July 28, 2004

ネット社会の新たなる胎動−Programmable Environment

前回のエントリーで新しいことが見えてきました。それは多少大袈裟な表現を使うと、情報通信技術の進展で一人の人間のその人間を取り巻く環境を、自分側の意志で自由自在に操作できる状況が始まろうとしていると言うことです。しかしこれは始まろうとはしていますが、始まってはいません。

映画を含むすべてのビデオ映像、音楽を含む全ての音声コンテンツ、これらがそれぞれ独立したチャネルとしてインターネット経由で24時間、オンデマンドで流せる仕掛けと、これを、自分だけの番組表として視聴できる装置とを組み合わせることによって、自分だけの環境−Programmable Environment(PE)−を作ることが可能になります。

iPodやテレビのDVD(HD)レコーダーのようなダウンロード(録画)+編集型の仕掛けではまだPEとしては不十分です。目標は、チャネル側が用意した番組表(標準のプログラム)を利用してその中から視聴したい番組だけをクリックします。これを視聴するを選ぶと、もうそれは自分だけのテレビ局であり有線放送になります。しかも好きなところで中断も可能で、もちろん再開も可能ですし、繰り返し同じ番組を視聴することもできます。これらの映像、音声とも揮発型ダウンロードですからデジタルコピーの心配は全くありません。必要なら何度でもネットで取りに行けばいいだけです。

それではこのPEと生番組との関係はどうなるのでしょうか。もちろん未来の生番組をクリックはできませんが、過去の番組になった瞬間からいつでもクリックして視聴できます。

この目標は果たして実現できるのでしょうか。デジタルコピーの心配が要りませんので技術的な問題は現時点でもほとんどクリアしていると思っています。むしろ問題は映像にしろ音声にしろ複雑に絡み合った権利関係の問題です。特に地上波のテレビ局ではほとんどの映像をこのような形で再配信することは現時点では不可能です。最初からこういった再配信を前提にした契約で作られた映像のみクリアできることになるでしょう。

逆にこのライセンスの問題を解決するアイデアを持った企業がこのビジネスを成功させることができると言えます。

これをテレビ業界で考えることは現時点ではまず無理でしょうから、例えばレンタルビデオ業界ではどうなるか。すでに私も契約していますがYAHOO BBのBBテレビがあります。まだまだPEにはほど遠いのですが、何千本(将来的に)ある映画をその場で自由に見ることができます。通信環境がもっと良くなれば(電話がかかってくると映像がストップするなど)これがどのように進化していくか非常に楽しみに見ています。

音楽コンテンツでは前回のiPoCast機能付きの車載マシンが有望だと思います。FM放送にしろ長距離ドライブでは使い物になりません。かといって事前にMDを準備して途中で取っ替え引っ替えするのも面倒です。iPoCastなら、音楽コンテンツのデータ量くらい簡単に受信可能ですから、ドライブ中好きな曲を聴き放題です。

さあみなさん事業化しましょう。 KAI

July 22, 2004

iPoCast−iPodが進化する

こう言う記事が載るからCNETは止められません。梅田さんのゲストブロガー川野さんのエントリー「新型ウォークマンは「新しい何か」を提供しているか?」を読んでやっとiPodの「意味」が理解できました。

ソニーが「音楽を携帯する」という新しい生活様式をウォークマンで20年以上も前に提案したとき、それは世に対する革命的なメッセージであった。音楽をテープにいれ、イヤホンでそれを聞く、というのはそれまでに無かったスタイルだったからだ。「新しい市場を作り出す=人の行動様式に変化をもたらす」という革命を実現した。iPodも2001年にそれと同じような革命を起こした、というのがEconomist誌で英国のSussex大学のMichael Bull教授が説明している。この記事、「The meaning of iPod」は無料では見られなくなっているようなので、引用を行わずに内容を紹介しよう。

彼は技術の文化に対する影響を研究する第一人者で、これまでに数百人ものウォークマンユーザ、iPodユーザを研究して来た。彼の結論は「iPodの起こした革命は、何千曲もの大量の楽曲を持ち歩き可能にし、しかもそれを自由にジュークボックス的に聞けるようにした事だ」という。彼の研究によると、人は気分に応じた音楽を聴く事を求めていて、気分に合わない曲を聴くくらいなら全く聞かないという選択をするらしい。出かけている間に聞けるくらい程度の数の曲をCDやMDなどに入れて持ち歩けば十分で、わざわざハードディスクに聞ききれないほどの曲を詰め込む必要がない、と思っていた競合他社はこれに気がつかなかったことが仇となった.

音楽を聴くと言う行為が「そこにあるものを聴く」から「環境を作るために聴く」に変わったというのがBull教授の説くiPodの意味合いだと私は解釈している。仕事や勉強をするため、運動をするため、通勤や通学をするための「自分だけの世界」を作るのに人々はiPodを使っているのだという。この目的でiPodを聴いている場合、人は携帯電話に出る事さえためらうのだそうだ。

そう考えるとiPodの米国での人気が日本よりもまだ圧倒的に高い、というのも頷ける。日本ではこのような「細切れの時間を使って自分の世界を作るための手段」として携帯電話という素晴らしいソリューションを既にもっているため、いまさらその選択肢を増やす必要がないからだ。米国人はとにかく良く運転をし、よくジョギングをする。どちらも携帯電話を見つめながらではできないことだ。これまで「環境を作るための音楽」を自分で編集するのにCDやMDでは手間がかかったが、これをオンザフライにいつでも親指くるくるとすれば簡単にできるのが、iPodの革命なのだろう。

