POLAR BEARさんのなぜ新聞にジャーナリズムを期待するのか?を読んで、まだKAIがぴかぴかの若かりし頃青い議論をしたことを思い出した。当時新聞部の部長をしていて、議論の内容はすっかり忘れてしまったが、生徒会と新聞の関係について侃々諤々議論をしたことだけは、しっかり覚えている。
以前からKAIのエントリーでも確かに、この「新聞」について何度か取り上げて、その役割、使命が大きく変わってきていることを書いてきましたが、しかしこのエントリーで取り上げている「新聞=ジャーナリズム=中立」と言う「変な常識」だけはいいかげん勘弁してもらいたいもんだ。
そもそもジャーナリズムと中立などと言う、次元の異なる概念を等式で結ぶこと自体がおかしいのですが、これはジャーナリズムの本質を正しく理解していないことからくるおおいなる誤解です。
つまりジャーナリズムとは、表現の自由と国民の知る権利を守るための「言論活動」そのもののことであって、その言論の内容を評価する立場の意味の「中立性」は、端から言論活動の中に求められてはいないのです。
にもかかわらずジャーナリズムの中立性が問題になるのは、朝日の得意な「偏向報道」問題があるからです。事実を事実として伝えている間は中立性はまったく関係ないことです。事実でないことを事実であるかのように伝えるから問題になるのであって、事実を事実として伝えこの事実に基づく主張や意見あるいは評論におけるその立ち位置は右でも左でも上でも下でも、はたまた真ん中でもお好きにどうぞでかまいません。
そして新聞がジャーナリズムかと言えば、その通りです。逆に新聞がジャーナリズムであることを止めた時、それは折り込みチラシと同じただの広告のための紙切れにすぎなくなります。ネットの記事も、スポンサード広告との違いは何もありません。
かように、ジャーナリズムであることが、すべての一番先にあります。
インターネットは、ブログだろうがPJだろうが、あなた自身がジャーナリズムを宣言しさえすれば、たちまちあなたにジャーナリズムの力を与えるのです。なんとも身震いするようなジャーナリズムの時代ではありませんか。 KAI