November 29, 2005

歌を忘れたカナリアは恋を忘れたカナリアだった

結局歌が唄えないのは恋をしていないからであって、恋をしていると次から次と歌詞とメロディが湧いてくることに、この歳になって、初めて気づきました。筆者にとってウタは、『内なるもの』から湧いて出てくるモノ。ソレは決して、耳で聴いてソレを覚えて唄うモノではなく、ある時突然、神の啓示がごとく、内なるものから湧きいずるようにソレがウタとなる。そうか、そうだったか。

筆者のシンシアに「違う!」と言われたその瞬間、その『内なるもの』を喪失してしまっている自分に気づきました。そしてその瞬間から唄えなくなってしまいました。そうか、今オレは恋を、していない。

人を愛する、恋することの意味を、何度となく自分に問いかけてきました。筆者の24時間は、結婚する前も後も、ずっと仕事中心でした。と言うより筆者の私生活そのものが仕事とプライベートの区別のない、つまり、これを区別しない選択こそ、すべての問題の前提条件であり答えです。

人を愛すると言う、この本当の意味が、あらためて理解できたときに、筆者のシンシアは復活するはずです。 KAI

November 28, 2005

シンシア

吉田拓郎のシンシアを、筆者は麻布十番でよく歌います。ところが、気持ちよく歌っていたある日、「違う!」って合いの手が(まあこれを合いの手とはフツー言いませんが)。これで筆者はすっかりペースを崩して、散々な結果にあいなりました。

この女性は自分の知っているシンシアに対して、KAI編曲、作詞?!の堂々のシンシアがお気にいらないようで、さて、KAIに何を求めたのか。単純に考えれば、筆者の能力を無視して、筆者に楽曲再生機になれとはもっとも自然なご要望であろうが、そもそもこれは端から筆者の能力を無視することから自己矛盾のきわみです。

かくして、筆者は、この女性の要求は無視してシンシアを歌い続けるのでした。と言うのはウソで、実はこの「違う!」以来、シンシアを歌えなくなってしまったのです。

このあたりの理論的分析はすでについていますが、気持ちの問題はいかんともしようがありません。

ところがやっとシンシアが歌える気持ちになってきました。その理由はおいおい書きますが、来週から始まる忘年会で筆者はこのシンシアを歌うことを決心しました^^; KAI

November 26, 2005

Blogと言う銀の十字架

ジャーナリストTは、これで失脚するでしょう。自民党の派閥の領袖たちもこうしていなくなってきました。今いるH本派の衆参責任者が一番この問題を理解し、いまだに一番これが理解できないのがN中です。

こう言った問題を起こす方々の年齢が還暦プラスマイナス6歳に集中し始めていることに注意する必要があります。決してこの年代が企業政界の責任ある立場の年代と一致しているのが、この理由であると筆者は、考えていません。

筆者がかする年代の方々、いわゆるダンカイ世代は、実は自己の価値観を持たざる世代です。自己の価値観の代わりが憲法九条であったりジェンダーであったり、かつての一流企業と言うブランドであったわけです。思想は朝日が代弁し、ビジネスは電通、物産、トヨタがすべて代弁してくれて、自分たちは何も言わなくても羽振りを利かせられる、おそろしいほどのヨロイブランド社会だったのです。

このヨロイが見事に瓦解した。ただトヨタだけは生き残った。しかし彼らはすでに定年、しかも、技術の現場とはかけ離れた末端職。

いま不思議なくらい時代と言う大きな流れが変わろうとしています。これをあなたのそのなまの肌の、そのなまの皮膚で感じ取ってほしい。そして自分自身も。

オヤジ、オヤジは何を考えて戦争へ行って、そして敗戦をむかえたのか。オヤジは、オレが生まれた時の話を一度としてしたこともないし聞いたこともないけれど、当時の残る白黒の写真を見ればオヤジの気持ちは察しがつく。中学3年からオヤジが死ぬまでオレはオヤジと口きかなかったけど、まったくいま、逆の立場に立って、息子の気持ちが痛いほどわかる。しかし、やっぱり、このままでいいのかオヤジ、教えてくれ。 KAI

November 25, 2005

今日のひとこと(3)

親と真実を語り合いたいと思う、その父親は、今はもうここに、いない。

November 24, 2005

感じる脳(2)

やっぱりすごい本でした。感じる脳(ダイヤモンド社、アントニオ・ダマシオ、2005、p.80)から。

(前略)私が言っているのは、有機体はよい結果をもたらす有利な反応を生み出せるということ。しかもその際、有機体はそうした反応を生み出すことを「決断」していないし、そうした反応が展開されるのを「感じる」ことすらない。