なるほど「環境を作る」ですか・・・。

確かに、私の例で行けば、毎朝2時に起きて居間で仕事をするのですが、まず何をやるかと言うと、居間のテレビをつけます。更にパソコンのテレビも付けます。両方音は消してあります。WOWOWだけ番組表を見てあわせるか決めますがそれ以外は、スイッチを入れた時のチャネルが映っているままです。そう、二つのテレビで私は仕事の「環境を作る」作業をしてから、もう一台のパソコンで仕事を始めます。

なぜそうするか、これは目が寂しいからと言うのが一番適切な表現です。音楽を聴きながらと言う人もいるかも知れませんが、私の場合は考え事をするのに音楽を含めて音が聞こえると全く仕事になりません。頭の中に思い描きながらぼんやりと音のしない二つの映像を眺めているうちに、これがなぜか突然良いアイデアが湧いてくるのです。

この音のしない映像と言う環境を私は受動的ですがそれなりに選択します。いわゆる毒にも薬にもならない見ていて刺激にならない映像を選ぶと言うことです。かと言ってNHKの夜明け前に流れる映像散歩のような映像ではなぜか理由は分かりませんがアイデアが湧いてきません。

さて、この「環境を作る」と言うサムシングニューの意味をもう少し踏み込んで考えてみたいと思います。

そのために「iPoCast」と言うネット端末機器を想定します。iPoCastは、iPodと違って、音楽をダウンロードではなくインターネット放送(実際は揮発型のダウンロード)の形で受け取りその場で聴く装置です。チャネルは楽曲分ありますから何千チャネルあり、1チャネルでその曲だけが繰り返し放送されています。事前に聴く楽曲をプログラムできるようになっており、何曲でもプログラムできます。更に何種類もプログラムできるようになっていて、気分に合わせてプログラムを選べるようになっています。まるでプライベート放送局のDJ気分です。もちろん料金体系も、ほぼiPodと同じになるように、1回聴けば1ダウンロードとしてカウントしてそれ以降何度聴いても料金はかからないようにします。あるいは別の料金プランを用意して、同じ料金でできるだけ沢山の種類の曲を選べるように、1曲の無料で聴ける回数を制限した上でダウンロード料金を割安に設定することも可能です。この割安プランを進化させ、月額固定料金で聴くことができる楽曲の種類の上限を設ける定額制プランもありです。

iPoCastのメリットは楽曲をダウンロードしないのでデジタルデータのコピー問題が発生しないことですが、上記の定額制プランに、レディーメイドのプログラム自体を組み合わせれば、現在月額制で有料で視聴している放送番組と同じ感覚のプライベート放送局さえ実現できることです。

そうです、iPoCastはiPodの「環境を作る」機能を更に進化させた世界を想定しています。

環境とはライブでありリアリティです。つまり、数えられるような曲では環境とは言えません。私が考えるiPodのリアリティとは実はこの何千と言う楽曲の数です。リアリティとは日本語に訳せば新鮮さ、つまりライブと一緒です。この新鮮感覚がiPod以上にiPoCastでは実現できると言う仕掛けです。

考えてみれば、私の「環境作り」においてNHKの朝の映像散歩の映像を選択しない理由がわかります。映(え)がほしいわけではないのです。もっと重層的に映像に意味を持った感覚の世界を求めているのです。

またまたビビッドなテーマが出てきました。次回をお楽しみに。 KAI

July 21, 2004

夏休み

仕事ではフル稼働中の頭の中も、どうも自主的夏休みモードで、良いテーマが浮かんできません。と言うことで今週から夏休みモードに入ります。

8月18日までの約1ヶ月間、1週間に1、2回書こうと思いますのでよろしくお願いします。 KAI

July 15, 2004

サーチエンジンは21世紀の文化の担い手(その6)

こう言うのを共時性(シンクロニシティ)と言うのでしょうか。

CNETの渡辺さんが、「メディアコンテンツはサーチエンジンの夢を見るか」で、私の一連のエントリーの内容に関連する話題を取り上げています。

メディアサイトを見るには登録が基本となっている。有料無料どちらにせよ、アーカイブを見るにはIDが必要となる。つまり、サーチエンジンのクローラーが取得出来ないことから、サーチ経由でのトラフィックがない。クローズにすればするほど記事のランクも低くなりがちである。

産経新聞は完全に有料でクローズですが、「産経抄」と言うキーワードでGoogle検索すると一部の記事が引っかかります。朝日、読売、毎日は無料でほとんどの記事を読めます。それぞれのホームページを見るとニュースのポータル化を目指していることがよく分かります。記事そのものがサーチエンジンにかかるかどうかは不明ですが。

情報のオープン化などありえないという立場を崩さない。この感覚値は日本の新聞社と良く似ている。紙を侵食するあらゆる動きを禁忌としているところがある。

新聞、雑誌系の人で、「オープン化」という言葉の意味を深く理解して実践できている例は非常に少ない。

現在のマスメディアの動きは、単にインターネットと言う新しいメディアをどう今のメディアの中で処理するかと言う考え方です。分かりやすく書けば新聞よりインターネットは下と見ていると言うことです。

しかし私は前々回のエントリーで書いたとおり、パラダイム自体が全く新しい世界として展開されつつあるのであって、最終的にはサーチエンジンにマスメディアは覆い尽くされると私は考えます。

