December 31, 2010

2010年最後はグーグルが色褪せて見える週末テニス

21世紀の最初のディケードも、そろそろお仕舞い。

その終わりにあたってこれを総括すれば、なんと言ってもこの10年の主役はグーグル。なんとこのグーグルが、突然色褪せて見えてきたのであります。

それにしても、なんでそんなことを思ったのかと言えば、この記事を読んだからであります。

 Googleが企業買収を加速させている。年初にCEOのシュミット氏が月1件のペースで買収していくと宣言していたが、実際にはその倍以上のペースで進行している。

 CB Insightsによると、9月24日までの買収件数だけでも23件となっており、昨年1年間の5件に比べ大幅に増やしている。年間の買収件数としては、今年は過去最大である。23件の内訳は、インターネットのソフト/サービス関連企業が20件、モバイル企業が2件、半導体関係が1件となっている。
グーグル、企業買収ペースを加速化


もはやこれは、成長の止まった衰退企業のやることとしか言いようがないのであります。世界中にグーグル社員が何人いるか調べる気もありませんが、なぜ社内からではないM&Aなのか。成長が止まった企業の証以外の、何者でもないのであります。

しかし、これもよくよく考えれば不思議でもなんでもない、きわめて納得のいく話なのであります。

つまり、グーグルの使命は終わったってことであります。

グーグルの使命とは、自然発生的成長を遂げるインターネットの秩序化、であります。これをグーグルは見事成し遂げた。具体的には、インターネットにおけるOSとなったブラウザは、いまやグーグルなくして一切機能しないのであります。

ところがであります。グーグルは、インターネット時代のOS、オペレーティングシステムの機能を提供する会社としては確かに磐石の地位を確立したものの、このOS上で動作するアプリケーションにおいては、YouTube(これも買収ですが)のような一部の例外を除いて、見る影もないほど惨敗を繰り返しているのであります。

これはあたかも、電力網における電力会社が、これを利用する電化製品の分野では決してブランドとなりえていないのと似た話であります。

なぜなのか。

この理由もまた、KAIの主張するとおり、アプリケーションの本質が自己組織化にあることと直結しているのであります。

IT技術者に求めるのはユーザとしての経験
 グルーポン・ジャパンが求めるIT技術者とは、どのような人なのだろうか。

 システム開発・運用の責任者である開発本部マネージャーの信川亮太氏は真っ先に「ユーザーとしての経験の有無」を挙げた。

 「基本的にはWebの開発経験があり、できれば自社のコンテンツをやってこられた方を求めています。いわゆる受託開発系の方ではなく、自社の企画の方と一緒に自社コンテンツや自社サービスをやられてきたエンジニアの方ですね。自分たちのサービスなので、自分で作ったものを自分で責任持てるかということが大切になるわけです。つまり、お客さまに対して自分たちのバリューを出せるかどうかを日々考えるような人、いわれたことだけをきっちり仕様に沿ってやるというだけの人ではなく、自分たちのサービスをより良くしていく人が必要になります」

 システム開発の手法でいえば、従来のウォーターフォール型ではなく、アジャイル型で対応できるエンジニアということになる。それが、信川氏の「受託開発ではなく、自社コンテンツをやられてきた人」という言葉に現れている。
前代未聞の速度で組織を急拡大するグルーポン--勝ち続けるために必要な人材とは


これも見事グーグルが買収に失敗したグルーポンと言う、インターネットのアプリケーション会社のお話であります。

この話の中に、すべての真実があるのであります。

「IT技術者に求めるのはユーザとしての経験」こそ、グーグルの技術者に決定的に欠けていることなんであります。

当然なんであります。グーグルの人材採用基準と言う価値観には、この「ユーザー」と言う視点は、一切ない。あるのは、インターネットアルゴリズムのみ。

当然の帰結として、この分野、すなわちインターネットOSと言う分野では、とてつもなく抜きんでることができた。

つまりは、そう言うことであります。話は簡単でしょう?

