です。つまり犬だけではなくヒトも、この50キロヘルツの音に無意識に反応しているはずだと言うことです。

もし、ヒトの笑いの中に、この倍音としての50キロヘルツの音があるとすれば、実はこれが笑いの効用の本質ではないかと言う、そう言う気がしてきました。個体間の遺伝子同士のコミュニケーションツールが、50キロヘルツの音であり、笑いと言うことです。

なんだか、KAIは、怖ろしい世界まで踏み込んでしまったのでしょうか。 KAI

January 05, 2006

放送と通信とビジネスモデル(3)

このテーマで言い残したことがあります。それは、テレビ局にとって、放送と通信では、お客様が違うってことです。

番組枠をスポンサーに販売すると言う機能単価モデルでは、テレビ局にとって、お客様とはスポンサー企業です。視聴者は、サシミのツマならぬ、視聴率と言うパフォーマンスを保証する、いわばサーバント、召使いです。このことを主人であるテレビ局があからさまに言うはずもなく、視聴者はカミサマであるかのように祭り上げられる、オメデタイ存在以外なにものでもありません。

これに対して、通信における情報単価モデルでは、一般消費者がテレビ局のお客様となります。ここでは、広告モデルの広告出稿企業は、一般消費者からの情報単価と言う代金を回収する、集金代行業者の扱いになります。つまりこちらがサーバントです。

この二つの違いは、テレビ局のビジネスモデルを考える上で、非常に大きな影響を与えることになります。

まったく異なる考え方の二つのビジネスモデルが、一つの企業の中に共存することは不可能です。当然会社を分ける必要があるし、それだけでは足りません。経営者に、一般消費者をお客様とするビジネスモデルを理解した人物をすえる必要があります。

デジタル放送になれば、番組で流された音楽の曲名を、インターネットで調べられると言うようなことをして“放送と通信の融合”をナイーブに予測する評論家の方々は、全くコトの本質が理解できていません。この人たちは、曲名を調べるための“機能”を開発し、サービスを維持するための費用を誰が負担するのか、一度でも具体的にその仕組み、仕掛けを考えたことがあるのでしょうか。

たとえGコードのようなものを開発して共通化しても、逆に、Gコードが放送のデジタル化で存亡の危機に立っている事実、つまり、技術自身の陳腐化は避けられません。ここは既成の標準化ではなく、インターネットのサーチ技術のように、競争による技術開発が不可欠であり、その競争の場を保証するデジタル放送の仕組みが絶対条件になります。

この構造は、新聞とインターネットとの関係にも言えるのですが、こちらについてはいずれまた。 KAI

January 04, 2006

温泉と共時性

お正月のふやけた身体を引き締めんと、テニスで汗を流して、その後、温泉に。テニスの後はサウナで12分間、ここでもみっちり汗を流すのですが、このいつもの施設が正月休み。そこで別の施設にある温泉に入って、やっぱり温泉はキモチイイなあ。

露天風呂であれば、筆者は、何時間でもいられるのですが、ここは屋内につき、30分が限界です。それでも南の方向を向き座禅を組んで瞑想すると、身体中にパワーがみなぎるのを感じます。

以前、羊蹄山の麓の真狩温泉の露天風呂で、羊蹄山を背にして座禅を組んだときも、羊蹄山のエネルギーが筆者の背にビシバシときて、筆者の身体が羊蹄山と一体化していくのがわかりました。

まさにアース、身体の中の隅々のコンデンサーに溜まった電位を、一時間以上をかけて地球に放電して、身体のすべての電位を地球の電位と同じにする。地球と一体化するとはこういうことです。上がっていた電位を下げると、微弱な電位の変化を感じ取れるようになります。様々な緊張の中で鈍くなっていた感性が、よみがえります。

ああ、うまく流れている。すべての大きな流れが、よどみなく、大きく流れ始めている。

程なくして、YUMから、疲労した友を癒しにと連れて行った大江戸温泉での、浴衣姿の写メールが届きました。やはり共時性と言う大きな流れの中にいました。 KAI

January 03, 2006

コストカッターゴーンの本質

新年会で力説した話です。

ゴーンによる日産の復活の本質は、恐らく誰も理解できていません。これは、世のコストカッターが必ずしもうまくやれなかった事実をみればあきらかです。コストカットすれば復活できるのであれば、世の苦境企業は、すべて復活できます。

まったく想像ですが、ゴーンによる日産の復活の本質は、事実の確認、です。

購買部門のコストをチェックすると、その事実を認識していたのが、G(ゴーン)以前は主任はおろか担当者、しかも、この担当者も前任者からの引継ぎ、と言うありさまで、誰も数字の意味を説明できないのです。

これが蔓延している怖さ。担当役員が報告する数字にまったく根拠がないとは、機能不全以外何者でもありません。これがG以前の日産、今のSONYの実態だと、筆者は思います。誰が悪いとあえて言いません。

ゴーンは、これをひとつひとつ正していきました。担当役員が説明できなければ、担当課長をつれてきて説明させます。その課長も説明できません。主任もダメ。担当者もダメ。ここでやっと、自分たちの組織がなにをやってきたか、明白になるのです。そう、なにも、やってこなかったことが。

ここでやるべきことは、事実の確認です。技術にとって、事実こそすべてです。事実が把握できなくして、一歩も前進は、できません。事実に基づき機能する組織に日産を再構成したことが、ゴーン革命の本質であると、新年あらためて認識したしだいです。 KAI

January 01, 2006

内田先生のお年玉

みなさま、新年おめでとうございます。

昨日1日早いお年玉を、最近貧乏している娘にくれてやったら、今日は筆者が内田先生から極上のお年玉をもらってしまった。たまに功徳はしてみるもんだ(ってこれがクドクかあ?^^;)。

プログラマと言うソフトウェア技術者のエートス問題とは、この他者性にあると言うことがよくわかりました。あえて喩えれば、ハードウェアのエンジニアは、岩を刻む彫刻家、ソフトウェアエンジニアは、繭を編む蚕、です。蚕にとってガと言う「日常的リアリティへの帰還」なしには繭の中のサナギで一生を終えるしかありません。

また一つ今年の大きなテーマを、内田先生、ありがとう。 KAI