February 28, 2005

同時性と共時性(2)

ニュートン的宇宙の同時性は、一旦、アインシュタインの相対性理論によって原理的に否定されました。これは、最新のストリングセオリーにおいても、相対論的量子化のプロセスと言う同時性のプロセスによって、100年たっても状況は相変わらずです。

しかし、考えてみれば、相対論的原理はゲージ普遍性そのものであって、つまり、このゲージ普遍性こそ観念的同時性そのものであって、同時性の原理は今なお生きている証左であると言えます。

ここで重要になるのが私が言うゲージ構造と言う概念です。前回少し触れたスペンサーブラウンの形式の法則や、グラスマン代数などで説明する必要のある世界です。ゲージ構造とは、論理学とは似て非なる論理代数です。これは、理論自体の理論の論理構造を説明するための理論であり、四色問題を解決した数学的手法と相通じる数学的論理構造を持った理論です。

これと共時性がどうかかわるか、ある意味でソフトウェアの世界やインターネットの世界が絡みます。なんだかとっても面白い世界が展開されつつあります。 KAI

February 26, 2005

同時性と言う共時性

量子現象のポイントは、同時性です。

われわれの思考では、コンピュータのプログラムと同じように、すべて1本の紐に支配されていますが、世の中の出来事と言うのは、すべての事象が独立したMPUに支配される並列性です。

ここで、150億光年の同時性を保証する次元パラメータの存在を仮定しましょう。

すべての現象の因果関係とは、すなわち、次元を超えた局所現象です。目の前の現象が何億光年の世界とも共時性と言う形で同時性が保障されているのです。

自分を局所状態に追い込んでいく必要があります。 KAI

February 09, 2005

自社Blog対応の彼我

久々にCNETの翻訳記事デスク / 今日のみどころを覗いてみたら、なかなか面白いコメントがあるじゃないですか(今日の見所と言う割に1月27日から更新なしですが・・・)。

 遅まきながら、われわれも・・・と考えたMicrosoftが12月1日にMSN Spacesを公開した。と、その直後から批判的なコメントが登場し始め、おかしな検閲フィルターを使ってるんじゃないか、というBoingBoingのXeni JardinのログがあのDan Gillmorのブログで紹介されたあたりから、すっかりMicrosoftの手には負えない状態になった。

 そこで、これまでのMicrosoftなら、単なるかすり傷と受け流す「会社らしい」対応をとっていたのだろうが、今回はちょっと違った。つまり、毒を以て毒を制すではないが、自前のブロガーをたてて、この混乱状態に対応した("But this time Microsoft deployed one of its important voices to talk back: not Bill Gates or Steve Ballmer, but Robert Scoble."と原文にはある)

そんなことで、この「自前のブロガー」というのが冒頭で触れたRobert Scobleである。"deployed"というとなんだか社命で動いているようだが、実際のところはこの人物がブログに書く内容を会社側が許容している、といったところか。

この結果、

 さて。  肝心なのは、こういうブログが公開され、有名になっていることからくる勤め先への影響で、この記事では"Scobleizer has given the Microsoft monolith something it has long lacked: an approachable human face."(「Scobleizerによって、Microsoftという巨大な組織に長い間欠けていたもの--近付きやすい人間らしい相手が現れた」くらいの意味か)とし、またScoble本人の"I get comments on my blog saying, 'I didn't like Microsoft before, but at least they're listening to us'."(「私のブログには『これまでMicrosoftが好きになれなかったけれど、少なくとも連中がオレたちの言うことに耳を貸している(ことは分かった)』というコメントが付いている」の意)という発言も載せている。

 さらに、Scobleの"The blog is the best relationship generator you've ever seen"という考えにBill Gatesも賛成だそうで、"People see them (public blos like Scobleizer) as a reflection of an open, communicative culture that isn't afraid to be self-critical."というコメントも添えている。

