人を人と思わない輩がやたらに多い。
1歳の我が子をバイクの荷台の中に入れ死なせた上、遺体を裸にして捨てるなど、鬼畜生でさえそこまでやるかと言う事件です。なぜ赤子を荷台の中に入れて無事でいられると考えるのか。なぜ我が子の遺体を裸にして捨てられるのか。
KAIの理解の範囲を、とうに越えてしまっています。
今朝も、同じようなことがあった。
雨天走行中、信号待ちしているKAIの車の右につけたファミリーカーの中の光景に、びっくり仰天する。父親が運転し助手席に母親がいて、後部座席に子ども3人。驚いたのはこの母親がタバコをスパスパすっていること。雨の中、当然窓が開いてない密封状態。
なぜガス室になっていることに親は気づかないのか。
KAIにはまったく理解不能です。
理解不能ですが、しかし、この二つの話には、共通する重大な問題があることがわかります。
自分以外の人間の気持ちに思いが至らない。
自分の他者に及ぼす行為あるいは言葉に、反応する他者の姿も気持ちも、見えていないし見ようともしない。自己の欲望を満たすためだけの存在である他者は、自己の欲望をかなえてくれる時以外は、ただ邪魔なだけの存在と化す。
思いやりや愛情といった人間らしい感情の、かけら一つ、ない。
なぜこんな悲惨な状況に至ったのであろうか。
KAIは、これを「テレビ効果」の結果であると結論づけています。
「テレビ効果」とは、人が生まれてこの方得る他人とのコミュニケーション能力は、そのほとんどはテレビと言う一方通行のメディアを通して学習されたもので、これをKAIはコミュニケーションの「テレビ効果」と呼んでいます。
テレビに話しかけてもテレビは何も答えてくれません。当たり前ですが、この当たり前である事実が重大な結果を生むことになります。「テレビ効果」を受けた人間は、そのコミュニケーションの相手である他者を、無意識のうちにテレビと同じ無反応なものとして、意識の外に追いやってしまうのです。
もちろんテレビ同様、他者が自己の欲望を満たす程度の行為や言葉を自分に及ぼす時はそれを甘んじて受入はしますが、決してそれは双方向のコミュニケーションの結果ととらえません。
彼ら彼女らにとって双方向のコミュニケーションが成立するのは、あくまで自己の欲望を得んがための会話であって、いわゆる「おしゃべり」だけです。
そう言う意味で、「テレビ効果」人間かそうでないかを見分ける方法は、簡単です。「おしゃべり」ではなく「議論」をしてみれば一発です。「テレビ効果」人間にとって、「議論」における他者の言葉の大半は自己にとって不快なものです。
この「不快」を「不快」として他者に返した瞬間、「議論」は成立しません。
考えてみれば、すべてがこの「会話」が基本です。
人を人たらしめるのはこの「会話」しかありません。
この大きな問題の解決には、「テレビ」を捨てよとまでは言わないけれど、せめて「テレビ」を消して親子の「会話」からしか方法がないのではと、KAIは考えるのです。 KAI