つまりは楽天家ほど長生きするのはこのせいです。へたにネガティブに考えれば考えるだけ、自分と言う有機体と戦う羽目になります。これ以降も引用しまくりになりそうですので、これで止めますが、今まで筆者が考えてきたことを見事に説明するフレーズは、まるで宝石箱です。

意識とは量子化と言う定常状態の産物であることがまことに見事に説明されています。つまり創造性は実は生得性そのものであることも明らかにされています。社会学者や歴史学者の出る幕はありません。

まだ30%ですが、こう言った本の場合、筆者は前半部分で読書時間の大半を使います。それは著者がどういったプロトコルで読者に語りかけているか、それを理解することが中心だからです。このプロトコルが理解できるとあとは、極端な話、ある意味、読んでも読まなくても同じです。つまりプロトコルと内容は一体不可分だと言うことです。

実はこれはソフトウェアにおいても同じなのですが、そもそも書籍とはソフトウェアです。お風呂の中でたらいで行水してました。スンマセン。 KAI

November 23, 2005

感じる脳と負のエントロピー

ものづくり魂に続くウンチ問題です。こうして週の間の休みに仕事をしていると、なんだか人より仕事が捗った気分がして、気分が良いのはきっと筆者だけではないはず。と言いながら、こう言う時は集中して読みたい本を読むのが一番と言うことで、感じる脳(ダイヤモンド社、アントニオ・ダマシオ、2005)を読んでいます。

先々週くらいに買った本でやっと読み始めたのですが、これがメチャクチャ面白い。

感情(feelings)と情動(emotions)をそれぞれ、心(mind)と身体(body)と対応させ、そのすべてのプロセスが、生き物と言う生命維持を目的に機能していることを実証する本です。すなわちウンチ問題をその書籍によって説明すると言う自己組織化書籍であったわけです^^;。

まだ17%を読んだところですので、堂免本の失敗をしないようにコメント控えめに書いておきます^^;; KAI

November 22, 2005

オンライブテクノロジーとは

ながらく中断していた自己組織化アプリケーション問題が、ここにきてやっと繋がってきました。オンライブテクノロジーとは、この自己組織化アプリケーション開発のためのアーキテクチャーであり、オンラインサービスを開発しその成長発展を支える技術全般を指してオンライブテクノロジーと呼ぶことにします。

オンラインサービスの要は、もちろんアプリケーションですが、このアプリケーションの開発とは、従来からの考え方では、これを開発しサービスインするまでが中心で、以降をメンテナンスあるいは改造と呼び、アプリケーションの開発と切り離して考えてきました。

これを、オンライブテクノロジーの考え方では、初期の開発はアプリケーションの開発の準備期間と位置づけ、サービスイン以降の開発こそメインとして、アプリケーションを成長発展、進化させていくことを主眼とします。

オンライブテクノロジーの技術的特徴は、人間コンポーネントをデフォルトでアプリケーションの中に組み込むことです。人間コンポーネントには二種類のコンポーネントがあり、開発者コンポーネントと使用者コンポーネントです。そして、この人間コンポーネントは、超多重コンポーネント(スーパーマルチプルコンポーネント)であり、多機能を超える(ただし定義可能)機能コンポーネントと言う性格をもっています。

詳細な説明は追々やることにして、このオンライブテクノロジーの意味を説明することにします。従来からのアプリケーションの開発は、その「完成」を目的とした開発です。これがオンライブテクノロジーではその「進化」が目的になります。進化させるための土台をどう設計するか、進化させるメカニズムをどう設計するか、そして進化そのものの目的をどう設計するかが技術の中心のテーマです。

またこの進化の過程で、人間コンポーネント(特に使用者コンポーネント)によってその進化の方向性が大きく変わってくる可能性があります。更には人間コンポーネントの多重面が、次々とプログラム化されプログラムコンポーネントに置き換わっていくのは、まさに進化そのものの流れです。こうして進化していくアプリケーションが次々と生み出され、お互いが有機的に結ばれていく、まさにT1APの目指す世界と一致するのです。

このオンライブテクノロジーと言う立場に立ってみると、あのWeb2.0の意味合いがよく見えてきます。梅田さんがBlogでこう書いている。

「Web 2.0」は概念なんだという話は数週間前にした。

ではその概念に含まれているエッセンスは何か。色々なエッセンスの抽出の仕方はあると思うが、僕は「1995年以来進化してきたウェブ世界に、これまでよりもさらに一歩進んだ開放性をもたらそうと希求する考え方や行動」が「Web 2.0」の本質なのではないかと思う。

たとえば「Web 2.0」の文脈でよく語られる「サービスのAPI公開」というのは、ネット上の有象無象の連中を対象に「どうぞ自由に使って何をやってくれてもいいですよ」と自ら(データベースを含むサービスの機能)を「開いていく」ことである。ネットに本来備わっている「開放性」よりも、さらにいちだんと開放的である。

