twitterにしろFacebookにしろ、なぜそこまで人は「繋がりたい」のか、KAIには皆目見当がつかないのであります。いや、理解はできるのでありますが、なんと申しあげればよろしいのでありましょうか、複雑な気持ちと言うか、いやな気持と言うか、何とも言えない受け入れがたい気持ちになるのであります。
家族全員がtwitterだとかならまだしも、Facebookで友人知人のくっついただの、別れただのといったことをリアルタイムに把握したいだなんて、狂っているとしか言いようがないのであります。
家族全員twitterにしてもそうでありますが、人々はなぜそこまで「密」なコミュニケーションを求めてしまうのか。
今回は、この「秘密」に迫るのであります。
すでにtwitterやFacebookについて、それが「ペルソナ」問題であることはここで何度も取り上げてきたとおりであります。
もちろんこれも「ペルソナ」の本質からおのずと導かれる必然的現象であることが、最終的にご理解いただけるのでありますが、これをご説明する前に、実はこの問題は先日言及した「リアリティ」の問題とも繋がっていることを先にお話しするのであります。
それは、たとえばtwitterのタイムラインであります。この大量に流れる情報において、これがリアルな世界でいったい誰の発言であるか、基本的にすべて判別可能となっているのであります。
これが従来からの似たような仕掛けである「チャット」との間での、大きく差別化する要因となっているのであります。
すなわち、これはtwitterやFacebookと言うものが、参加する人たちがまがりなりにもきわめて「リアリティ」の高い世界に住むことができる、そう言う仕掛けになっていることを示すものであります。
ただこれだけでは、なぜ人々が「繋がりたい」と思うのか、十分な説明にはなっていないのであります。
ここで登場するのが、「ペルソナ」であります。
「ペルソナ」とは外向きの、一つの「顔」であります。家族の顔、会社の顔、友達のグループごとの顔、地域の顔、趣味の顔と、顔にはそれぞれ異なる様々な顔があるのであります。これを、twitterやFacebookは、たった一つの顔、すなわち単一の「ペルソナ」ですませてしまおうとするのであります。
ここに全員がみな参加しようとするのは、いわば日常化したたった一つの「ダンスパーティ」にいそいそと出かけていくようなものなのであります。
もちろん実際に足を運ぶ必要はないのでありますが、みな「ダンスパーティ」用の「衣装」ならぬ「発言」でもって「パーティ」に参加するのであります。
私的なものも含めてすべての「発言」は、これを意識したものになる(もちろんこの自覚のない人も多数>そこのあなた!)。
ここにいたって、もはやtwitterやFacebookに誰も対抗できないのも、たった一つの「ダンスパーティ」、たった一つの「ペルソナ」と言う、いわゆるよく知られた概念「ネットワーク外部性」が強く働いているからであります。
かくして、この「ペルソナ」を受け入れることができる人はますます「繋がり」、KAIのごとく「ペルソナ」を受け入れることができない人がこれを無視ないし危険視することになるのであります。
ここでご注意いただきたいのは、こういったリアルタイムの「密」なコミュニケーションが、かならずしも「リアリティ」、すなわち生きていると言う実感を得ることに繋がるかと言えばそうではないのであります。
まだ自立心や独立心といった自我の確立されていない年代の若者や、リアルの世界から切り離された孤立した人々にとっては、こういったたった一つの「ペルソナ」への依存を強める、すなわち「中毒」の危険性があるのであります。
便りがないのは元気な証拠、とはよく言ったものであります。
子どもでも、恋人でも、友達でも、適度な「距離感」と言うものが必要であることは、論を俟たないのであります。これが近すぎると、人は「仮面」と言う「ペルソナ」を被ると言うこと。人が一人前の人生を歩むうえで、人間関係に悩まないようにするためには、これをよく知っておくことが肝要なんであります。 KAI