今週は「同行二人」連載第8回ですが、先週の第7回の話から。
独立した年である1917年の12月、川北電気企業社へ碍盤(がいばん)千個を納入して、初めて百六十円と言うまとまった金を手にします。翌1918年3月大開(おおひらき)の二階建て借家に引っ越し、この三部屋ある一階の一部屋を工場にして、ソケットに代わる製品である「アタッチメントプラグ」、それに続く「二灯用差込みプラグ」を次々と生産していきます。
この「二灯用差込みプラグ」の、一手販売契約の見返りとして吉田商店から手にした三千円の保証金で、月産五千個の設備増強を行うのですが、半年もしない内にこの契約は解除されます。しかし幸之助は、三千円の保証金は分割返済にしてもらい、販路も吉田商店の手を借りず自ら拓くことによって、見事ピンチをチャンスとしてしまいます。期せずして三千円の設備資金と販路を手に入れてしまったのです。
まさに幸之助の強運、ここにあり。
そして第8回。
松下電器はその後も順調に業績を伸ばし続けた。もともと手狭だった工場は限界に達し、隣の空き家を借りてこちらも工場としたが、そんな応急措置では間に合わず、本格的な工場の建設を検討し始めた。
大正十一年(1922年)、創業の家から百メートルほど南になる西野田大開町八九六番地(当時)への移転を決めた。百坪ほどの貸地があり、そこに四十五坪ほどの工場と、二十五坪の事務所兼住居を建設することにしたのだ。後に第一次本店工場と呼ばれ、幸之助が生涯ここに本籍を置いていたほど懐かしい思い出の地となる。
1923年6月、試作を重ねた自転車用ランプが完成し販売を開始します。しかし、問屋はこれをなかなか扱ってくれません。月産二千個の予定で発注した部品と電池が次々と納品されるなかで、幸之助は進退窮まります。
ここで幸之助は、小売店に直接自転車ランプを二、三個持っていき、その内一個を無料見本として点灯しておくと言う奇策に出ます。
どの店でもランプは三十時間以上点灯してくれ、一ヵ月ほどすると目に見えて売れ行きが伸びてきた。最初に置かせてもらった四千個はすべて売れ、やがて小売屋から直接電話や郵便で注文が来るようになり、ついには一度取り扱いを断られた問屋からも注文が入ってきた。
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。大きな賭けに幸之助は勝利したのだ。
瞬く間に松下電気器具製作所の「砲弾型電池式自転車ランプ」は世に知られるようになり、生産が追いつかないほどの注文が集まった。販売が製品開発を支えているということを、彼は身にしみて学んだ。「製造と販売は一体であるべきだ」とする考え方は、こうした実体験に基づいている。
(産経新聞、同行二人(どうぎょうににん)第8回、北康利、2007/10/23、p.17)
幸之助の強運の秘密は、正にここにあります。 KAI