穴井が2回戦で敗退。初戦前の勇ましいコメントが、まるで虚しく聴こえてきたのは、空耳ではなかったようであります。
すでにここで日本柔道に関するいくつかのレポートをお読みいただいているみなさまには、あらためてご説明する必要もないのでありますが、残る100キロ超級に出場する上川大樹が、見るも無残な結果に終わることは、いまここであらためてご説明するまでもないのであります。
とここまで書いてほっておいたら、案の定想定どおりでありました。
この問題の本質は、日本において、なにも柔道界に限った話ではないのであります。
日銀は31日、平成4年1〜6月に開いた金融政策決定会合の議事録を公表した。当時は不良債権処理の遅れなどを背景にデフレ脱却が進まず、政府からの金融緩和圧力が高まっていた時期。こうした圧力に対し、速水優総裁(当時)が2月28日の会合で「わが国の経済運営全体に対する信認を著しく傷付けている」と批判するなど、日銀側が反発を強めていた姿が浮き彫りになった。
28日の会合の前日、小泉純一郎政権は、日銀に「思い切った金融政策」を求めるデフレ対策を決定。これにあわせ、塩川正十郎財務相が「日銀に1兆円の国債買い取りを要求しようと思う」と発言していた。
28日の会合は、塩川氏の発言通り、国債購入を月8000億円から1兆円に増やす追加緩和を決定。政府に押し切られたようにとられかねず、速水総裁が不快感を示したほか、ほかの出席者も「異常な事態」(山口泰副総裁)などと批判した。
(平成4年上期の日銀議事録が公表 政府の緩和圧力に強く反発)
日銀。中国に抜かれたとはいえ、世界最大級の経済大国、この国の金融、中枢の中の中枢であります。
この日銀にとって、喫緊、といいながらここ二十年もの間、ずっと課題であり続けるのが、「デフレ脱却」。
先に引用の記事によれば、日銀はこの「デフレ脱却」のために表面上は「金融緩和」に応じながら、本音は、「不快感」、「異常な事態」とこれをネガティブにとらえていたとのことであります。
この「事実」は、きわめて「深刻」と言わざるをえないのであります。
なにが「深刻」であるのか。これから、これをご説明するのであります。
すなわちそれは、凋落する日本柔道同様、凋落する日本経済に直接的に手を打つ責任を持つ人間が、一切この責任をはたそうとしないことにあるのであります。
これは具体的には、「コミットメント」と言うのでありますが、あらゆる問題に対処する責任者に求められるのが、「コミットメント」であります。
例えばFRBのバーナンキは、インフレ率および失業率に「コミットメント」しているのであります。
であるからして、「市場」はこれを前提に動く。
ところがであります。現日銀総裁、白川くんもそうでありますが、この速水くん、「不快感」などと言って、自分がやっていることに対して、「コミットメント」とまるで真逆の、「不快感」とは無責任の極みなんであります。まるで「評論家」、「当事者意識」ゼロ。
彼らの、一貫して責任を取りたくない気持ちについて、すでに考察したとおりであります。
なぜ、日銀は、いつまでたってもこの「立場」を変えようとしないのか?
もちろん日銀法改正で、この変えようとしない人間に「脅し」をかけると言うのも「あり」ではありますけれども、そもそもにおいて、なぜいまの「立場」に拘るのかであります。
それは、じつは、「責任」を取れないからであります。だれに対してかと言えば、それが具体的にはかの財務省と言う「システム」側に対してであります。
彼らは、日銀の独立性なんてこととは、まったくもって関係なく、予定調和的に「官僚機構」の「論理」の中に組み込まれてしまっているのであります。これはいわば、彼らの行動原理として、「支配なき被支配体制」と言う「システム」側を支えている、偽りの「正統性」に支配されてしまっているってことの、完全なる「証明」であります。(ひたすら金利の恐怖から逃れようとするってことです)
ここでもまた、偽りの「正統性」であります。
(「正統性」思想とは−−日銀と正統性)
まことに腹立たしい限りであります。
一方の日本柔道、責任者の本音を代弁するのが、石原慎太郎くん。
柔道については「日本が発祥地だが体格や価値観、情操の違う外国人の柔道はちっともきれいじゃない。なんか獣のけんかみたいで。柔道の醍醐味はどこかへ行っちゃったね」とばっさり。
(産経新聞、週刊知事、東京・石原慎太郎知事、北島は偉大なスイマー、2012/8/5、p.25)
「勝つこと」を「コミットメント」する。
ここで初めて、ものごとが、スタートするのであります。
「勝つこと」を「コミットメント」することによって、すべてがこれを「中心」に廻りだすのであります。
強化コーチの選定、強化プログラムの策定、教育プログラムの作成と実践。「コミットメント」による、責任者があらゆる手を尽くして「実践」してくれることへの、「安心感」。
金融政策同様、「コミットメント」とは、この「安心感」を生み出す力があるのであります。
しかし、日本の「責任者」たちには、これができない。自分たち「システム」側の「安心感」を犠牲にするわけには、死んでもできないと言うわけであります。
私たちのこの「不幸」は、いったいいつまで続くのでありましょうか。 KAI