今週号のビッグコミックオリジナル、弘兼憲史の黄昏流星群を読んでいて、突然閃いたのであります。
マンガは、時間の駆動装置だと。
別々に歩んだ20年・・・
そして今、再び・・・!?
二○三○年 東京
歯科医院の診察台、スーパーでの買い物風景、セグウェイとスクータのあいのこ風の乗り物。すべて20年後と言う未来の想像上の風景。これを映画で表現しようとすれば、たとえCGでこれを製作したとしても、莫大なお金がかかる。対してこのマンガ、これが十数コマの絵で表現されてしまうのであります。
つまり、映画やテレビの映像で時代をリアリティに表現しようとすればするほど、そのコストたるや黒澤ならずとも想像を絶する世界なわけであります。
では、小説の世界ではどうか。「歯科医院の診察台、スーパーでの買い物風景、セグウェイとスクータのあいのこ風の乗り物」と言う、登場人物のお話ではない背景描写をリアリティをもって文章で表現することは、小説と言うスタイルからして不向きであると言わざるを得ないのであります。
こう考えると、マンガとは、ふだん何気なく見ているけれど、これほど優れて「時間を表現」することのできるメディアは他にないのであります。
もっと言えば、マンガの一コマ、一コマを、映画のフィルム映写機のようにスクリーンに映しているのは、他でもない自分自身なんであります。自分が自在にコマと言う時間を進めることができるのであります。
お気づきでしょうか。日本には一千数百年前のずっと大昔から、この伝統があった。絵巻物であります。
絵巻物の説明はいまさら必要ないでしょうが、絵巻物と言う横に長い長い1枚の巻物に描かれているのは、空間的に展開された絵ではなく、左右に時間的な流れを持つ絵なのであります。マンガは、この中の一部の絵をコマ、すなわち小間として切り取られたものであるとみなせるのであります。
恐らく漫画家の頭の中にあるのは、この元となる絵巻物ではないかと、KAIは想像するのであります。
今回は、このお話が、何に繋がるのかは、わかりません。ただ、なぜか気になって仕方がないから、ここにこれを書きとめておくのであります。 KAI