評価と金は後から付いてくるとは、常日頃、親や先輩から言いきかせられる言葉です。にもかかわらず、評価されないことをぐちったり、給料の安さを嘆いたりするのは人の常。
しかし、人は、その一生の中のある時突然、この言葉の本当の意味に気づきます。評価も金も、自ら真に欲するものではなかったことに、気づきます。人が真に欲するものは、人様々ですが、決して評価も金も、人の真に欲するものの中にないことに、気づきます。
もし評価と金を得ることができたとして、ではその先にあるのは一体なんでしょう。評価と金は魅力的です。強力で巨大に魅力的です。その陰に隠れて見えなかった、あなたの真に欲するもの。それが何もなければ、ただむなしいだけ。
そして、ここに自ら真に欲するものがなにかやっと気づいた人がいます。
落選の理由が「文章は巧いけれど、やはり難しい」だったそうで、それなら、もう一歩譲歩して、優しく柔らかくするのかと思いきや・・・オレは、はたと思い至った。
そうだ、オレは、大切な何かを忘れかけていた。
オレは、もともと、トップダウン式に偉い人々に引き上げてもらって出世するタイプではないのだ。
オレはボトムアップ式の草の根の読者の支持だけで、これまで生きてこられた。
だから、ブルーバックスの物理書のコアの読者がオレに(かつて?)期待していたような、もうバリバリの物理書に回帰する決意を固めた。
(薫日記 やはり反骨で)
以前のエントリー間主観性−「心配力」の研究(4)で取り上げた99.9%は仮説( 光文社新書、竹内薫、2006/02)の著者のBlogにある文章です。
草の根の読者の支持だけで、これまで生きてこられたと言う、この薫氏の言葉には、重要なメッセージが込められています。
それは、人が真に欲するものとは、それを本人が自覚するか否かに関係なく、実はその人の目の前にいる人が欲しているものであって、それをいま目の前にいるその人に与えることができることが、人の真の喜びであり、真の快楽なんだと言う、そう言うことです。
目の前の人の求めるものと自ら真に欲するものとが、互いにシンクロし共鳴しはじめるときに、人は、ある不思議なしかし強大なパワーを得ることができます。これが、創造性のパワーと言うやつですが、この話はテーマをわけて書くことにします。 KAI