あらゆるリーダーの役割とは、その役割の説明ではなく、役割の粛々とした遂行です。この遂行こそが、すべてを説明していることに、自らがリーダーをなしたことがないものには、理解ができません。
これは、演劇の舞台に立つものと、それを観劇するものとの違いをイメージすれば、容易に理解ができるはずです。演劇の舞台において演ずるものとこれを観賞するものとの間に、いわゆる学習の概念はありません。あるのは真剣勝負と言う、舞台の本番のみです。
すなわち、リーダーの行動に対して、そのリーダーが、自らの精神性においてリーダーであるやいなやにかかわらず、その行動を批判することは、その行動の意味の説明の不在にあるのではなく、その不在を批判すると言う、行動の意味の無理解にこそあるのです。
もし、自らリーダーとして行動する意味を理解したなら(できないけど)、その意味に対して批判するべきであり、すると、その意味において、損得や有益性などと言う次元ではなく、そのリーダーの志の次元にあるのであって、そのリーダーをかかえる集団にとって、そのリーダーを得たことに、すなおに神に感謝すべきなのです。
これはすなわち、目先の損得で、その集団を破滅に追い込んだ、かつてのリーダーではない、志のあるリーダーの、その志こそ批判の対象にすべきであって、その批判に利があれば、人はこれを支持します。
しかしそのようなことは決してありません。なぜならその観劇したところで人は、その舞台の流れを、自然に観賞しているからです。しかも、批判する人と集団の滑稽さをも。
その違いが、己がリーダーをなしたかどうかにあると、KAIは主張します。 KAI