ここ最近の英語公用語化の議論も、「日本語が亡びるとき」が話題になったときの議論も、なにか釈然としない。これが何か、ずっと考えているのであります。
その順序を過つと(たぶん過つと思うが)、英語を公用語にした企業の未来はあまり明るくないであろう。
(英語公用語化について)
そんななか、なぜ釈然としないのか、ストンと腑に落ちる記事に出会ったのであります。
公開中の映画「借りぐらしのアリエッティ」の主題歌を歌うセシル・コルベルさん(30)。「信じられない」話は昨春、約10年来のファンだったスタジオジブリに新作のCDを送ったことから始まった。「インスピレーションを与えてくれるジブリの映画に感謝するつもりだった」。自分が音楽を任されることになるとは、思いもしなかった。
フランスの中で固有のケルト文化が根付く西部ブルターニュ地方の出身。15歳の時に行ったコンサートでケルト・ハープに一目ぼれした。
音楽を通じた世界の“旅”を広げ、ヘブライ語やトルコ語でも歌う。「借りぐらしのアリエッティ」の主題歌は日本語。「たとえ話せなくても、それぞれの言葉を最大限尊重したい。それが他者を尊重するための最低限の礼儀」と考える。
緑茶を愛飲し、抹茶も好き。「自然への愛着は日本とケルト両文化の共通点。日本のさまざまな風景を見たい」と話す。
(セシルさん「10年来のファン、信じられない」 ジブリ主題歌を日本語で歌う)
そうなんであります。「他者を尊重するための最低限の礼儀」が決定的に欠けているのであります。
英語だろうが日本語だろうが、どうでもいいのであります。「言葉」すなわち「他者」。この意味を理解せずして「英語」も「日本語」も、これを語る資格は、微塵もない。
三木谷が、名誉監督なる偽善のもとに野村を遇したと同じように、楽天は、日本語にも英語にも、まるで「最低限の礼儀」を一片たりとも心得ていないのであります。
ただ、我欲のためだけに低俗極まりないまでに貶められた「英語」と「日本語」。
これにKAIは、腹の底から、嫌悪を感じていたのであります。
これから社会に出る若い人たちに、しきりに英語の重要性を喧伝する輩への嫌悪感も、同じであります。「言葉」を道具だと考えるような輩には、未来を担う若者を指導する資格もなければ、むしろ害悪、社会の敵でさえあると、KAIは強く思うのであります。
「セシル・コルベル」のような若者を育てなければ、それこそ、日本は亡びる。切実にこれを感じる週末テニス。
テニスも言葉も、まるで一緒。どんなテニスだろうが、テニスの上手下手など、週末テニスにとってまったく関係ない。下手なら下手でいくらでもやりようがある。そのなかで、自分自身の中で少しずつでも成長していく、よろこび。
そんなテニスの結果が、土曜、6-1、6-2、4-3。日曜、6-7(6-8)、2-6。参加メンバーはみな、成長こそ楽しみなのであります。 KAI