この「開放性」は、ネット上の「不特定多数無限大」に思いを馳せ、その連中の力を侮らず、警戒感よりは信頼感のほうにより重きを置いた発想をしなければ生まれない。「不特定多数無限大」を警戒しつつも、開放による実利を求める冷静さを、サービス提供者が持たなければ「Web 2.0」は実現されない。

そしてこの「開放性」は、ネット全体の「資源の有効利用」を促す。誰かが何かを作って(たとえばグーグルがMapsを作って)APIが公開されれば、その上で自由に誰もが新しいサービスを作れるとなれば、もう誰もわざわざゼロからMapsのようなサービスを作らなくなる。大物部分を作らなくても面白いサービスが開発できるネット上の「個」にとって、「Web 2.0」は朗報である。サービスやアプリケーション開発コストが恐ろしく下がるからだ。それが「資源の有効利用」の意味である。

これは、人間コンポーネントと言うかたちで地球上のすべての人を取り込んで進化していくアプリケーションを、人間側からとらえて「不特定多数無限大」的と説明していると、筆者は解釈します。筆者が言う内なるものと外なるものの関係の問題です。

やっとスッキリしてきました。 KAI

November 21, 2005

ものづくり魂とWeb2.0

筆者は端からソフト開発(ASPサービスを含む)とは「ものづくり」であると言う前提で物事を考えています。先日のものづくり魂の話も私たちのASPサービスの話であるのですが、どうもWeb2.0を取り巻く世間の雰囲気は、まったく別のところにあるように思われます。ここらへんの違和感をnaoya氏も大規模サービスを展開する企業が陥るジレンマにこう書いています。(少々引用が長いですが)

What Is Web 2.0のなかでオライリーは、早期に且つ頻繁に機能を改善、リリースしていくことが重要だと述べていますが、トラフィックが大量に集まるサービスではその変更がどうしても難しくなってきます。ユーザー数が多いために、新しい機能を追加したり既存の機能を変更したりする場合の影響が大きかったり、あらかじめ十分な負荷分散を見積もらないと変更できなかったり。それから、企業として、求められる責任の度合いがどうしても大きくなる。そういう状況では、どうしても変化に対して鈍くなり、遅くなってしまいます。

たとえばはてなダイアリーは、現在 100 台以上のサーバーで運用されていて、データベースのパーティショニングや、コンテンツキャッシュの仕組みなんかはいたるところにあって、その運用と開発に結構な工数がかかっています。これはサーバーが1台のときから継続的に運用開発をしてきたからできた芸当で、初日から 100 台サーバー用意して、なんて言われてもたまったもんじゃありません。

いきなり100台はオーバーにしろ、大きな企業ではそういうことが常なんだろうなあと。ニフティにいたときも、ココログをオープンするときにはその辺にすごく神経使いましたし。それでも開始早々障害が起こって、何日も会社に泊まったりしました。そういう状況で、早期に且つ頻繁にリリースしる! それが Web 2.0 だ! なんて言われても「オイオイ」って話になるなあと。

以前の、オープン化によるソフトウェア周りのコモディティ化の議論でも、大方の評論家の方々がおもいっきり勘違いしたコメントをしていましたが、機能自体がコモディティ化することはあっても技術そのものがコモディティ化することはあり得ません。

そこにものづくり魂の本質があります。naoya氏も、どう手を打つか考えているようです。

ふたつめ。Google には低レベルレイヤのコア技術がいくつかあるそうですが、そういうものを早期に確立して、技術面での変化に対するリスクを下げるという方法。Yahoo! にも、大量のトラフィックをさばくための独自の技術があると聞いてます。

これからは Binary 2.0 だ! なんてちょっと笑い話っぽいですが、あんがい笑ってる場合じゃないかもしれない。間違いなく、はてなに足りないテクノロジーはこのレイヤにあるし、そこで成果を出すことができればもっと飛躍できるのではないかと思っています。

ただ、全部 C や C++ で作るとかそういうのはアレなので、やはり Lightweight な言語とフレームワークで開発自体はラピッドに、開発者の技術レベルがある程度ばらついてても対応できるような開発体制でいつつ、彼らがそれを意識しなくても良い、低レベルレイヤでそれらアプリケーションを支える特化型の技術を持っているという、そういうのが理想かなと思います。

筆者はこれが正解だと思います。ただ、詳しくは次回のエントリーに書きますが、何もすべて自分たちでやる必要はありません。餅屋は餅屋、『低レベルレイヤでそれらアプリケーションを支える特化型の技術を持っている』会社はあります。提携なりを模索していく中で、お互いの技術を磨くことを考えるのもMOT(技術経営)をあずかるCTOの重要な仕事です。

