このところ、「裁判」とはいったいいかなるものであるのか、これを考えさせられる事件の判決が続いているのであります。
まずは、先日の木嶋佳苗被告への死刑判決であります。
わたしは殺人という行為を擁護するつもりはさらさらない。ただ、「状況証拠のみによる死刑判決」が下るという状況に、日本の裁判制度への不信を抱かずにはいられない。
(木嶋被告「物証なき死刑判決」への不信感)
状況証拠も証拠です。
証明力として十分かどうかを考える必要があり,十分だと考えれば有罪になりますし,十分でないと考えれば無罪となる。直接証拠によって認定できれば良いけど,それがないことがある。用意周到に犯罪を実行した場合や,贈収賄事件など。
それと,状況証拠のみで認定したから無期懲役にすべき,というのはおかしな話。
量刑は単純化すればやったこと(あるいはやったと推認されること)がどれだれ悪いか,本人の反省がないか,等から判断されるもの。
状況証拠しかない,というのは量刑に影響を与えないもの。
(yahoo user a1409、04月15日 03:05)
そもそもにおいて、この議論の本質は、別に「状況証拠」でも「死刑判決」でもない、まったくもって別のところにあるのであります。
それは、この「被告」となった女性が犯したとされる「犯罪」であり、これを裁く根拠となるものは、いったいなんであるのかと言うことであります。
もちろん、直接的には、「殺人」が「法律」に違反しているから、と言うのが理由でありますが、いわゆる「殺人罪」と言う罪を問われて逮捕され、裁かれるのであります。
しかし、ここでみなさんには、よくお考えいただきたいのであります。
この「被告」とされる人間の「殺人罪」と言う罪を、いかなる「根拠」なり「方法」で問うことができるのか、それがもし「法律」に書かれているとして、いったい法律のどこに書かれていて、私たちはこれを読むなり聞くなりして理解したうえで、「被告」の罪を裁いているのでしょうか?
具体的には、「状況証拠」であろうが「直接証拠」であろうが、私たちはいったい何を根拠に「殺人」は「罪」であるとしているのか?
はっきり申しあげるならば、この認識など、ほとんどの方々は持ち合わせないまま、「有罪」である、「無罪」であるとの議論をなさっていると、KAIは思うのであります。
あえてこの「根拠」なるものを持ち出すならば、恐らく無条件に、「殺人」は「悪」であるとの「常識」ではないかと、思うのでありますが、はたしてこれは「裁判」における「裁く」と言う行為そのものにおける、本当に正しい有り様なんでありましょうか?
もちろん、専門家である裁判官は、本来すべて「法律」を根拠にしているはずと、こうKAIは「善意」に解釈するのでありますが、では素人である「裁判員」はどうなのか?
なんだか、まわりくどいお話ばかりで、もうしわけない。
ここは、結論を申しあげるならば、人を「裁く」根拠とは、その該当する法律の第一条に記載される「目的」にあるのであります。憲法ならば、「前文」であります。
しかしながらであります。いま問題となる「殺人罪」についてでありますが、その法律である刑法は、まことに貧弱であります。
(殺人)
第199条
人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。
謀殺
事前の殺人の故意(malice aforethought)をもって殺人を犯した場合。態様につき、さらに、2等級に分類される。
第一級謀殺(First-degree murder)
保険金殺人など周到な準備に基づく場合や、強盗・強姦・誘拐など他の重い犯罪行為(Felony)の手段として意図的な殺害をした場合。情状酌量などが認められず、量刑も死刑または終身刑(100年を超える実質的終身刑を含む)。
第二級謀殺(Second-degree murder)
第一級謀殺以外の、一般的な事前の殺人の故意による殺人。重い犯罪行為(Felony)の実行時に意図的でない殺害をした場合を含む(日本における強盗殺人罪、強姦殺人罪などと同旨の部分もある)。
故殺
第三級謀殺(Third-degree murder)とも称される。日本法においては、過失致死罪は殺人罪と別の類型であるが、Manslaughterはその双方を含む概念である。
Voluntary manslaughter
喧嘩における殺人、挑発行為に対する逆上時における殺人など、殺人の故意はあるが計画性のないもの。これに謀殺を加えたものが日本法の殺人罪に相当する。
Involuntary manslaughter
日本語でいう過失致死に近い(negligent homicide)が、死の結果について認識がある場合(認識ある過失)に適用される。
(Wikipedia、殺人罪)
ところが、日本の法律はこのコモン・ローではなく、さきほどの刑法199条であります。これだけで、なぜ人を「裁く」ことができるのか。
実は、ここにこそ、「正統性」問題があるのであります。
裁判官を含め、人は知らず知らずのうちに、人を「裁く」と言う行為において、法律には「記載されていない」、あるいは、「記載されている」その「目的」を「解釈」するレベル、次元において、その「何かの基準」、これが「正統性」であるのでありますが、この「正統性」でもって「判断」しているのであります。
もちろん、これが学問的には「正義」なる言葉で言われるのでありますが、「正義」と「正統性」は、これまたまったくもって次元の異なる概念なんであります。(別途これは議論する予定)
お話を、もう少しわかりやすくするのが、来週地裁判決が予定される小沢裁判であります。
この判決がいかなるものになるのか。これを「判断」する重要な記述があるのであります。
(5)では、被告人池田氏の「預り金」の主張は通用するのでしょうか?
