リキが死んでそろそろ3年になる。今週21日は夏至。夏至と言えば、毎日早朝の散歩、これから11月終わりまでの半年、旧日野中前のグラウンドフェンスは、ヘブンリーブルー一色なのであります。
毎年毎年草刈されて今年は大丈夫かなと心配をよそに、6月初旬から一輪、また一輪と日ごとに一輪ずつ増やして深青の花びら一杯になるのであります。この毎日毎日寡黙に咲きつづける花に、散歩の終わりに出会う楽しみは、何事にも変えがたいものがあるのであります。
そうなんであります。この「寡黙」、「サイレント」なんであります。朝起きてつけっ放しの「無音」のテレビを横目に、3時過ぎに配達される新聞に目を通し、午前4時半過ぎに家を出て、30分歩いてヘブンリーブルーまで、ずっと「音なし」の世界なんであります。
この「音なし」の世界、ほとんどの人はその存在に気づくことはないのであります。まれに気づいても、その意味までを理解することはないのであります。
ジョンレノン。彼もまた「音なし」の世界は知っていたけれど、その意味までは、理解していなかった。
元ビートルズのジョン・レノンが1980年に撃たれて亡くなる前の数年間、“主夫”になって息子のショーンの子育てに専念した時期があります。
私はショーンが2歳半のころ、日本に来ていたジョンと会い、「子育ての楽しさ」について聞いたことがありました。そのとき、ジョンは滞在していたホテルで、ショーンをひざの上に乗せてテレビを見ていたのですが、CMになると音を消すのです。
私が理由を聞くと、ジョンはこう言いました。「CMというのは音が大きいし、あくまで疑似体験に過ぎない。例えば、ソーセージを食べた経験のない子供に(CMの)情報だけを与えたくないんだ。感性の発達に影響があるからね」
(【母親学】評論家・湯川れい子(4)「人間を育てるのは芸術活動」)
しかし、現実とは、そうではない。
現実とは、「映像」と「音」とが渾然一体、ミックスしてあるのではなく、互いが独立してそのそれぞれのリアリティを持っているのであります。すなわち現実とは、「映像×音」ではなく、「映像+音」の世界であり、「音」をゼロにしても「映像」のリアリティは、この式が示すとおりそのまま残るのであります。
しかも、「音なし」もゼロではない。「音なし」と言う「音」なる存在があるのであります。まさに「無」の「有」であり、「音」のある世界以上に豊潤なる世界であるのであります。
この「音なし」の世界の豊潤さを説明する言葉を、いまKAIは持ち合わせてはいないけれど、かわりにこの坂本龍一の言葉を再掲して、これにきわめて通じる世界であると、申し上げるしかないのであります。
坂本龍一にとって、ベルナルド・ベルトルッチとの出会いが、彼の運命を大きく変えたのでした。
−−映画音楽を手がけられ、世界に認められていきます。映画監督ベルナルド・ベルトルッチとの出会いが大きいようですね
坂本 一番影響を受けたのは音楽ですね。それまでは「音楽は音による感情表現だ」ということに抵抗があったんです。大学ではもうちょっと“数字的な音楽”を作ろうと勉強していたけど、それを見事にベルトルッチに打ち砕かれました。理論的にじゃなく、現場で。
−−どの作品でですか
坂本 「ラストエンペラー」です。ロンドンのスタジオで録音していたら、本番中にベルトルッチが飛び込んできて「モールトエモーショナル(もっと感情的に)、モールトエモーショナル」って一人で怒鳴ってるんです。つまり感情の閾値(いきち)(最小値)みたいなものがあって、それを超えないと響いてこない。イタリア人はかなりそれが高いんでしょうね。
−−それであの曲に?
坂本 そうですね。2回目の「シェルタリング・スカイ」のときは、メーンテーマを引っ張り出すまで1週間スタジオにこもってました。入学試験じゃないけど、かなり上のほうまでいかないと許してくれない。映画監督は独裁者タイプの人が多い。「ラストエンペラー」のとき、(撮影監督の)ヴィットリオ・ストラーロが3〜4時間かけて入念に作ったライティング(照明)を、ベルトルッチがファインダーをのぞいて、「だめだ」とけ飛ばして帰っちゃったんですよ。
−−そんな乱暴な
坂本 プロデューサーのジェレミー(トーマス)が、「ああ」と嘆いてるんです。彼は“その瞬間”に1億円分ぐらい失っている。エキストラ何百人、馬は何十頭、ラクダ何十頭って1日の経費がそのぐらいかかっている。だから音楽も、一生懸命に書いたって簡単にボツにされます。感情的な音楽でしか響かない人たちもたくさんいることを見せつけられて、それまでの自分の音楽はだいぶん変わりましたね。(堀晃和)
(【話の肖像画】音楽は自由にする(中)音楽家・坂本龍一(57))
なんともすごい話である。これを「感情の閾値」と表現するのも、これまたすごい。
(坂本龍一のモールトエモーショナル)