今回は引用ばかりで中身のないエントリーでしたが、次回オンライブテクノロジー(あくまで予定^^;)で中身を入れます。 KAI

November 17, 2005

オンライントラブル

楽天証券が金融庁から業務改善命令を受けた。ここのシステムがWeb2.0系の技術で作られているかは不明ですが、以前から指摘しているようにWeb系システムの弱点は更新系です。照会系はなにやったって怖くも何ともないのです。そういう意味では証券系のシステムにくらべて銀行やカード会社のシステムは、世間が想像するほど難しくはありません。

銀行やカード会社のシステムの取引単位は口座単位、カード単位です。この一つの単位に取引が集中することはまずあり得ません。その代わりオンライン取引での遅延が許されませんので、DBMS(データベース)ではなくDAM(ダイレクトアクセスメソッド)を使用してこれを実現しています。

DAMと言うのは、口座番号とかカード番号を、あるルールでハードディスクの物理的なアドレスに変換して、たった1回のアクセスでデータを取り出す、あるいは更新することを可能にする技術で、初期の汎用機から一貫して使用されてきたものです。この技術のおかげで、どの銀行のどの地域の支店のATMからでも瞬時にお金を引き出せるし、カードを使ってどのお店でも簡単に与信を取って買い物ができると言うわけです。

ところがこれがWeb系になると、何も知らないアーキテクトが設計して、何も考えずにそのままDBMSを使ってしまい、今回のようなとんでもない事態を引き起こしていると言うのが、オンライントラブルの実態です。特に証券系のシステムの場合、銀行のシステムと違って、取引単位が銘柄であるため、一つの銘柄に更新処理が集中します。更に通常取引だけでなく裁定取引など取引形態が多種にわたっていて、おまけに金融庁へのリアルタイムのレポートが必要であるため、更新するテーブルは銀行系システムの数十倍はあるはずです。

これをDBMSで処理していてトラブルとどうなるかと言うと、まず物理的な処理能力(これはハードの増強で何とかなる)を越えると一斉にシステムが動かなくなります。そうするとアプリケーションはタイムアウトによってロールバックと言う再処理を始めます。ところがここで更新中のテーブルの数が多すぎて、ロールバックも途中で止まってしまいます。完全にシステム停止です。

こう言った事態を防ぐためにもちろんハードの増強は欠かせませんが、そもそも“普通のDBMS”ではミッションクリティカルなオンラインリアルタイム処理には無理があります。これ以降は筆者も現場を離れて長いのであくまで想像ですが、証券向け特殊用途に最適化したDBMS(これは各社最高の企業秘密です)を開発して使っているはずです。

以前のエントリーに、はてなのサーバーシステムがおもちゃなどと失礼なことを書いているのも、今後はてなのサービスがコミュニティ型であることを考えると、この更新系が命になりますから、データがとんじゃったではすまされなくなると言うことです。

まあここらへんからものづくり魂にも書いてあるように、誰も教えてくれないかわりに、技術者のものづくり魂の発揮しどころなんですが、はてさてどうなりますやら。 KAI

November 16, 2005

ものづくり魂と負のエントロピー

また勇気をくれる本に出会いました。ものづくり魂(サンマーク出版、井深大、2005)です。ホンダ、ソニー本にはいささか筆者も「でつくし感」があって、本屋の平積みにあってもほとんど手に取らないのに、今日はなぜか見た瞬間、便意が^^;;。

この現象を解説しますとなぜか筆者の場合(カミさんの場合ビデオでそうなるとの証言あり)読みたい本に出会うともよおすのですが、毎朝愛犬リキの行動と同じでこの現象に納得しています。リキと毎日5年間海外出張中以外の早朝大陸横断鉄道くらい散歩してきたのですが、必ず、リキはおいしそうなにおいのところでよだれを垂らしながらおもいっきりデッカイうんちをします(リキはゴールデンですので人間並み^^;)。

つまり、生き物は自分に意味がある情報に出会うと、負のエントロピーを吸収するために、それに見合うウンチと言う正のエントロピーを排泄すると言う、まことにもってみごとに情報理論どおりの行動をする、これは実証的事実以外なにものでもありません。

この事実によって、吸収された負のエントロピーが最高です。

会社では
「ものをつくりたい」という
欲求が、最大・最良の
「絆」になる。

−−井深大と盛田昭夫の対談より

宗一郎が作った10000回転のエンジンを、今Web2.0で筆者は実現しようと思っています。マン島レースに筆者も出場を宣言します。 KAI

November 15, 2005

10周年のお祝い

いろいろ今日はおめでたい日です。星条旗のバーも今日で10周年になります。思えば、工事費を持ち逃げされて五寸釘で打ち付けたベニヤ板の急仕立てのカウンターで開店祝いオフをやったのを皮切りに、このバーのカウンターで数え切れない人たちの出会いがありました。男と女、男と男、女と女、くっついたり離れたり、さながらこのバーのカウンターは人生模様と言う絵のキャンバスです。

