青山劇場で公演中の「奇跡の人」を観た。
久しぶりに生で観る演劇は、やはり何とも言えない気の迫力があります。
以前この白黒の映画をテレビで観た記憶はありますが、ストーリーは全く覚えていません。やっと今日しっかりストーリーが頭に入った感じです。
ところでアニーこと家庭教師のサリバン先生について、Wikipediaのアン・サリヴァンの項に、こんなことが書いてあります。
奇跡の人という呼び名があるが、これは三重苦の障害を乗り越えたヘレン・ケラーのことではなく、それを可能にしたアン・サリヴァンのことをさすものである。
確かにこの公演を観て思ったのは、三重苦のヘレンより、彼女に言葉を教えたアニーの苦闘です。
このアニーの苦闘の末やっと人間らしい作法を身につけたかに見えたヘレン。しかし母ケイトの元に戻れば元の木阿弥。母親の強すぎる愛が、ヘレンの三重苦の克服を阻むのです。
アニーやヘレンの前に立ちふさがるのが母の愛とは、なんとも皮肉ですが、しかしこれは今も普遍的にある現実です。
母性の前では何事も無力です。それが理屈ではない分、言葉と言うコミュニケーションは通用しません。ましてや言葉と言うコミュニケーション能力を持たない者、あるいはそれが著しく劣る者にとって、いまある母親の愛という母性がすべてです。
しかしこれをアニーはいかにして克服して「奇跡」を起こしたのか。
それはアニー自身が母となって、ケイトの母の愛を上回る愛を、ヘレンに与えたからに違いありません。ヘレンは、彼女の全身を包むアニーの愛を、頭からぶっかけられた井戸水でようやく感じたのです。そしてヘレンは、アニーのこの愛がwaterと言う言葉だと教えていることに、やっと気づくのです。
このアニーの愛は、端から見ている者には理解できません。ましてや母親には皆目理解できません。この理解できない母親にこそ、最も理解してほしいにもかかわらず、です。
ですからこれは奇跡です。奇跡はこれを起こしてみなければ、誰も奇跡を信じることはありません。ケイトも目の前の奇跡によって初めて目覚めるのです。アニーの奇跡の愛と言う存在に。まことに示唆深い結論です。 KAI