まず、ユーザーは有料コンテンツの購買経験を積みつつあり、支払いそのものへの抵抗感は薄れている(思い起こせば、自分自身有料の情報サービス幾つかと契約している)。また、複数契約する煩わしさをなくしてワンストップ化を行えればユーザー側での利便性が高まり市場の拡大が期待出来る。

つまり、メディア側からと言うよりユーザー側からの動きの方が早いと言うことだと思います。すでにYAHOOやMSNが進めているメディアのニュースの配信は、以前であれば新聞社と通信社の関係と同じです。これがサーチエンジンと言う新しいメディアの登場で明らかにステージもパラダイムも変わったと言うことであり、この大変革が見えない限り、従来のメディアは単に時代に取り残されるだけだと言えるでしょう。 KAI

July 14, 2004

IT企業の倫理感覚

CNETにまた新しいコラムのBlogニュースもいろいろ、ブログもいろいろが誕生しました。生意気に小泉節をたたいていますがなかなか中身があり期待しています。

ニュースですが、ヤフーのキーワード検索が障害を起こしています。1時間ほどで解消されましたが、原因は発表されないと藪の中です。ヤフーのCEOとCTOは、サーチエンジンにとってサーチの性能以前に問題があることの自覚が足りなかったようです。

YAHOOの表示内容
現在キーワード検索が一部ご利用いただけません。 ご迷惑をおかけいたしますが、復旧までいましばらくお待ちください

ここにきてGoogleとの力の差は歴然です。少なくとも私のGoogleの利用体験の中でこう言う事態は一度もありません。Googleの技術レポートを読めばこう言った事態でも常にフォールトトレラントの仕掛けが働いてユーザーへのサービスに影響を与えないと言うのが良くわかります。しかし、ヤフーは公開された情報の範囲では(情報自体ありませんが)、この耐障害性に無防備のように見えます。

これはヤフーBBの個人情報の漏洩問題と根は一緒です。

一昨年4月みずほ銀行はシステムの移行に伴う大規模なオンライン取引障害を起こしました。銀行のCEOとCTO(CIO)にとって寝耳に水の出来事であったことは、昔の関係者として同情します。

ソフトウェアの業界で「パーティ効果」と言う用語があります。あまり良い例えではないのですが、パーティの始まりではブスな娘もパーティの終盤に入るとなぜか美人に見えてくると言う現象を指します。プロジェクトの後半に差し掛かると、その進捗とは関係なくなぜかプロジェクトがうまく行っていると誰もが思い始める現象と同じと言うわけです。

かくしてみずほは大失態をし、ヤフーも・・・と言う構図と見ました。 KAI

July 13, 2004

サーチエンジンは21世紀の文化の担い手(その5)

サーチエンジンの大航海時代の幕開け?!

久しぶりに長い連載になりました。

前回のエントリーで、

それは、「テキスト・コンテンツに関わる人々」と言うのは新聞における「記者」の役割を担いつつあるのではないかと言うことです。どちらもアナログ情報とデジタル情報の狭間にいる存在です。これを「記者」と表現してしまうとある意味で範囲が限られてきますが、新聞の中のカテゴリーを飛び越えて、もっと世の中の学術情報をも含めた広い範囲のカテゴリーの中の一般化した「記者」の存在として認めるならば、サーチエンジンと言うマスメディアはこの「記者」の存在を獲得することによってアナログ情報さえも対象にすることが可能になると言えるのではないか。

と述べましたが、この一般化した「記者」を仮にOSJL(Open-source Journalist)と名付けることにします。この呼び方は、一般化した「記者」の存在が、梅田さんのBlogの以前のエントリー「オープンソース的コラボレーションが社会を変える」や、「製薬分野でのオープンソース的取り組み」の内容に通ずる部分があるからです。

世界中にいる、ありとあらゆるカテゴリーのOSJLが、次々とアナログ情報からデジタル情報を生産し続けます。それをサーチエンジンは、それぞれのカテゴリー毎の価値観でもって次々と編集していきます。この編集された情報は、世界中の、カテゴリー毎の情報を求めているユーザーの手元に、リアルタイムで届けられます。つまり、OSJLとサーチエンジンの組み合わせが、世の中のありとあらゆるアナログ情報をネット社会に流通させる道を拓く装置として機能し始めると言う考え方です。

サーチエンジン各社も、自社の特色を打ち出すシソーラスを全面に出して、OSJLと協調した開発競争を繰り広げることになります。

この仕掛けがそのまま、既存の紙媒体によるテキスト情報の流通と言う既得権益を所有するマスメディアと、まともに対峙するわけではないと言うのは簡単に分かります。

しかし、私はこのテーマの冒頭で取り上げた産経新聞の購読体験から、新聞と言うマスメディアの価値はすでに「紙」と言う物理的な媒体としての意味以上の価値を持ち得ていないと言う事実を考えざるを得ません。

すなわち我が家の産経新聞は、毎朝3時45分前後に配達されますが、午前2時前後から仕事をしている私は階下の郵便受けの、その配達された音を聞いて新聞を取りに行き、読み終わるのが4時過ぎです。私が新聞に目を通すのは10分少々と言うことになります。1面の産経抄と正論、あと、2、3の興味ある記事でお仕舞いです。これ以外はほとんど他の媒体かインターネットで既知の内容です。これは私の産経新聞の購読料は上記の記事(と休日のテレビ欄)に対する情報料と言うことになります。これらの情報は、有料のWebページを含めてすべてサーチエンジンに置き換え可能であり、新聞としての残るメリットは、黙っていても毎朝配達されると言うpush型であることとパソコンのスイッチを入れなくて済む紙媒体であることだけです。