と言うことで、なんだかとってもうまく運んでいる様子です。

これに比べるのは何ですが、So-netの平社員日記

こちらはせっかくのO原と言う社員の奮闘が空回りしてしまって、当初に比べて今では全く元気がありません。

自社Blogに対する対応一つで、まるで結果が違ってくるもんだと、大いに勉強になりました。 KAI

February 08, 2005

「コンテンツとアプリケーション」を考えるヒント

前回のエントリーで、マスメディアについて触れましたが、文芸欄は健在のようです。

2月5日の産経新聞文化欄に、作家の長嶋有氏が、<ゲームと小説 「選択」を味わう楽しみ>と言う題で、なかなか面白い文章を書いています。

彼について、全く不勉強で存じ上げなかったのですが、プロフィールを読んで一遍に気に入りました。その彼が、昨年末、小説家の立場から見たゲーム批評本を刊行したそうですが、ゲームと小説の関係について、次のような感想を述べています。

 だけど、優れたゲームを遊んでいると、小説を書くときの、無数の選択を思い出す。画面内のキャラクターは、こちらの自由に(むちゃくちゃに)操っているのだが、実は無限にある可能性から選ばれた一種類の線を上手に辿らせてくれているような気持ちになるのだ。ザラザラ地面とツルツル地面の混じった世界に果物が散らばっていたら。なるべく、動きやすいツルツルの地面を選んで果物にたどり着こうとするだろう。ごく自然に我々は選択する。その選択自体がゲームの快感であり、そのプレイは一つの小説を生み出す行為に、実は近いのではないか。

小説を作る行為が、優れたゲームのプレイと同種の感覚の行為であるというのは、初めて読みます。なにぶん、筆者は、小説なるものにまったく興味がなく、高校生以来ここ何十年も読んだことがありませんが、なかなか興味深い指摘です。

以前から取り上げたいテーマに「コンテンツとアプリケーション」と言うのがあるのですが、これが意外と手強くて、なかなか整理できないでいました。長嶋氏の文章は、このテーマに久々にヒントを与えてくれたような気がします。

近いうちにこのテーマについても取り上げるつもりです。期待しないで(笑)お待ち下さい。 KAI

February 02, 2005

「情報」とは何か(3)

大澤真幸氏の「メディアの再身体化と公的な知の不在」から引用です(環Vol20、2005Winter)。

 さて、こうした用語を用いるならば、ここまでの議論が含意していることは、次のことである。すなわち、電子メディアは、触覚に比肩しうるほどに直截に、求心化作用と遠心化作用の一体性を現実化しているのだ。(中略)こうして、電子メディアは、他者の身体を、遠隔化しつつ近接化する。遠隔化のアスペクトに注目すれば、それは、脱身体性を代表する。近接化のアスペクトに注目すれば、それは、触覚的な、再身体化するメディアにも見えてくる。(p.102-103)

(中略)

 だが、レヴィナスの議論に沿った、こうした説明には、まだ考慮に入れられていない盲点がある。他者の身体に深さを与える「内部」を持続的な実体として構成するためには、私と他者(の顔)のどちらでもない第三項が−−−それ自身は顔を持たない第三者が−−−必要だ、ということが無視されているのだ。私と顔が二項的に対峙しあっている限りにおいては、顔の表層に還元できない「何か」は、顔そのものの知覚から独立した実体として切り離されることはない。そうした「何か」が、他者の身体の表面から分離された、知覚できない「内部」としての意味を獲得するためには、−−−詳述する余裕はないが−−−私と他者とが共通にコミットしている第三者の存在が、それ自身は直接に顔を現すことのない第三者の存在が、想定されていなくてはならない。それこそは、われわれが「第三者の審級」(引用者追記:the instance of the third person)と呼んできた、超越(論)的な他者である。要するに、顔と顔との間の関係を、独立した人格同士の共同主観的な関係として安定化させるためには、顔のない第三者の審級が必要なのだ。

