伊勢神宮の、20年ごとに内宮(ないくう)、外宮(げくう)の社殿を交互に建造し、本宮を交換すると言う式年遷宮。産経新聞のコラムに載ったこの話題が、KAIの中で思わぬ波紋を拡げています。
発端はこの記事。
さびてぼろぼろになった刀が13世紀のものだと書かれているのを見て、紀元前でもないのに、どうしてこんなに保存状態が悪いのだろうと思った。大阪市中央区の大阪歴史博物館で開かれている「伊勢神宮と神々の美術」(11月9日まで)の展示品のひとつだ。20年ごとに社殿を造り替える式年遷宮を記念して弊社などが主催しているのだから、こんなものを展示するのは、なおさら情けない。
(中略)
ところが、これも無知のなせる誤解で、実は技術の伝承のため例外的に保存してあるという。式年遷宮は、社殿の部材となるヒノキの確保も大変だが、人間には実用性のない神宝を作る技術の伝承は、近年さらに困難となっている。日本には法隆寺のように世界最古の木造建築もある。神宮も、もっと頑丈な社殿を建てれば式年遷宮などしなくてもいいのに、なぜそんな面倒なことをするのか。清浄を求める神道精神によるものとも考えられているが、真相はわかっていないという。
物は保存することができるが、技術は金庫に入れられない。磨かれ続けながら人から人へと伝わっていく。有力なもう一つの説として、式年遷宮は技術や建築様式の保存のために始まったとも考えられている。
それが本当なら、古代人はなんとぜいたくな技術の伝承を思いついたのだろう。そして神宮は、技術を時間ごと保存している数少ない金庫といえるのではないか。(大阪文化部長 真鍋秀典)
(【from Editor】新し物好きの神々)
KAIは30年以上前の大昔、大学生のころ、伊勢神宮に参拝し、その時確かに式年遷宮の話を聞いた記憶はあります。しかし当時、残念ながらその意味までは理解が及びませんでした。なるほど、技術伝承のための仕掛けだと聞くと、まことに納得の行く話です。
ただ、それだけのためと言ってはなんですが、技術を伝承する必要のある神殿はあくまで入れ物。もっと本質的な意味があるのではないか。この記事を読んでの疑問が、ふつふつと湧いてきたのであります。
そして、毎早朝の散歩。
散歩しながら、次々と完成した一戸建ての建売に売約済みの赤札が張られていくそばで、ついこの間まで更地だったところにショベルカーが入って、建築計画の看板がたっている。まことにすさまじいエネルギーで、つぎからつぎへと新しい家が建っていく。一方で古いビルが取り壊されいつのまにか更地になっている。
これこそ、日本社会の底力。家やビルを建てるには、相当のエネルギーが要る。これが間断なく続けられることは、社会に「ソコヂカラ」があると言うこと。
今朝散歩しながら閃いた。まさに式年遷宮の意味とは、これだった。
20年と言う時間のエネルギー。しかも、それだけではなかった。
用材
遷宮においては、1万本以上のヒノキ材が用いられる。その用材を伐りだす山は、御杣山(みそまやま)と呼ばれる。御杣山は、14世紀に行われた第34回式年遷宮までは、3回ほど周辺地域に移動したことはあるものの、すべて神路山と島路山[2]、高倉山[3]という内宮・外宮背後の山であった。
(中略)
神宮では、1923年(大正12年)に森林経営計画を策定し、再び正宮周辺の神路山・島路山・高倉山の三山を御杣山とすべく、1925年(大正14年)または1926年(大正15年/昭和元年)から、三山へのヒノキの植林を続けている。遷宮の用材として使用できるまでには概ね200年以上かかるため、この三山の植林から生産された用材が本格的に使用されるのは120年以上後の2120年頃となる。また、この計画は、400年後の2400年頃には、三山からの重要用材の供給も目指す遠大なものである。なお、内宮正殿の御扉木について、本来の様式通りに一枚板とするためには、樹齢900年を超える用材が必要となると試算されている[4]。2013年(平成25年)に行われる予定の第62回式年遷宮では、この正宮周辺三山からの間伐材を一部に使用し、全用材の25%が賄われる。
(神宮式年遷宮、Wikipedia)
なんと2400年。式年遷宮とは、200年、400年、900年単位と言う膨大な「未来」の時間のエネルギーを建物の形に定式化したものだった。
冒頭の引用した記事に戻れば、法隆寺は、「過去」と言う時間の象徴。これに対して、千年先まで未来と言う膨大な時間を、建物の中に織り込んだのが、式年遷宮。
ソフトウェアとは「時間の缶詰」と言うけれど、式年遷宮とはまさに、20年と言うクロックで動作するソフトウェアそのもの。
古代人の智恵に、感服するしかありません。 KAI