つまり、パラダイムの転換が起きているかどうかの問題と言うより、当のパラダイム自体のいわゆる既存のマスメディアと言うものの位置づけが、ネット社会の中で大きくシフトし始めていると言った方がより適切です。更に言えば、「ネット社会の世界中のアナログ情報の海を帆走するサーチエンジンによる大航海時代の幕開け」と言う新しいパラダイムの誕生、と言うのは決して大袈裟な表現ではないと思います。 KAI

July 09, 2004

サーチエンジンは21世紀の文化の担い手(その4)

新聞もサーチエンジンも最終的に対象とする情報は同じか

私は、このテーマの最初のエントリーで、

サーチエンジンが対象とする情報は、すべてデジタルです。これに対して新聞はアナログ情報が中心です。これが、新聞の「編集」を経由してデジタル化され、サーチの対象範囲に含まれるようになります。このことから新聞の情報はサーチエンジンの対象の部分集合であるかのような誤解を生みますが、元々の遍在する情報という意味では既に述べた通り新聞の方がはるかに広い情報を対象としています。

と書いて、新聞の方が情報の範囲は大きいと書きました。

更に、前々回のエントリーで、梅田さんのBlog「検索できないコンテンツは存在していない?」の中の、

「サーチエンジンによって見つけられないものは存在していないのと同じ」という危機感が、テキスト・コンテンツに関わる人々の間に醸成されつつある。今日ご紹介するいくつかの記事に共通するのはそんな感覚だ。

に対して私は、

サーチエンジンが対象とするのはデジタル情報ですから、対象になるにはデジタル化する以外には方法がありません。しかしデジタル化したからと言って即取り上げられるわけではないと言うのは、全く新聞における記事の扱いと同じではありませんか。

ここで必要なのは、従来の新聞のような限られた新聞社による編集ではなく、本当の意味で学術的にも営業的にも可能性を持った開かれた編集者の価値観による編集です。世の中で認められるべき情報があれば、いつでもインターネットのボランティア機能を利用したデジタル化が可能と言うのはいつぞやの梅田さんのエントリーそのものです。

とコメントして、サーチエンジンはあくまでデジタル情報を相手にしていると書きました。

ところが、前回の考察の流れからこの引用をあらためて読み直してみると、全く別の展開が見えてきます。それは、「テキスト・コンテンツに関わる人々」と言うのは新聞における「記者」の役割を担いつつあるのではないかと言うことです。どちらもアナログ情報とデジタル情報の狭間にいる存在です。これを「記者」と表現してしまうとある意味で範囲が限られてきますが、新聞の中のカテゴリーを飛び越えて、もっと世の中の学術情報をも含めた広い範囲のカテゴリーの中の一般化した「記者」の存在として認めるならば、サーチエンジンと言うマスメディアはこの「記者」の存在を獲得することによってアナログ情報さえも対象にすることが可能になると言えるのではないか。

仮説の仮説では論が成り立ちませんが、まさに思考実験であるBlogにふさわしいテーマです。

以下来週。 KAI

July 08, 2004

サーチエンジンは21世紀の文化の担い手(その3)

今回は、前々回のエントリーの続きです。

こうした中で、今まで新聞が担っていた「編集」と言う価値創造機能の役割が、今やサーチエンジンへ移ると言う大きなパラダイムの転換が起きようとしているのではないかと言うのが本稿の結論です。以下次回以降にこの仮説を検証していきたいと思います。

果たしてこのパラダイムの転換と言う考え方は成立するのかどうか、概ね以下の四つの項目を考える必要があります。

■新聞もサーチエンジンも最終的に対象とする情報は同じか
■サーチエンジンは名前どおり「検索」であって「編集」ではないのではないか
■自動編集はいかに形式的に同じことをやっているからと言って通常の編集と同等に扱えるものかどうか
■新聞の役割に取って代わると言えるのかどうか

先頭のテーマは次回以降に廻して2番目から。

サーチエンジンは名前どおり「検索」であって「編集」ではないのではないか

この問いはそのまま、それでは「編集」って何かと言う問いになります。そしてその答えは前々回の、

編集とは何か

新聞における編集は、カテゴリー毎の編集者が記者から送られてきた記事の、その内容の重要度によるカテゴリー内の順位付けを行う作業です。この重要度の判断に、これを行う人間の価値観が介在することになります。順位付けの結果は、合格判定と同じく、掲載するしないの分かれ目を作ります。つまり、記者にとって自分が書いた記事が読者の目に届くためには、記事の順位を上げる必要があり、順位を上げるためには、順位を決めるカテゴリー毎の編集者の価値観にそった内容である必要があります。ここで編集者の規制が働く仕掛けになると言うことです。

この記述の通り、「編集」作業の要は「重要度によるカテゴリー内の順位付け」です。この順位付けの結果、新聞紙面と言う枠の中での記事割りと言う編集の二次作業が行われます。併せて、記事の重要度に見合う見出しと要約が付加されます。