 さて、伝統的には、多くの場合、特定の一者から(不特定の)多数者へと情報を配信するマスメディアが、当該共同体における第三者の審級の機能を果たしてきた。とりわけ、文字メディアを用いるマスメディアが、である。(p.104)

(中略)

 マスメディアがこのような機能を担いうるのは、それが、遠くから語りかけるからである。それゆえ、触覚的な直接性において体験される電子メディアは、とりわけサイバースペース内のメディアは、第三者の審級としては機能しない。新聞や書籍に記された情報は、それを知っている人、それに関心を持っている人が、たとえごく僅かであったとしても、公的なものとして意味づけられる。(p.105)

(中略)

 ここで、先に指摘したこと、すなわち共同主観的な関係が安定化するためには第三者の審級が必要だということを、あらためて想起する必要がある。私の身体と他者の身体が、互いに直接にはアクセスすることができない「内部」を備え、安全な距離を保つことができるようになるためには、第三者の審級がいなくてはならない。第三者の審級が撤退した場合、第三者の審級の機能が弱体化している場合、つまり身体の求心化作用−遠心化作用を媒介にしてのみ他者を体験している場合、私にとって、他者は、あまりにも直接的である。(p.106)

要約すると、電子メディア環境における身体性は、遠隔性による脱身体化と、求心化および遠心化と言う近接化による(触覚的)再身体化の、二つの側面を持っている。後者の側面において、身体の「内部」を安定化させるための第三者の審級と呼ぶ超越的他者が必要であり、この機能をはたすのがマスメディアである。この存在の有り様によって、(引用外ですが)近接化に対する耐性のなさを、身体性は露呈するものである。

前段は、以前議論した「情報哲学に関するエントリー」の内容を見事に補完してくれます。

後段の第三者の審級がマスメディアであるかどうかは異論がありますが、第三者の審級不在(あるいは劣化)による近接化の身体の瓦解は、その通りだと思います。

そこで、第三者の審級が、マスメディアであるかどうかです。

これは、前段の内容とも関連するのですが、正に自己組織化の問題です。自己組織化において相互干渉が必須要件であることはすでに何度も述べてきましたが、もうひとつ必須要件があります。それは絶対量の問題です。絶対量とは、それを構成する要素の数が、数十レベルから数百レベルでは出現しない現象が、ある閾値を越えると突然様相を変えると言うものです。いわゆるモード転換です。

つまり、個別の近接性の絶対量の集合が、第三者の審級と呼ぶ、質、意味を獲得しているのです。

筆者は、100万ステップクラスのアプリケーションをいくつか、この20数年にわたって実際に現場で開発してきた経験から感じるのですが、100万ステップクラスのアプリケーションでは、本当にこの「モード転換」が起こります。このモード転換したアプリケーションが、あらゆる意味で、新しいアプリケーションに影響を与えるだけではなく、アプリケーションの進化そのものの「パワー」となる現象が発生しています。

つまり、マスメディアと言う存在は、象徴としてのマスメディアはあっても、すでにその存在自体、実体として個別の近接化した再身体化に支配されていると言う事実を受け入れなければ、マスメディアの「現在の有り様」は説明できません。

そろそろ自己組織化するアプリケーション第二部もまとまってきましたので、そちらに移りたいと思います。 KAI

補足です。

マスメディアが象徴化しているとはどういうことか説明します。

本来、マスメディアの報道機能の中で「検証」機能が機能していれさえすれば、本来すべて、何の矛盾なく整合性を取れたはずです。ところがマスメディアは、それを放置、放棄してきた。結果、いままで機能するはずもなかったBlogをはじめとした、リアルタイムのインターネット情報によって、自分たちの望まない検証作業が次々行われ、それがリアルタイムにオープンになっていく。

この状況である「マスメディアの有り様」は、決してネットの中だけの現象ではなく、本日(8日)の、まるでITと縁遠い国会議員がいる予算委員会の集中審議でも如実に現れています。