今回、ちょっと寄り道をば、するのであります。
前回、「ジャスミン革命」と書いて、気が付いた。
「グリーンアクティブ」のアイデアとは、このジャスミン革命にあった。と言うより、Facebookやtwitterによる「情報の共有」にあったと言うことではないかと、邪推するのであります。この「情報共有」が革命の起爆剤になる、とかなんとかって言うアイデアではないかと?!。
Facebookやtwitterによる「情報共有」と、これによる「行動」との間には、実際のところ天と地ほどの開きがあるのであります。
ところがこれを、革命および運動と言う「行動」と、この「情報共有」との間を、なぜか「短絡的」に結び付けようとする人々が、このところしばしば目撃されるのであります。(北アフリカ中東政変のSNS効果の論調はすべてこれ)
しかもこの「短絡的」思考は、ほとんど共時的に、これがそこらじゅうでおきているのであります。
内田樹@levinassien
公務員は就職に際して、日本国憲法と法律条例の遵守を誓約します。では、公務員である自治体首長や議員が改憲や法律の改定を主張した場合、「思想良心の自由が欲しければ公務員止めて民間に行け」というべきなのでしょうか?まさかね。自分には大盤振る舞いする自由を他人には許さないのはなぜ?
(内田樹さんの素朴な疑問にお答えしましょう)
法律の遵守とは、法治国家を構成する、このすべての国民の義務であって、なにも公務員に限った話ではない。
なんでこんな簡単なことがご理解いただけないのでありましょうか。
公務員が、その職に就くにあたって誓約を求められるのは、「法律の遵守」の「番人」および「執行」の「職」になることのレベルにおける「誓約」であります。
この意味において、「選挙」によって選ばれる自治体首長や議員と言う「政治家」にとって、改憲や法律の改定を主張することは「政治家」が行う「政治活動」の重要な一部であり、「法律の遵守」の「執行」としての、まことにもって遵法であり適法なる「行動」であるわけであります。
一方において、政治家ではない公務員、すなわち特別職ではない一般職の公務員にあっては、「政治活動」以外と言う限定付きにおいて、「法律の遵守」の「番人」および「執行」が、専らのその「職務」となるわけであります。
おわかりでありましょうか?
私には「私はかれこれが好きである」と言明し行動する「自由」がある。
これを「法律の遵守」とは言わない。法律で保証された「権利」であります。
この「権利」が保証されることを「法律の遵守」と言い、公務員は、この「番人」と「執行」を「誓約」しているのであります。
つまり、一般職の公務員においては、「政治家」専権の「政治活動」と言う「法律の遵守」の「執行」以外において、その「法律の遵守」の「番人」および「執行」をその「職務」の範囲とするのであります。
もちろん、個人としての自分の「権利」として、その「政治活動」なる「行動」することもまた、誓約したその公務員たる「職務」にこれを含めようとすることは、法律上からも明確にこれは「禁止」されているのであります。
ウチダ先生ともあろうおかたが、なんでこんな初歩的、勘違いな「つぶやき」をなされるのでありましょうか?
さきほどの「グリーンアクティブ」のアイデアと、これはなにか共通するものを感じざるをえないのであります。
そして、思い出したのであります。
孫正義までもが、この情報爆発による「バカの思考過程」に汚染されてしまっているのであります。
そして、この理由もまた、明白なんであります。
この2年間、iPhone、iPadしか使っていないと言う彼が、twitterにかまけて、「光の道」論争にみるように、いかにも「論理思考」ができなくなってしまっているのであります。
これをあらためて言えば、いまのいま「正統性」がどこにあるのか、決して100億ぽっちのはした金では終わらない、みな「家に帰る」こと、これ以外にはないことを、あなたの肝に銘じる以外にはないのであります。 KAI
(孫正義考−−プラットフォームに正統性を求めて)
人の「思考」なるものは、その「思考」の道具となる「言語」に依存することはもちろんのこと、その「言語」を操るところのものである、「書く」ための「ツール」によっても、知らず知らずのうちに無意識的に依存するようになっていくと考えるのであります。
すなわち、140文字の内に書くことが日常化することによって、「論理思考」に優先して、「レトリック」が幅を利かせるようになるのであります。(この「レトリック」の問題はこちらをご覧ください)
なんとも怖ろしいことではありますが、なぜかこのところ、いたるところで感じるこの奇妙な違和感の正体とは、つまりはそう言うことであったようであります。 KAI