この「編集」作業を、人間がやるか機械でやるか、カテゴリーがあるかないかの違いだけで、サーチエンジンでも全く同じことが行われます。一見、サーチエンジンにおける検索の比重は大きく見えます。しかし実際は、検索した結果の膨大なデータをいかに表示するかと言ういわゆる「編集」機能の役割の方がより重要となって、編集機能こそ付加価値を持つ部分と言えるのです。

自動編集はいかに形式的に同じことをやっているからと言って通常の編集と同等に扱えるものかどうか

これは質的な問題ではないかと考えます。確かに現在のGoogleのような方法では、リンクの多いBlogにダミーのトラックバックを仕掛けることで論理上いくらでも順位を上位に持っていくことが可能です。しかしこれは、本来の意味のあるリンクを識別する能力を持たせることでやがて解決するもので、本質的な問題ではありません。

むしろ問題は、AIのように果たして人間としての編集者の価値観と、同等あるいはそれに近い形で記事の重要性について指標化が可能なのかどうかです。私は、これは現在の技術でも可能だと考えています。具体的にはシソーラスの技術とパーソナライゼーションの技術の応用になります。クローリングで集めた全ての記事内容をシソーラス化します。この中からサンプリングした記事について実際の編集者による評価付けを行います。つまりシソーラスを使用して、編集者と言う個人に対するパーソナライゼーションを行うと言うアイデアです。これで導いた指標を仮に[モード指標]と呼びます。しかしこのモード指標だけではかなり偏りが出るはずです。そこで先のGoogleのグーグルランクの指標を併用します。グーグルランクを仮に[コード指標]と呼びます。編集者は、この二つの指標の比率を設定できるようにすることで、より現実的な編集が可能になると言う考え方です。

実はこの方法は懸案であったカテゴリー別の評価も自動化できてしまいます。シソーラスの上位のネットワークにカテゴリーを挿入するだけで済んでしまうからです。

こうしてみると、人間が行う編集に近いレベルで自動編集が可能であると言っても間違いないと思います。

新聞の役割に取って代わると言えるのかどうか

そもそも新聞の役割とは何か。メディア論ではこれを報道、論評、教育、娯楽、広告の5つの機能で説明されますが、むしろもっと大きな立場から考えると、マスメディアとしての機能です。つまりこの問いは、サーチエンジンはマスメディアであるのか、しかも新聞に取って代わるのかと言う問いと同じ意味になります。

サーチエンジンがマスメディアとして機能するかどうかは、サーチエンジンをカテゴリー別に機能させると言う思考実験をしてみれば容易に答えが出るはずです。例えば政治と言うカテゴリーでは、キーワードを入れなければデフォルトで最新の政治に関する情報が上がってきます。これは契約している通信社の情報かも知れませんし、新聞社からの情報かも知れませんが、いずれにせよ、新聞の政治面を開いて得る情報と同じ(あるいはそれ以上の)内容が表示されます。しかも(ニュースと言う範囲を絞ったクローリングが必要ですが)最新の情報を新聞以上にリアルタイムに流すことができます。

すなわちこれはサーチエンジンがマスメディアになりうると言うことです。

しかも機能は多彩です。新聞を初めとしたマスメディアの情報は基本はpush型ですが、これがサーチエンジンで可能であることがわかりました。サーチエンジンはもともとpull型ですから、サーチエンジンというマスメディアは、push型とpull型を両方併せ持つメディアと言うことになります。

今でも新聞社が運営するWebサイトは同様の機能を実現しているかのように見えますが、pull型で引き出せる情報量と質の違いを考えると、これはサーチエンジンで実現されるものとは雲泥の差があると言わざるを得ません。

明らかに使い勝手に違いがあるという事実を持ってすれば、やがて、人々は新聞に求めていたものをサーチエンジンに求めるようになると言うのは必然の動きではないかと考えます。

前回のエントリーで、渡辺さんの

2:メディアはこのままでいいのか?

(中略)

2:メディアは消えはしないだろうが役割を変える。情報過多になると、一次情報よりも判断とフィルタリングの価値が相対的に増す。正しい情報を伝えているだけではもはやユーザーの要望は十分には満たせない。

この問題認識に対して、

2:のメディアの問題は、メディア自身がサーチエンジンとして参入しない限り、市場はGoogleを含む新興企業の独壇場となり、著作権と同等の編集権がサーチエンジンに奪われることになります。この指摘の意味を理解できるメディアの経営者であれば、経営的に打つべき手が見えるはずです。

とコメントしたのはこう言った背景を考えていたからです。

以下次回に。 KAI

July 06, 2004

サーチエンジンは21世紀の文化の担い手(その2)

昨日のエントリーの続きをやる前に、サーチエンジンに関連して、CNETのBlogに2日続いて興味深いエントリーが掲載されています。一つは、渡辺聡さんの「GoogleとYahoo!の価値創造における根本的な違い」で、もう一つは梅田さんの「検索できないコンテンツは存在していない?」です。

先に渡辺さんのエントリーを取り上げます。

一つ、Googleがどう対応するのか、注意深く追っている現象がある。Weblogの増殖に象徴されるトラフィックの分散化である。メディアや企業サイトよりも、Blogを情報源として重視しはじめているという声はあちこちから入る。ポータルやサーチが席巻していたウェブの入り口はBlogに浸食されつつある。どのような形態であれ、自社サイトへのトラフィックを集めるというここしばらくの競争原理は少し形を変えてきている。

別の話題を話していてアリエルネットワークの徳力さんから頂いた問いかけがこの問題を端的に示している。

1:コンテンツがこのまま増えたら、私たちはどうやって価値のあるコンテンツを見つけるのか。
2:メディアはこのままでいいのか?
3:ブログではディスカッションが機能していないのでは?