カウンターの中の人たちも、今では池の上で自らバーを経営するヨッシーは、当時はまだ早稲田の学生のアルバイトの身分でした。kioは今やバーテンダーを卒業して私たちの会社の重要なメンバーです。ウェンさんの料理でおなじみのユーイチ君は、二十歳からずっとKAIの欠かせない料理番^^;です。

筆者は仕事で人と飲むことは一切しません。かわりにこのバーのカウンターに来ればKAIに会えると言うことで、入れ替わり立ち替わり誰かしらとなりで一緒に飲んでいます。一人でいるときは貴重なデザインタイムです。今の私たちのアプリケーションシステムを支える数々のアイデアは、このカウンターで生み出されていったと言っても過言ではありません。bisonとDBエンジンの完成を二人で祝ったのも、このバーのこのカウンターです。

こう言う筆者にとって掛け替えのないバーに出会えたことに感謝し、その気持ちを伝えに、これから10周年のお祝いのパーティに出かけることにします。 KAI

November 14, 2005

台湾の運転常識が教える人を殺さない方法

どなたから教えていただいたか、すっかり失念してしまったお話です。(確かT社長?)

「なんで台湾って、割り込み、急ハンドル、急ブレーキだらけで、よく事故が起きないか、ほんと不思議ですねえ」
「KAIさん、それは簡単な話ですよ。彼らは前しか見ていませんから」

なるほど、誰も後ろや横の車を気にしない代わりに、前の車にだけ集中することで事故にならない。なんて素敵なロジックなんだろうと、これを教えてもらったときに思いました。

名神高速での死亡事故のニュースを見ながらこの話を思い出していました。亡くなられた方には本当にお気の毒ですが、死亡事故の大半がこの前方不注意です。この事故で二人の運転手が逮捕されましたが、筆者は、これはシステムの問題であると考えます。

つまり、すべての車のフロントに、前方障害物を検知するセンサーの装備を義務付け、このまま進めば衝突することを計算して自動で警告するなり、ブレーキをかけるなりの仕掛けを導入する。これだけで何万人の命を救うことができると思うのです。

こう言った技術に詳しい方であれば、このシステムがいかに簡単な仕掛けで、ですから低コストで実現できるか理解できるはずです。

亡くなられた方の家族の悲しみを思えば、有識者である立場の方々は、あしたにでも行動を起こしてほしい。もちろんKAIも行動します。 KAI

November 13, 2005

ユーイチ君の料理(6)

銀ダラとカブの煮物

ユーイチ君と言う料理人がいなければ、もちろんウェンさんの料理シリーズもなければ、このユーイチ君の料理もありません。それくらい彼の存在は筆者にとって重要な存在ですが、まだ彼は23才(のはず)です。わが愛する娘とまったくもってほぼ同い年です。

上原ひろみにしろ才能とはそう言うことです。世間ではメディアが取り上げるととたんに、彼あるいは彼女が才能あるともてはやしますが、本来才能とは世間の評価は関係しません。

こう言う才能持った若者がうじゃうじゃまわりにいることを、筆者は、本能的に感じるから、希望を捨てないでいれます。

と言うことでユーイチ君の料理です。

作り方は、最初にカブをことこと煮て(鍋に水、昆布、カブを入れ、カブが柔らかくなるまで煮る、昆布は味が出たら取り出す)、そのあと銀ダラを加え(お酒を汁の量と同量加え、しょうゆ、白だしを順に入れる)、弱火で汁が煮詰まるまでにて、最後に砂糖、すりおろしたしょうがを加えてできあがり。

もうなんと言えば良いのやら。ウェンさんのテクで、カブも銀ダラも、もう文句なし。要はいかに味を絡めるか、これだけです。これが理解できたユーイチ君の料理は、超快感です。銀ダラも茶臼状の小さくカットされたカブも、すべて身をあなたにまかせますって、あんた! KAI

November 12, 2005

ウーウェン氏の料理(46)

豚肉の炒麺

ウェンさんの料理で今まで麺類は一度も体験していません。それはユーイチ君が、KAIのご飯好きに配慮してくれているからですが、それが今回は突然の初体験。大好きな炒めものの、p.90。

いつも本日は何か聞かないまま、出てきた料理に舌皷み打つ、このおまかせと言うライブ感覚、これが料理の感性とマッチしていることがウェンさんシリーズ長持ちの秘訣です。

そう言いながら、出てきて見るとそれは麺。ドキッとしながらこれを見た瞬間、これだけウェンさんシリーズを続けてくると、出てくる料理の味が(良い意味で)予測できます。いわゆるパブロフの犬状態です。“想定通り”麺に絡みついたうまみは、他の素材の比ではありませんでした。

