そろそろ最終章、ファイナルであります。
今回は、懸案の「正義と正統性」。
そして、これにジャストタイミングで、ウチダ先生が貴重なヒントを与えてくださったのでありますが、このお話はのちほどにして、まずは「正義」であります。
もちろん、「正義」とくれば、マイケル・サンデル先生であります。
共通善の追求
サンデルは正義を相対的なものとするウォルツァーの考え方を批判し、絶対的な共通善を議論により追求するコミュニタリアニズムのあり方を提言しています。ウォルツァーとサンデルの違いは、「共同体の正義を見出すにはアンケート調査で十分なのか、それとも議論が必要なのか」とも表現できるでしょう。
サンデルはまた、リベラリズムが浸透した社会が美徳に関する議論などを回避し、道徳的不一致を抑制する風潮を生んでいることを批判します。
例えば同性結婚の是非について、リベラリズムは「異性愛者と同性愛者には平等な権利がある」「そもそも政府が特定の人と人の結びつきに特別な価値を与えることには道理がない」といった主張をします。それは結婚の目的という人々の美徳の観念を無視した主張です。価値観の異なる人々は美徳の議論で合意できないので、政治はそのような議論を回避すべきだと考えるのです。
しかしサンデルは講義の中で、学生たちの議論が「結婚制度は2人の独占的で永続的な関係を賞賛する」という結論に達することを示しました。いつもこのように結論が出るとは限りませんが、道徳に関与する政治は、公正な社会の実現をより確実にする基盤になる、とサンデルは主張します。
(ハーバード白熱教室ノート)
「正義」を議論しはじめると、必ず出てくるのが、この「善悪」と、「正邪」、そして「良非」であります。
これに、道徳的、倫理的価値観を適用して、人は「正義」と「不正義」の間を峻別しようとするのであります。
しかし、これは、ことごとくに「正解」は、ないのであります。
なぜなら、これら「価値観」を共有するはずの「共同体」とは、これが「幻想」だからであります。
ここでみなさんには、よくお考えいただきたいのであります。
それは「物理的」大きさであります。
この文章をお読みのみなさんの、「頭」の大きさであります。
みなさん、お一人、お一人、この「頭」の中でものごとを思い、感じ、考えているのであります。決してこの「頭」を超えて、考えているなんてことはない(はず)。(実はこれがそうではないのでありますが、このテーマは別の機会に議論するのであります)
であるにもかかわらず、「共同体」と称して、あたかも自分の「頭」を超える、より大きな「頭」を、みなさんは「仮定」するのであります。あたかも、「共同体」なる「頭」を、であります。
ここに、道徳的、倫理的な「善悪」なるものが、ある。
こうみなさんは、信じるのであります。
これは、あたかも自己申告で、みなさんの「心臓」の重さを量るがごときものであります。
でも、そんな大きな「頭」は、ない。
あるのは、みなさん、お一人、お一人の「頭」の大きさでしかない。
であるからして、サンデルの「共通善」で言うところの「共通」に、その根拠は存在しないと、つまりはそう言うことなんであります。
すなわち、あらゆる「正義」から、その「恣意性」を免れるすべはないのであります。
まさに、ここにこそ、「正統性」が持つ意味の本質があるのであります。
すなわち、「正統性」とは、この一切の「恣意性」を排除する、そう言う「思想」なるものであります。
ここで、これを理解するための絶好の文章が、これであります。
競争させても、学力なんか伸びません。逆に、どんどん劣化してくるんです。
僕が合気道という武道を通じて教えているのは、「生きる知恵と力」をどう伸ばすかということです。武道では強弱勝敗巧拙を論じません。他者との相対的優劣は問題じゃないんです。競争相手がいるとしたら、それは「昨日の自分」です。昨日の自分よりどれくらい感覚が敏感になったか、どれくらい動きが冴えたか、どれくらい判断力が的確になったか、そういうところを自己点検することが稽古の目的であって、同門の誰より技が巧いとか、動きが速いとかいうことには何の意味もないのです。
競争というのはルールがあって、審判がいて、勝敗や記録のつけ方が決まっている競争です。武道が設定している状況は、生き死にです。
どこで、何が起きても生き延びる。それが武道修業の目的です。武道的な意味での「敵」とは、自分の生きる力を殺ぐものすべてがカウントされる。天変地異も、病気も老化も家庭不和も仕事上のトラブルも、全部そうです。どれも自分の心身のパフォーマンスを損なう。それがもたらすネガティブな影響をどう抑止するか。それが武道的な課題なんです。武道はもともと戦技であって、競技じゃない。