それぞれ簡単にコンセンサスをまとめると

1:サーチは有効なツールであるが、機能不全に陥りつつある。BlogがPageRankの邪魔をしつつあるという狭い意味ではなく、情報量の増大と合わせて起こったコンテンツの文脈の多様化により、リテラシーがこれまで以上に求められるようになっている。単純なランキングシステムでは、情報は得られても知識は得られず、飢えは続く。
2:メディアは消えはしないだろうが役割を変える。情報過多になると、一次情報よりも判断とフィルタリングの価値が相対的に増す。正しい情報を伝えているだけではもはやユーザーの要望は十分には満たせない。
3:米国はともかく、日本ではいまいち機能している感じを受けない。米国でも見ている範囲で十分に機能しているかは疑問である。ただただ数が増え、追うだけで疲れきってしまい飽き飽きしてしまっている。

(中略)

Googleの対応としては、AdSense、AdWordsを分散化させ、ウェブ上のあらゆるところに遍在させようと動いている。万能解ではないが、進もうとする方向は分かる。分散するものには分散出来るものを提供すれば良い。なんともシンプル。

しかし、根本問題である情報の氾濫は解かれていない。また、現行のサーチのアプローチでは解かれないだろうと考えている。何十年も経ち、技術がありえないくらい進化すれば別だが、アルゴリズムが少々良くなったところで限界が見える。「私たちは違う方向を目指すべきではないのか?」、最近耳にすることの増えた意見である。こういった大きな動きを彼らがどう認識し、どのような回答を用意しようとしているかはとても興味深い。

まず1:の問題ですが、昨日のエントリー「サーチエンジンは21世紀の文化の担い手」で書いた通り、情報量の問題はすでに問題自体にはなり得ません。編集機能が有効に機能している限り単に個人の情報処理能力の問題です。

2:のメディアの問題は、メディア自身がサーチエンジンとして参入しない限り、市場はGoogleを含む新興企業の独壇場となり、著作権と同等の編集権がサーチエンジンに奪われることになります。この指摘の意味を理解できるメディアの経営者であれば、経営的に打つべき手が見えるはずです。

3:ですが、Blogの本来の役割「逆方向のリンク機能」の意味を理解すべきです。世の常として、産み出した本人にはその意義は理解できません。この機能のサポートのおかげでGoogleが誤動作を始め、Googleの編集権に揺さぶりを与えられることは、ベンチャーにとって最大のチャンスであることをこれまた理解する必要があります。

梅田さんのBlogからの引用も同じ論理構造です。

「サーチエンジンによって見つけられないものは存在していないのと同じ」という危機感が、テキスト・コンテンツに関わる人々の間に醸成されつつある。今日ご紹介するいくつかの記事に共通するのはそんな感覚だ。

サーチエンジンが対象とするのはデジタル情報ですから、対象になるにはデジタル化する以外には方法がありません。しかしデジタル化したからと言って即取り上げられるわけではないと言うのは、全く新聞における記事の扱いと同じではありませんか。

ここで必要なのは、従来の新聞のような限られた新聞社による編集ではなく、本当の意味で学術的にも営業的にも可能性を持った開かれた編集者の価値観による編集です。世の中で認められるべき情報があれば、いつでもインターネットのボランティア機能を利用したデジタル化が可能と言うのはいつぞやの梅田さんのエントリーそのものです。 KAI

July 05, 2004

サーチエンジンは21世紀の文化の担い手

CNETで度々サーチエンジンをテーマに議論があり、私なりにサーチエンジンに対する考え方を整理したいと思いながら、なかなかこれと言った切り口がつかめないでいました。そんな時、ふと思いついたのが「新聞」です。サーチエンジンについて考察するのに、新聞と言うメディアがヒントになるのではないか。

昨年暮れ、50年にして初めて我が家で取る新聞を朝日から産経に変えました。小学生頃から父親が取っていた朝日を読み始め、一人暮らしを始めた時も、何も考えず無条件で朝日を選び、以来ずっと同じでした。ところが、丁度20年ちょっと前頃から、朝日の記事の内容に疑問を抱く事例がちょくちょく出てくるようになりました。しかし、まあこれはこれ反面教師として読んでみようと取り続けていました。

これが大きく変わり始めたのが、ニフティのフォーラムの議論に参加するようになった1990年頃です。このフォーラムの議論は、今の2チャンネルほどではないにしろ絶対マスメディアでは取り上げられることのないテーマであり、内容でした。しかも議論の展開は、投書などと言う片思いのラブレターと違って、正に議論に相応しいやりとりが可能なものでした。このような状況の中で、昨年、ジャーナリズムの根幹に関わるある出来事があり、私はKAI家が50年間取り続けていた朝日新聞を止め、産経新聞に変えたのです。

この出来事ですっかり新聞に対する考え方が変わりました。良い意味で新聞を突き放して見れるようになったと言うことです。そりゃ50年間に渡ってつきあって来た新聞ですから、家族同様の感覚からただの「新聞」になっただけと言われればその通りです。このただの「新聞」の感覚と「サーチエンジン」の感覚とが何となく似ている気がするのです。

