1932年、運命の出来事は、天理教・教祖中山みきの没後五十年、立教百年を記念した「昭和普請」の現場に幸之助が立ち会うことから始まります。
幸之助がU氏と呼ぶ天理教信者に誘われて行った、この現場の風景を目の当たりにして、幸之助は衝撃を受けます。
<物欲を満たせるわけでもないのに、信者たちはあんなに一生懸命奉仕活動をしとる。「給料をもらえる」とか「偉くなれる」といった「欲」やない、本当の意味の「生きがい」が彼らの支えなんやろうな・・・>
じっと考え続けた彼の脳裏に、やがてある夏の日の記憶がよみがえってきた。事業を始めて間もないころ、大阪の天王寺界隈を通りかかったときのことだった。(中略)
そこへ荷車を引いたひとりの男が通りかかった。彼はある家の前で立ち止まると、そこにある水道の蛇口をひねり、うまそうに水を飲み始めたのだ。行きかう人々は誰ひとりその男に、「他人の家の水、勝手に飲んだらあかんやないか!」などと言うこともなく、無関心に通り過ぎていく。(あれは水が無茶苦茶安いからやろな・・・)そう思ったとき、脳天から稲妻が走った。この時彼は、松下電器の目指すべき社会的使命を悟ったのだ。
(産経新聞、同行二人(どうぎょうににん)第14回、北康利、2007/12/4、p.23)
<生産者の使命は貴重なる生活物資を水道の水のごとく無尽蔵たらしめることである。いかに貴重なるものでも量を多くして、無代に等しい価格をもって提供することにある。かくしてこそ、貧は除かれていく。生活の煩悶も極度に縮小されていく。物質を中心とした楽園に、宗教の力による精神的安心が加わって人生は完成する>
幸之助は、これを大阪中之島近くの中央電気倶楽部講堂に集めた全店員(168名)に向かって発表します。1932年(昭和7年)5月5日午前10時、松下電器の歴史に残る「第一回創業記念式典」です。
以後、昭和7年5月5日が松下電器の創業記念日となります。
幸之助が独立したのが1917年。その翌年3月7日大開の二階建て借家に引っ越すと同時に社名を「松下電気器具製作所」と定めた、その1918年を実際の創業とすれば、それから14年後の話であります。
翻って、私たちのサービスの、社会的使命とは何か。
それはソフトウェアの価値を、もっともリーゾナブルな価格で、遍く多くの人々に享受せしめることです。そしてその価値を生み出すプログラマ自身がこの仕事に生きがいを得ることのできる環境を、私たちのサービスによってそれを生みだすことであります。
これをOSSとは異なる方法で実現すると言うのが、KAIの考える平成の「水道哲学」です。 KAI