作り方はセオリー通り。炒め鍋で、サラダ油を強火で熱し、豚肉、酒、しょうゆ、しょうが、長ねぎの次に、蒸し麺。肉汁と油が麺に絡みつくまで炒めたら、塩で味を調えてできあがり。

炒麺は日本式にいえば焼きそば。中国では麺は手打ちや乾麺をゆでたものが多く、食べかたもゆでたての麺をタレにからませた坦々麺や、肉みそをのせた炸醤麺が主流。ですから炒麺もゆで麺と具を炒め合わせた焼きうどんタイプが多く、レシピのように具から出たおいしい汁をいったん麺に吸わせ、その後パラッとなるように炒めます。

もうノウハウ丸出しのウェンさんのコメントです。

なるほど絡みつかせるのに麺は最適です。麺一本一本の味が舌に絡みつく様は、あのシビレツク性感、そう言うことでした。大人の味はその奥がまことに深くござりまする。 KAI

November 11, 2005

がんばれエジケン

久しぶりに良いエントリーに出会った。CNETの江島氏のビルゲイツの怒号から。

これを、人生の浪費だから身の振り方を考えた方がいいよ、とアドバイスしてくれた先輩もある。しかし、そうは思ってないからこうしてジタバタしているのだ。

そういう先輩たちの背中を、羨望と同時に「見てろよー」という思いで見つめながら、単なる後追いではなく、まだGoogleの他にはほとんど確立していない「テクノロジーのイノベーションをアイデンティティとしたネットビジネス」という願いを実現すべく、もがきつづけていこう。

信念はいつか通じると信じて。

まさに「テクノロジーのイノベーションをアイデンティティとしたネットビジネス」こそ筆者の本望とするところです。今筆者は、30年間ずっと夢見てきた世界を、やっと実現しつつあります。非常に長い道のりでしたが、ずっと一つの道を歩んできました。それがこのテクノロジーのイノベーションと言うアイデンティティの道です。

途中何度か挫折しそうになりましたが、最後はこの「夢」を担保に数億の資金を出してくれるエンジェルが現れ、苦闘の末今まさに飛び立たんとするところです。

よく世間ではまず実行せよ、それから考えても遅くはないと言います。しかしそれで失敗したのがネットバブルで消えていった企業家たちです。まず絶対必要なことは、見通す力です。もちろん見えないこと、見通せないことの方が大半です。それでもここで考えることをあきらめない。考えて考えて考え抜くことです。もちろん行動が必要です。そのとき行動しながら考えるのではなく、考えながら行動することが、とても重要です。考えることが先にあります。

そうするとある時自然に、すべてのことが見えてきます。と言うか出会うことすべてが、かつて自分で考えたこと、見通したことになっていきます。もちろんそれでも新しい発見はあります。しかしそれもすべて、また新たなる見通しにつながっていきます。

筆者はすっかり知命を越えましたが、今の最先端の技術への興味は増すことはあっても決して衰えることはありません。それはいま実現すべき課題が山のようにあるからです。しかし、この山が、かつてはエベレストのようであったものが、いまでは頂へのルートが確実に見えています。あとは登るだけです。エジケンのような若い志を持った技術者と一緒に。 KAI

November 10, 2005

内なるものと外なるもの(4)

苦言

ERPだとかSCMだとか、はてまたCRMだとか、この業界はなんだか言ったモン勝ちの様相を呈していますが、Tim O'ReillyのWeb2.0もその典型です。ただ単に結果を言っているだけで、結局何も説明していないにもかかわらず、これに意味があると思っている人のなんと多いことか。

Googleにしてもその背景にちゃんとGFSと言う技術を持っているからここまで来れたんだし、ひるがえってYAHOO!のサーバーダウンは年中行事にもかかわらずここまで来れるのも(将来はわかりませんが)、膨大な人手による(口外無用の)編集を支えるアプリケーション技術のたまものだし、いずれにせよ、テクノロジーの背景がなければ不可能の産物です。

楽天証券がサーバー設備の増強に20億円追加投資をすると言っているけれど、いくらサーバーを二重化、三重化しても、すでに同様の対策にその何倍もの費用をかけているYAHOO!がいつまでたってもサーバーダウンから逃れられないことから、少しは何かを学ぶべきです(テクノロジーに興味のない経営者じゃそれもだめか)。

はてなも、サーバーをユーザーのID毎に分散化させているようですが、そんな技術じゃ、1000万人クラスのサービスにはとても耐えられません。今のサーバーテクノロジーでは、所詮こどものおもちゃ程度のサービスしかできないこと、だから今図体が小さい内に新しいテクノロジーへ(ただしお金をかけないで)方向転換が必要ってことに気づいてほしいものです。