ここで、話しを単純化するために、「新聞」を次のように定義します。

■「新聞」とは、世の中に遍在する情報を、これに編集と言う付加価値を付けて、読者に届けるための一つの手段である。

この定義によれば、私の取った行動は、編集と言う付加価値の部分を朝日から産経に変更しただけとなります。

しかし、考えてみれば、家で取る新聞と言うものは、昔であれば子供の頃からの唯一の公の情報源であり、今でも、教育を考える家庭の多くは情報源としてテレビより新聞を薦めて、子供にしてみれば社会人としての世界観、社会観、価値観の形成と言う情操教育に関わる部分で、かなりの影響力を持つ存在であると言えます。普通に考えると、自分の性(しょう)にあった新聞を選択して取っていると思いがちですが、そもそも新聞で醸成された自分の性と言うものが先にあるのであって、その性が選ぶ新聞がどれになるかはほとんど自明です。そう言う意味で、家で取る新聞を変えると言うことは非常に重要な意味を含んでいると言うことであり、併せて編集と言う付加価値の持つ重要な意味も認識する必要があります。

ここで、上記の「新聞」の定義を利用して次の定義を行いたいと思います。

■「サーチエンジン」とは、世の中に遍在する情報を、これに編集と言う付加価値を付けて、利用者に届けるための一つの手段である。

このサーチエンジンが扱うネット社会の情報量と新聞が扱う「世の中に遍在する情報」の情報量と間に差があるのでしょうか。一見差があるようにも思えますが、よく考えれば、それはデジタル情報としての違いであって、アナログも含めれば「世の中に遍在する情報」はむしろ新聞の方が大きいと言えると思います。

更にそれぞれの定義の中の「編集」ですが、新聞の編集は記者や編集者と言った完全な人手による作業です。これに対して、Googleの編集は完全な「自動」でありYAHOOは「人手+自動」であると言えます。しかしいずれも「編集」であって、すなわち「付加価値」と言う価値判断の入ったものになると言うことを忘れないようにする必要があります。

「世の中に遍在する情報」を「編集する」のは、新聞もサーチも同じ

話しを整理すると、サーチエンジンと言うのは「対象とする情報とは何か」と言うことと「編集とは何か」と言う二つのことを理解することで、サーチエンジンの役割と今後の展開が見えて来るのではないか、しかも、これは新聞とのアナロジーが成立するのではないか、と言うことです。

対象とする情報とは何か

サーチエンジンが対象とする情報は、すべてデジタルです。これに対して新聞はアナログ情報が中心です。これが、新聞の「編集」を経由してデジタル化され、サーチの対象範囲に含まれるようになります。このことから新聞の情報はサーチエンジンの対象の部分集合であるかのような誤解を生みますが、元々の遍在する情報という意味では既に述べた通り新聞の方がはるかに広い情報を対象としています。

ここで重要になるのが、これだけ広く沢山の情報を対象にしていると言う以上、どうやってこれを取捨選択するのか、「編集」と言う行為以前の問題として、「情報の収集と選択」と言う問題を検討する必要があります。

「情報の収集と選択」にとって必須となるのが「カテゴリー」です。新聞のカテゴリーは、政治、経済、スポーツ、家庭、社会と言う言葉に「面」を付けたものです。このカテゴリー毎に、まず溢れかえる情報を分類します。しかしまだ初期の時点では分類されるのは情報ではなく「記者」です。いわゆる社会部記者、政治部記者です。この記者の中で情報の収集と選択が行われるのです。そう言う意味で、新聞には、世の中に遍在する大量の情報を処理するために、カテゴリー別の「記者」と言う優れた並列処理のシステムが準備されていると言えます。

一方のサーチエンジンについては、色々なところでその仕組みが解説されているので省略しますが、ポイントは、この新聞と同じ「カテゴリー」の存在です。しかもクローラー自体が新聞におけるカテゴリー別の「記者」となって情報の収集と選択を行うと言う仕掛けも、アナロジーとして成り立つのではないかと考えます。このあたりは次回以降もう少し検証したいと思います。

編集とは何か

新聞における編集は、カテゴリー毎の編集者が記者から送られてきた記事の、その内容の重要度によるカテゴリー内の順位付けを行う作業です。この重要度の判断に、これを行う人間の価値観が介在することになります。順位付けの結果は、合格判定と同じく、掲載するしないの分かれ目を作ります。つまり、記者にとって自分が書いた記事が読者の目に届くためには、記事の順位を上げる必要があり、順位を上げるためには、順位を決めるカテゴリー毎の編集者の価値観にそった内容である必要があります。ここで編集者の規制が働く仕掛けになると言うことです。

これに対してサーチエンジンの「記者」は感情を持ちません。感情を持たない代わりに、編集者の価値観を数値化する形で重要度の指標を記事に添付します。指標を使用して、後は機械的に利用者に指標順に情報を届けるだけとなります。Googleを初めとした自動編集を行っている今の多くのサーチエンジンでは、この編集者の価値観は一種類です。新聞のようなカテゴリー別の編集者の価値観と言うものは存在しません。

これが、自動編集でもカテゴリー別の価値観と言うものを指標化できれば、サーチエンジンの有用性は格段に改善されるはずです。

サーチエンジンこそ21世紀の文化の創造の担い手に

日本における定期刊行の最初の新聞は、1870年創刊の横浜毎日新聞と言われています。以来、1872年毎日新聞の前身東京日日新聞、1874年読売新聞、1879年朝日新聞が創刊されて行きます。これらの新聞は創刊以来政府による数々の弾圧に耐え(あるいは迎合し)ながら20世紀の文化の創造の一翼を担ってきたと言っても過言ではありません。これは偏に、新聞の持つ「編集」と言う価値創造機能の賜であるとも言えます。

