時間が実在しないとは、まったくもって真っ当な答えです。
そしてそれが、人間の意志により生み出されるものであることも、きわめて自然に納得できます。これは、時間とは観念的同時性、すなわち人間の意志による同時性しか根本の根拠足りえないことからも明らかです。
時間はどこで生まれるのか(集英社新書、橋元淳一郎、2006/12)のAmazonにある書評子御猫大明神 "信者1号"さんの反応が面白い。
自ら哲学的知見を盾にしながら、この哲学的観点が決定的に欠如している。橋元は、きわめてまっとうに哲学的、すなわち、人間的な智の、正解を提示していると、KAIは評価します。
しかし時間も意志とは面白い。このあいだ引用した悲観主義とオプティミズムの中の意志とも、もろに通じているのです。
人が生きるためには常に二つのベクトルが働きます。
それは生きる意志と言うベクトルと、環境に適応すると言うベクトルです。
悲観主義が後者であることは、言うまでもありません。
すなわちこれは、生きると言う不死と、環境と言う今の刹那への適応と言う、不死と刹那の対立問題に還元できるのです。
そして生命は遺伝子によって常に不死を選択する方向に、生きるのです。
しかしなぜ人は刹那をも選択するのでしょうか。これは恐らく短期的な最適解が環境適応と言うことではないかと、KAIは考えます。
わかりやすく書けば、目先の男は愛してないけれど付き合って、最後に目標の男をゲットすると言うわけです。
久しぶりに、知的興奮を味わう書籍に出会いました。 KAI