人を育て、そして育てられる。これが自分が育てられる人であったり、育てる人であったり、今の今でさえ、この立場は上手と下手が入れ替わり立ち替わり大河の流れがごとく綿々と引き継がれていきます。
人を育てるとは、育てられる人が精神的な自律を果たせるよう、そのきわめて具体的な方法の訓練であり実践です。
たとえ着付け教室のなんとか流免状何段と言うのでも、その「作法」で人は自律した生き方を学ぶことができる。こう言う有形無形の自律できるための作法であり身なり振る舞いの教育の意味と、その重要性は、戦後意図的に無視され否定され続けてきました。
おめでたいことに戦後日本国民はこの裏にある日本文化破壊の企みに気づかず、さらに日教組の社会主義共産主義運動に加担するかたちで、教育現場から「自律の方法」を排除し続けてきたのです。
しつけは、この「自律の方法」の原点です。
これに毅然として立ち上がった男がいます。
岡山学芸館高校校長兼理事長、森靖喜(もりやすき)です。彼は、清明、正直、誠実をモットーに、学園内で「ゼロトレランス」運動を展開し一事の不正も見逃さない方針を貫きます。しつけも、英語数学と同じ教科、学問の一つと言う明確な認識の元、マナー教育すなわち規範を徹底して教育します。
この成果は説明するまでもありません。
社会に通用する「しつけ」を受けた人間が、当然がごとくその社会で通用しないはずはありません。
若いうちはこれでいいのです。20代、あるいは30代半ばまでの人間に必要なことは、このしつけで得る「自律の方法」です。
まずは生活できるだけのお金を稼ぎ、その仕事を通して社会との関わり方を学び、友を得てその心のふれあいの中に、精神的自律を確立していくことです。
不惑の歳になってもまだ定まらないのは、これはもう諦めるしかありませんが、この不惑の惑は、惑うの惑。惑うとは、惑星を思い浮かべれば、同じところに囚われてただぐるぐると回り続けること。不惑は自らが太陽となること。自らの自律の方法を人に教え、人を育てること。
今不惑前に、一皮剥けてピカピカしている男がいる。時間はかかるけれど、人が育つと言うことは至宝の悦びです。 KAI