いまとりあえずなにを議論したいとか言えば、それはソーシャルゲームビジネスに正統性はあるのかってことであります。
その議論のためには、どうしても、ビジネスの正統性とは、を議論する必要があるのでありますが、前回の「金儲けのカラクリ」は、この議論のためのお膳立てといったわけであります。
もちろん、これ以外にさまざまなテーマがあるのであります。
それにしても、なんでこんな議論を始めたのか、原点に戻ってこれを振り返ってみるのであります。
いまや「論壇」なるものがあるのかどうか、皆目興味も知見も持ち合わせてはいないのでありますが、ネットでその片鱗を読ませていただくかぎりにおいて、恐ろしいまでにその「リアリティ」不在を感じざるをえないのであります。
要するに、「言うだけ番長」であります。
なら、おまえはどうなんだ、と言う反論に答えなくてはいけないと言う思いに駆られて書き始めたのが、今回のシリーズであります。(国家も人もその正統性を超えることはできない)
いま、なににいらだちを感じているかと言えば、3.11からの復興のあまりの遅れであります。
のうのうとワイングラスを片手に豪華な食事をしている連中の、KAIは気が知れないのであります。
別にのべつまくなく、ワインを飲んで豪華な食事をするなとは、言わない。
しかし、復興に直接的に関わる人間は、少なくとも首相以下政府関係者は、当面の目処がつくまで2年だろうが3年だろうが自粛いただきたいのであります。そうでなければ、理不尽にも家族を失い、いまだ仮設住宅で暮らす人々や、原発避難を余儀なくされ、故郷に帰る目処さえまったくもってたたないでいる何十万人もの人々にたいして、いかなる説明ができるのか、その「精神構造」が、KAIにはまるで理解できないのであります。
いえ、理解できないからこそ、これを理解するための思想的根拠を、いま模索し続けているのであります。
そして、ここで見えてきたのが、いまの日本人に決定的に欠けているのが、「正統性」思想であると。
それは「正義」でもなく、「共感」でもなく、「助け合い」でもなく、「きずな」でもない、もっともっと根源的なものであります。
これが、決定的に欠落しているがための、責任感の欠如、当事者意識の決定的不在、被害者でもないものの偽被害者意識と他罰感情、のいまやオンパレードであります。
例えば東電の電気料金の値上げ問題。一見枝野ががんばっているようにみせて、実は経産省や財務省のアリバイ作りだけのために動いている話であり、これを国民のためにやってくれていると思うお人よしの国民などが、典型であります。
東電が存続できる「正統性」など絶無にもかかわらず、だれもこれを阻止できないのは、いったいぜんたいなぜなのか。
ここに、メディアをも含めて、日本を大きく変えていくチャンスがあると思うわけでありますが、なぜ日本の「思想家」は、彼ら「思想家」人生にとって自らの「力量」を発揮できるこの空前絶後とも言うべきチャンスに、立ち上がらないのか?
ここにもまた、「思想家」自身の中にある「正統性」不在を、実見することになるのであります。
1年が経ってしまったいま、いまさら復興の遅れを嘆いても、これを非難しても、なんの役にも立たない。自民党が政権だったとしても大して変わらなかったはずと主張する人も含めて、なぜ私たちはこんな政権しか選ぶことができなかったのでありましょうか?
言葉をかえて言えば、私たちはどうすれば、こういった国難に際し機動的に国民に奉仕してくれる政権を、樹立することができるのでありましょうか?
この問題の解決こそが、今回の大震災の犠牲者を追悼するにあたって、唯一私たちの「希望」となるのであります。
もう生きている間に、二度とあってはならない歴史的災害に、立ち会った人間としての「責務」と考え、取り組んでいこうと思うのであります。合掌 KAI