翻って、現代のサーチエンジンは、政府による弾圧こそないもののこれから始まるネット社会のポータルという領土を争う熾烈な情報戦争の中で、その重要性は高まるばかりです。

こうした中で、今まで新聞が担っていた「編集」と言う価値創造機能の役割が、今やサーチエンジンへ移ると言う大きなパラダイムの転換が起きようとしているのではないかと言うのが本稿の結論です。以下次回以降にこの仮説を検証していきたいと思います。 KAI

July 01, 2004

ネット社会をよりリアリティのあるものに(その2)

CNETの、SFCの松村太郎さんのBlog授業はネットが繋がるお好きなところでが最高です。

 先週の記事で、SFCの遠隔授業について触れ、キャンパスの存在の見直しをすべきとの意見を紹介した。この記事を読んだ小檜山賢二教授と話が盛り上がり、僕がアシスタントをしている授業でも遠隔授業をすることになった。その授業は6月29日の情報通信文化論で決行された。

 遠隔授業と言っても、先生の話を中継するものではない。いつも授業をしている教室を閉鎖して、学生には「インターネットが繋がると言う条件を満たす好きな場所から受講して下さい」とのお知らせを出しておいた。つまり学生も授業スタッフも散り散りになって90分の時間だけをシェアする形になる。もちろんこれだけでは授業の成立を想像するのは難しい。教室の代わりにすべく、Blogで構築されている情報通信文化論の授業サイトを活用する方式をとった。

昨日のエントリーネット社会をよりリアリティのあるものにの中の、ネット社会をよりリアリティにする実証実験が実際に行われているではありませんか。しかも、ネットでの授業を「可視化」するために選ばれたツールが何とBlog。

 今回は「ユビキタスとは何か」というテーマで90分の授業中に3回の課題を出した。1回目は自分の考えをそのまま書く、2回目は提出された他の学生の意見を読んでトラックバックを送りながら考えを深める、3回目は今までの自分のエントリーを元にしてユビキタス社会像について、もしくはユビキタスへのアイディアを書くと言う内容。30分間隔と短時間で考えをまとめて書くため、反射的に情報に反応する必要が出てくる。授業に参加した学生の一人は「リラックスしていたつもりが、いつも以上に忙しくて大変だった」と言っていた。

 今までの100人の学生が参加している大きな教室内では、同時に発言している学生は1人だった。1人5分で発言を済ませたしたとしても、90分の授業では18人からしか意見を聞く事ができない。発言していない学生の多くはあまりキチンと意見を聞いていなかったり、自分が考えるきっかけになっていなかったのかも知れない。特にSFCでは自分のノートパソコンを広げて、教室の授業に参加していても、メッセンジャーでのチャットや電子メール書きに気を取られていて、意識が教室内にあるとは限らないからだ。

 しかし今回の遠隔授業では、授業のウェブサイトに30分に1回、130人の履修学生からのトラックバックが押し寄せてきた。全員が90分に3回は発言している事になり、90分で18人の意見しか共有できない状態に比べると効率的といえる。意見の数以上に、授業へのコミットの度合いは変わっているかもしれない。

 普段は体が教室内にあっても心ここにあらずで参加していた学生が、今回は全く逆で、体は教室内になく意識で授業に参加している状態になっていたのではないか。前にも述べた通り極端すぎる例ではあるが、履修者が沢山集まりすぎていて、大教室での議論型の授業運営を強いられて難儀していたスタッフとしてみれば、一つのソリューションとして有効かも知れない。これからインタビューなどをしながら詳しく調べて見たいと思う。

今までのリアル社会での授業風景を擬似的にBlog化して見れば、今回の試みがいかに示唆的で興味深い内容であるかが分かります。

リアルの授業には教授が作成したBlogが一つしかありません。ですからトラックバックは存在せず、コメントのみで行われる授業になると言うことです。しかもコメントは教授から指示されるか学生が質問するかいずれにせよ直列にしか進行しません。もちろん講義録をとらない限り、公の記録は残りません。意識が教室外にある学生はもちろん、発言しない学生の頭の中の把握など全く不可能です。

しかし、今回のSFCでの試みは、131のBlogが並列的に進行します。130人の学生はそれぞれのBlogに目を通すことで互いに刺激しあい、自分の考え方に影響を受けながら、概念形成と思考訓練という授業の目的に邁進します。それもBlogと言う目に見える形で、すべての学生の頭の中が、まるで一堂に会するがごとく見通せるのです。これこそリアル以上にリアルと言えるのではないでしょうか。

Blogに、ネットの授業用の最適化機能を追加すれば、これはもう立派な、ネット社会のラーニングシステムです。

今回の事例は、「視覚化」とは何かを考える非常に良いヒントになります。遠い未来から見れば原始的と言われるような仕掛けでも「視覚化」は可能です。「視覚化」によってネット社会をよりリアリティある世界に変えていくと言う仕事は、以前のエントリーCEOは大変(続々)の中で取り上げたジム・コリンズの文章の中の

「そして、自社が世界一になれる部分、経済的原動力になるもの、情熱をもって取り組めるものという三つの円が重なる部分においてビジネスモデルを構築する。」

に、見事に当てはまるのではないでしょうか。 KAI