幸之助が電池式自転車ランプを売り出したのが1923年(大正十二年)6月末。その2ヶ月ちょっとたった9月1日、首都東京を関東大震災が襲います。
東京に駐在していた井植歳男は、自ら被災するなか得意先に見舞金を届けてまわっていたが、連絡が取れなくなって心配の極みの幸之助とむめのはそれを知るよしもない。震災から1週間後、歳男は東海道線が不通になったため北陸まわりで幸之助の元へ戻ってきた。
幸之助もむめのも涙を流し、手を取り合うようにして無事を喜んだが、落ち着いたところで、幸之助は井植に次のように言って頼んだ。「歳男、悪いけどもういっぺん東京へ戻ってくれへんか。みなさん大変や思うけど、集金せんわけにもいかんからな。せやけどこれまでの売り掛けは半分でええ、そんで松下の商品は値段据え置きや、そう言うたげてくれ」
売掛金を半分でいいというのも大変な温情だが、商品の値段据え置きというのはすごい。震災後の東京では物価が数倍に跳ね上がっている。それこそ商売のチャンスだと思う人間は大勢いたはずだ。それを震災前と同じとは・・・。
井植は一瞬耳を疑ったが、こんないい話をお客に伝えてあげられるとあって、足取りも軽くとんぼ返りで東京へと戻っていった。(中略)
井植から幸之助の申し出を聞いた東京の問屋たちは涙を流さんばかりに喜び、発注は山のように来た。これまでまったく取引のなかった店まで、噂を聞きつけて注文を出してきたのである。結果として、震災を契機に松下の名は高まり、東京にしっかりした地盤を築くことに成功した。
(産経新聞、同行二人(どうぎょうににん)第9回、北康利、2007/10/30、p.28)
9歳で丁稚奉公に出された幸之助は、商いが人の心を掴むことにつきることを、すでに身体で覚えていたと言うことです。
しかし上には上がいるものです。
それは山本武信と言う人物との出会いに始まります。幸之助はこの大震災の年から全国代理店制度を導入し、各都道府県内での独占販売権を条件に代理店を募集した。これに大阪府下の販売代理店として応募してきたのが山本です。
電池ランプをひと目見て、山本は代理店契約の締結を決意した。その思い切りのよさに感動した幸之助は、山本の石鹸工場を訪れ、その規模の大きさに圧倒され、商売の先達として慕うようになる。
山本は更に3年間の仕入れ代金45万円(今の約10億円)を手形で先に全額支払ってしまいます。これに感激した幸之助は、甘かった。山本は、大阪府内の小売店だけでなく問屋にまで一斉に商品を流し始めたのです。問屋は全国の小売に商品を流す。たちまち幸之助が考えた全国代理店制度の欠陥をつかれるかたちになってしまいます。これに幸之助は文句を言えない。なにせ45万円の威力があります。
結局この問題は、1924年10月対策のために開催した全国代理店会議でも解決せず、1925年5月幸之助は山本に電池ランプの商標権と全国販売権を譲渡して幸之助が山本の前に兜を脱ぐかたちで決着します。大人と子どもの戦いでした。
この失敗は、恐らくこれで幸之助が大きく成長する契機になったことは間違いありません。
人の心と言うものは、それを計算した瞬間、それを超えるものなのです。幸之助が身体で覚えた人の心を掴む方法も、このこざかしい計算に基づくものである限り山本のようにこれを平気でクリアする人間が現れる。
平気で人の恩を仇でかえす人間がいることを知ることです。
そしてそれを乗り越えるには、やっぱり人の心を掴むしかありません。しかしこれは計算によってではなく、計算ではない、計算を超える“何か”しかありません。
幸之助がこれを、この失敗で覚えたように、KAIも同時進行で、今これを覚えたことは間違いありません。 KAI