さて「正統性」思想とはのシリーズも、そろそろ佳境であります。
今回のテーマは、「資本主義と正統性」。
このテーマについては、「正統性」とはを考察し始めた当初よりの課題でありましたが、なかなかこの答えをみいだせないまま、時間ばかりが経過していたのであります。
ところが、たまたま、PRESIDENT Onlineのこの記事を読んで、一気にその答えがみつかった。
ヨーロッパにおいて資本主義経済は、全域で一斉に花開いたわけではありません。主に、プロテスタントが集まっている地域において経済が繁栄しました。そのことにウェーバーは着目しました。そして、「資本家や企業の所有者だけではなく、教養の高い上層の社員たち、とくに近代的な企業のスタッフで技術的な教育や商業的な教育を受けている人々のうちでは、プロテスタント的な性格の強い人々が圧倒的に多数を占める」ことを見つけ出します(マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』中山元訳、日経BPクラシックス、2010年、9頁)。この話は、ウェーバーがこの研究を始めた時点で、すでに相当知られていた話のようです。ここから話が始まります。
(中略)
閑話休題。さて、ウェーバーは、こうした課題を乗り越え、そして歴史的な文献をたずね、それら資料を緻密に分析する中で、プロテスタントのある教派の教義が指し示す倫理が、資本主義の勃興のいわば精神的支柱になった可能性を明らかにしました。その教派が資本主義の勃興に対して好意的だったかどうかとはまったく関係なく、教義を守るその倫理(「誠実に働け」、そして「働いて得た成果を無駄に使うな」)が、資本主義の勃興時の企業家の姿勢にふさわしいものだったのです。
(異様なところに「触角」を伸ばせ(第4回)、マーケッターに「勇気」をくれる本:マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)私は、本書から2つの大事な教訓を得ました。
第1は、歴史の逆説を見る視線です。資本主義の精神において、利益追求はカギとなる部分です。しかし、そこにウェーバーは2つの逆説を示します。ひとつは、利益追求の精神が、禁欲を是とするプロテスタントの倫理から生まれたという逆説です。そして、もう1つの逆説は、プロテスタントの宗教倫理は資本主義を作動させる基盤となったのですが、一度作動し始めた資本主義の中において、その倫理はその地位を失っていくという逆説です。
宗教的な倫理が生み出した資本主義。しかし、それが成立した後には、機械化された化石のごとき世界、ウェーバーの言葉を借りると、「精神なき専門人、心情なき享楽人。この無に等しい者たち」が住む世界が現れるというのです。宗教深い人たちは、自ら創り出した渦から結局は、はじき出されてしまうのです。
(4ページ)
17日のギリシャの再選挙は、急進左派連合(SYRIZA)が敗れて、ギリシャのユーロ離脱の可能性はひとまず落ちつたかに思えたが、イタリア国債やスペイン国債の金利が高騰を続け、ユーロ危機という大きな問題の中、ギリシャの政治は数ある中のひとつの問題に過ぎないことが浮き彫りになった。実は、筆者はすでにユーロという通貨は詰んでいると、考えている。これからも何か問題があると、ドイツ政府やECBなどが、目先の問題を解決するための必要最低限の対策を講じ続けるだろうが、崩壊に向けてゆっくりと進んでいるだけで、なんら抜本的な解決に至らないと考えている。
(ユーロはもう詰んでる)
このユーロ危機について、ことの発端、大本を辿っていくと、今回のテーマ「資本主義」の持つ本質的問題に行きつくのであります。
すなわち、これが、金融資本主義批判やグローバリズム批判、あるいは市場原理主義批判で言われるところであります、「利益追求」偏重の「資本主義の精神」そのものに大本があり、いま世界中を覆っている経済の、ことごとくの暗雲が、これに起因していると考えられているのであります。
確かに、こうした側面で「資本主義」をとらえる限りにおいて、現代社会における「資本主義」は、その「正統性」をすっかり失ってしまったかのように見えてくるのであります。
