May 03, 2007

憲法記念日と憲法改正

憲法記念日恒例、憲法改正議論花盛りです。

憲法とは、簡単に言ってしまえば国民という個人に対して、政府の行動を規定するものであることは、間違いありません。

だが、当否の判断が適切に行われるためには、改憲を主張する側にまず「説明責任」が求められるだろう。
憲法を改定することで、日本国民は「憲法を改定しない場合に逸されるはずのどのような利益」を回収することができるのか、その利益が「この憲法を改定しないことがわが国にもたらす利益」より大きいとする根拠は何か。それを説明するのが現行制度の改変を求める人間の最低限の義務だろう。
「憲法を改定しないことがもたらす利益」についてなら、私たちはかなりの確度でそれが何かを言うことができる。
戦後62年の平和と繁栄は間違いなくそのような利益の一つである。
私たちは1945年から後一度もどこの国とも戦火を交えることがなかった。私たちの国の正規軍兵士は他国の領土で人を殺していない。

これはウチダ先生の憲法の話の中の一節です。

この平和と繁栄の主語が何かが問題です。それは当たり前ですが政府ではなく国民です。

その、国民の平和と繁栄が、政府の行動規定によってもたらされたと「間違いなく」言えるかどうか、この議論の問題はここにあると思います。

国民の平和と繁栄はむしろ、政府の行動ではなく国民自身が流した血と汗とその努力のたまものではないのかと言うことであります。

ですから、もしその種の行動規定がもとよりなかったとしても、今ある国民の平和と繁栄に変わりはなかったと言う考えを、明確に否定できる「説明」も誰もできてはいません。

つまり「改定」するしないの「利益」は、国民の側の今ある「利益」でもって直接的に説明することの論理の正当性はなく、論ずるべきは「改定」と言う政府の行動規定の変更によってもたらされる、国民の「利益」の変更の差分についてですよと言っても何の問題もないわけです。

今の国民の平和と繁栄と言う「利益」が「改定」によって脅かされることになると言う明らかな例証があるならば、当然「改定」は否定されるべきであり、逆により平和と繁栄と言う「利益」を増すことになるならば、気分に流される云々に関係なく「改定」されなければならないと言うことです。

そしてここで重要なことは、憲法が政府の行動規定であると言う事実です。

過去の歴史に学ぶとすれば、国民の不幸はすべてこの政府を行動規定することの失敗にあると、KAIは考えています。政府の行動を規定できず政府が暴走を始めた時、国民にそれを制する力は残っていません。時既に遅しです。

小泉さんがいみじくも国会で発言した「自衛隊は誰が見ても軍隊でしょう?違いますか?」と言うセリフこそ、国会議員の誰もが心で思っていながら公の場で口にしえなかったセリフです。

この発言にこそ今回の「改定」議論の本質があると、KAIは思っています。

すなわち自衛隊を軍隊として行動規定しない現憲法こそ逆説的に自衛隊の行動を規定しえてきたのだと、ウチダ先生はおっしゃる。その論理に従えば、確かに一部でも行動規定したとたんに、たちまち現憲法が持つ「記述しない効力」を喪失することになると考えるのは、もっともなことではあります。

しかしながらこの論理には決定的な、欠陥があります。

それは、この論理が憲法を超える歴史的な国民の同意をデフォルトにしていることです。

つまりこれは過去日本国兵士への抑止効果があったとしても、もし日本国兵士が理由がどうあれ海外で他国の人民もしくは兵士の生命を奪う事態が生じた場合、その兵士をわが政府は兵士として裁くすべを持ちえていないことでもあるのです。

この兵士を自衛隊そのものに置き換えてみれば、その論理の欠陥の脅威は歴然です。

過去の歴史は、政府側の暴走に対して国民の意思がまったく無力であることを証明しています。唯一憲法と言う具体的な政府に対する行動規正以外に、それを未然に防ぐ手立てはありません。

であるならば、自衛隊を今、明示的に軍隊として行動規正するための憲法改正は、可及的すみやかに実施すべきであると、KAIは考えます。

この議論も、KAIにとったら先の国会での発言をした小泉純一郎と言う男のおかげです。

この彼の答弁によって、いままでのすべてのKAIの「エートス」のねじれが、瞬間的に霧散しました。このリアリティを理解できる人々は、決して少なくないとKAIは信じています。 KAI

投稿者 kai : May 3, 2007 07:38 PM | トラックバック
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