そして、21世紀最初のディケードの総括として外せないのが、SNSとツィッター。

この両者を理解するのに役立つのが、前回のエントリー「ツィッターシンクロニシティ」で言及した「ペルソナ」と言う概念。

SNSについて、これも丁度のタイミングでこんな記事がある。

日本ではまだまだだが、米国では人口の7割以上がアカウントを持つと言われるFacebook。Twitterでの不特定多数向けの「つぶやき」よりも、友達・知り合い間での「プライベートなコミュニケーション」向けのFacebookは、どちらかと言えばmixiに似ている。mixiとの根本的な違いは「大人も使っている」点。
プラットフォームとして台頭して来た Facebook


フェイスブックとミクシィ、中島さんの言うとおり確かに似てはいるけれど、両者の本質は似て非なるサービスと言わざるを得ないのであります。

そして、この違いこそが、フェイスブックが「日本ではまだまだ」である理由であり、逆にこれを一挙に普及させるための重要なヒントがここに隠されているのであります。

何が本質的に違うのか。それは「匿名」のペルソナと「実名」のペルソナの違いにあるのであります。もちろんミクシィが「匿名」であり、フェイスブックが「実名」。(ただしここで言う「匿名」「実名」は厳密な意味での使用を要求していないことに注意していただきたいのであります)

こんなことはみんな言っていることと、これ以上の思考停止がコトの本質を見えなくしていることにお気づきいただきたいのでありますが、確かにフェイスブックは「実名」であります。しかし、これは「単一」の「実名」でしかないことが、もっとも重要なポイントであり、そして欠点でもあるのであります。

「実名」とは、そもそも「単一」ではないのか、と言う疑問は当然であります。しかしこれを「実名」の「ペルソナ」と考えるといかがでしょうか。

「ペルソナ」が分かりにくければ、「顔」でいいのであります。

私たち日本人は、実は非常に沢山の「顔」を持っているのであります。会社の「顔」、家族の「顔」、親戚の「顔」、隣近所の「顔」、友人の「顔」、友人も決して単一ではないそれぞれまったく異なる複数の「顔」「顔」「顔」。

これが米国人となると、研究したわけでも何でもないので知りませんが、フェイスブックが普及している事実からすると、米国社会は「単一」の「顔」で十分成立すると言っても間違いないのではないかと、KAIは考えるのであります。

更に、中島さんが言うような、ミクシィを使っているのは、決してこどもだけではない、しっかり「大人も使っている」のでありますが、これもまた「単一」ではない「実名」と言う事実と深く関わっているのであります。

それは、ミクシィが、偶然的に「匿名」と言う機能によって「複数」の「ペルソナ」をサポートしているからに他ならないからであります。「匿名」とは、もともとからして「複数」なんであります。

日本の社会で生きるには、「複数」の「ペルソナ」が必要なんであります。これに、「匿名」ではあるけれど応えていたのが、これまでのミクシィ。もちろん最近のメールアドレス問題で「単一」化を指向しておかしくなってしまっているのは、悲喜劇としか言いようがないのであります。

この「理論」でいけば、本国以上にツィッターが日本で普及している事実も簡単に説明できるのであります。

日本人は、複数の「実名」を渇望していた。ここに降って湧いたように、第3の自己と言う、もう一つの「実名」、「ペルソナ」をサポートするツィッターが登場した。

つまりは、こう言うことでありますが、しかしであります。まだたったの「二つ」。二つしか「ペルソナ」はサポートされていない。

ではどうすればいいのか。これをグループ機能と混同しないでいただきたいのですが、グループ機能ではあくまで、単一の「ペルソナ」しか実現できない。グループではなく、あくまで「サービス」自体を分けるか、重層化する必要があるのであります。

さて、ヒントもここまで。

今年もみなさん大変お世話になりました、と忘れてはいけない。大事な大事なKAIの単一「ペルソナ」の一部、週末テニス。

今年最後の土曜は、この冬一番の冷え込みと北風。冬休みの大会開催中につき屋内、といっても屋根だけの、コートで、陽あたりがない風は吹き通しとコンディション最悪。にもかかわらず、6-2、1-6、3-5と、出だしからネモトくんから貴重な1勝ゲット。今年はもうこれで十分なんであります。

そして日曜。先週に引き続きお休みのO谷さんの替わりに、イサカくん。6-1、0-6、1-6、3-5と一番若いM田さんの一人勝ちながら、満足感は一杯。

そして最後の最後に、30日。土曜が元旦の振り替えであります。無事仕事納めも終え、O谷さん、Y木夫妻、KAIと実に2年半ぶりのメンバー。結果は、6-3、1-6、6-2、2-4と2勝2敗のイーブン。これで十分。

来年は、みなさんにとって良い年になりますように。 KAI

投稿者 kai : December 31, 2010 08:48 PM | トラックバック
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