戦場に放り込まれたときに、「こんな不利なルールではゲームはできない」とか「こんな弱兵では戦えないから精兵と取り替えてくれ」いうような要請はできません。手持ちの資源でやりくりするしかない。その弱兵たちの才能をどうやって開花させ、能力を最大化させるか、それを考える。それを自分自身の心身について行うわけです。
おのれの潜在可能性を爆発的に開花させるためには、何をすればよいのか。
やればわかりますけれど、才能開発の最大のトリガーは「相互扶助」なんです。
「自分が守らなければならないものがいる」人間は強い。自分の能力の受益者が自分ひとりである人間は弱い。
遭難した場合でも、家で妻子が待っているという人は、独身者よりも生存確率が高いことが知られています。そういうものなんです。
集団もそうです。メンバーの中の「弱い個体」を守るために制度設計されている集団は強い。「強者連合」集団は強いように思えますが、メンバー資格のない「弱い個体」を摘発して、それを叩き出す作業に夢中になっているうちに、集団そのものが痩せ細ってしまう。競争的な発想をすると、修業の目的は地球上の70億人全員を倒してチャンピオンになるということになる。
すると、論理的には自分以外の70億ができるだけ弱くて、愚鈍で、無能であることを願うようになる。できれば、この世界にいるのが自分ひとりで、あとは全部消えてしまうことを願うようになる。
武道の目的はそれとは逆です。地上の70億人全員が武道の達人になることが目標だからです。
すべての人間がおのれの潜在可能性を開花させ、心身の能力を最大化した状態の世界はどれほど愉快で住みやすいか。
競争的なマインドの人は、つねにどうやったら周りの人間の心身の発達を阻害し、能力を下げることができるかを考える。
閉鎖集団内部での相対的優劣を競う限り、自分の能力を高めることと、他人の能力を引き下げることは同義ですから。日本の場合は、競争原理によって、これにみごとに成功した。その結果、全員が全員の足をひっぱるような情けない社会ができてしまった。
競争は国を滅ぼす。僕はそう考えています。
(「En Rich」のロングインタビュー)
と言うことで、「正統性」であります。
武道では強弱勝敗巧拙を論じません。他者との相対的優劣は問題じゃないんです。競争相手がいるとしたら、それは「昨日の自分」です。昨日の自分よりどれくらい感覚が敏感になったか、どれくらい動きが冴えたか、どれくらい判断力が的確になったか、そういうところを自己点検することが稽古の目的であって、同門の誰より技が巧いとか、動きが速いとかいうことには何の意味もないのです。
これを、こう言い換えればいいのであります。
「正統性」思想では善悪正邪良非を論じません。他者との相対的価値は問題じゃないんです。競争相手がいるとしたら、それは「昨日の自分」です。昨日の自分よりどれくらい感覚が敏感になったか、どれくらい思考が冴えたか、どれくらい判断力が的確になったか、そういうところを自己点検することが思索瞑想の目的であって、同門の誰より道徳的とか、倫理的とかいうことには何の意味もないのです。
この「時間軸」上において、いかなる説明ができるのか。
これが「正統性」のすべてであります。
ものごとには、必ず、「善悪」、「正邪」の両面があるのであります。
しかし、「正統性」には、これがない。あるとすれば、偽りの「正統性」であります。
「時間軸」上においては、これを、例えば歴史問題における解釈のように、「正統性」のあるなしで論じることには、まるで意味がないのであります。そうではなく、あたかも「整合性」が取れているかのように見えるのが、偽りの「正統性」であります。
とは言え、あくまで「見えている」だけであります。
やがては、真の「正統性」によって、これは正されることになるのであります。もちろん、そのための「時間軸」上の猶予を要することは、いまさら申しあげるまでもないのであります。
さて、いかがでしたでしょうか。
昨年の3.11を起点とする、このシリーズ。
東北福島復興を果たさんがため、いま何ができるのか。
それは、「正義」の戦いでもなければ、「絆」の戦いでもないのであります。
そうではなく、これは、私たち一人一人の、「人生」と言う「正統性」の戦いであるのであります。
私たちは、なんのために、生まれ、生きているのか。それは紛れもなく、「人のため」であります。
私は、「人のため」になにをなしうるのか。
これに忠実に生きることこそが、人としての「正統性」であり、人としての「全て」であると、KAIは信じるのであります。
「正統性」に生きる。これ以外には、ないのであります。 KAI