最高裁の元日立社員の発明対価判決は、私たち社会が、ルールが持つ構造的(と言うか構造化を必然に持つ)側面が表になって、これを受け入れる好機になるはずです。
ルールは、このルールの影響する範囲である「社会」と、ルールを強制するための「懲罰」と言うルールによってなりたっています。
日立と言う社会のルールではなく、日本の社会のルールを適用すると言う懲罰の判決です。しかし、これはご承知のように日本の社会のルールと言うより、「特定されない」ある外国のルール、すなわち「世界の趨勢」を受け入れた判決であることは間違いありません。
かように、世界中にある「社会」とその中のルールは、お互いが干渉し合い、時間軸上の変態形質そのものであるといえます。
しかし実際は構造的であり、その構造性と変態性の二重構造の中にルールはあります。
条約と日本国憲法しかり。条例と家族の中のルールもしかり。ルール間に主従関係は存在しません。
家訓と日本国憲法、家訓が絶対であっていいのです。
しかし、社訓はそうではない。修正を余儀なくされる時代になったってことです。
いままでは、「社会」毎で別々の運用が許された、そう言う時代であったものが、今や互いのルールを無視できないわけです。
もちろんこれを実現したのがインターネット「社会」。
今後は、このインターネットの「村社会」毎のルールの二重構造問題へと、時代は流れていきます。 KAI