で、本題

アマゾンみたいに明示的にユーザーに挑戦するか、YAHOO!のようにひそかに大量の人員をWebサービスに投入するかは別にして、ビジネスモデルと言うアプリケーションの中に、実は人をデフォルトに組み込み始めていることに、一般消費者は気付いていません。コミュニティ型ビジネスモデルとは実はそう言うことです。

このテクノロジーの本質は、ラピッドでもテスト駆動でもなく単にオンライブです。

開発者もユーザーもアプリケーションも、内なるものとして共存できる、そんなテクノロジーモデルが求められています。 KAI

(追記)なんだかヨッパで、迫力のない結論です。時間を置いてまとめますのでご容赦を。

November 09, 2005

内なるものと外なるもの(3)

アプリケーションにとって人が内なるものになると、何が起こるのか。

それはアプリケーションが意志を持ち始めることを意味しています。意志を持つとは、主体的に毎日、連続的に変化していくことを言います。

今までのアプリケーションはそうではありませんでした。長い期間をかけて開発しても、一旦その手を離れれば、あとはメンテナンスと言う“他人”である外なるものの意志に基づく変化、しかも離散的な変化しかありません。

これは男と女の例で考えると簡単に理解できます。内なるものの関係になった男と女は、互いの意志を尊重して行動しますが、これは二人にとってすべて主体的なものです。もし一方の勤める会社の上司に休出を指示されデートの日にちを変えれば、これは他律です。

ここに、私たちのサービスが、現在のASPサービスと言う形態のサービス様式に至った必然性があります。

Satoshiさんがゲームの開発も Web2.0 的にやっても良い時期かも知れないで、このあたりの意味を目いっぱい勘違いしています。

正しいゲーム開発者の育て方とは、こうです。

まず資本をかけてオンラインゲームWeb空間を構築します。このあとここに優秀なゲーム開発者を投入します。この彼あるいは彼女を、オンラインゲーム空間のスター、またの名を“神”と位置づけ、ゲームを支配(つまりプログラミング)させるのです。

これだけ。ドゥユーアンダスタンド(ナッツカシー)? KAI

November 08, 2005

内なるものと外なるもの(2)

アプリケーションにおける内なるもの、外なるものを理解する前に、そもそもアプリケーションとは何であるか考えてみると、不思議なことに気づきます。

アプリケーションとは、当然テレビを漫然とながめているのと違って、人が能動的にこれを操作することで初めて機能するものです。ほとんど自動でやってしまうアプリケーションでも、どこかに人間の操作が介在する部分があります。そうでなければHALになってしまいます。この人が介在する部分を、アプリケーションの側に立ってながめると。

アプリケーションの立場から見た人の操作とは、実は、アプリケーションの機能の一部ではないかと言うことに気づくわけです。アプリケーションは、まだまだ利口ではありません。そこでアプリケーションは考えたわけです。知恵が必要な部分は人間にやらせようと。この結果は、てっきり主人は人間だと思っていたものが、実はアプリケーションこそ主人だったと言う、ウソのようなホントの話だったのです。

こんなことを考え出していたら、まるでシンクロニシティ。Ringoさんのエントリー人工人工知能(Artificial Artificial Intelligence)からの引用です。

「単純な、ちょっとしたコンピューターにはできないタスクをやって、お金をもらおう。」「すきなときに好きな仕事を選んで働いて、いくらもらうかも自分で決めよう。」

ちいさなタスクというのは、たとえば「その写真に人間が写ってるかどうかをチェックする」といったようなことだ。これを人間がやる。たとえば1枚写真をチェックしたら10円もらえる、といったようなことだ。

そのちいさな労働力を、Amazon WebAPIを通して、プログラムから利用できるようにするところが味噌だ。アプリケーション開発者は、ほかの人に仕事をさせるために、関数呼び出しをする。

実はこれこそアプリケーションの本質ではないかと言うことです。人は、その内なるものを、アプリケーションと言う外なるものによって具象化した結果、アプリケーション自体が内なるものとして人を内部に実装し始めたのです。この項つづく。 KAI

November 06, 2005

内なるものと外なるもの

この問題を専門的に考察してきたわけではないのですが、ずっと気になっているテーマです。

人は、内なるものと外なるものとを常に区別しようとする生き物であると、筆者は考えています。

例えば男と女が出会い、つきあい始めて、やがて一緒になっていく。その過程でいつ、男あるいは女は、内なるものとして相手をみなし始めるのか、実に興味深いテーマです。またこのBlogで、フランスの暴動をもし取り上げて言及すれば、これは筆者がこの問題を筆者の“内なるもの”として認識しているとみなすわけです。そしてその言及の中身は、内なるものの歪みの解消に向けたものとなります。(この歪み解消のプロセスは、あの懐かしのフォーク・クルセダーズの北山修が医師として著した名著心の消化と排出(創元社、北山修、1988)に詳しく記述されています)

