目の前にディフェンス、その後ろにゴールキーパー。
高めのドリブルボールを左足でボレーシュート。と思いきや、そのままインサイドタッチでワンバウンドスイッチさせたボールを右足ボレーシュート。左コーナーへと思いきや一転右コーナーへの強烈シュートに、ディフェンス、キーパー、反応できない。
こんなシュート、見たことない。もちろんこんなサッカー、面白くないわけないのであります。
このボール捌きと風貌は、ロナウジーニョを彷彿させる。対韓国戦で絶妙のアシスト2本を決めた、清武弘嗣(きよたけひろし)であります。
やっと個人レベルで、欧南米の選手並みの技術を持ったプレーヤが現れた。
次の準々決勝の相手はブラジル。
今回の内容からすれば、ブラジルに圧勝してもおかしくない。
それにしてもU17世代。1998年フランスW杯、日本が初めてW杯本戦出場を果たしたときにサッカーを始めた子ども達であります。当時なんの実績もなかった岡ちゃんによって成し遂げられたW杯出場が、13年たってこんなかたちでかえってくる。
これこそ「勝利」の力なんであります。
(希望は思わぬ処からやってくる)
これもまた大きな「大気」の流れ。いったい、いま何が起こっているのか。
これを理解するために、もう一つのお話なんであります。
ポスト高田は生え抜きの荒木大輔(現1軍チーフ兼投手コーチ)――。それが球団の既定路線だった。
荒木といえば甲子園の申し子だが、小川も負けてはいない。75年の夏、千葉・習志野高のエースとして全国制覇を達成しているのだ。
(写真:「僕も次(の監督)は(荒木)大輔だと思っていた」と率直な心境を明かす)
(中略)
中央大に進学後、野手に転向し、4年時には日米野球の学生日本代表メンバーに選ばれた。岡田彰布(現オリックス監督)、原辰徳(現巨人監督)とクリーンアップを組んだ。その後、社会人の名門・河合楽器へ。都市対抗にも2度出場した。
(中略)
小川のプロでの実働は11年。ヤクルトで10年、日本ハムで1年プレーした。
主に外野手として940試合に出場し、412安打、66本塁打、195打点という記録を残している。通算打率は2割3分6厘。典型的なバイプレーヤーだった。
指導者としての基礎をつくったのは知将・野村克也である。プロ入り9年目、野村がヤクルトにやってきた。ユマキャンプで小川はID野球の洗礼を受ける。
「野村さんといえば、ミーティング。毎日、ずっとやると聞いていました。最初の不安は“寝ちゃったら、どうしよう”(笑)。でも、いざ始まったら寝るどころじゃなかった。もうノートをとるのに必死。大学の講義だって、あんなにまじめに受けたことはありませんでした」ある日のミーティングで野村はいきなり小川に質問をぶつけてきた。
「バッティングとはなんだ? 小川」
「えーっ!? ボールをよく見ることでしょうか?」
「違う。バッティングは最大の攻撃手段だ」
禅問答である。ベテランの知力を試すことで、野村はチームのレベルを把握しようと考えたのだろう。小川には忘れられない試合がある。90年4月28日、神宮での巨人戦だ。
ピッチャーはサウスポーの宮本和知。彼のカーブはタテに割れる。小川はその前の打席までカーブで2三振を喫していた。
ベンチに帰ると、野村のカミナリが待っていた。
「オマエ、何年、野球やっているんだ!」
「……」
「(キャッチャーの)山倉(和博)の性格を考えろ。初球は真っすぐがくる。その後は真っすぐと思わせておいてカーブだ」
要するに山倉は前の打席で三振にとったカーブで、また勝負してくる。ならば初球のストレートは見逃し、2球目以降のカーブを待てというアドバイスだ。初球、野村の見立てどおりに真っすぐがきた。
「あぁ、本当に真っすぐがきちゃったよ」
そしてワンスリーのカウントに。小川は真っすぐを得意としていた。しかし野村の指示はカーブ狙いだ。
「またカーブがくるのかなぁ……」
すると、本当にカーブがきた。後方へファール。フルスイングしたことで軌道のイメージがつかめた。野村が予言者のように思えてきた。「こうなったら、また次もカーブだよな」
今度はドンピシャのタイミングでカーブをとらえることができた。打球はレフトスタンドへ消えた。
「ほれ見ろ」
小川を出迎えたのは野村のドスの利いた声だった。
「はぁー、このおっさん、スゴイな」
ID野球信者になるのに時間はかからなかった。野村にはいつも叱られてばかりいた。それだけにたまに向けられる褒め言葉がうれしかった。
「ある試合で、僕がレフトの守備固めに入ったんです。自分としては普通に打球を処理したつもりだったんですが、翌日、神宮に来るなり、“小川、昨日はナイスプレーだったな。うまいヤツの追い方だ、あれは”と声をかけていただいた。いきなり言われてビックリしたんですが、ちゃんと見てもらっているんだなと。控えの多かった僕のような選手にはうれしい一言でした」野村の教えは、コーチや2軍監督になってから生きた。
「野村さんは、よく“人間的成長なくして、技術の進歩なし”と語っていました。この言葉の意味が今になってわかるんです。
野村さんが監督をしていた頃、身だしなみにはうるさかった。茶髪、長髪、ヒゲは禁止でした。それが僕が2軍監督になった頃にはだんだん緩くなってきていた。それをもう1回、厳しくしようと。特に2軍の若い選手には、野球以外の部分が大事になってきますね」シーズン終了後、「代行」の2文字がとれて、晴れて「監督」になった。苦労人の昇格人事には選手の間でも歓迎ムードが漂う。
