ウチダ先生も、この佐伯教授も、「民意」と「政治」の、この二つの意味を大きく取り違えている。
今日の日本の政治において決定的な意味をもつものは、かくて「民意」と「政治」の関係であるように思われる。
どうしてかといえば、今日ほど、「政治」に要請されている課題と「民意」に問う政治の間に大きな開きが生じた時代はそれほどないであろうからである。政治に要請されるものは基本的に次の3つであろう。(1)諸個人や諸グループの利害の調整、(2)国の将来の方向の提示、(3)危機的状況における決断。この3つである。そしてこのいずれもただ「民意を反映する」などという政治では不可能であろう。特に(2)と(3)はそうだ。そして、今日の日本に必要なものこそ、(2)と(3)の政治ではなかろうか。
(【日の蔭(かげ)りの中で】京都大学教授・佐伯啓思、■政治の閉塞 どこにあるのか)
そもそも、「政治の役割」とはなんであるか。これがお二方ともご理解いただけていないのであります。
「政治の役割」とは、「国家権力の行使」であります。この「国家権力」の前にあっては、個人の力などひとたまりもないのであります。
この理解が根本になければ、何事も虚言に過ぎないと言わざるを得ないのであります。すなわち、「政治」とは「力」であり、「国民」と「国家」との間の「力関係」以外のなにものでもないのであります。
この意味で、ここで引用した佐伯教授の政治の三つの役割など、政治家に交通違反キップの揉み消しを依頼する支援者のレベルとなんらかわりはないことに気づく必要があるのであります。
政治、すなわち「国家」とは、国民と常に対峙する関係にあるとの理解こそ、「知識人」の「常識」であったはずが、いったいいつのころからこれが消えうせたのでありましょうか。
国民が、無条件で「政治」すなわち対峙する「国家」に「国家権力の行使」と言う絶対権力を与えることなど、ありえないのであります。国民にとって、取りうる限りの方法でもって「国家権力の行使」を制限する。これこそ「民意」と言う「国民」の「本意」なのであります。
ここでお二方には気づいてほしいことがあるのであります。
なぜ「民意」が、お二方にとってそうみえるのか。
それは「国家権力の行使」の向きが、外ではなく内なる「国民」に向いているからであります。
いま経済のグローバル化と言う脅威にさらされている社会とは、重火器とはまったく様相を異にする兵器、すなわちITと言う兵器による、第三次世界大戦の中にあるとの認識が不可欠なのであります。
すでに引用先は忘れてしまいましたが中国軍がしかける、このIT戦争の現実は、KAIの誇大妄想でもなんでもない、世界の真実なのであります。
なんでこの国家的脅威の前で、日本の「国家権力」は「外」に向かって一丸となって戦わないのか!
「民意」が悲鳴を上げているのが、なんで聴こえないのか!
まあしかし、これも致し方ありません。
すでにしっかり英語の公用語化を含め、日本企業のIT戦争の帰結は決しているのであります。最初から戦う気力すら持ち合わせないほど、敵国による「洗脳」は進んでいるのであります。
しかしこれに対して、C言語を公用語にすると言うスクウェアエニックス。まだまだ日本は、負けてしまったわけではないのであります。
そして、負けない週末テニス。
インド旅行から戻ってきたY木さん。元気な顔を見ると、これだけで腹の底から戦う気力が湧いてくるのであります。と言うわけで、結果は、土曜、6-4、3-6、0-6、1-1。日曜、6-1、6-4、1-6、1-2。戦いに勝つには、いつもどおりであることこそ、重要なのであります。 KAI