今回はこの人の心の問題ではなく、アプリケーションにおける内なるもの、外なるものの問題です。

結論を先に書いておくと、T1AP(東京ワンアプリケーション)もWeb2.0もGoogleOSも何もかも、今まで内なるものと思ってきたものが外なるものとなり、外なるものと思ってきたものが内なるものになると言う、トポロジー的な裏表の逆転現象とみなすべきであると言うことです。

この連休中、あれこれと思索にふけってきて、いま頭の中の問題が恐らくこれですべて説明できるような気がしてきました。

すでにアルコールが入っていますので具体的なお話はアシタ^^; KAI

November 03, 2005

ピラフとご飯と北京と日本の魚フライ(ウェンさん料理補足編)

つまりこう言うことです。ウェンさんの料理で、今まで唯一難点は魚料理です。もちろん揚げたりしない和風仕立てはまったく問題ないのですが、どうも火をとおす料理になると、ちょっと違う。

この違いを表現する、いい言葉が見つかりました。ピラフとご飯。これです。この違いこそ、本質をついています。ごはんは、中身からなにまでふっくら、ほっかり、です。ピラフはその逆、プリコワ、パラプリ、コワプリ料理ですが、これがまさにお米と魚が一体となる感覚です。

同じ材料でも、思想が違えばまったく別物になる。きわめて示唆深い教訓です。 KAI

ウーウェン氏の料理(45)

太刀魚の揚げ漬け

ウェンさんと言うより、中国の魚料理とはこう言うもんだと理解して味わうと、納得のいく料理です。とにかく日本料理の魚のフライと全然違って、魚の身にふっくら感がまるでない。かわりに花椒、とうがらし、しょうがとスパイスが目一杯きいた、からからの表面がめちゃうまい。北京の酒菜の、p.13。

この料理のポイントは漬け汁。片栗粉でまぶした太刀魚の切り身を、順番に170℃の油でカリッと揚げて、そのまま漬け汁に通して器に盛っていく。この揚げ物と漬け汁の組み合わせが絶妙です。筆者は、とんかつを食うとき、とんかつにソースではなくしょうゆをかけますが、この組み合わせと同じで、揚げ物の油とダシのきいた汁ものが絶妙に相性がよくて、これは絶対にクセになる味です。

その肝心の漬け汁の作り方。しょうゆ、酒、酢、砂糖、ごま油、花椒、粗みじん切り唐辛子、しょうがのみじん切り、これらをすべて炒め鍋に入れ、火にかける。沸騰したら、器にうつす。

ね、すごいでしょ、この材料。もちろんスパイスもオールスターですが、なんとしょうゆが入ってるんです。揚げ物にしょうゆの組み合わせが絶妙ってこと、さすがウェンさんもとっくにご承知。

カリカリ、からから、口一杯に頬張って、太刀魚の骨までしゃぶりつくす、これが北京の魚料理だと納得。 KAI

November 01, 2005

ウーウェン氏の料理(44)

むきえびのうまみ炒め

もうなんと言えばいいか、オイシスギ。えびがプリプリ、ウマウマ、プリプリ、ウマウマ、プリプリ、ウマウマ・・・止められない。北京の酒菜の、p.94。

えびのチリソースをうま味に変えて。さっぱりとした仕上がりで、お酒のつまみとしてはもってこい。辛み、香りをえびに充分からめるために、調味料を加えたら汁けがすっかりなくなるまで炒めきります。

このウェンさんのコメントにこそ、この料理の秘密があります。以前から何度も炒めることの意味を説いてきましたが、まさに「炒めきる」、「汁けをとばす」です。こうすることで、うま味がからみついてその上に、えびがプリプリし始める。実際に体験するしか理解不能の絶頂味空間です。

作り方。重曹を使って水洗いしたむきえびの水気を取って、片栗粉をまぶします。これを、炒め鍋で、サラダ油を熱してさっと炒めます。色が変わったら酒をふってひと炒めして一旦取り出します。更に炒め鍋で、サラダ油を熱し、縦に切ってお湯につけて柔らかくしておいた赤唐辛子を入れ、これに、ねぎ、しょうが、にんにくを加え炒めます。香りが立ったら合わせ調味料(しょうゆ、砂糖、塩)を加え、煮立ったら先ほど炒めたえびを加え、汁けがなくなるまで炒めあわせて出来上がり。

ウェンさんのえびを使った料理は、どれもこれも、なんでこんなにうまいのか。ぷりぷりえびにからみついたうま味が、この炒めものと言うテクニックで最高の状態に仕上がる。まるで別世界に導かれる不可思議な料理としか言いようがありません。

プリプリ、ウマウマ、プリプリ、ウマウマ、プリプリ、ウマウマ・・・止められない、止まらない。 KAI