エースの石川雅規は言う。
「小川さんがヘッドコーチから監督代行になって、いい意味でチームが変わりました。小川さんは僕や青木にもズバッと言ってくれるので、僕らはやりやすいし、また、やらなければという気にもなる。
目指しているのは野村さんの野球ですね。細かいことをしっかりやっていこうと。時間にもうるさい。でも、それは小川さんの色なので、いいことだと思います」十人十色、果たして小川野球はどんな色なのか。
「色って最初からついているものでしょうか。これは僕の勝手な解釈かもしれませんが、色って後でわかるものだと思うんです。僕の場合、まだ監督としての実績はほとんどない。色なんかついているわけないじゃないですか」
白地のキャンバスに絵を描く作業は、まだこれからなのだと苦労人は言いたかったに違いない。2軍監督、9年。雌伏から至福へ――。来季は采配が名刺となる。
( ヤクルト・小川淳司「史上最強の地味監督」(後編))
かつて日米野球でクリーンアップを組んだ、岡田彰布、原辰徳とともに、いまやそろって監督として互いに戦い合う関係にあるのであります。
1990年、ヤクルト監督になった野村は、新人の古田敦也を正捕手に起用し、野球のイロハを教えたのであります。しかし古田は、まだ若すぎた。後に監督になってからも、これを生かすことはできなかった。
これに対して、ヤクルト9年目の小川。上掲の記事にある通り、野村ID野球を、水を吸う綿のように吸収していったのであります。
このID野球とは、他の野球と何が違うのか。
野村の考える「野球」は、選手が戦うのではなく監督が戦う。監督が戦うためには、将棋のコマのように選手が監督の忠実な手足にならなければ、絶対に勝つことができない。そのために、古田にしつこいまでに戦い方を教え込んでいったのであります。この古田がピッチャーを教え、野手に指示を出して、野村の野球を教えていく。勝つ方法を教えていくのであります。
(楽天が勝てないのにはわけがある(2))
つまり、監督と言う「個人」がまず、自身の「人間的成長」と「技術的進歩」が問われていると言うことであり、これを選手に伝授する。そして伝授されながら選手は「人間的成長」し「技術的進歩」して初めて、チームの「勝利」が約束されると言う真実であります。
みごと、これを小川がやってのけた。
21歳の清武弘嗣と、53歳の小川淳司。この二人の間のキーワードは、この「個人」の「人間的成長」と「技術的進歩」であります。
ちょうど親子ほど離れた二つの世代で、共時的に、これが駆動しているのは、いったいなぜなのか。
これを理解するヒントが、既にあるのであります。
「野村さんといえば、ミーティング。毎日、ずっとやると聞いていました。最初の不安は“寝ちゃったら、どうしよう”(笑)。でも、いざ始まったら寝るどころじゃなかった。もうノートをとるのに必死。大学の講義だって、あんなにまじめに受けたことはありませんでした」
ある日のミーティングで野村はいきなり小川に質問をぶつけてきた。
「バッティングとはなんだ? 小川」
「えーっ!? ボールをよく見ることでしょうか?」
「違う。バッティングは最大の攻撃手段だ」
禅問答である。ベテランの知力を試すことで、野村はチームのレベルを把握しようと考えたのだろう。
清武弘嗣がU15から所属していた大分トリニータに関しては記述がないのでありますが、これは同じJリーグ・サンフレッチェ広島の下部組織の「教育」に関する記述であります。
教育
一流のサッカー選手である前に
一流の社会人であれ
━━今西和男
サッカーの技術的な面だけではなく、学業・生活面の指導など人間教育にも非常に力を入れている。これは、参考にしたオランダのクラブの方針(下記参照)であることに加え、下部組織を整備した今西和男の哲学によるところが大きい。
ユースでは、さまざまな業種の人物を招いて講話を開いており、プロになれなかった選手の就職および大学進学率はJリーグユースの中でもトップクラスを誇る。さらにメンタル面でのアプローチも積極的に取り組んでいる。
気持ちには引力がある
━━森山佳郎
森山佳郎ユース監督の方針で初対面の人物と円滑にコミュニケーションを図るために、その手段としてパフォーマンス等を奨励している傾向がある。これがユース卒業生のトップチームにおける「サンフレッチェ劇場」に繋がっている。2011年、ある国際大会でのユース生のパフォーマンス動画が話題となり『やべっちFC〜日本サッカー応援宣言〜』でも取り上げられた。
(サンフレッチェ広島の下部組織)
川淵三郎。1936年12月3日生まれ。
野村克也。1935年6月29日生まれ。
ともに70代半ばの二人の男。終戦を小学生(国民学校)で迎えた世代であります。この二人の、「意志」を伝える「教育」。いままさにこの「教育」が、清武弘嗣と小川淳司、この二人へと「伝染」しているのであります。
KAIが、いまここで言わんとすることは、ただ一つ。
「教育」こそ、「人間的成長」と「技術的進歩」を生むのであり、「教育者」と言う「主体」なくしてこれは無意味であり、なしえることはありえないのであります。
そしてこれは、ウチダ先生の、教育基本条例についてと言うエントリーに対する反論であるのでありますが、この(詳細なる)理路は、乞う次回なのであります。 KAI