そして、今回これを考察するうえで、絶好のヒントを与えてくれる記事となったのが、石井淳蔵氏が書く冒頭に引用した記事であったのであります。
なんと、この石井淳蔵氏、「「正統性」思想とは−−人生と正統性」の中でもご登場いただいたのでありますが、今回も、最初から最後まで、貴重なヒントを与えてくださっているのであります。
その一つ、ウェーバーが主張するところであります、<プロテスタントのある教派の教義が指し示す倫理が、資本主義の勃興のいわば精神的支柱になった可能性>であり、すなわち、<「誠実に働け」、そして「働いて得た成果を無駄に使うな」>と言う「プロテスタントの宗教倫理」こそが、「資本主義」を成功へと導いたと言う「真実」であります。
ここで思い出していただきたいのが、「正統性」とその「意志」の関係であります。
そうです。「資本主義」にとっての「プロテスタントの宗教倫理」こそが、その「意志」であり、「資本主義」の「正統性」となっていたのであります。
であるからして、この「意志」を喪失した現代「資本主義」には「正統性」がない、とはこれもまた「真実」であります。
そしてこの逆もまた「真」なりであります。この「意志」を取り戻すことで、「資本主義」はその「正統性」を維持することができるのであります。
しかし、これを、今の時代に<「誠実に働け」、そして「働いて得た成果を無駄に使うな」>と言うだけでは、いまひとつぴんとこないと言う方々に、うってつけの事例を発見。
−−数字に飲まれない。そこが最も重要ですね。
シーガル:そう思います。アップル以外の企業と働いている時、本当に素晴らしいアイデアが最後の最後で却下されるところを何度も目の当たりにしました。数字との対立に負けたのです。例えばデルでは、利益が出ることを証明しなければ何もできなかった。この広告を打てば10万個売れるとか、これだけ利益が出るとか、証明しなければいけなかった。一方スティーブは「我々は利益を生み出すことは考えない。素晴らしい製品を作ることを考えている」と言いました。優先順位が違うのです。
(“独裁者”スティーブ・ジョブズの真実、iMacの「名付け親」が明かすアップルのシンプル経営)
今回のお話は、ここまで、と言って、ひとこと追加しておくのであります。
冒頭に引用した、石井淳蔵氏の記事の続きについてであります。
第2に、「人は、パンのみにて生くるものに非ず」ということを教えてくれます。人は、宇宙の中に自分を意味ある存在として位置づけないではおれない存在だと、ウェーバーは考えたようです。そして、わずかに差し込んでくるたった一条の光であっても、イデアに導かれて自らの人生を歩んでいくことができます。そして、歴史は、決して自然法則の結果としてできたわけではなく、自分を宇宙に意味ある存在として位置づけたいと願う人々の意思が必ずや介在するのです。そのことを、ウェーバーは、この大著を通じて教えてくれました。そのような読み方を教えてくれた、先に述べたスメルサー&ワーナーにも、感謝しないといけません。
かすかなものであっても、一条のイデアの光があれば、私たちは生きていけます。ここで、イデアとは、「真善美に関わるこれしかないという価値」の意味で用いています。そのイデアは、その人の人生に意味を与え、豊かなものにし、そして将来を切り開く力を与えてくれます。そのイデアが何であれ、それがあれば、私たちは、歴史の大波に翻弄されるばかりでなく、歴史を創り出すことさえできます。
(異様なところに「触角」を伸ばせ(第4回)、マーケッターに「勇気」をくれる本:マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)
これに対してウェーバーは、「イデア」が人生に「意味」を与えると言う。
実は、この問題こそが、「うつ」を初めとした現代人の精神の病の根本原因であると、KAIは考えているのであります。
これは次なるテーマ、「正義と正統性」でご説明することにして、本日はこれにてお仕舞い。 KAI