2004年10月に、小沢氏を介して銀行から「4億円」借り入れできたので、当初の小沢氏から借入れた「4億円」をすぐに返済したというのであれば、「預り金」の主張は理解できないわけではありません。
しかし、2004年に借入れた「4億円」もの大金を2007年に返還して、それでも「預り金」だと主張するのは、通用しませんし、通用させてはいけません。
すぐに返済しなかったのは、本件4億円がなければ陸山会の資金運営に支障が生じたからでしょう。
それなのに「預り金」という弁明が許されるのであれば、政治資金規正法は遵守しなくてもいい法律だ、ということになってしまいます。同法は真実の収支を報告させ、それを国民の不断の監視と批判に委ねているからです。
記載されなければ国民は適正な判断ができません。
(目的)
第1条 この法律は、議会制民主政治の下における政党その他の政治団体の機能の重要性及び公職の候補者の責務の重要性にかんがみ、政治団体及び公職の候補者により行われる政治活動が国民の不断の監視と批判の下に行われるようにするため、政治団体の届出、政治団体に係る政治資金の収支の公開並びに政治団体及び公職の候補者に係る政治資金の授受の規正その他の措置を講ずることにより、政治活動の公明と公正を確保し、もつて民主政治の健全な発達に寄与することを目的とする。(基本理念)
第2条 この法律は、政治資金が民主政治の健全な発達を希求して拠出される国民の浄財であることにかんがみ、その収支の状況を明らかにすることを旨とし、これに対する判断は国民にゆだね、いやしくも政治資金の拠出に関する国民の自発的意思を抑制することのないように、適切に運用されなければならない。
2 政治団体は、その責任を自覚し、その政治資金の収受に当たつては、いやしくも国民の疑惑を招くことのないように、この法律に基づいて公明正大に行わなければならない。
(6)この「4億円」という高額な借入の不記載、返済の不記載だけで、小沢氏の元秘書らは「有罪」でしょう。
「無罪」だと結論づける方が難しいでしょう。
(「陸山会」裁判の東京地裁判決について(3):土地取得をめぐる事件)
今回の小沢裁判でも、問われているのは、「政治資金規正法」と言うこの法律であります。
この法律の「目的」を読めば、弁護側証人である筑波大学院教授が言うところの「家計簿」レベルとは、政治資金収支報告書なるものは、本質的に異なるものであることは明らかなんであります。
この「虚偽記載」は、すでに先の「陸山会」判決でも「事実」認定されているとおり、今回の裁判でも同様であります。この虚偽記載となる事実の、このすべての場面に、「当事者」として登場するのが、今回の「被告」、小沢一郎、その人であります。
もちろん、この事実を正確に記載しなかった直接的責任は、会計責任者にあるのでありますが、以前にご説明のとおり、当の本人は、まったく関与していなかったとの証言をしているのであります。
かようなる状況において、「被告」の「罪」はいかなるものであると、問われることになるのか。
この「判断」の根拠こそ、政治資金規正法なる法律の「目的」であります。
政治活動が国民の不断の監視と批判の下に行われるようにするため、政治団体の届出、政治団体に係る政治資金の収支の公開並びに政治団体及び公職の候補者に係る政治資金の授受の規正その他の措置を講ずることにより、政治活動の公明と公正を確保し、もつて民主政治の健全な発達に寄与すること
つまり、「加担」したのであります。
これを証拠だてるのが、あの池田「供述調書」であるのであります。
さて、議論の本質から外れてしまいましたが、これをもとに戻すならば、人が人を「裁く」とは、ただ単に、「人を殺したか」どうかや、「不正に加担したか」どうかではなく、この「判断」そのものが、その問われている「法律」の「目的」に合ったものであるのかどうかであります。
そして、この「目的」に合うかどうかと言う判断の、「メタ」の根拠となるのが、まさに「正統性」にあったと言うことなんであります。
今回のお話は、これにてお仕舞いでありますが、裁判員裁判について一言コメントしておくのであります。
実は、この裁判員制度とは、さきほどの「裁く」根拠に、単に法律の「目的」だけではなく、この「法律」が時代に追いつくために必要となる、いまの世間の「常識」なるものを取り入れることにより、より裁判の「正統性」を強化するものになると、KAIは高く評価するのであります。 KAI